はじまり。
「なんだ、こんな朝っぱらから」
翌朝、私にしては相当の早起きをして、いさぶとともに八丁堀の旦那のお屋敷を訪ねた。旦那は髪結いにまげを結わせながら、目だけで私たちを出迎える。
「薫がご挨拶したいと言うので。朝のほうがつかまえられると思いましたんでね」
「そいつは殊勝なこって」
仕事を終えた髪結いに、おうご苦労さん、と声をかけると、旦那は私を部屋に招いた。
「お前さんに話があんだ。ちょっと来てくれるか。伊三、オメエはいい。異動の準備でもしてろ」
ワオ、お誂え向き! この機会を逃してなるか。けどどうやって切り出そう。出勤前にあんな話してもいいかしら。
そんなことを思いながら旦那の前に正座をした私に、向けられたのはニヤリと食えない笑顔。
「で、儂に何を聞きたい?」
……ど、
「どうして!?」
「伊三がじゃまだとお前さんの顔に書いてあった。さ、人払いはしたぞ」
「あ、朝からする話ではないんですが」
構わぬ、と頷いてくれたので、私はずっと気にしていた、そしてそれに気づかないふりをしていた、いさぶの家族についてを尋ねた。ついでに私の不安まで聞いてもらう。まったくデキ奉行は聞き上手だ。
「……この仕事を始めるときに家族と縁を切ったって? 伊三がそう言ったのか」
「はい。会ったばかりの頃に。それ以来、伊三さんに家族の話は聞いていないんです。彼も何も言いません。い、一緒になるならこれを機に挨拶に行ったほうがいいんじゃないかと思うんですけど……ご家族にはやっぱり私とのことは反対されそうな気がして。怖くて」
いつものように飄々と、心配いらねえよ、と返してくれるかと思っていたのに。旦那は珍しく渋い顔を作った。若干、言いよどんでいるような様子まで見せる。
「あいつはな」
「はい」
常にない旦那の様子に緊張し、背筋を伸ばす。
「伊三は何も若さにまかせて家を飛び出したわけじゃねえ。親のほうが伊三を捨てたんだ」
「……どういうことですか」
旦那はちょいちょい、と人差し指を回し、円を描く真似をした。
「伊三の時間をくぐる能力はな、生まれつきよ。小さい頃はそれが何なのかわからずに、ただ無邪気にひずみを作っちゃあ行ったり来たりしていた。傍目から見れば、あいつはしょっちゅう神隠しに遭っていたんだ」
「そんなことして、よく無事で」
「あいつの親も初めはそんなふうに心配をしてたんだがな。あまりに頻繁に続くもんで、気味が悪いと思い始めたんだ」
「そんな……!」
「ありとあらゆる祈祷の類を受けさせた。必死なのは母親のほうだったな。父親は……外聞を気にしてな。さっさと幽閉なり勘当なりしてしまえと、そういう考えだった。三男坊だしな。その下にも弟が二人いる。伊三が一人いなくなったところでお家には大した影響はない」
「伊三さんちって、そんな立派なお家だったんですか?」
すると旦那の顔にニヤリが戻った。
「お前さんはつくづく玉の輿に縁がないのう」
……ほっとけ。
「それで、寺に閉じ込めてお祓いをしているときだった。朝餉を終えるとあいつが消える。昼餉の頃には戻ってくる。聞けば、遊んできたと無邪気に答える──中からは戸が開かないようにしていたのに。訝しんだ母親が、寺の坊主と一緒に部屋を覗いた。すると……伊三が自分で開けた穴に消えて行くのを見たってわけさ」
あれは、初めて見たときは正直ゾッとした。決して気持ちのよいものではない。
「母親は発狂したわ。なんとか憑き物を落としてやろうと必死だったのに、あいつ自身がそれだった。気味が悪い。こんなのは自分が産んだものじゃない。いらない──そうして伊三は勘当された」
「それは……いくつのときですか」
「そうさのう、あれは十にもなってなかったな。七つか八つか……そのまま寺に置かれるところだったのを連れて帰った」
「彼のことをなぜご存じだったんですか?」
そういうことは伏せられそうなものなのに。
「ご存じも何も。あれの母親は儂の姉だ」
……っ
「えぇーっ!! お、叔父さんだったんですか? それに……育ての親?」
「そこまでのことはしてねえよ。ただあいつがいれば、神隠しの仕組みがわかるかもしれない。その能力をうまく使えば、行方不明の者を救えるかもしれない。そう思って伊三を引き取った。それから同じような力を持つ奴らを探し出して集めて、本格的に探索をさせ始めたのはあいつが16のときだったかな。あいつの腕はスゲエんだぜ。目的の場所にピタリと穴を通す。他の奴らは多少ずれたりするもんだが」
そう言われるとどことなく、自慢の甥っ子を慈しんでいるようにも見える。よかった。彼が一人じゃなくて。
「さてお前さんの先ほどの問いだが」
「……はい」
「儂はこのまま復縁などしなくてよいと思っておる。だがそれはあいつが決めることだ。お前さんから働きかけることでもない」
「はい」
「それよりも儂はあいつに家族を持たせてやりたいのよ。己を捨てた家族よりも、新しい家族をな。だからお前さんには感謝しておる」
「旦那……」
「まあお前さん方の家族計画までは預かり知らぬがな」
……また余計なことを。
感謝といえば、と旦那は
「そうでなくともお前さんには話があったのだ」
私にとある相談事を持ちかけてきた。
=====
「おう、話は済んだか」
旦那の部屋を出ると、いさぶが数人の同僚と談笑をしていた。
「うん、お待たせ」
「紹介しておこう。今後あちらで会うやもしれん」
そうか。いさぶは言ってみれば特派員みたいなもんだ。本国(?)から同僚が来ることもあるよね。そしたら私の家に寄ることもあるわけだ。全部で4人、次々に名乗りを受ける。けど……
「まあこやつらの顔さえ覚えておけば心配はない。これ以外の者が尋ねて来たら怪しめ」
残念ながら私は人の顔を一度じゃ覚えられない。名前も微妙かも。まあ追々覚えりゃいいかと曖昧な笑みで挨拶を返しておいた。
「それで旦那のお話はなんだったのだ?」
同僚と別れ、旦那の屋敷を辞した私たちは、まだ涼しい町をぷらぷらと歩く。
「うん。旦那がね、私に申し訳ないって」
「ほう?」
「本当なら奉行所で手配しないといけないものが、結果的に伊三さんのあっちでの暮らしは私におぶさってるようなもんだからって」
「…だのう」
「甘えるわけにいかないし、礼を言って済むものでもない。ここは割り切って報酬を与えたいと思うが、江戸の銭で渡しても役に立つまい。お前さんは何を所望するだろうかって」
「それで?」
「うん、それでお米をお願いしたの。私一人じゃ大して食べないけど、伊三さんいたら結構減るだろうし。でね、伊三さんの給料は今度から半分お米で支給するって」
「な、」
そういう話は儂を交えてするべきではないか?とぼやくいさぶを軽く無視する。旦那はすごい。そうやって現実的に固めていってくれたおかげで、ふわふわしていた私の気持ちが落ち着いた。
「じゃあどこ行こっか。伊三さん思い出の場所的なものないの?」
「思い出なあ…」
「初デートの場所とか、初キスの場所とか」
「深川は、子どもの頃によく行ったな。富岡八幡とか」
子どもの頃、と言われてどきりとする。それはまだ、お母さんの愛情を受けていた頃だろうか。
「私も、富岡の八幡様はよく行ったよ」
「ほう?」
「伊三さんが最初に私に会いに来たときは、もう今の実家のあるところに住んでたけど。中学に入る前まではこっちの辺りだったんだ」
「奇遇だな。じゃあそこへ行ってみるか。儂も久しぶりだ」
そうして私たちは、朝来た道を再び深川へ戻ることにした。
参道は人で賑わっていた。日も高くなり始め、じりじりと日差しが強くなる。
もう20年ぶりぐらいになるだろうか。いやそれ以上だな。コワイコワイ。子どもの頃、母親と商店街に買い物にきては、立ち寄り手を合わせたものだ。
境内に入り、手を洗う。出店であんず飴を買ってもらうと、ベタベタになった手を大概ここで洗ったな。そのあとで参拝をするのだけど、子どもの参拝なんて「字が上手になりますように」「ピアノが上手になりますように」ぐらいのもの。十秒もかからず終わってしまう。だから目を開けると隣りに立つ母はいつも、手を合わせて参拝の途中で。仕方がないからもう一度目をつぶる。それを三回くらいくり返しては、待ちくたびれてせかすのだ。
お母さん、まだ?
薫がいるといっつも途中でじゃまされる。神様にお願いすることたくさんあるのに。
いつもそう言いながら、母は私に引っ張られるままに参道を帰るのだ。
久しぶりに参殿に立つ。神様、お久しぶりです。あの時の子どもは立派に大人になりましたよ。いや、百何十年か後だけど……まあ神様だからその辺は超越してるだろ。
目を開けて隣りを見上げる。いさぶがじっと目を閉じて、手を合わせている。
あの頃そこにいたのは、私を守ってくれる人だった。けど今は違う。あなたと私は対等なはずだよね? 私もあなたを守れるよね?
その横顔に見入る。
──あ。
たまらない衝動が湧き起こってきた。言わなきゃ。今すぐ言わなきゃ。
私は隣りに立ついさぶの袖を焦るように引いた。
「いさぶ、聞いて。お願いがあるの。聞いて」
いさぶ!?と呼び名に驚きながらも、人の流れを避けた場所に移動し、続きを促してくれる。
「あのね、お願い。私と家族になって!」
いさぶが目を見開いた。私の腕に添えていた手に力がこもる。私は必死に言い募った。
「私ね、ずっと家族が欲しかった。もちろん家族はいたけど、それは親が作った家族であって、私も私の家族を作りたかった」
ああ何から言えば伝わるだろう。
「私たち、たくさん考えないといけないことあるでしょう? いさぶはいつかは江戸に帰らなきゃいけないし、でも私がこっちに住むのって想像つかないし、そしたらいつまで一緒にいられるんだろうとか。それとか子どもがほしくなってそれで授かったらどうするんだとか、いろいろ。ほかにもいっぱい出てくるかもしれない」
やや支離滅裂気味の私の話を、いさぶは黙って耳を傾けてくれている。
「けどね、それってなんで考えなきゃいけないかっていったらさ、解決するためでしょう? 一緒にいるために、解決したいから考えないといけないんでしょう? 一緒にいることを諦める理由を探すためじゃない。だからね、だから」
ふー。一度息をつく。
「だからいさぶに、私の家族になってほしい。あなたと家族になりたいの。お願い」
……言いたいこと全部言えたかな。筋通ってたかな。何が言いたいか伝わった? だから要するに、
「お前は」
低い声でつぶやかれ、聞き取ることができない。
「え? 何?」
「お前はどうしてそれをここで言うのだ」
ここ? だって二人とも小さい頃よく来たんだなって思って、思い出が、え?
「そういうことをなぜ往来で言う。今すぐ抱きしめたくなったのをどうしてくれるのだ」
「ど、どうって……裏茶屋でもシケ込む?」
じろりと睨まれ、あわてて引っ込める。すみません調子に乗りました。私だって江戸まで来てラブホなんざ行きたかない。
「そんなことより返事は?」
「言わずもがな、なのだろう?」
ちぇ。
けど、人波ではぐれないためにってフリをして握ってくれた手からは、ちゃんと気持ちが伝わってくる。
「……そういえば、いつぞや続きがしたいと言っておったな」
それは、私の部屋でした少し熱い口づけのこと?
「記憶にございませんな」
ああ天下太平。
「記憶にないなら仕方がない。また初めからせねばのう」
甘い甘い。激甘だ。
さあ、うちに帰ろう。私たちの家に。