番外編・サムライの苦悩
死んだものと思っていた。いや正確には、必死にそう思い込もうとしていた。
そんな、二度と取り戻せないはずだった愛しい女がいま自分の目の前で娘に乳をやっている。この至福の光景。
…どうも慣れねえ。
本当に戻ってきてくれたのだろうか、夢か幻ではないだろうか。あまりにも焦がれすぎていたせいで、いまだ半信半疑を拭いきれない。それに──
「俺も吸いてぇな」
「あら、あなた相手にやきもちですって。困ったお父様ね」
娘に向けるやわらかな表情。甘やかな会話。どれもこれも初めてのこと。新鮮すぎて、毎日惚れ直してしまう。まったくもって重症だ。
(…俺もヤキが回ったな)
畳に寝転がってそんなことを考える。しかし産んでくれたのが娘でよかった。いかに息子と言えど、自分以外の男がそこに吸い付いていたら穏やかではいられなかったろう…って。自分以外の男…か。
「おい、あいつには吸わせてねぇだろうな」
問うと、乳を吸い終わって満足げな娘の背中をぽんぽんと叩きながら、斜め上あたりへ視線をやる。物を考えるときの癖は、あの双子の妹と同じだ。
「さあ…どうだったかしら…思い出してみましょうか?」
「バカやめろ、いい、思い出すな」
慌てて起き上がる。くそ、蒸し返すんじゃなかった。自分以外の男のことなど、とっとと記憶から消してやらねばなるまい。
憮然とする俺を尻目に、嫁は娘をそっと布団へ寝かせると、こちらへ膝を向け──畳に三つ指をつき、スッと頭を下げた。
「その節は、申し訳ございませんでした」
あのときのこと──嫁と弟分との「密通」を目撃し、思わず刀で斬りつけたときのことを改めて語るのは、あれから初めてだ。
自分の知らない間に通じていたものとばかり思っていたが、どうやら違ったようで。義妹から聞いたその理由は到底納得できるものではなかったが、理解はした。要するに俺たちは、互いに想っていながら心がまったく通じ合っていなかったのだ。
つつ、と近寄り、嫁の肩を抱く。
「大体の経緯は聞いた…背中、見してみな」
着物を背中まで下げると、白くきれいな背中にひとすじの刀傷がくっきりと走っている。その傷を指でなぞると、キリキリと胸が痛んだ。
「この傷痕は俺にとっての戒めだな。自分の身を切られるよりずっと辛い」
「あなたがいけないのよ」
……なんて?
たった今、しおらしく謝ったところじゃなかったか。ポカンとする俺から身を起こし、着物を直しながら嫁は続けた。
「だって何にも言ってくれなかったんだもの」
……まったくこの嫁ときたら。
「何を言ってほしかったって?」
「何をって…」
不機嫌な顔で口をへの字にしている。そのへの字が、照れ、とか、甘え、とか。そういうのなんだってことになぜ今まで気づかずにいたのか。
ああ、そうだ。俺が悪い。こんな簡単なことに気がつかなかった俺が悪い。そう思って見れば、これほどかわいいものは無いというのに。
「なんだよ。何て言葉がほしかったんだ? そら言ってみな」
困らせてみたくて、調子に乗って言い募る。すると嫁は──俺の着物の襟をぐっと掴み、引き寄せたかと思うと、至近距離で瞳を覗き込んできた。
そんな行動はもちろん、目と目を合わせることすらほとんどなかったことだ。唖然としてされるがままに畳に手を突いた俺に、彼女は言った。彼女が、言ったのだ。
「お前がいねえと夜も日も明けねえ。心底惚れてんだ、二度と離さねえから覚悟しな」
…いつも。いつも想像を遥かに超えたところに彼女の思考はある。動けないでいる俺の襟をそっと直しながら
「…だとか、思ってることは素直におっしゃいなさいな」
ニヤリとしたその顔。そんな顔もできるのか。胸をトン、と突かれ、ヨロヨロと尻餅をついたような体勢になる。
「ど、どこで覚えたんだそんな台詞。ああ、あいつだな。あの女の入れ知恵か?」
「あの女だなんて言い方。あたしと取り替えようってくらい気に入ってたくせに」
冗談じゃねえ。
確かにあの女も面白いやつだったが、こうして目の前にすれば段違いだ。なにせずっと──ずっと好きだったのだから。
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初めて見たのは、供を連れ澄まして歩く姿だった。こちらは道場の帰り道、彼女は手習いの帰りだったろうか。すれ違う一瞬をいつも楽しみにしていた。
年頃になり、彼女の父親あてに縁談が山と押し寄せているという噂を聞いて、ヒヤリとした。同い年の彼女は適齢期でも、自分は嫁をめとるなんざまだまだ早い。しかし一人前になるのを待っていたら彼女はあっという間に誰かのものになってしまう!
恥も外聞も、自尊心も矜持もすべてかなぐり捨てて、父親に頼み込んだ。父親に頭を下げたのは後にも先にもあれきりだ。
そうして、決してきれいとは言えない方法で彼女を手に入れたのだ。
彼女は激しく嫌がったと聞く。身代わりを必死で探すほどに。
(…別によかったんだ。他の男のものにさえならなけりゃ)
しかし祝言の席で初めて夫となる男の顔を見て、彼女は拍子抜けしたらしい。どんな荒くれ者が現れるかと構えていたら、17、8の若造が出てきたのだから。けれど振り上げた拳はすぐには下ろせない。まあ、大事にしてくれるなら徐々に軟化していってもいいかな。そんな考えだったと──これも義妹からの耳打ちで最近知ったことだ。
けれど俺は優しい言葉はかけなかった。彼女のしかめっ面を額面通りに受け取っていたから。
甘い言葉を拒絶されるのが怖くて、笑わないのがこの女の魅力だなどと自分に言い聞かせて──ああ若かった。くだらねえ。いつか微笑んでくれるんじゃないかと待っていたんだ。
“徐々に”“いつか”を17年も続けたんだから、ま、お互い様だけどな。
それでも俺たちなりにうまくやっていると思ってたんだ。閨で肌を合わせるときは素直だったし。もっとも…ああいう状況で演技ができるような器用な女ではないってだけだが。
だから、彼女が弟分と出会い茶屋に入っていくのを見たと聞いたときも、俺の女を侮辱するかと手下を張り倒したのだ。それ見たことかともう一発張ってやるつもりで茶屋へ行き、その現場を見たときは──
あーくそ! 思い出しちまった。記憶から消してやる!! 抹消してやる!
ただ、俺の刀に背を向けたその行動が、初めて彼女が見せた意志ある行動だったものだから──手放してやったんだ。
(あのあとは、我ながらヤサグレてたなあ…)
それはひどい荒れようだった。彼女の身代わりまで探しに行ってしまうほどに。
それにしても彼女の妹を見つけたときは、血が逆流するくらいの衝撃だった。彼女と同じ顔で笑い、怒り、泣く。軽口を叩けばぽんぽんと反論する。今までになかった新鮮な反応──面白かったけれど、これはダメだな、とすぐに気づいた。
顔も仕草もあまりに似ていて、却って些細な違いが目につくのだ。違う、彼女はここがああだった。あそこはこうだった──彼女の記憶がいつまでも消えてくれない。
それでもあいつに付きまとったのは、ただ自分の好きな女と同じ顔をして、自分以外の男に寄り添う姿を見るのがシャクだっただけだ……じつは今でもそう。あいつずっと独り者でいりゃあいいのに。
まあ、そんなことを言ったら「はァ?冗談じゃねえ、ばーか」とか、聞くに耐えない罵声が返ってくるだろう。あれも止めさせねばなるまい。俺の女と同じ顔をして、口汚いのはけしからん。
意地っ張りの嫁が隠してきたものは、すべて義妹がこっそり暴露して行った。
「自分の子だってよく信じてくれた」
そうあいつは言っていたが、なに、簡単なことだ。
嫁の手を握り、娘が生まれるのを待っていたとき、あまりに長かったもんで一瞬うとうとした。そのとき、夢を見たのだ。彼女が去っていく、あのころ頻繁に見ていた悪夢。そうしたら、手を強く握られて目が覚めた。俺の手の中に、彼女の手があったのだ。ずっとずっと焦がれていた、彼女の手が。
──二度と離すもんか。
ただ、そう思っただけなんだ。
……さぁて。
どうしたもんかな。ヒゲの伸び始めたアゴをさすりながら考える。
愛する女が、目の前で俺の発言を待っている。ニコニコと、いや、ニヤニヤと。まるで俺を試すような、お手並み拝見と言わんばかりの笑顔で。
お前がいないと確かに夜も日も明けない。心底惚れてるのも本当だし、もちろん二度と離すつもりはないけれど。
嫁が言った例文をそのままなぞってさらに笑顔にしてやるか──
あるいは、それよりももっと熱い言葉で、その口をへの字に曲げてやろうか。
(どっちも捨てがたいじゃねぇか)
「そうだなあ……」
彼女の瞳が一層くるりとする。
こりゃあ悩ましいな。けど、まあ──ほんとヤキが回ったよ俺も。
こんな甘い苦悩、
「悪くねぇな」
「え? なあに?」
「いやいや」
今はその期待の眼差しを、もう少し味わうとしよう。
すみません、蛇足で妄想をば…。