たたかい
「やめろ。柳沢、やめさせろ!」
「逃げろ薫!」
若様と義兄の怒鳴り声が耳を通り過ぎる。刀を構える男までは5、6歩の距離。落ち着け、落ち着け自分。これは逃げても逃げられない。義兄さんこっち来られそう? いや無理だ。若様は……だめ、自分の身を守るので精いっぱい。
「気をつけろ、お命までは取るな。若様はただ御身をとらえるのみ。……女のほうはどうでもよい、好きにせよ」
ちょっと! 好きにされてたまるかっての。落ち着け、大丈夫。
何か逃げ道はないかと必死に視線をさまよわせる。男が口の端をあげてにじり寄ってくる。怖い怖い怖い。握りこぶしを作ってみる。大丈夫、からだは動く。
どうする、落ち着け、大丈夫、どうしよう!
すると──ああ。路地から出てきた人影に、涙が出そうになる。
いさぶだった。即座に状況を判断し、刀に手をかけて間合いを図っている。私と目が合うと唇に人差し指をあててみせた。私は叫びたくなるのをこらえる。いかん、敵に気づかれてはいけない。
ああ、いさぶの姿がこんなにも頼もしく見える。大丈夫、彼なら私を守ってくれる。絶対守ってくれる。
──けど。
その場を別の角度から見ているもう一人の自分が、待ったをかける。そうだ。違うんだ。
彼の仕事は若様を守ること。私を助けている間に若様にもしものことがあれば、彼はその責を負うだろうし、彼自身も自分を責めるに違いない。
けれどじゃあ、若様を守ることで逆に私がやられてしまったら? 責務は果たせても、彼は苦しむはずだ。そしてまた、ずっとずっと自分を責め続けて生きていくんだ。
だめ。どっちもさせられない。
迷わせちゃだめ。
悔やませちゃだめ。
じゃあ、どうする──?
また無鉄砲だと叱られるかもしれない。呆れさせるかもしれない。
「若様!」
私は数歩先にいた若様に飛びつき、そのまましゃがみこんだ。若様をねらっていた男は突然私が走り寄ったことで瞬間戸惑い、私に向かって刀を構えていた男は、目標物が味方の肩越しに移動したためこれも手を出しあぐねる。その一瞬の隙をつき、いさぶが飛び込んできた。といっても。
私は若様にしがみついてギュッと目をつぶっていたから、音から推測しただけなのだけど。
テレビドラマのような効果音は聞こえない。もっと鈍く低い音。これは殴った音? 殴られた音だったらどうしよう。うめき声。聞いたことがない音。血の匂い……! 刀だ。斬られたんだ。誰が? 倒れる音。そして──静かになった。
「かおる、済んだぞ」
若様の静かな声に、恐る恐る視線を上げる。柳沢氏を含む4人の男が、いさぶと義兄とによって縄をかけられているところだった。終わったの──?
若様に手を引かれ立ち上がる……が、足に力が入らずへたり込んでしまう。するといさぶがこちらへ来て、私を抱え起こしてくれた。そのまま胸に抱きこまれる。頭上から彼の安堵のため息が聞こえて、とたんに怒涛のような出来事が一気に実感となって押し寄せてきた。
「伊三さんケガは? どこも何ともない?」
「それは儂の台詞だ」
そう言うと、自分の頬を私の頭に押し付け、無事を確かめるように一度力を込めて抱きしめると、すぐに私を離し、若様のほうへ向きなおった。
「若様、お怪我はございませんか」
「若様……?」
「説明しろ、柳沢」
後ろ手に縛られ、地面にひざをついた柳沢氏に、若様が問う。怒りも悲しみもない、呆然とした無感情の声だ。
柳沢氏が視線を上げる。
「ご覧になったことがすべてです。若に跡を継いでいただきたくなかったのですよ。命を狙うつもりはありませんでした。どこかで静かに余生をお過ごしいただければそれでよかったのですがね」
「俺は……俺では当主になるには力不足と言うか」
「あなたではだめです」
その人に褒められたくて、それを原動力にしてきたのに。全否定をされたその痛みが、こちらにも伝わってくる。
「あなたでは傀儡にはなれない」
……え?
「あなたには素質がありすぎる」
固まっていた若様の眉根が寄り、視線が動く。
「それでは私の野心は満たされない」
「……!」
パシンっ
止める間もあらばこそ。
考えるより早く、怒りを感じるより早く、私はその男の頬を張っていた。
「子どもの信頼、裏切って……!」
怒りが涙になってあふれてくる。私の腕をそっと押さえ、若様がつぶやいた。
「……認めてもらえたということだな」
「若様……」
「最大の賛辞かもしれぬわ」
ごめん、勝手に泣いている場合じゃないね。ゴシゴシと涙を拭う。けれどかける言葉がみつからない。そこへ、縄をかけた男たちを立たせながら義兄が声をかけてきた。
「こいつらは俺が連行する。お前は若様と旦那の屋敷に戻れ」
「いや、共に参る。俺を連れてゆけ」
ショックを受けているはずの若様から強い言葉が返り、二人の侍の視線が集まる。
「若様……」
「柳沢は信頼の厚い家臣だ。裁くには俺の証言が必要だろう」
「……ではご足労願います。伊三、お前はいい。薫を送ってやんな」
そうして、騒ぎを聞きつけて駆けつけた岡っ引きに手伝わせ、義兄は若様とともに4人の男を連行していった。
残された私は、改めていさぶの無事を確かめる。
「伊三さん、ありがとう。ほんとにケガはなかった? 大丈夫だった?」
しかし、返ってきたのは彼の冷たい声だった。
「どういうつもりだ」
「……何が?」
「あんな危険なことをして。若様を心配するのはわかるが、身を挺して守ることはないだろう。そんなことは儂がする」
……なんで怒ってるの? 普段怒らない人の怒りはとても怖い。泣きそうになるのをこらえると、何も言葉を発することができない。なんだよ、自分だってこんなにケガしてるくせに。いさぶの腕の傷をじっと見ると、
「これは昼間の分だわ」
さらに小言が続いてしまった。
「若様について江戸に来たのだって無鉄砲が過ぎる。いやそもそも若様を部屋に連れ帰ったのがまず不用心だ」
な、なんだよ今頃! 過ぎたことを引っ張り出してくるなんて、それでも侍か! ……っていうことも、声に出せない。泣かないためにはギュッと眉根をよせてしかめっ面をするしかない。
「そうやって拗ねておれ。屋敷に戻るぞ」
さっさと歩き出すいさぶの背中を恨めしくにらみながら、とぼとぼと後をついていく。そりゃあ、私の無茶でいさぶを危ない目に合わせてしまったけれど。別に若様を守ろうとしたわけじゃない。守る対象がひとかたまりになっていたほうが、いさぶが動きやすいと思ったのだ。それを伝えたら、また怒るだろうか。
「なんだ、二人して通夜みてえな顔して」
ぎくしゃくした空気のまま屋敷に戻った私たちに、出迎えた旦那は計画失敗かと誤解をし──紛らわしいときに痴話喧嘩なんぞするなと叱られてしまった。
首尾をかんたんに報告すると、いさぶは義兄のもとへ行ってしまった。私には「あとで送るから待ってろ」とだけ言い残して。部屋には旦那と私の二人。
「……で、伊三のやつ何て?」
「危ないことするなって怒られました。今まで小言を言われることはあってもあんなふうに怒りの感情を見せられたのは初めてで」
「お前さんは何をしたんだ」
そう問われて、先ほどの状況をたどたどしく説明する。私が若様に飛びついたことを話すと、旦那の眉が面白そうに上がった。
「でもそれは若様のことを自分の身でかばおうとしたわけじゃなくて、私と若様が別々の場所で危ない目にあっていたら伊三さんが困ると思ったんです。だからとりあえず1か所にまとまっていたほうが助けてくれやすいかなって、思っただけ、なのに」
冷たい声を思い出し、がまんしていた涙がこぼれてしまうともう歯止めがきかなかった。旦那がぽんぽんと頭をなでてくれる。
「……やっぱりあいつをそばに置いとくとお前さんを危ない目に合わせるのう。引き揚げさせるか?」
あわてて顔を上げる。
「そんな、今さら……!」
「そうだ、今さらだ。伊三はハナからそこまで覚悟しておかなきゃならなかった。それを今さら気付いて、お前を危険にさらしてしまった己自身に腹を立てているのであろうよ。お前さんに対して怒っているわけじゃない。しかし……」
目も当てられないほど大泣きをしている私の目を覗き込み、安心させるように優しく笑ってくれる。私は緊張がほどけてますます泣いてしまう。
「こんなふうに泣かせるのも悪いが、自分の前で泣かせられねエってのはもっとダメだな。ほかの男の前で泣かせてどうすんだあいつ。おう、お前さんどうして伊三の前でこらえてんだ」
「そんなの……泣く女ってうっとうしいし……あんなふうに怒られたら怖くて何も言えなくなるし」
「泣いてやりゃいいんだよ。なじってやれ。アンタのためにやったことだ、危険な目に遭わせたくないならてめえがしっかり守れってな」
「そん、なことして、…っく、嫌がられ、ませんか」
「そんなこと言い出しやがったら俺に言え。また仕置きのひとつもしてやるよ。怖い目にあったのに、かわいそうにな」
そんな優しいことを言われて、タガの外れた私はついに声を上げて泣き出してしまった。だって怖かった。刀も怖かったし、いさぶも怖かった。旦那は本当に人の気持ちをほぐすのがうまい。なんて。
じつはこれがすでに旦那の策略だったとは、そのときは気が付かなかった。ほんと、食えないお人だよ……。