第三部序章
気づいてしまった。
いや、気づいたのが遅いくらいだ。
どうして今まで気がつかなかったんだろう。
ああなんて、私はのん気だったのだろう。
「ただいまー」
その日も残業だった。家についたのは夜10時くらいだったろうか。部屋は明かりがついているのに、いさぶの返事はなかった。
私の家は、典型的な1Kの間取りだ。玄関から廊下がのびていて、両脇に台所と洗面所があり、突き当たりが部屋になっている。
「いないのー?」
廊下を突っ切り、部屋に入ろうとしたら。
「おう、帰ったか」
「うん、ただいま……」
いさぶが知らない女の下にいた。
…って、え!? 下? なんで?? あ、でも上よりかはマシかあ。ってそういう問題じゃないし! そもそも誰これ──
「誰? この人」
しかしその言葉を発したのは私ではなくて。いさぶの上にいる若い女が、敵意あふれる目つきでこちらを睨んでいた。若い女。そう、よく見たら高校生くらいの年格好だ。服装で江戸の人だっていうのがわかる。押し倒したいさぶの上に着物でまたがってるもんだから、太もも近くまではだけて──こら!!
いさぶはというと、その子に触れないように両手を耳の横にあげて、私の帰りに心底ホッとしたような顔を見せていた。まあ、疑ったりなんぞしませんがね? だからって面白くないのは確かなわけで。いさぶの鼻の下がなんだかいつもより長く見えてくる。いかんいかん。事情を聞かねば。ああ、いつぞや逆の立場を経験したとき、彼はこんな気分だったのかしら…。
「ねえ、誰?」
少女が重ねていさぶに問う。二度も聞くか! つーかまずはそこをどけ!!
「とりあえずその格好、なんとかしたらどう?」
私がトゲトゲしく言うと、少女は自分の姿に気づいたらしく顔を赤くする。けれど私に言われたのが悔しいのか、ちらとも動かない。そんな少女をいさぶが優しくさとした。
「紹介するから、座んなさい」
…ほう、いさぶの言うことは大人しく聞くとな!? ケンカ売ってる? 売ってるね? ケンカ。
体を起こし、身なりを整える二人を見ている私。なんだってんだ。そしてようやくいさぶが状況を説明してくれた。
「こちらのお里さんは、“迷子”の人だ。親御さんから捜索願が出てな、探しておったのだが──」
「あたし、家には帰らないって言ってるでしょ!」
「──というので、時間も遅いし、うちに連れて来たというわけだ」
……違うな。ただ駄々をこねたぐらいなら、ピシリと説教のひとつもして連れて帰るはず。多分きっと、若い人ならではの腹立たしい言動で、いさぶを困らせたのだ。たとえば、飛び込んでやる!とか、これ全部脱いでやる!!とか。そこまで想像して眉をひそめた私に、いさぶが言った。
「悪いが、茶を入れてやってくれないか。少し落ち着けば帰りたくなるだろう」
釈然としないまま台所に取って返すと、背中から少女のキャンキャンした声が聞こえた。
「帰らないってば!…どうしても帰れってんなら、伊三郎さん、一緒に来て」
「そりゃもちろん、送り届けるつもりだが」
「そうじゃなくって。言ったでしょ? あたし家に帰ったら倍も歳の違うおじさんのとこに嫁に行かなきゃなんないの。だから絶対に帰りたくない。けど伊三郎さんが一緒になってくれるんなら帰るわ」
ちょちょちょちょいっっっ!!!!
コップを持ってかけつけると、わざといさぶの隣にぴったり座ってやった。もちろん、少女からは厳しい視線が飛ぶ。
いさぶにやましい気持ちがあるなんて、まったく疑っていない。けれどこの女がいさぶにやましい気持ちを抱いてるってのはわかるのだ。なぜなら……ハイ。私と同類だからです。だから見過ごせない。そのケンカ、買った。
「里さん、っていうのね。こんにちは。大変な目にあったわねえ。うちでよければゆっくりしてって。ねえ伊三さん?」
私の珍妙な口調にいさぶがぽかんとしているが、構うこたねえ。ほら、早く紹介してよ。トドメ刺しちまいナ!
「伊三郎さん、この人誰よ」
「うん、これは薫といって、儂の女房だ」
にょにょ! 女房と来ましたかダンナ! たぶん今の私は目の前の少女と同じくらいあ然とした顔をさらしてるに違いない。だって、女房だよ。ひー。
「奥様、いたの…」
その声に顔を上げると……ああ。この子、本気で恋してたんだ。切ない表情に、こちらまで胸がキリリとする。面倒なことに、私はどうも失恋の傷心に必要以上に共鳴してしまう。途端にむげにできなくなってしまった。
「そういうわけだから、お前さんの頼みは聞かれん。さ、茶を飲んだら帰ろう」
「……いや。帰りたくない」
「お父上が心配しておられる。あまりわがままを言うもんじゃない」
「わがままなんて…! 好きでもない人のところへお嫁に行きたくないって、それがどうしてわがままになるの? あたしだって、想いあって夫婦になりたいよ!」
「いいかげんに──」
「あの!」
思わず口をはさんでしまった。だって、たった今失恋したばかりの子に、小言なんて聞かせたくない。しかも失恋相手からなんて。
「もし、あれなら、今夜ひと晩うちに泊まってもらう?」
いさぶが怪訝な顔をする。また悪いクセが出たとか思ってんでしょう!…まあその通りです。お節介焼きのクセ。すぐ江戸の人を家に泊めちゃうクセ。なんだそりゃ。
「ほら、時間も遅いし。一回ちょっと、頭冷やしたほうがいいかもしれないし。里さんも、お父様も」
いさぶはひそめた眉をほどかないけれど、大丈夫。無理して言ってるわけじゃない。いさぶに笑ってみせてから、少女に尋ねた。鼻をかむためのティッシュを渡してやりながら。
「どうする?」
「…お願いします」
はぁーっと、隣りから大きなため息が聞こえる。あら、余計なことしちゃった? けどね。膠着したときは先送りですよ、ダンナ!
「では儂は一度あちらに戻って、お父上にお里さんの無事を報告してくる。言い分も伝えてくるとするよ。今夜はお前さんに任せるが、いいか?」
「はい」
──そうと決まれば慣れたもので。着替えとタオルを里さんに持たせ、シャワーの使い方を教えてやる。そして風呂場に押し込んでから、いさぶを玄関で見送った。
彼が江戸とこちらを行き来するときは、その辺の空中に穴を開け、ひずみを作ってそれをくぐる。他人に見られるわけにいかないので、家の中でやるのだけど。なぜだか彼は玄関でそれをする。玄関から出て行き、玄関に帰ってくるのだ。律儀か!
「すっかり旅籠だね」
「面倒かけるのう」
「ううん、全然。だって」
だって…そこで私は言いよどむ。だって、だって。
「ん?」
いさぶが私の顔を覗き込む。だって、つ、つつ、
「妻ですもの」
言ってやった!
女房、妻、奥さん、家内。そんな呼ばれ方に、私はまだ慣れていない。そりゃそうだ、だってこちらの世界では私は独身。誰にも紹介する機会なんてないのだから。
もじもじしていると、いさぶは一瞬目を丸くしたかと思うと、ニヤァと笑い──ああ、エロ侍出動だ。私の後頭部に大きな手が置かれる。彼が少し身をかがめる。顔が近づく。目を閉じる。
こういう不意打ちの口づけが私を喜ばせるということは、シャクなので隠している。まあバレてんだろうけど。だから私はわざとこんな風に言って彼をにらんだ。
「若い女の子に乗っかられて、鼻の下伸ばしてた罪滅ぼし?」
……盛大に笑われた。爆笑じゃんかそれ。ちょっと!
「今のは“妻”への礼のつもりだったが…お前さんのやきもちは嫌いじゃないぞ」
お見通しですか。ちっ。口をへの字に曲げた私に、再び近づく顔。唇が触れる前に、私は彼の胸を押し返した。
「も、いいから早く行ってきなよ」
優しく笑って私の頭をなで、踵を返す。その背中を見たら、とっさに袖口を掴んでしまった。
「ん?」
ああバカです私。床を見ながら言う。
「あのー…スミマセン。やっぱりお願いします…」
「……喜んで」
──丹念で濃厚なのを施され、よろけて壁にもたれる私に、いさぶは最上級のエロスマイルを残して消えて行った。だから私が最後に見た彼の顔は、情欲にまみれたエロい笑顔だったのだ。
……みたいなことになっちゃうよ! もしこれで何かがあったらさあ!
深呼吸して息を整える。シャワーの水音が止まり、浴室の戸が開く音がした。そうだ、お客様がいるのだよ。準備準備。
頬をぱんっと叩き、家の中をぐるりと見回す。とりあえず今夜ひと晩と、明日いさぶが帰るまでの半日を過ごすために、説明の必要なことどもを洗い出すか。トイレの使い方、水道の使い方……いっそマニュアル作るかな。これ読んどいてって渡せるようなやつ。この先も同じようなことがたびたびあるかもしれないし。本腰入れて、江戸の人たちの立ち寄り宿を構えてもいいかも。
となると、うーん、引っ越そうかなあ…。そうじゃなくても1Kに二人暮らしは狭いし、2DKくらいのところ探して、ひと部屋客間にして…ケンカしたときの避難場所にもなるし。うんうん、いさぶが帰ってきたら相談してみよう。
「あのー…すみません…」
妄想にふけっていると、洗面所からお里さんの声。
「どした? 開けていい?」
ドアを開けると、短パンだけをはき、上半身は裸でTシャツをあてがったまま、
「…着方がわかりません〜」
マニュアルに書き加える項目がひとつ増えた。