第三部準備編
前話からだいぶ間があいたので、人物紹介を兼ねた準備編を用意しました。
アドバイスくださったかた、ありがとうございました!
アラサーを過ぎ、このまま独女として華々しくアラフォーを迎えるのかと思っていた私・高橋薫は、このたび侍の妻になりました。
え、侍ですよ、サ・ム・ラ・イ。
江戸時代末期の世から、時空を超えて――それを彼は「時のひずみをくぐる」と表現するのだけど――私のもとにやって来たわけです。
考えてみれば私たちが知り合ってから、夫婦になろうと決めるまで、一緒に過ごした時間は実質半月にもなりません。出会って一週間のあいだにいろんなことがあって。それからしばーーーらく会えなくて。再会した彼に「一緒になってほしい」と言われて。迷わず涙をこぼして。
自分にそういう出会いが訪れたことは意外だったけれど、出会ってすぐの「ビビビ」ってやつはまあ珍しい話ではありません。私に訪れた非常ーっに珍しい出来事は、それではないのです。
何から話そう。つまりですね、私はじつは江戸時代の生まれだったのです。
え、なんでかなんて私だって知らないよ! けどほんとだったんだもん。江戸に行ったら――そう、行ったんだよ。そしたら私とおんなじ顔をした双子の姉・志緒に会ってしまったんだもの。
どうやら私は、まだ赤ん坊の頃に時のひずみに落っこちてしまったようで。平成の世で今の両親に拾われて育ててもらって元気でたくましい独女になったってわけで…ほっとけ。
私がそのことを知った直接のきっかけは、彼ではありませんでした。志緒の夫、私にとっては義兄にあたる壮一郎がしゃべったのです。べらべらと。両親が隠してきてくれたことを。あいつは!
…ま、いいけど。このトシになって今さら出自を正されたところで、私にとって孝行したい相手は育ててくれた今の両親に変わりないし。
あの男、義兄のことをつい私は、あいつ だの あの男 だの、ヘビだのと呼んでしまう。なんかこう、こしゃくな奴なのだ。で、あの男が私のところに来たのは、姉が心変わりをしたと思い込んで、勝手に傷ついて勝手に離縁して勝手にさみしくなって、同じ顔の私を探し出して身代わりにしようとしたから。ん? はしょりすぎたかな。まあいい。あの夫婦の話も面白いっちゃ面白いけど、甘すぎてのどが渇くんだ。
そうそう、それで私を守ってくれようとしたのが、ダンナサマというわけなのです。
ダンナサマは小松伊三郎といって、私は伊三さん、なんて呼んでいるけれど。心の中では「いさぶ」呼ばわりなことは、いつの間にかバレているらしい。
そもそも彼は、時空を超える特殊能力を使って、私のような迷子を捜索したり、能力を悪用して逃げ込む罪人を捕らえたりする仕事をしていて、それで私を知ったのです。その仕事を私は時空警察ならぬ「時空奉行」と勝手に命名しました。義兄も勤めているその時空奉行を束ねているのが、皆に「旦那」と呼ばれている人で……えっとなんつったかな。一度名前を聞いたことがあるんだけど…なんとかカントカえもん…ヒントが足りない? まあまあ、誰も名前じゃ呼ばないし。とにかく「旦那」といったらそのお奉行様のことなのだよ。
この旦那がまた! 仕事はできる、頭は切れる、そして激シブ。いつも顔に張り付いている「ニヤリ」も含めて、とってもカッコイイのです!! まあ、どうも食えないところがあるのは否めないけどね。加えてこの人、じつはいさぶの血縁。特殊な力を気味悪がられて実家を勘当されてしまったいさぶを、育てた人でもあるのです。それもあって私は旦那に会うとついつい尻尾をふって甘えたくなってしまいます。それはいさぶの表情をほんの少しだけ不機嫌にさせるのだけど、だって私たちが一緒になれたのだって旦那のおかげじゃないの!
そう、旦那は方々の反対を説き伏せ、いさぶをこちらの時代の駐在員に任じてくれたのです。こちらに来たらお前さんと暮らしたい。儂と一緒になってくれ。――覚えてますよ、も・ち・ろ・ん! これが彼からのプロポーズ。思い出すといまだに顔がニヤけるぜ。
そんなこんなで私たちの暮らしは始まったわけです。長いこと独り身だったから、他人と一緒の生活なんてあまり想像できなかったのだけど、意外や彼との生活はとても居心地がよく。私たちは順調に新婚生活を送っているのです。
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すみません。ひとつだけ嘘を交ぜました。
妻だのダンナサマだの言ってはみたけれど、じつは私、彼と夫婦になったという確信は持てていないのです! だって当然ながら入籍していないし(こっちに戸籍ないもんね)、人に説明できないから式も挙げていない。ただ「一緒になってくれ」と言われて、「私と家族になって」と返して、私の両親に挨拶をした。ただそれだけ。時おり「奥さん」「ダンナサマ」とふざけて呼びあう。ただそれだけ。これっていつから夫婦なの? 別に記念日とかにこだわるタイプではないけど、なんだか確認しそびれたまま今に至るわけで……。少なくともこちらにいる間は妻だと名乗る機会もないわけだし。江戸に行けば別かもしれないけどね。
そう。江戸生まれ、とは言ったけれど私はあちらに行くつもりはなくて、仕事もあって両親もいるこちらの世でずっと暮らしていきたいと思っている。だから彼がこちらの暮らしを気に入っているようなことを聞くと、心底ほっとするのです。
こちらはご飯もおいしいし、そもそも食べ物の種類も豊富だし、家の中は夏涼しく冬は暖かい。何より自宅に風呂があるのは何にも代えがたい幸福だ――そんなことを彼は以前言っていました。
ただひとつだけ、あちらのほうが便利だと思うことがあるのだそうです。江戸のほうが便利なこと? うん、まああるだろうね。ほら、江戸って庶民の知恵とかいろいろありそうじゃん。で、なに? え?……は!? 何言ってンだバカ!! 着物のほうが脱がせやすいって、アンタは着物のオンナを脱がせたことがあんのか。洋服は脱がせにくくて敵わん、って。話をそらすんじゃない!
どれ見せてみな。ほほぅ、確かに和服は都合がいいわね。アナタやっぱりいつも和装でいなさいな。
……なによ。ちょっと、いや、待て待て。うん、まあそのーやぶさかではないけれどもね。待ってってば! なんだよ、私の色目には気づいてくれなかったくせに! え、さっきだよ。「何か言いたいことがあるのはわかるようになったが、何を言いたいかまではわからんから、遠慮せずきちんと言ってくれ」だなんて言ったってさ。言えないよそんなの。そこは察してほしかったの!
うん…いいよ…じゃあしたくしてくるね。うん。へへ。
ま、そんなわけで。
いろいろ棚上げしていることはあるけれども、とりあえず私たちの暮らしが今のところ順調なのは間違いないみたいです。甘くてのどが乾くって? じゃあここまでにしときますね。ダンナサマも待っているので――。