顔を見せて。
朦朧とする。熱が上がったみたいだ。
いさぶ、伊三さん。どうしちゃったの?
――薫?
そう、名前を呼んでくれなきゃ。
――薫、かお
二人でいるときしかしない呼び方。二人だけの。
「かお、どうした?」
「いさぶ…」
幻聴の次は幻覚? ホントいよいよだな。ぱちぱち、とまばたきをすると、少しずつ視点が合ってくる。
「少し熱があるようだな」
「…!」
おでこに大きな手が置かれて、幻じゃない!とようやく気づいた。いつ、どうして? 手を伸ばし、彼の頬に触れる。ああ、ホンモノだ。
「なんで……」
やっと出せたのはそんな問い。聞きたいことはたくさんある。だけど何から聞いたらいいのかわからない。なんで、帰って来なかったの? なんで、連絡くれなかったの? しかしいさぶは私の問いかけを別な意味でうけとった。
「うん、お里さんを送って行ったんたがな。お前さんが食事もしないで具合悪そうにしていたと聞いて、早めに戻ってきた」
「里ちゃん……」
「お前さんに挨拶できなかったことを気にしていたよ」
そっか、無事に帰れたんだ。……って、そうじゃなくて! 手を伸ばしていさぶに引っ張り起こしてもらうと、私はその胸をベシベシと叩いた。
「ちっとも早くなんかないよ! こんなに待たせて!」
「もう少し早く片が付くと思ったんたがな。しかし旦那の読みは当たったよ。お里さんもお父上も意地の張り合いをやめて無事和解だ」
「旦那の……?」
いさぶの言っていることがわからず、怪訝な顔をすると、そんな私を見ていさぶもまた怪訝な顔をする。
「父も娘も意地を張っているだけだから、数日留めおいておけと……ひょっとしたら帰れないかもしれない、我が子が戻らないかもしれないと思わせれば、素直になるだろうからと言っていたのだが」
「そんな理由で何日も音沙汰無しだったの!?」
「……旦那は、薫には使いをやって知らせると言っていたが。もしかして」
「知らない。聞いてない」
眉を寄せ、怒りの表情を作るはずだった私は、しかし怒りが削がれてしまった。目の前の彼が、珍しく「激怒」な表情を見せたからだ。空耳じゃなければ今聞こえたのは舌打ちのはずだ。
「いささん…?」
様子をうかがうと、彼は無言のまま立ち上がり、スッと腕を伸ばした。そのポーズはまさか。
「あのくそ親父を一発殴ってくる」
「待って、やだ、行かないで!」
江戸に取って返そうとするのを慌てて止める。だってそんな、やっと帰ってきてくれたのに! すると、いさぶはゆっくりと振り返って、
「……ああ、その前にこっちだったな」
そう言うと、再びベッドに腰かけて、私をギュッと抱き締めてくれたのだった。やっと。
もう一人にしないで。口にするかわりに、私は渾身の力をこめて抱きつく。会えなかった時間の不安を消すように。その存在を確かめるように。
「……」
彼の胸にもたれながら、頭を撫でてくれる手をじっと感じる。安心したらお腹が空いてきた。そういや昨日も今日もまともに食べていない。心配事があると胃がキュッとなって、ものが食べられなくなってしまうのだ。
「四日も音沙汰無しでは不安だったろう」
ぐぅ
「それで食欲が無かったんだな」
ぎゅる
「何か腹に入れてから寝るといい。横になって待ってろ」
ぽん、と頭に手を置いて、いさぶが台所に向かうのを見送る。言われた通り大人しく横になるけれど――だめだ、ここからじゃ姿が見えない。ズルズルと布団から這い出て台所の床に座り込む。買い置きのおかゆを探していたいさぶが眉根を寄せて振り返った。
「寝ていろと言ったろうが」
「や。見えるところにいる」
ため息が聞こえた。
「ならせめて尻に何か敷け」
はーい。モソモソと洗面所に移動し、足拭きマットを持ち出して体育座りをした。
少しでも離れると不安で、姿が見えないのが怖くて。
「隣り、行っていい?」
普段は机をはさんで向かいあう食卓も、今日に限ってはぴったりくっついて座った。ところが今度は顔が見えないのが嫌で。うーんどうすりゃいいんだ。うろうろと座る位置を探って落ち着かない私を座らせ、いさぶは四角いテーブルの隣りの辺に座ってくれた。正面でもなく隣りでもなく、斜めの位置。顔を上げればすぐ目があって、手を伸ばせばすぐ握り返してくれる。優しい優しいだんなさま。本当に、ホンモノですか?
いさぶが帰ってきた。
その手のぬくもりは、私の中に積もり積もった不安を一気に解消してくれ――た、と、言いたいとこなんだけど。おかしいな。不安の芽はすくすくと育っていて、彼に触れても抱きついても消えなくて。むしろ大きくなっていく。
それは、気づいてしまったあのことのせい。私たちの、不安定さについて。
そのあとも、寝るまでずっといさぶにくっついていた。もちろん寝るときも。はじめはそんな私を心配してくれていたいさぶだったけれど、
「もう今夜はどこへも行かんから。トイレは我慢せずに行きなさい」
しまいには叱られてしまいました。