思惑
二人を見送ったついでに台所に立ち、温かい麦茶を淹れて柳沢氏の前に置く。おかまいなく、イエイエ、という大人の挨拶を交わすと、私は柳沢氏の向かいに座った。
「若様の申し出ですが」
柳沢氏が湯呑みを手に話し出す。
「あれは少年期に抱く憧れのようなものでもありましょうから、あまり気になさらないでください」
「はい、私もお断りするつもりでおりますからご心配なく。……あの、若様っておいくつなんですか?」
私が問うと、柳沢氏は薄く笑った。
「御年17におなりです。あなたにとっては子どものようなものでしょう」
…それには曖昧な笑みを返すにとどめておく。数え年で17ってことは、まだ16。子どものようなというか、どちらかというと若様にとっての私が母親のような年齢なのではなかろうか。あの時代の結婚は早いから…ってコワコワ。話題変えるべし。
「若様のことは、ずいぶん小さい頃から見てらっしゃるんですか? あなたに育てられたようなものだと言ってましたけど」
「ええ、襁褓の頃から存じ上げています。母君と同郷でしたのでね、そのよしみで教育係を拝命したのですよ」
襁褓…ああ、オムツのことか。じゃあ本当に父親のような存在なんだな。ん?そういや父親って。
「お殿様はご健在なんですよね?」
「はい」
「そのお殿様は、若様に跡を継がせようとなさってる?」
「はい…?」
私の質問の意図を図りかねるといった表情に、なんとか思考の整理を試みる。
「ええと…若様は、殿様が決めた跡継ぎなわけだから、殿様がご健在のうちは手出しのしようがないんじゃないかと思うんですけど…どちらかというと、若様の命を狙うよりも殿様にすり寄るほうが…あれ?失礼な言い方になりましたかね」
「いえ。おっしゃる通りです。殿がご健在の今、若を廃嫡にしようと思ったら、最も望ましいのは若が殿のご不興を買うことです。しかし若は、多少きかん気のところもおありですが、憎めないお人柄ですからね」
うん。それには同意する。
「じゃあお殿様も、若様を買ってらっしゃるんですね」
「ええ。ご側室、つまり弟君の母上も、ご自分の息子を跡継ぎにとずいぶん殿にささやいたようですがね。お心は変わりません」
「だから強硬手段に出たと?」
すると柳沢氏は少し眉をひそめた。それにしても端正なお顔だちだ。
「若が襲われた件ですね。あれはおそらく、若を亡き者にしようとしたのではなく、拐かしてどこぞへ幽閉でもしようとしたのでしょう」
「幽閉……つまり行方不明に見せかけて物理的に継げなくさせると?」
「ご明察。殿のお心が変わらないとなれば次は、若が“行方不明”になることで廃嫡を狙う魂胆でしょう。あからさまに命を狙うのは最後の手段です。あちら方にも危険が及びますからね」
ふむ…お家騒動は私には難しいけれど…最大の味方であるお殿様がいらっしゃる。ということは表立って何かされることはない? 待てよ、江戸から見たらここは「裏」だな。命を狙おうと思ったらこれほど好都合な場所はない。
「あのー、あちらから見たら今の若様は“行方不明”なわけですよね? そしたらそのまま捨て置くのかしら。それとも、わざわざこちらに命を狙いに来るでしょうか? あれ? でもこっちに来ようと思っても来る術がないか…」
待てよ待てよ、そもそもこっちの存在を、つまり時のひずみのことを知っているのだろうか。えっと、ああダメだ。思考が迷子になっている。要するに知りたいのは、
「若様にとってここは安全な場所なのか、ってことなんですけど」
「そうですね…二度とあちらに戻らないという確証があれば、わざわざ刺客をよこしはしないと思いますが。そこは私もお尋ねしたかったところなのですよ」
あ。そういえばこの人は私に相談があるからって家に残ったのだった。
「すみません、私ばかりしゃべってしまって」
いいえ、と言って柳沢氏は麦茶をひと口含む。
「私が案じているのはそこなのです」
「万が一にも若があちらへ戻れなくなる恐れはないのか。それを確かめたいのです。あちらとこちらを行き来できる力は小松殿がお持ちだ。では彼に何かあった場合──万が一、ですよ? そのときは若はこちらに取り残されてしまうのでしょうか」
縁起でもない、けど、そこを案ずるのは当然のことだ。たとえばあちらで急にお腹が痛くなるとか? 韓国ドラマなら交通事故にあって迎えに来れないとか。けど、そしたらあのデキ上司が采配を振って義兄でも寄越してくるだろう。
「時のひずみを作れる人は彼以外にも知っています。こちらから連絡をとることはできませんが、向こうで彼に何かあれば私のところへ連絡がくるでしょうし、こちらで何かあったとしても、私に尋ねてくると思います。ですから、若様がこちらで迷子にさえならなければ大丈夫ですよ」
なるほど…とつぶやき、柳沢氏は何事か考え込む。
「いや、どうしたものかと考えあぐねていたのですよ。私はあちらに戻って敵方の様子を探らねばならない。しかし若をこちらにお一人で残してよいものか…ですがかおる殿とご一緒なら心配ないということですね」
そういうことに、なるのだろうか。でもまあ、とりあえずこちらに残りたいと言われたところで、1Kのわが家に大人が3人寝るのは現実的ではないわな。そのことをそれとなく伝えてみる。
「お気遣いなく。こちらに残るとしても私は不寝番をいたしますから」
ふしんばん…寝ずの番? 部屋の隅で一晩中体育座りしてると?
…ご遠慮いただきたいっ。
「戻ったぞ!」
若様のご帰還だ。キラッキラに目を輝かせておられる若様に手洗い・うがいを命じ、後から入って来たいさぶに尋ねる。
「どの辺回ってきたの?」
「買い物をするような店はもう閉まっていたのでな、図書館へお連れした。あそこは遅くまで開いているだろう?」
「あんなに書物がたくさんあるなんて、すごいな!」
ほう、そのキラキラのお顔は図書館に感動したのか。たしかにうちの近所のはちょっとした規模だ。夜も10時まで開いているし、一日中入り浸っていても飽きない。
「今日は閉館まぎわだったから、明日また行こうと思う」
「明日? 誰と」
「一人で行けるわ。俺を子どもだと思っておるのか」
イエス I do!
「…こうおっしゃっておいでなのですが、柳沢様? 若様にお一人でお出かけいただいてもよろしいものでしょうか。私たちは一度あちらへ戻るわけですし」
いさぶが問うと、柳沢氏は首肯した。
「構わないでしょう。かおる殿からいろいろお聞きしましたが、こちらは安全のようです。若が道に迷ってこの家に帰って来られない、というようなことさえなければ」
「道はもう覚えた。お前も俺を子どもだと思っておるのか」
若様は憮然とするが、だからイエス We canだってば。あれ? 違った。
まあそんなことはどうでもいい。それより柳沢氏は「安全だ」と言い切ったけど──いや、この人が言うならそうなのだろうけど。敵方がこちらに刺客を寄越す可能性を、私はまだ否定できていない。なんかわかんないけどそういう裏ルートがありそうじゃないか。
…裏。そこである男の顔が浮かんだ。そうだ、蛇の道のことは蛇に聞こう。
「では明日はお供無しでお出かけいただくとして…、儂が預かっているこの家の鍵を若様にお持ちいただいてはどうかの」
私の思考を遮ったのは、いさぶのそんな申し出だった。
「…ああ、鍵…そうだね…」
それがベターだってわかるから、ここで否定するほど子どもじゃないけれど。何かモヤっとするのは否めない。部屋の鍵を渡すことの意味を、いさぶは知らないのだ。まあ…かつて居候したときはすぐに渡したからな。仕方ないな。でも。
どこまで本気かわかんないけど、その子どもは曲がりなりにも私に求婚した男だぞ。そいつにうちの鍵を渡すっていうのはなんだか……私自身を渡されるみたいな気がして。胸がぎゅっとなる。
「構わないけど」
でも言わない。大人だから。
「無くさないでよ?」
だからいさぶの顔は見れない。
「では若、私は一度あちらへ戻ります。明日の晩にまた、私が参るか──あるいは小松殿にお頼みして、ご報告をいたします」
うん、と頷いたあと、ちょっと頼みがとモゴモゴ言って、若様は柳沢氏を廊下に連れ出した。わざわざドアを閉めているところを見ると、おおかた下帯を持って来てくれとか、そんな話をしたいのだろう。
思いがけず、いさぶと2人になれたので、私はさっき考えた蛇の道の話をした。
「なるほどな…よし、あいつに聞いてみよう」
やっぱりいさぶも同じ男を「蛇」としたらしい。
「あ、そしたら渡してほしいものがあるんだけど」
いつか渡そうと思って買っておいたパペット人形を取り出す。甥っ子・姪っ子のいる友だちの財布のユルさはよく目にしていたが、いざ自分に姪っ子ができるとなるほど、財布の紐なんざ無きに等しい。
「これをチビ姫にって」
いさぶの隣りに並んで座り、手にはめて使い方を見せてやる。まあるいお顔の正義の味方にするか、黄色と黒のしましまのお友だちにするか迷ったけれど、考えてみたらあの時代にアンパンはまだない。きっと意味不明だろうと思い、しましまとらのお友だちのほうにした。
「……若様に言わないほうがいいの? これは自分の嫁になる女です、って」
手にはめたお友だちに代わりに聞いてもらう。しまじろうにはあるまじきセリフだ。
「……あー…、」
数秒考え、私の顔をちらっと見て
「うーん……」
と黙り込む。なによ。ほんとに私を渡すつもりじゃないだろうね? 信じてるつもりでも、すぐに不安になってしまう。それが顔に出ていたのか、いさぶは安心させるように私の頭を撫でると、自分の足先のあたりを見ながら観念したように明かした。
「お前さんは若様のお戯れだと受け取ったようだがな、本当にただのお戯れなら即座にお断り申し上げていた。だがの、若様のお気持ちは、あれは本気だ。本気で惚れておる。だからお前さんから断るべきだと思ったのだ…しかし」
私の顔を見やってため息をつく。
「お前さんには知られたくなかったな。それを知ったら、若様を意識するだろう?」
そんなことは……ある、かな? いやいや、あの子が本気で私をなんてそんなこと。ないない。あれ? 私ちょっとニヤけてる?
「……っ」
突然、視界を何かが覆いとっさに目をつむる。と、唇に温かくて柔らかい感触。後頭部には大きな手。唇は一瞬離れ、今度はゆっくりと重ねられた。
ああ、この人、妬いてんだな。そう思った。
だって、初めての「触れるだけじゃない口づけ」だったから。
片方の手は私の後頭部を支え、もう片方の手は、床についた私の手を上から優しく握っている。
唇に触れるものが熱いものに代わり、私も口を開く。それ同士が触れて、体をピクリと震わせた瞬間、いさぶの体が離れた。
「…これ以上はいかんな。あのお二人にお前のそんな顔を見せるわけにはいかないからの」
「なっ…!」
どんな顔だってんだ!…いや、自覚はありますハイ。きっと欲情にまみれた顔をしているに違いない。頬をパパンと叩き、顔の火照りをなんとか抑える。確かにあれ以上続けたら危なかった。でも。
隣りを見ると、いさぶが最高にエロい顔で微笑んでいる。心のほうは、今ので十分やられてしまった。完全にノックアウトだ。
「……早く、続きがしたいね」
「……!」
上目づかいで言ってやった。ざまぁみろ。
一気にいさぶが赤くなるのと同時に、部屋のドアががちゃりと開く音がする。若様と柳沢氏だ。ずいぶん長くかかったところをみると、あちらはあちらで積もる話があったのかもしれない。
さぁいさぶ、この一瞬で平常心を取り戻してみやがれ! ん? 私もデスカ…。