それはおことわり。
そして家に帰ると、侍が三人になっていた。
…うちさぁ、1Kなんだけど。ただでさえ1Kに大人の男が三人もいたら狭苦しいってのに、それが侍。侍密度高すぎ。うちのナチュリラみたいな部屋がこれじゃまるで江戸の風呂屋の二階じゃねーか。
「戻ったか。遅かったな」
それはもう、全力で残業しましたもの。
「柳沢、これが家主のかおるだ」
やなぎさわ、と呼ばれた壮年の男性が──中年やや手前、という感じ。私やいさぶよりひとつ上の世代といった男性が、私に向かって手を突き、頭を下げた。年上からの座礼の最敬礼なんて、そうそうあるもんじゃない。私も慌てて正座をする。
「若が大変お世話になりましたそうで、ありがとう存じます。手前は柳沢と申します。なんとお礼を申せばよいか…」
「いえ、あの行きがかり上といいますか、何もしておりませんからどうぞお手をお上げください」
まともな日本語も使えるんだな、みたいな目で見るなコラいさぶ! お互い何年社会人やってると思ってんだ。こちとら職場じゃ「できる大人のオンナ」で通ってンだ。
「いつこちらに? 朝はいらっしゃらなかったよね?」
前半は柳沢氏に、後半はいさぶに向けて問いかける。
いさぶの説明はこうだった。
昨夜いさぶはあちらへ戻ったあと、まずは旦那、つまりお奉行さまに指示を仰いだ。武家のお家騒動は、本来なら町方の役人の出る幕ではない。しかし先方も、内密に済ませるために敢えてこちらに届け出たのだし、事情を知ってしまった以上は無責任にはできまい──。
そしてお奉行さまはすぐさま面会の手筈を整え、柳沢氏との真夜中の会談を実現させたのだという。さすがデキリーマン、いやデキ奉行!
事情を聞いた柳沢氏の反応は、しかし慎重なものだった。自分を連れて来い、というのが本当に若様の指示なのか。確証を得られねば従いかねる、と。至極もっともな要求だ。
「それで朝になって一度こちらに戻ってな、若様に一筆したためていただいたのだ」
「ふーん、だから朝は1人だったのね」
朝…といえば。ちらりと上目づかいでいさぶを見る。目が合うと、彼は困ったように目を泳がせた。彼は彼なりに、やきもちなど妬くまいと頑張ってくれてるのかもしれない。
「結果的にお手間をとらせることになって申し訳ござらん」
「いえ、私こそ配慮が足りませんでした。慎重になられるのは当然です」
…仕事中のいさぶ、かあ。やっぱり働く男はかっこいい。
「それでな、かおる。この家には書き付けるものが見当たらなかったから、悪いがあれを一枚もらったぞ」
あれ、と若様が指差した先にあったのは、壁かけのカレンダー。確かに一枚めくられて、早くも9月になっている。なるほどね、暦を見せれば信憑性はぐっと増すはずだ。
「へえ、頭いいね。それで、これからどうするの?」
私のその質問に答えたのは柳沢氏だった。
「お二人には申し上げたのですが、今しばらく若をお預かり願えますまいか」
「え」
おっといけない、あまりにあからさまな声音になってしまった。
「このような言い方をしてはいけませんが、これはよい機会だと思うのです」
「はぁ…よい機会、ですか」
「はい。若のご不在に乗じて何か不穏な動きをする者がいるかもしれません。反対派の尻尾をつかむことができるよい機会かと」
うーむ…否定はできぬがのう。
「若もかおる殿をご信頼申し上げておられますし、勝手を聞いてはいただけませぬか」
うぅー…む。私が頼まれたら断れない性格だってのをなぜご存じか。しかしなあ。そうすっとしばらく若様と二人暮らしってこと?
ちらりといさぶに目で問うと、賛成も反対もできずに申し訳なさげな顔をしている。
「まあ…ついでですし…2、3日くらいなら…」
柳沢氏がホッとした表情を浮かべたその隣りで、若様がキラッキラの笑顔になる。そういえば、昨日までと比べてずいぶん表情が柔らかい。やっぱり味方がそばに来てくれて、緊張がほどけたのだろう。
そんな若様が、爆弾を投下した。
「柳沢、事が治まったら俺はかおるを連れて帰りたい」
…………は?
この部屋にいる、若様以外の全員が“きょとん”だ。
「かおる、俺とあちらへ行かないか」
いやいや、え? イヤイヤイヤイヤ。
「……私、もうこっちの人間だから江戸へは行かないって言わなかったっけ?」
「ああ、覚えておる。正室としてでなければ行かぬと言うたな」
ちょ、待てコラ。改ざんにも程がある!
「言ってないじゃんそんなことっ! 言ってないからね!?」
後半はいさぶに向けての言葉だ。私の剣幕にいさぶも黙って頷くばかり。
「柳沢、かおるを正室に迎えるのは難しいだろうか」
聞けやコラ。
「は、ご正室でございますか…それはやはり若のご一存では難しいかと」
「お断りします。私にはすでに約束した相手がいますので」
それがここにいるいさぶだということは、何か気まずいことがあってもいけないので一応自粛しておく。
「約束…? ならばまだ夫婦ではないということだな。それなら問題あるまい」
あるよ! ある!!
「わがままも大概にしなさいよ? そこを撤回しなけりゃここに置くわけにはいかない」
「かおる殿…!」
悲壮な声をあげる柳沢氏をキッと一瞥で黙らせ、私はさらに続ける。
「だいたいわかってンの? アンタ私といくつ離れてんのよ」
「気にせん。十やそこらの年の差くらい」
「とっ」
……とおやそこら?
待てよ、えーと。推定15、16の人が言う「10歳差」。待て待て、するってぇと何かい? 私のことを20代半ばだと思っておいでだと?
悪い気しねえ…。
ハッと我に返り、そっといさぶを見やる。突然威勢を失った私に怒って……ない。あれは呆れ顔だ。セーフ!
結局その場を治めたのは柳沢氏だった。
「すぐに答えの出せることではないでしょうから、若のご滞在中にお考えいただいてはどうですか」
答えなんざ出てるっての。でもいいだろう。時間を置いて改めてはっきりとお断り申し上げてやる!
「そうだな。かおる、俺があちらへ帰るまでに考えておけ。では小松、行こうか」
へえへえ。え?
「行くってどこに?」
「若様はずっと家から出ておられないからの、儂がこのあたりをお連れすることにしたのだ。柳沢様のお許しもいただいた」
いさぶの説明を受け、柳沢氏も頷く。
「これも見聞を広めるよい機会になりましょうから。私は若のご滞在に関していくつかご相談したいことがありますので、こちらに残らせてください」
「かおるの帰って来るのが遅いからこんな時間になってしまった」
うへえ、それはどうも。時計を見ると9時半を差している。まあ、たしかに。2日間家にこもりきりにさせてしまったし、この時刻なら涼しいし人通りも少ないからちょうどいいかもしれない。
「じゃあ…ちょっと待って」
どこかの温泉旅館でもらってきた白いタオルを探し出し、若様の頭に巻いてやる。いくらなんでも月代で歩かれるわけにはいかない。
「この格好で外を歩くのか?」
「このほうが違和感ないんだってば」
はいどうぞ、と背中を叩いて送り出してやる。そら見ろ、どうしたって姉と弟じゃないか。
そのあとを付き添っていくいさぶと目があったので、あとでゆっくり話そうね、と目で告げた。つもりだった。だけど残念ながら、目と目で通じ合えるほど私たちのつきあいはまだ長くないので、さて伝わったのかどうだか。