そして志を果たす
数日後。私は夏休みを取って江戸に泊まりに行くことにした。
江戸に泊まりに。
うーん、見れば見るほどおかしな文章だけれど。今までのように突発的ではなく江戸に行くのは初めてなので、今回は旅行気分でしっかり準備をした。手みやげも持ったし、観光したい場所も下調べした。行程はこうだ。
まずは旦那の屋敷で着物を着せてもらい、江戸仕様になる。それから近所で評判という料理屋でお昼ご飯を食べ、午後に若様に会いに行く。夕方には志緒たちと合流して一緒に夕飯を食べる予定だ。夜はぜひうちに泊まれと志緒が言うので──ま、義兄の家なんだけど、泊まらせてもらうことになっている。そして明日はいさぶと江戸見物だ。
「ねえ、向こうの夜は暑い?涼しい?」
「気候はさして変わらんよ。着る物はあちらで借りるんだろう?」
「うん。昼間は借りるけど、寝間着くらいは自分で持ってこうかと思って」
「それならお前さんがいつも着とるようなので十分だろ」
「はーい」
迎えに来てくれたいさぶに、ぺらぺらとどうでもいいことを質問する。口数が多くなるのは緊張している証拠だ。そう、旅行気分の中で私はかすかに緊張していた。
若様と話をすること。
志緒に会ったら、江戸の両親にも会わないといけないこと。
江戸から帰ったら、いさぶと一緒にこっちの両親に挨拶に行くこと。
それに──うん、いろんな種類の緊張感が私にプレッシャーをかけていて。こういうときは決まってお腹にくる。胃が張って、物が食べられなくなるんだよね。
「今日お昼ご飯入らないかも……」
「どうした?」
「なんか、胃の調子が」
私がピリピリしているのに気づいてか、安心させるように頭をなでると、いさぶは笑って言った。
「夜はあちらで旨いものが用意されているだろうからな、まあ無理をするな。甘味屋なんぞもあるし、食べられそうなものがあったら言え。連れて行ってやろう」
「…ありがとう」
甘い。激甘だ。
今回の江戸行きを終えたら、私を送るとともに彼もそのままこちらへ移住することになっている。ついに私も同棲というものを経験することになるのだ! ぎゃー。
……いや待てよ。これって同棲? 結婚? プロポーズらしきものはされた。一緒になりたいって言われた。けど戸籍がないから入籍はできなくて……江戸ではどうなったら夫婦なんだろう。こっちで言う事実婚てやつ? こ、子どもがほしくなったらどうすんだろ? 老後はどっちに住むんだろ。やっぱり江戸? いやその頃にはもう明治だな。あれ? 江戸幕府が終わったらいさぶの職はどうなるの? もうあと数年だよ──?
「さ、そろそろ行くぞ」
「あ、はい」
思考を中断され、慌てて立ち上がる。荷物を持っていさぶの腕につかまると、彼は宙に輪を描きながらポツリと言った。
「これは戻ってからでよいのだが」
「ん?」
「返事を聞かせてほしい」
「返事? 何の?」
すると彼は心底呆れたような表情を作った。
「先週の、ほれ、求婚したろうが」
……あれ?
「返事、してなかったっけ!?」
「聞いておらんな」
「そんなの言わずもがななのに」
「ちゃんと言葉にしてくれねば安心できん」
お前は女子か! つーか、あれ? そうか、やっぱり求婚…プロポーズだったのか。とすると、考えなきゃいけないことがたくさんある。もちろん、一緒にいたいのは大前提だけど。
ちら、と隣りのいさぶを見上げると、彼は正面を向いたまま言葉を継いだ。
「お大名の正室の座には適わんからの」
「そんなこと……」
なんだ。まるで私が身分に目がくらむみたいな言い方。そんなもんいらん、収入ならあるぞ。
口をとがらせると、いさぶは嬉しそうな顔をした。義兄の告げ口以来、私の不機嫌な顔は彼を喜ばせるようだ。なんだかなあ。
「行くぞ。目を閉じておれ」
口はとがらせたまま、私は素直に目を閉じる。ひずみをくぐる瞬間はこうしていないと酔いやすいのだ。そして一歩踏み出すその直前、とがらせた唇に温かいものが触れ、離れていったのを感じた。……こら!
=====
私の正面には絵に描いたようなお殿様が座っておられた。右前方には若様。私の後ろには、いさぶ、義兄、そして旦那が控えている。
「此度は誠に大儀であった。これが大層世話になったらしいの。改めて礼を申す」
これ、と脇に控える若様を指し、殿様が鷹揚に頭を下げる。
「はあ、いえ、あのー大したことはしておりませんから、どうぞお気遣いなく」
ああこんなときの所作なんてわかんない。多少の礼法は「大人のマナー講座」なんつってたまに雑誌で読むけれど、殿様用のものは知らない。御意、とでも言っておけばいいのか? 違うか。
「こやつの初恋は成就しなかったようだがな」
「父上!」
「まあこれにはよい勉強になったろう。しかし──」
言葉を切ると、殿様はいたずらっ子のような表情で私を見た。
「そちの相手としては、これでは子どもすぎただろう。どうじゃ、余の側室にならぬか」
「えぇっ!?」
冗談じゃ、と笑うと殿様は立ち上がり
「あとはこやつから話をする」
ふぉっふぉっ、と笑いながら部屋を出て行ってしまわれた。去り際に呼ばれた旦那も一緒になってついて行く。なんというか……渋い割に重厚感のないあたりが二人はよく似ている。ぽかん、としていると、頭を下げて見送っていた若様がこちらに膝を向けた。
「皆、改めて礼を言う。本当に世話になった」
初めて会ったのはごく1週間ほど前のことなのに。あのとき大人と子どものはざまにいた若様は、なんだかすっかり大人びたように見える。
「私は宿を提供しただけだし。若様こそ大変だったでしょう」
ふ、と疲れたように笑う若様に、義兄が尋ねた。
「それで、柳沢氏の処分はどうなさったんです?」
「うむ、それなんだがな……父上は俺に一任なさったんだ。あいつにとって何が一番の罰になるか、よく知ってるのは俺だとな」
今までの縁がどうであれ、罪は罪だ。罰は与えねばならない。それも、彼以外の反対派を一斉に黙らせるような効果的な罰を。考えに考えた。そして決めた。
「蟄居を許さないことにした」
チッキョを許さない? 漢字の変換ができずキョトンとする私に、若様は説明してくれた。
「つまり、普通ならこうした場合は腹を切らせるか、あるいは蟄居を命じる……蟄居とはつまり謹慎の重いものだな」
「ああ、なるほど。自宅に軟禁するみたいな感じ? じゃあ、それを許さないっていうのは?」
「武士が反逆者の汚名を背負ったまま表の道を歩くのは非常な屈辱だ。あいつには耐え難いだろう。だから俺は敢えてそれを命じた──あいつを不穏分子の監視役にしたのだ」
「か、監視役に!?」
役を解くどころか、新たな役を与えたっていうの!?
「へえ。それは考えましたな。面白い」
「じつに。一度は捕らえられた者が目を光らせていれば、反対派は手も足も出せないでしょう。不用意なことをしてはいつ足をすくわれるか知れたものではありませんからな」
そ、そうなの? 私にはよくわからないけれど、義兄もいさぶも感心しているのだから、きっとそうなのだろう。二人の言葉に頷きを返しながら、若様が私に尋ねてきた。
「かおる、それでよいだろうか」
……わ、
「私に聞くの!?」
「お前には危険な目に遭わせてしまったからな。小松たちが働いてくれたのはお役目でもあるが、かおるは何も関係がないのにずいぶんと危ない目に遭わせてしまった。本当に申し訳なく思っておる。このような処分では足らないかもしれないが……」
「ちょちょ、待って待って! そりゃあ怖かったけれども、じっさい被害は何も受けなかったわけだし。若様がいいと思うようにしたらいいよ。だって今回のことでいちばん辛かったのはあなたなんだから」
あわてて言いつのった私に、若様が向けたほほえみはすっかり大人の男のものだった。うわあ。
「あちらを出るときに言おうとしておったのだが」
あちらを出るとき──? ああ、図書館の、公園の。
「正室になってくれという申し入れは、そうでなくとも取り下げるつもりでおったのだ」
「そ、そうなんだ?」
急な話題の転換に、背後のいさぶを思ってもじもじする。
「うん……かおるがいてくれたら心強く感じる、と言ったのは本当だ。そばにいてくれたらと思う。だがな、それはすべて俺が頼ることばかりだ。今の俺では先日のようにお前を危険な目に遭わせてしまうし、それを守る力もまだまだない。俺からお前に与えられるものを、まだ持っていないのだ。今の俺では」
そこまでを伏し目がちに語ると、目線を上げて私の目を覗き込んできた。いたずらっ子のように笑う顔は、先ほどの殿様のものとよく似ていた。
「だからといって、俺が一人前になるまでを待たせるのはしのびないからな。母上と同じ歳なのだろう?」
よ……余計な世話じゃ!!
「それに、まあそこそこの奴がついているようだし、心配する必要もないとなると俺はこのまま失恋をするよりほかはないというわけだ」
そう言ってちら、と私の背後に目線をやる。後ろにいるいさぶと、男同士どんな会話を目と目でしたのかは、私にはわからないけれど。私もきちんと、若様に言わなければと思った。
「ありがとう。たくさん考えてくれて。若様に会えてよかった。なんていうのかな。若様の持ってる志みたいなものに触れて、私も自分の仕事のことをちょっと見直したりして、刺激をもらったんだよ。それとね……柳沢さんの言葉じゃないけど、あなたには人をまとめる素質があると思う。人の上に立つのって、力がいるし、勉強もしないといけない。けどね、今まで何人もの下で仕事をしたけど、信頼できる上司ってやっぱりその人自身の持っている人間性みたいなものが大きいんだよね。あなたにはそれがあると思うんだ。だから、きっと大丈夫。あなたなら、きっと」
もちろん、私に政治の何がわかるわけでもない。ただ、人々を治めることだって仕事のひとつだと考えれば、いくつかの転職を経験した私には、よい上司というものがなんとなくわかる。この若様は、もっともっと大人になったらきっといい上司になるんじゃないかと思うのだ。
「そうか……。その言葉を力にするとしよう。今回のことで俺もはっきりと自分のめざす道が見えた。父上にも改めて申し上げたのだ。跡を継ぐことは今までは与えらえた道であったが、今は私の志です、とな」
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屋敷を辞した私たちは、駕籠を用意してくれるというのを断って、ぷらぷらと歩いていた。若様のすっきりとした笑顔になんだか満ち足りた気持ちになっていて。ゆっくりと余韻を味わいたい気分だったのだ。
「よう、どうだ? 玉の輿に乗り損ねた感想は」
義兄の軽口にじろりと睨むと、飄々と笑ってやがる。そうか、こいつは嫁の睨み顔が大好きなんだった。同じ顔の私に睨まれたところで屁でもなかろう。それならば──よし、
「……! やめろ! そんな顔すんな!!」
ざまあみろ。色をなして私を止めにかかる義兄に、べ、と舌を出して見せる。すると後ろを歩いていたいさぶが呆れたように尋ねてきた。
「お前さん、いったいどんな顔をしたのだ」
「お見せできません」
そう、それはこれ以上ないってくらいの変顔。効果てきめんだ。あとで志緒にも教えてやろう。
「嫁に余計なこと吹き込むなよ!? ……旦那は今日はもう戻らずとも構わないとおっしゃっておいでだったから、このあとは直接うちに向かうが。それでいいか?」
前半で私にくぎを刺し、後半でいさぶに確認をとる。するといさぶは、うーん……とうなりだした。
「夕餉にはあちらのご両親もいらっしゃるんだろう? 家族水入らずに儂がいてよいものか……いや、むしろご挨拶をしたほうがよいだろうか」
「え、おかしくない? うちの東京の両親にだってまだ挨拶してないのに」
しかしのう…などといさぶがブツブツ言っているが。一度会ったきりの志緒の両親を、自分の親としてはまだ考えられない。それなのにいさぶが挨拶をするなんて、私には納得がいかないのだ。
「まあ何も考えずにただ会食と思って来たらいい。うちの嫁がうまくやるさ。それより、うちまで歩くとなるとちょいとした距離だぞ。疲れたら途中でも駕籠を拾ってやるから言いな」
義兄のとりなしで、その話題はそこで終わった。いさぶまでもが私の足を心配しだしてくれたからだ。しかしなあ、このまま草履で歩き続けるのと、駕籠で尻を打ち続けるのと。どっちがマシなのやら……。曖昧に笑いながら、私はある考えを反芻する。今までずっと隠し持っていた思い。
両親の話が出たことで再び浮上してきたそれは。
いさぶの両親には、家族には、会わなくていいんだろうか。
縁を切ったと言っていたのをいいことに、あえて聞かなかった。本当はこの機会に会いに行ったほうがいいんじゃないかと思う。けれど、家族との縁が切れていることは、少なからず私をほっとさせていたのだ。彼を江戸から引き離すことの、私が江戸に住まないことの罪悪感を、それが薄めてくれていた。だから、ここで家族との縁を取り戻してしまったら。一緒にいることがつらいことになりやしないか──それが怖くて。私はまだ聞けずにいる。
いさぶのご両親には、会わなくていいの──?