家族
「そういえばさ、志緒はあのあとすぐにアンタんちに戻ったの?」
結局、足の痛さよりも何よりも暑さに負けて茶店に入った私たち。ところてんをたぐりながら、私は志緒と義兄とのその後を聞いた。
ひと休みしたらつべこべ言わずに駕籠に乗れ、と命じられている。たしかに、慣れない草履に着物の小股で遅々と歩く私に二人をつきあわせるのはしのびない。
「ひと月ほどは実家にいたかな。初産には若くなかったからさ、少し長めに養生させろと産婆に言われたんだ。まあ迎える準備を整えるにはちょうどよかったよ」
「準備? 赤ちゃんのってこと? ねえ、これほんとに一本で食べるの?」
江戸のところてんは一本箸で食べるらしい。食べにくいことこの上ない。いさぶが器用に啜っているのをぎこちなく真似る横で、義兄はぽつぽつしゃべり出した。
「いや、うちの連中のことよ。あいつらん中じゃ、夫を裏切って姦通した嫁ってことになってたからな……しかも自分らの兄貴格を誘惑した、さ」
ぴち。
あ、酢醤油がハネた。あぶない、借りた着物にシミ飛ばすところだっだ。
「まあ、俺が率先して憎んでたからな。仕方ないんだが。家に戻す前に名誉を回復させないとさ。もちろんあの男の分もな」
いさぶが手拭いを出してくれたので、前掛けにする。ついでに汁気を少し減らそうと酢醤油をすすると、いさぶにギョッとされた。いやいや、だって酢好きだし。
「うまい言い方を色々と考えたんだけどさ、結局ありのままをすべて明かしたよ」
「すべて?」
「なんだ聞いてたのか。ああ。下手に取り繕うよりそれがいちばんいいと思ってさ。若い奴らはあんまり納得できないような感じだったが、古いのはニヤニヤしてたな。お前ららしいって。知ったように言いやがった」
「それで、志緒は受け入れてもらえたの?」
「うん、こっちはみな緊張して待ち受けてたんだけどさ。あいつに抱かれたチビの寝顔見たらむさ苦しい男共が全員骨抜きよ。それに何より志緒の雰囲気が、それまでとガラリと変わって柔らかくなってたからなあ」
「それはお前もだろう」
「要するに二人のアツアツぶりに当てられて、文句言うのがバカバカしくなったんでしょ」
まあそうかな、などとニヤニヤしている義兄をよそに、なんとか食べ終えた私はトイレに立った。
旅先ではいつどこでトイレに出合えるかわからない。入れるときに入っておけ。私の旅の基本である。海外だけじゃない。日本でだって、山奥の寺社仏閣をたまに巡ったりするとやっぱりトイレがさー…って、まあいい。用はもう済んだ。そろそろ出立かな、と二人の元へ戻りかけた私の耳に。
「なんだオメエ、その程度の気持ちで求婚したってのか」
呆れたような義兄の声が入ってきた。……穏やかじゃないね?
二人の会話が聞こえる場所に身を移す。
「結局、ふつうの所帯は持たせてやれないからな……友だちにも親戚にも紹介できまい。親御様にもそれが申し訳なくてな」
「だから断られても構わないって?」
「構わなかないが、その辺を考えた上でやっぱり、とあいつが思ったとしても、儂には責められんということさ」
「なるほどね。で…そこまで考えて返事しろって言ってあんのか?」
「うーむ……」
「ハッ、怖くて言えねえか。藪つついて蛇出すようなもんだ。蛇と言やあ、あいつ人のこと蛇呼ばわりしやがって」
……。
話題が変わっていったのをしおに、お待たせ、と席に戻る。
いさぶも不安を抱えていた。私たちには、話をしなくちゃならないことがたくさんある。考えなくちゃならないことが、たくさん。けどそれってさ。
「着いたぞ」
思考を遮られ、ハッと顔を上げると、ゆっくりと駕籠が下ろされるところだった。
地面に降り、うーんと腰を伸ばす。すると、キャーッという甲高い声とともに柔らかい何かがぶつかってきた。
「かお! 会いたかった!」
「志緒! 久しぶり!」
「家の外まで出迎えなんざ、俺だってされたことねえや」
義兄のぼやきをシカトし、私たち姉妹はきゃいきゃいとはしゃぐ。
「ななちゃんは? ななちゃんも元気?」
「ちょうどさっき寝たところよ。ね、顔見てやって」
かわいいかわいい姪っ子。母親の一字をもらって「七緒」と名付けられたその子に、何はなくとも会わなくちゃ!
志緒に手を引かれ、家に入ると、目の前の光景に圧倒される。玄関先でずらりと並んだ男衆に、一斉に挨拶をされたのだ。そうか、ここんちはそういやその筋だったな。瓜二つの私たちを見て若いのがギョッとした顔をしているが、てやんでえ。こんな集団、こっちがギョだよ。
ふと、その中に見覚えのある顔を見つけ、私は駆け寄った。いつぞや私と若様を道案内してくれた大政(仮称)だ!
「その節はありがとうございました! 本当に助かりました」
「ご無事でよござんした」
「はい、おかげさまで」
言ってるそばから待ちきれない様子の志緒に早く早くと腕を引かれる。えーい女子校か!
「かおの分のお茶は私の部屋にお願いできるかしら。旦那様、夕餉まではまだ時間がありますから、お二人でゆっくりしてらして」
「なんだよ。ななの顔だけ見せたらこっち来りゃいいじゃねえか」
「積もる話があるんです! 小松様、ごゆるりとなさって」
言うが早いか返事も待たずにスタスタと部屋へ向かう志緒に、なんとかついていく。
「ほんとに楽しみにしてたのよ。このあたりには気の置けない友人は少なくて」
「小さい子とずっと向かい合わせじゃあ、たまに発散したくなるよね」
子持ちの友人のグチを思い出しながら言うと、キャーッと喜ぶ声。ほんと女子校時代を思い出す。
「そうよ、そうなのよ! それを旦那様はわかってくれないのよ。一日中七緒とべったりいられてこれ以上の幸せはねえってのに何が不服なんだ、なんて言うのよ! いっぺんやってみろってんだ」
「そうだねえ、やってみないとわかんないよねえ」
「ああうれしい。たくさん話したかったの。あなたのことも聞かせてね。さ、ここよ。どうぞ」
ぐっすりと眠る姪っ子に付き添っていたのは、私が初めてこちらに迷い込んだときに助けてくれた女中頭さん。再会を喜びながらお茶の用意に立っていかれた彼女と入れ替わり、姪っ子の枕元に座る。
「ぅわあ……」
平和な寝顔にうっとりとなる。
「志緒に似てる?」
「そうね、両親は私の生まれた頃によく似ているって言うわ」
「へえ。それにしても……娘っ子かあ。アンタのダンナ、面倒くさいことになりそうだね」
義兄の溺愛っぷりを想像し、未来の婿殿に早くも同情を寄せてしまう。しかし志緒の返事はそうではなかった。
「うーん…私もきっと猫っかわいがりになるかと思ってたんだけど、案外そうでもないのよね」
「へえ? 意外」
「うん、もちろん可愛がってはいるんだけどね、なんていうか…その…娘より嫁に甘いっていうか」
「……は?」
「いつまたどこに行っちまうかわかんねえから、って。私を甘やかすの」
……それはそれは。
「ごちそうさまです。そら、ななちゃんゲップだゲップ」
そんなことより、と志緒が膝を進め、私の顔を覗き込んできた。
「あなたはどうなのよ。小松様とはいつ祝言を挙げるの?」
「しゅ、」
祝言て。
「とりあえず…次の休みにうちの両親に会いに行く予定だけど」
みたびキャーッと歓喜の悲鳴。娘もよく起きないな。
「素敵! それで、小松さまのご両親には? いつ挨拶するの?」
ピタリ、と私の動きが止まる。それは私こそが聞きたかったこと。教えて。どうしたらいい?
=====
「そう、そんな事情があったの」
運ばれてきた茶碗を手に、志緒に話を聞いてもらった。
「それは、わかってるとは思うけどやっぱり本人に尋ねるよりほかないと思う」
「だよね……」
「ええ。いくら考えたって所詮他人の心なんて想像の域を出ない。気遣いが正解に結びつくとは限らないんだもの。聞いちゃったほうが早いわ」
とはいえ、と志緒は続ける。
「聞くのが怖いってのもわかるし、相手が本心を明かすとも限らないし。そうね、旦那に聞いてみたらどう?」
「旦那? お奉行の旦那?」
「そう。うちの旦那様もそうだけど、小松様もずいぶんお若い頃から面倒見てもらってるって聞くわ。いろいろご存じなんじゃないかしら」
たしかに。あのお奉行様なら情に溺れたりせず的確にアドバイスをくれるに違いない。
「ご新造様、そろそろ」
私の道が開けたのを待っていたかのように、出かける準備を促す声がかかった。
「この近くにね、ちょっとした料亭があるの。両親とはそこで待ち合わせているわ……ごめんね、気まずいだろうけど」
「そんなこと」
「父も母も何も言わないけれど、やっぱりあなたがどうしているか気にしているみたい。あなたが何か気を使うことはないから、ただ一緒に食事をしてあげてほしいの」
「うん。緊張は、するけど」
「大丈夫、間が持たなかったら七緒をぐずらせるから」
お、お母さん!?
かわいい姪っ子のためにもここは大人力を発揮だ。あたりさわりなく穏やかに会食してみせようじゃないの。
うん、と密かに気合いを入れ、私は志緒のあとについて部屋を出た。
=====
料理はそれなりにおいしかった。けれど何を食べたかあまり思い出せない。志緒夫婦はごく自然に食事をしていた。七緒のエピソードで両親を喜ばせたりしながら、さりげなく私の近況を話題に上らせる。いさぶが誰で、なぜ同席しているのかも、改まることなく自然に匂わせていた。
彼ら以外の全員が緊張していた、と思う。けれど食事を終える頃にはそれもほぐれてきて。世間話程度の会話を交わせるまでになっていた。やるな、姉夫婦。
「ちょっと」
母親が席を立った。膝が少し悪いらしい。志緒が付き添おうと、七緒を義兄に預けかけたのを見て
「あ、私ついて行くよ」
一緒に廊下に出た。お手水に、というのに頷き、手を貸してゆっくり歩く。
……謝られたりしたら、イヤだなあ。
会話の無いのが怖くて、私から話しかけた。
「孫って…やっぱり相当かわいいものなんでしょうね」
「それはもう。授かったと聞いたときは、志緒の離縁と同時だったから複雑だったけれど」
「……私は──34歳というのはあちらの世界でも結婚には遅い年齢なんですけど、結婚しようがしまいが楽しいのも寂しいのも全部自分のことだと思っていて。親の気持ちなんてのは考えないんです。ただ」
……ただ。
「孫を抱かせてあげられないことだけは、親に申し訳なくて」
ぽつりぽつりとこぼれる私の話に、その人は耳を傾けてくれていた。そして、
「娘がお嫁に行くのも子どもを授かるのも、もちろん嬉しいし、そうあるように願うものよ。けどね、自分の手元に置いておけるのは、それはそれで嬉しいものなのよねえ」
そうなんだ……。どこかにあった、親にすまないと思っていた気持ちが、少しラクになる。ありがたいなあ。
「ありがとうね」
え?
自分が思っていた言葉が聞こえてきて、そちらを見る。しかしその人は前を向いたまま。
「生きていてくれて、ありがとう」
「──!」
胸に。胸に抱えていたさまざまな思いを、遠慮や自制で削ぎ落とし、最後に残った言葉がきっとそれなのだ。
振り返らず廊下を曲がって行くその背中に、何も言えず。私はただただ頭を下げて見送った。
=====
涼しい夜だった。気持ちのよい風にあたりながら、私たちは家路をゆっくり歩いていた。
少し前には七緒を抱いた義兄と、それに寄り添う志緒。ほんの何か月か前まで、お互い意地張って冷戦状態だった人たちとは思えない。そう、彼らが甘いのには訳がある。今までの時間を取り戻すために、出会ってからずっとしまい込んでいた愛情を一気に注ぎ込んでいるのだ。
私たちは、遠回りはできない。スタート年齢が遅いんだもん。足踏みなんてしてたら時間がもったいないよね。
「ねえ、明日どうしよっか」
「そうだのう。足はどうだ?」
「疲れてるけど、別に痛くないよ。先に絆創膏貼っといて正解だった」
江戸で行きたいところをいくつかリストアップして渡しており、その中から天気や体力と相談して選ぼうと話していたのだ。
「今日の暑さを思うとあまり長時間歩くのは避けたいな。深川を拠点に近場を巡ろう。お前さんが挙げていた神田や湯島はもう少し涼しくなってからだ」
「うん。……あのさ、明日お奉行の旦那には挨拶できるかしら」
「そうだのう。帰り際ではつかまらないかもしれんな。少し早いが、朝の出仕前のほうが確実かもしれん」
「うん、じゃあ朝八丁堀に行こう」
旦那に会ったらなんとか理由をつけて、いさぶに席を外してもらおう。そして旦那にいさぶの家族のことを聞こう。
明日の江戸見物の行き先は、もしかしたらそこで決まるかもしれない。