なくしたくないもの
二人の侍が江戸へ帰っていき、私たちはまた二人でその日を終えようとしていた。
「柳沢にも言ったのだが」
「うん?」
布団に入ってからの会話にも慣れたもんだ。
「本来ならあいつに任せきりにするのではなく、共に戻って自分の居場所は自分で守るべきだと思う」
「うん…」
「けれどあいつは、敵方の動きを見たいからしばらくこちらに隠れていろと言う。ならば俺は、ここで吸収できるだけのことを吸収して帰ろうと思うんだ」
へえ…この子は。自意識があるとないとに関わらず、根っからよい領主になろうとしているんだな。
「図書館も、それで?」
「うん。お前に見せてもらった新聞が面白かったもんで、納戸にあるものをすべて読み終えてな」
え。納戸、つーかクローゼットに置いてある古新聞はざっと1か月分だぞ。それを2日で読んだか…。
「それで他に何かないかと聞こうと思っていたところだったんだが。図書館にはいろいろな国の為政者の本があった」
そ、そうなんだ? たいがい小説コーナー直行なもんで知りませんでした。
「えらいねえ…」
「……母上がな、亡くなる前におっしゃったのだ。ここだけの話──領主になぞ、なろうとなるまいとどちらでもよい」
「えっ?」
「ただ、あなたの志すままに進みなさい、とな」
それは、志がないのであれば止めろと言われたように感じた。だからじつは、それからずっと考えていた。言われるがままに進んで来た道を、このまま言われるがままに進んで行ってよいのかどうか。
そうしているうちに反対派なんぞが現れたりして戸惑いもした。だが、こちらへ来て新聞やらテレビやらを見ただろ? そうするとな、自分ならどうするだろう。どうすれば民は喜ぶか。そんな考え方ばかりしてしまう。
「やっぱり他の道は考えられないみたいだ」
「そうか…」
ふっきれたようなすがすがしい声音に、思わずまた頭を撫でてやりたくなる。いかんいかん。
「かおるが…約束した相手、というのはどういう奴だ? 何を志しておるのだろうか」
「ああ…そういえば、そういう話はしたことがないな」
だって聞かれても答えられないことは聞けないし。
「そうか、俺とだけか」
心なしかうれしそうな声に、いさぶの言葉を思い出す。若様の気持ちは本気だ──。そうなのかな。
「なぜだろうな。かおるには胸の内を明かせる」
「…利害関係にないから、てのもあるかもしれないよ」
若様の気持ちは本気だ。
まさか。
お前は意識するだろう?
そんな。
……っ。
うわぁ! 芋づる式によみがえる記憶。熱くなる頬。若様を意識なんて、する暇がない。
(…あンのスケコマシ!!)
あれぐらいで「思い出し照れ」をしてしまう私も私だ。どんだけおぼこいねん。こんなに立派な意志を持つ若様の隣りで、そんなことを思ってジタバタするなんて。うわーごめんなさい!
──そんな昨夜の自分を思い出し、言い訳をするかのようにいつもの倍の速さでキーボードを叩く。はい、私も真面目に仕事します!
何を目指して仕事をしているのか、それを聞かれてもうまく答えられないけれど。目の前のやるべきことに真摯に取り組むことが、いま私が出せる答えだ。
生まれたときから決められていた将来。そのハシゴを突然外されて戸惑い、職につく意味と向き合って、その道を進もうと決めた若様。家に帰ったら、今日一日の収穫を聞いてみよう。あの子のフィルターを通したら、今の時代はどう映るんだろうか。
ちょっと楽しみにしている自分がいた。
昨日必要以上に残業をしたせいで、今日はもうやることがない。定時でとっとと帰るとしよう。何か進展があるかもわからないし……そういや夕飯どうすっか。おっさん二人は食べてくるのかな。まあいい、来るか来ないかわからん奴の分まで用意することはあるまい。
二人分の食材を適当に買い込んで家に帰ると、玄関のドアに何やらメモが貼ってあった。
「蛇参上…?」
なんのイタズラだ。キモイ。でも貼ってあるこのマグネットはうちのものだな。
嫌〜な予感。おそるおそるそっとドアを開けると、ひんやりとした冷気が漂ってくる。
ちょ、なんで!?
ガバッとドアを全開にし、ズカズカ部屋に上がり込むと、
「お、帰ったか」
その声に、無意識に眉間にシワがよる。
部屋に入ると、蛇──江戸に住む双子の姉の夫、が床にごろりと寝転がり、こちらにひらひらと手を振っていた。
「アンタなんでいんの!」
「この暑いのに外でなんぞ待ってられっかよ」
「そうじゃなくて、どうやって入ったのかっつってんの!」
「直接部屋ん中に来た」
…なるほど時のひずみを室内に開けたってことか。くぅ、器用なことしやがって。
「で、このキンキンに冷えた部屋は何?」
クーラーのリモコンを男から奪い返す。エアコンは冬しか使わないから、このリモコンも夏の間は壁のホルダーに収まっていたはずだ。
「だからぁ〜この暑いのに蒸し風呂でなんぞ待ってられっか、っての」
「なんでうちのクーラー使いこなしてんのさ!」
いさぶにも若様にも、その存在を伏せていたのに。睨む私に、なんとも小憎たらしい笑みを返してくる。
「……“蛇”の情報力なめんなよぉ?」
コラコラコラコラいさぶ! 確かに「蛇の道のことは蛇に聞こう」と言ったけれど。そこは伝えんでいい。
「てことは、伊三さんには会ったんだ?」
「ああ、人形ありがとうな。とっとと帰って喜ぶ顔が見てえわ」
「それでなんでアンタがこっち来たわけ? 蛇の道のこと教えてくれようって?」
すると男は起き上がり、急に真面目な表情になって言った。
「小松が襲われた」
コマツが襲わレタ。
──急に体がひやりとした。ほら、やっぱり冷やしすぎだよ。だからクーラーは嫌いだって。コマツがえ、何? 待って。
私の形相に、男は手のひらをこちらに示して「待て」のポーズをする。
「最後まで聞け。小松は今その襲ってきた奴らの取り調べをしている。アンタが預かっている若様と関連があるかもわからないから、急ぎ様子を見に行ってくれと旦那に言われたんだ」
「それで彼は無事なのどうなの?」
「あいつ強いぜ。俺様より腕立つくらいだからな」
「ええい結論を言え!」
「無傷じゃねえよ? けどピンピンしてるわな」
ほぅ、と安堵の息をつく。そこでやっと、先ほどの言葉を思い出した。
「若様に関連があるかもって言ってたの?」
「無いという確証はない、ってことさ。若様はどこにおいでだ? このあたりはお探ししたんだが会えなかった」
窓の外を見る。まだ明るい。少し夢中になっていたら、まだ図書館にいてもおかしくないかもしれない。私は義兄を連れて若様を迎えに行くことにした。玄関の「蛇参上」のメモを、「図書館に迎えに行きます」に替えて。
図書館へ向かう道すがら、私は蛇の道がどうなっているのかを訊いた。図書館まではゆっくり歩いて10分弱の距離で、最短ルートはひとつだけ。余計な寄り道さえしなければ、行き違いになることもないはずだ。
義兄は腕を組み、あごをさすりながら答えた。
「まあ…いくらでも抜け道はある。裏世界に通じてる人間ほどこういう情報は伝わるもんだからな。さすがに刺客を放ったってのは聞いたことがねえが、罪人を逃がす商売があるんだ。その延長線上と考えれば十分にありうる」
しれっと言ったものだ。罪人を逃がしてたのは自分じゃないか。
「同業者ってか」
「違ぇよ。俺はその噂を利用しただけだ」
「そういやアンタ、結局お咎めは受けたの?」
と、彼は急に立ち止まった。
「どしたの?」
「受けたさ……あれ以上はない責め苦だった」
「なになに、百叩きとか? 石抱きとか?」
はあーっとため息をつき、腹の底から絞り出すような声を出す。
「それならまだマシさ。俺はむしろそうしてくれと頼んだんだ。それなのに旦那は……くっそあの助平親父! 嫁を連れて来いと言いやがった」
えーっ! そんなセクハラ奉行には見えなかったけど。
「志緒、何されちゃったの?」
「あの親父、こともあろうに」
頭をガシガシとかく。ああもうじれったいな! 早く言え。
「俺の嫁に肩揉ませやがった」
「…あん?」
「しかも膝にうちのチビまで抱いてよぉ、俺の目の前で、志緒に、肩を…」
「それが百叩きより辛いっての?」
しょーもな。私はとっとと歩き始めた。ブツブツ言いながらついてくるのが聞こえる。
「たりめーだろが! しかも、手でも握ろうもんなら飛びかかってやったのに、旦那はただニヤニヤ座ってるだけでさ。それなのに志緒のやつ頬なんぞ赤らめてやがんだ」
「あーわかるわ。だってお奉行さま激シブだもん」
「あれは地獄の責め苦だった…。あの旦那はな、減俸だの謹慎だのっつう罰に加えて独自の罰を追加する人でよ。それがまた絶妙の采配でさ、そいつにとって何がいちばん打撃になるかよくわかってんだ」
公私混同と言やあそれまでだけど、それはそれでデキる上司かもしれない。部下のことをよくわかってるってことだもんな。
「じゃあさ、伊三さんの罰は何だったの?」
「あいつぁ、半年以上も足止め食らわせられたじゃねえか。アンタに会えない。それが何よりの罰さ」
……。やだ、ちょっと。でもそれがほんとならさ。
「確かに難航はしてたけどさ、旦那にしちゃあ時間がかかりすぎだ。あれはわざとゆっくり進めてたな」
「そんなの、私までいいとばっちりじゃんか」
「うん。だから旦那もアンタのことはずいぶん気にかけてたんだぜ。そら、春頃俺がアンタに会いに来たろ? あれも本当は旦那の指図だったんだ。様子見て来いってな」
「そうなんだ…」
私に会わせないのが罰、だって。粋なことをなさるでないの。
「……」
「……」
照れは伝播するらしい。無口になってしまう。仕切り直さなきゃ。
「あー…つまり、こっちに若様を狙う刺客が来る可能性はある、と」
「だな。まずは若様がこちらにいるということを敵方に知られないことだが…小松を襲ったのが、あいつを足止めするためだとしたら」
「もう知られてるってこと?…それは大丈夫なはずなんだけど…」
そこまで話したところで、図書館が見えてきた。