ようこそいらっしゃいませ
理解しがたいものを目にしたときの日本人の反応は、「無関心」らしい。つまり、見なかったこと、にする。だから街中に月代の男がいても別段、不審者扱いをされないってわけだ。その人に話しかける私のことも、どうか同じように見過ごしてくれますように…!
「あの〜…」
おずおずと声をかけると、その若いお侍様はホッとした様子を見せた。
「おお、言葉は通じるのか。ちと物を尋ねたいのだがな、ここはどこじゃ?」
15、6といったところだろうか。大人になりたて、というか、大人に限りなく近い子どもというか。ほら、肌なんかプリプリだよ。
「怪しい者ではない。どうやら道に迷ったようでな」
無言の私をどう思ったのか、若侍はそんなことを言い足す。私は手に持っていたパーカーを着せかけ、フードをかぶせてやった。
「無礼者! 何をする」
その台詞をリアルに聞いたのは初めてだ。
「その頭はここでは目立つんです」
そう言うと、渋面を作りながらも納得したのか自らフードをかぶりなおす。さて、何から説明したものか。
「たぶん…地名を言っても知らないと思います。あなた、江戸から来たんでしょう?」
「いかにも、江戸屋敷に住んでおるが。やはりここは江戸ではないのか?」
「東京…つまり、武蔵であることは確かだけど、江戸には含まれないかな。問題は場所ではなくてね、時代なのですよ」
「時代?」
「そう。つまりここは、あなたが住んでいた時代から150年後なわけ。…なかなか信じがたいとは思うけど…」
訝しげな顔で何かを考え込み、眉根を寄せる。戸惑い、苦悩──この若者の逡巡が手に取るようにわかった。時代を超えるなんて馬鹿なこと、信じられるわけがない。けれどそれならこの状況をきれいに説明できる。いや、信じたくない。けど他にどう説明できる?
「…うむ…」
渋々ながら信じる方向で固まったらしい。
「それでね、あなたみたいに時空のひずみに落ちてしまった人を迎えに来る役目の人を知ってるの。こっちからは連絡できないから待つしかないんだけど…数日がまんすれば帰れるから、心配ないよ」
「おぬしの言葉は信じるに値するのか?」
「…それはあなたが判断することです」
なんだろう。この大きな態度。いや、でも不思議と生意気な感じはしない。なんというか、横柄さが嫌味なく板についているというか。この人はきっと──うわイヤな予感! きっと身分のある人なのだろう。
私を信じるかどうか迷っているけれど、他に選択肢がないことも彼にはわかっているわけで。
大丈夫、他意はないんだよ。ほっとけないだけ。…いや、いずれ伊三さんたちが探索に来たときに、あちこち探し回るより私が居場所をつかんでいれば助けになるかな、とは思う。だからごめん、あなたをではなく、ダンナを助けたいだけなんだ。あ、ダンナって言っちゃった。きゃ。
若侍は私の目をじっと見た。そこに嘘がないかどうかを見抜こうとするかのように。いや、別に信じてもらえなければそれはそれで構わないのだけど。ここで放置して帰ってもこの人は野宿するだけで──夏だし、死にゃあしないだろう。けど。
お節介の自覚はある。
「じつは私もそうなんだ」
「何?」
「私の場合は生まれてすぐだったらしいから記憶にないんだけど…やっぱり江戸からこっちに飛んで来ちゃったらしい。知ったのは最近だけどね」
若侍は目を見開いている。私の言葉を信じざるを得ない、けれども理性が拒否をする。だからそこに、私を信じてもよいのだという理由付けをしてあげようと思ったのだ。
「それで、お前も迎えを待っていると?」
「ああ、えーとそうではなくて。私にとってはもうこっちが故郷だから、江戸に行くつもりはないの」
「よしわかった、お前の家へ連れて行け」
「だけど向こうに知り合いはいるから、その人がきっとあなたを迎えに…って、え? なんて?」
「ああもうわかったわかった。疲れたのだ、休みたい。お前の家は近いのか?」
な、なんだとぅ! さては考えるのが面倒になって放置しやがったな!
「お前、名はなんと申す」
「…薫だけど。あなたは?」
「かおる、腹が減った」
名前は明かせないというわけか。それほどまでに、やんごとないご身分ってわけか……つーかオイ、小僧、いま呼び捨てにしたな? やめるか。やっぱりトンズラこいて見て見ぬ振りをするか。退くなら今だ。いやいやがんばれ、自分。これも伊三さんの、ええぃ、脳内呼び名は「いさぶ」で十分だ!いさぶの仕事を助けるため。というか…
お節介の虫はとうに諦めている。
(夕飯、どうしよう…)
はあーっ、と大きなため息をついて、私は家路についた。いさぶぅ、早く来て!
私は出会ったばかりの若侍を家に連れ帰った。彼は自動ドアに興奮し、エレベーターに驚いている。これが自然だよね。いさぶは現代に慣れすぎだ。
…いさぶ。プロポーズの翌日に若い男を自宅に連れ込むなんて、ごめん。
とりあえず窓を全開にし、扇風機を回して若侍を座らせる(これは便利だな!と興奮していた)。新聞を与えて暇をつぶさせ、私は台所に立った。本当なら真っ先にシャワーを浴びたいところだが、致し方ない。冷凍野菜と冷凍バラ肉をフライパンでサッと炒める。包丁レスのこれならものの5分で完成だ。焼き肉のタレを手にしかけて思い直し、醤油と塩コショウで味をつける。このほうが違和感も少ないだろう。
それに前日の残りの小松菜と油揚げの煮浸しを添えればいいか。……しかし私の見栄が、2品でよいのかと警鐘を鳴らす。むぅ。平日はいつ料理をするかわからないから、わが家の食材はほとんどが冷凍食品か乾物だ。私は足元から乾燥ワカメを取り出し、水で戻して酢と醤油とゴマ油で和えた。これでどうだ!「はい、お待たせしました」
机に皿を並べると、若侍はそれをじー…っと見つめた。手を出しあぐねているようだ。そんなに物珍しいものでもないと思うけど。あ、もしかして毒味が必要?
いただきます、と先にひと口食べて見せてから、彼に諭した。
「食べ物には用心するように育ってきたんだと思う。行儀作法もあるかもしれない。けどね、食べなければ戦えない。非常事態なの。食べられるときに食べておきなさい」
「…いただきます」
そう言って箸をとる姿を見て、素直な子なのかもしれないな、と思った。
(しかしなあ…)
肉野菜炒めをつつきながら、このあとのことを考える。この狭い1Kに初対面の若い男を泊めるのか。それはちょっとなあ…。両親に事情を話して実家に行く? …面倒くさい。
「これはお前が作ったのだな?」
「まぁ、一応」
「悪くない。お前、俺の側女にしてやってもよい」
「そっ」
そばめ、だぁ!? 面白い冗談をお言いでないか。冗談には冗談で返すのが流儀。
「あら、ご正室にはしてくれないんですか?」
「正室は…俺の一存では決められんから…」
目をそらし、なぜか頬を赤らめた目の前の若者は、まだあどけない感じで。もう少し年若ならためらいなく泊めたし、もう少し年嵩ならためらいなく追い出しただろう。難しいお年頃なんだよな、彼。
ためしに聞いてみた。
「見ての通り、うち狭いからさ。よかったら私の実家に泊まる?」
「実家? それは近いのか?」
「小一時間かな」
「……ここでよい。苦しゅうない。狭いと言っても次の間があるのだろう?」
そう言って若侍様はクローゼットの扉を開けた。…すまんね、ホント。
けど、そうだよなあ。いきなり訳のわからないところに来て、やっとひと息つけそうってときにたらい回しにされるのは不安だろうし、できるだけ到着地からは離れたくないよね。
「ほんとにこの部屋しかないんだよ?」
「よい、構わぬ」
必死にも聞こえる声に、その顔を見ると、赤い顔で箸を進める様子からは緊張感が見てとれた。
…そうだよなあ。私よりも彼のほうがずっと不安だよなあ。身の危険を案じることもないか。大体、彼にとっては私なんて母親世代だよね。
あ、めまいが。今のナシナシ。
そうして私は、一切の雑念を振り払い、心の中でいさぶに10ぺんぐらい謝って、その若侍に宿を提供することを決めた。
彼の赤い頬の意味を、私は読み違えたのだ。いさぶぅ、ほんとに早く来て!!
翌日も私は仕事だったが、若侍をひとりで家に残していくのは、この上なく心配だった。子犬を初めて留守番させるときのような。
前夜、私は家中の設備という設備をすべて説明した。水道の水の出し方、トイレの流し方、扇風機の操作方法、テレビもまたしかり。火が出るからコンロには一切手を触れるな。外に出ると勝手に鍵がかかるから、帰ってこれないぞ。
若い人はさすが、順応性が高い。あっという間に使いこなしていったので、ついでに電子レンジも教えておいた。よかった、昼飯を買っておいてやる手間が省ける。夕飯のあと、冷凍スパゲティを実際に作らせてみて、カラダで覚えてもらった。ぺろりと平らげた様子を見ると、やはり食べ盛りの男の子の食欲は私の想定以上のようだ。
あれでなんとか過ごせるとは思うけど……日中はとにかく酷暑。扇風機の使い方は教えたけれど、エアコンの存在を伏せているのは鬼だろうか。一応、塩入りの麦茶を作っておいてきたけれど…ああ、反省。熱中症で倒れてやしないだろうな。
仕事をさっさと切り上げ、早々に帰る。しかし夕飯の買い物を済ませると、家に着いたのは19時頃になってしまった。ギリギリ「明るいうち」と言えなくもないが、ちょうど電気をつける頃。
焦っていたので、チャイムも鳴らさず鍵を差し込む。ガチャリと開けると──しかし家の中は電気がついておらず、薄暗い様子だった。
…ひょっとして、電気のスイッチ教えてなかった? 基本すぎて忘れていたろうか。
「ただい…」
玄関に入ろうとしたとき。
すぐ目の前に銀色に光るものを突きつけられ、足を止めた。
「ひっ」
外からの薄明かりでよく見ると、昨日の若侍が据わった目でこちらを睨んでいて──私だと気づくと、大きく息をついた。
「…お前か」
な、な、なんでクイックルワイパーで寸止めされねばならんのだ!
くるりと踵を返し、部屋に戻っていくその背中が、汗でびっしょりなことに気づき、慌ててドアを閉め追いかける。やっぱり熱中症?
「ねえちょっと。……!?」
呼びかけて腕を掴むと、力が抜けたのか、私に引かれるがまま、へたりと座り込む。
「だ、大丈夫?」
手に持っていたモップを受け取る。触れた手は、氷のように冷たかった。思わず握りしめてやると、小刻みに震えている。
──極度の緊張状態にあったのだ、きっと。
私は彼の頭を胸にもたれさせ、手を握っているのとは反対の手で、落ち着くまで背中をさすってやった。
これはただの迷子じゃない。
どうしよう。いさぶ、早く…あ、でも今は来ないほうがいいかも!