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サムライ来襲

夜中に目を覚ますと、足元に見知らぬ男が立っていた。


思えばそのとき、奴の姿格好が珍妙であることに気づいてもよかったのだ。けれど私は恐怖のあまり──寝起きだったからとかでは決してなく──たぶん。そこまでは頭が回らなかった。


奴が私にあてがったのは日本刀だった。


奴は長い髪を結っていた。


奴は袴を履いていた。


要するに。


奴はサムライだったのである。



=====

先日私は誕生日を迎え、アラサーを卒業した。具体的に何歳かってのはまあおいといて。いわゆる30代・独身・子ナシ、さらに言うなら男ナシというThat'sアレ。


でも幸い仕事はあるんだからありがたいことだわな。


後輩の結婚祝いで開いた飲み会の帰り道、そんなことを思いながらフラフラ歩く。さっきからモヤモヤが止まらない。


普段は行かない恵比寿のオシャレな和食店からは、会社近くに借りている1Kの自宅よりも実家のほうが近かったため、明日から連休ということもあって実家に泊まることにした。


このモヤモヤの正体はわかっている。結婚がうらやましいのではなくて、みんなができていることができない自分への劣等感。自分だけ誰からも選ばれていないことへの劣等感。だ。


私がものすごく結婚したかったんなら、それなりになっていたかもしれないけれど。結局そこまでの熱意が自分の中になかったんだよね。


それでいて突き抜けることもできないこのモヤモヤ感たるや!


そんな思考ループを3周くらいしたところで実家に着く。両親はすでに寝ていて、犬だけが申し訳程度に挨拶に出てきてくれた。幼犬のころあんなに手なずけたのだから当然だ。


日付はとうに変わっている。風呂入んのめんどくせえ化粧だけ落として寝るか。そんな夜だったので、夢見が悪く眠りも浅く──人の気配ですぐに目が覚めた。


そうしたら奴が足元で日本刀持って立ってたってわけだ。



……やっぱり怖いじゃん!!



=====

ーー誰かいる。


隣りには母が寝ていた。

ということはお父さんかな。手探りでメガネをかけ、寝起きのショボショボした目で見たら、知らない男だった。


……ちょっと!


(お母さん!)


呼ぶ声はまるで声にならない。恐怖ってこうなるんだな。すると奴の日本刀が私の胸元へ向いた。怖い怖い怖い!


「この家の主人はどこだ」


しゃべった。この家の主人だ? その先の左手の部屋ですなんて答えるかっての。


(父は、いません)


やっぱり声は出ない。けれど必死に伝えた。


(父は、いません)


ん?と奴が耳を寄せてきたので、懸命に伝える。


「父はいません!」


「そうか。ならいい」


カチャリと刀を納めて、奴は部屋を出て行った──ベランダから。


ベランダから!?


奴が外に出たのを確認して、私はベランダにかけ寄った。鍵をかけるためだ。再びの侵入を許してはなるまい。そっと廊下を突っ切り、リビングの突き当たりにあるベランダにたどり着くと、外にいた奴が振り返るのが見えた。


急げ! いや慌てるな!


どうしたことか、鍵をかけるだけの作業がなかなかできない。落ち着け自分。そうこうしているうちに、奴が窓に手をかけてきた。


ちょい待ち!


私たちはしばらく攻防を続けた。結果、腕力のない私が負け、奴は再びわが家に侵入してきた──勢い余ってもんどりうって。




=====

ひざ立ちになった奴の顔は、ちょうど見下ろす位置にあった。咄嗟に私は──あーもうなんであんなことしたんだろ! でも力で適わないなら言葉で言うしかないじゃない。


私は咄嗟に奴の両頬に自分の手を添えたのだ。それだけじゃない。勢いでグッと顔を引き寄せ、目を見つめた。


あ、わりといい男。


間近でまともに見た奴の顔は非常に整っていた。眼福……って場合じゃない。私は心を込めて、語りかけた。何せ命がかかっているのだから、それはそれは心を込めて。


「どうして」


一度呼吸を挟む。


「どうして、こんなことをするんですか」


奴は私の目を見たままひと言も発さない。よし、このまま行け。さらに目力を込める。


「こんなに素敵な方なのに」


「……」


今だ! 呆然としている奴をベランダに突き出し、鍵をかけてやった。完全に窓がしまっているのを確認して、やっと息をつく。男女平等なんていいながらも適度に「女」を使いながら仕事をしてきた。あれくらいの演技なんざ朝飯前だ。


奴はまだぽかんとしてベランダに転がっている。やだなあ。ほっといたらどっか行ってくれないかなあ。明日の朝になったら消えてますように……夏休みのセミか。


寝よう。


ああ寝よう。


私が次に奴の顔を見るのはもう少しあとのこと。待って、その前に少し寝させて。



=====

翌朝、私を起こしたのは父親の呼ぶ声だった。眠い目をこすりながらリビングに行く。


「おはよー…」


「昨日何かあったんだって?」


父が新聞から目を上げ、問うてくる。さてどこまで話したものか…。


「それがさぁ……あ?」


目が点、って言葉が流行ったのは私が小学生のころだったろうか。それだよそれ。もう釘付けだったね。だって昨夜の男がソファーに座って母親とお茶なんか飲んでるんだもん。膝に犬まで乗せて。


「家にあげちゃったの!?」


すると奴は床に正座をし、神妙な面持ちで手をついた。犬を優しく下ろしてから。


「昨夜は大変失礼をいたした」


昨夜は必死だったから気づかなかったけれど、よく見たら着物に袴をつけて頭も結っている。まるでお侍さんだ。寝起きだからかフツーに受け入れている自分がいる。そしてそんな侍をかばって父が言った。


「家を間違えてうちに入って来ちゃったそうだよ」


さらに母が畳み掛ける。


「それをアンタが寝ぼけて玄関じゃなくてベランダに出しちゃったもんだから、ひと晩中ベランダにいたんだって」


…ほほぅ。そう言いくるめたわけか。あっ目をそらすなコラ!


「ごめんなさいねえ」


「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」


母と侍のやりとりに、私は目を眇める。なんだそれ。ただの不法侵入だと思うなよ。アンタがたの娘は死にかけたんだぞ。何を和んでおるのだ! …まあ済んだことで心配させたくないから言わないけれども。


「でな、この人がお前に話があるそうなんだ」


「あぁん?」


父の言葉に、思いきり眉間にシワを寄せる。


「アンタそんな言い方して…」


母の小言を無視して侍を見やると、私に何か言おうとしてはためらっている。ええぃ、はにかむな! 気が短い私に輪をかけて気の短い母が、奴の言葉を先取りして言った。


「お嫁に欲しいんだって」


……ん? なんだって?


本日早くも二度目の「目が点」。今度は「口あんぐり」付きだ。どうしたことだ一体。ためしにもう一度聞いてみる?


「……なんて?」


「お嫁に」


「なんて!?」


「いや、昨夜の失礼は心から謝罪する。昨日の今日では信用ならないのも承知。儂もあれからひと晩頭を冷やしてみたのだが、それでも変わらなかったのだ」


「何が」


「おぬしに惚れた。儂の嫁になってほしい」


……生まれて初めてのプロポーズが侍からなんて。ジーザス!


「いいじゃない。よかったじゃない!」


はしゃぐな母!


「ちょっと待ってよ」


「あらアンタ、この先もうプロポーズなんてしてくれる人いないわよ」


……それは否めない。否めないけれども!


「だってこの人」


お侍さんだよ、と言おうとして、やっと珍妙さに気づく。そうだ。こいつはサムライなのだ。江戸時代からタイムスリップしてきた人、と、侍かぶれのコスプレ現代人、だったらどっちがマシだと思う? 私は無意識に前者を選んだらしい。侍に向かってこんな質問をしていた。


「アンタこの時代の人じゃないでしょう?」


「アンタなんて言い方しないの」


「タイムスリップしてきたらしいよ」


……母の小言はスルー。父のも…って、え! 説明済み!? しかも受け入れちゃってんの? 言葉を継げない私を無視して、父と侍が次々と話を進めていく。


「君はご長男?」


「いえ、三男坊です」


「ならあちらに帰らなくてもいいね」


何の話だ。そりゃ江戸時代に嫁に行けと言われたら全力で断るけれども。それだけじゃなくて!


「アンタ、仕事は?」


「……」


みるみる奴の顔が苦渋に歪む。ははーん、やっぱりね。


「アンタ浪人でしょ」


「面目次第もござらん」


プライドを傷つけてしまったかしら。いやしかし私だって結婚するなら仕事についている人とがいい。


「ほら無職だよ無職!」


勝ち誇る私に対し、冷静に母が返す。


「いいじゃない主夫してもらえば。アンタ稼いでんでしょ」


しゅ、


「主夫って……」


言葉を継げない私を無視して、今度は母が侍と話を進めていく。


「お料理やなんかはされるの?」


「身の回りのことくらいならしますが…」


そこで奴は私のほうを向いて決め台詞を吐いた。


「それが条件ならば覚える」


私が教えてあげる!と母がはしゃいでいる。私だってはしゃぎたい。ここまで言われて悪い気がするわけない。とはいえこいつはサムライなのだ。


考えるのが面倒くさくなった私は、非常に建設的な提案をした。


「……とりあえず、朝ご飯にしよ」


=====

朝食を終えた私たちは、近所の河原に腰を下ろしていた。ともかくギャラリーを排して2人で話がしたい、という私の提案に、母が犬にリードをつけて侍に渡したのだ。散歩に行け、と。


まあこいつがいたほうが間が持つかもわからんな。


侍の膝でくつろいでいる犬を見やると、大きな手で体をなでられてうっとりとしている。私だってその手でなでられたらうっとりもしようさ。


侍は、袴の上に父のダウンジャケットを羽織っている。遠目に見ればちょっとした剣道部員に見えなくもない。月代を剃っていなかったのが幸いだ。こうしていると、ただのオシャレな兄ちゃんである。


この人年下だろうなあ…私の年齢知ってんのかな。まあいいや。自然に知れるまで確認するのはよそう。


って何を嫌われまいとしておるのだ。まあ自己防衛本能ってとこか。じろじろと見る私の視線をどう解釈したものか、侍が弁解を始めた。


「母上が、父上の服を貸してくださったんだがの、胴回りが合わなかったのだ」


そりゃあそうだろう。父の腹まわりには60余年の貫禄がついている。母は今ごろユニクロに走っているに違いない。


「──で。目的は何なの?」


「嫁に欲しいと言ったとおりだがの」


「そうじゃなくて!」


悪びれない表情。けれど真剣ではある。はぐらかすつもりはなさそうだ。


「さっきアンタが言ったとおり、昨日の今日じゃ信じられない。両親うまく丸め込んでどうするつもり?」


「家を間違えて侵入した。そのあとの攻防でお前さんに惚れた。嘘はついておらん」


…あまり直接的な物言いは控えてくれんかの。言われ慣れておらぬのだ。


「まあ…あいだを少々端折ったのは、親御様の印象を悪くしたくなかったというか…危害を加えるつもりもなかったわけだしの」


何をモゴモゴ言っている。危害なんざ、体が無事でも心はわからんぞ! 怖かったんだから。


…とはいえ。


「まあ…刃物云々は言わないでおいてくれてよかったけど」


侍が、意味を問うような視線を投げてくる。


「済んだことでいらない心配はさせたくないし」


…だから! そういう優しい目で微笑まないでくれ。慣れてないんだから。はあーっと息をつく。ダメだ。聞きただしたいことがありすぎる。とりあえず私は安全の確保を優先することにした。


「危害を加えるつもりはないのね? 私にも、家族にも」


「もちろんだ」


目をじっと見てみる。生憎と男の嘘を見抜く目は持ち合わせていない。ただ、こうしていれば後ろめたい人なら目をそらすとかするんじゃないかと思っただけだ。


はたして彼は3秒で目をそらせた──のだけど。この侍の言うことは信じてもよさそうだなと思った。


だって。


だって、その目のそらせ方といったらこちらが赤面するくらいの照れようだったのだもの。



=====

侍が住んでいた時代を聞いてみたが、西暦が通じないため推定の域を出ない。元号言われてもなー……一応大学では日本史を専攻してたんだが。


「生まれたのは文政だがの」


文政……文化・文政の文政か。化政文化の文政か。たぶん後半のほうだよな。


「黒船はもう来た?」


「おお、あれ以来落ち着かぬわ」


「……幕末か」


聞けば、昨夜こちらの時代に来たばかりだったらしいが、それにしては混乱することもなく馴染んでいるのは、「初めてではないから」だそうだ。タイムスリップ癖でもあるってのか。まあいい。それはまた追々だ。


「間違えてうちに来たっていうけどさあ。本来の訪問先はわかってるの? その人見つけたら……やっぱり刀当てるの?」


殺すの?とは怖くて聞けないので、遠まわしな言い方になる。


「……それは言えぬ」


なんだとコラ。


「言えば巻き込んでしまうからの。お前さんが儂の人生に巻き込まれてくれる覚悟を決めるまでは、無責任なことは言われんよ」


……どれかひとつ選べというなら、このときだったかもしれない。私がこの侍に惚れたのは。


それに気づくのはもう少しあとのことなのだけど。


「刀というてもな、あれは竹光だわ」


「た…けみつって! 真剣じゃなかったの!?」


怖かったのに!


心の声が聞こえたのかどうか。侍は犬を撫でていた手で、その大きな手で、私の頭を撫でた。


「怖い思いをさせたの」


…こりゃあ……うっとりするわ。男の人に触られるの、何年ぶりだろう。侍の手が離れたことに気づいた犬が身を起こそうとしているのが目の端に見える。まあ待て、今は私の番だ。


侍の手はそのまま私の頬に下りる。ちょっと待て。さっきの恥じらいはどうした。攻守交代か!?


「親御様のお許しもいただいたしの」


言われて今朝の食卓での会話を思い出す。すでに式場選びまで脳が進んでいるに違いない母に比べて、父はもう少し冷静だった。


「まあ本人の意思に任せますよ」


あぁ味方のようでいて傍観のパターンか。しかし侍は喜んでいる。


「では求婚を続けても構いませんか?」


「あんまり嫌がるようなら止めてあげてね」


「はい!! 断られたら諦めます!」


…奴の手を頬に感じながら、元気のいいお返事を思い出す。目は見れない。だって慣れてないんだもん! 今度は私が恥じらう番だ。


「まだ断られてはおらんからの」


ニヤリと笑った侍の顔は、残念ながらやっぱり男前だった。



そもそも私は惚れっぽい。なんとも思ってない相手だって好きだと言われたら意識しまくりだ。だからもう、心拍数は上がりっぱなしではあるのだけど。それだけじゃ決められないのはやっぱり怖いから。フラれるのが怖い。逆に自分が飽きるのも怖い。あれこれ考えて動けない。


こうやってもじゃもじゃ考えちゃうところが私の独り身たる所以なんだがの。


とりあえず、頬に手を当てられても嫌じゃないってことは、少なくともこの人のことは嫌いじゃないようだ。いやむしろ好ましく思っているはず。


ああどうしようかなあ。でもやっぱり自分のペースでいくしかないよなあ。時間がかかるんだほんと。人生の泳ぎ方はだいぶこなれてきたけれど、恋愛に関してはまったくもって未熟者なんであります。


とりあえず、これだけは確認しておこうかな。


私は侍の膝から犬を抱き取った。少しは歩かせないと、と思ったからだがいざ抱いてみるとなるほどこいつはいい。照れ隠しの手慰みにもってこいだ。


犬をなでくり回しながら、聞いてみた。


「私が断ったら諦めるってさあ」


ぐりぐり。


「じゃあ、私が断るまでは諦めないでくれるの?」

返事がない。

放置か。

放置か!


どうしてくれるんだこの恥ずかしさ!


私は侍を見た。……見なければよかった。彼は真っ赤な顔で固まっていた。もうダメ限界。憤死だ。トンずらだ。犬を連れて私は脱兎のごとくその場を逃げ出す。


そしてあとから駆けてきた侍は私たちを追い越し、そのまま家までを走り抜けていったのだった。



=====

家に帰ると両親は出かけていた。「夜まで帰らないのでお昼ごはんを作ってあげなさい」という母のメモが置いてある。


気をきかせたつもりか。というか主夫になってもらうんじゃなかったのか! …といいつつ冷蔵庫の中身を確認し、何を作ろうかなどと考えてしまう自分も自分。これも女子の本能か。散歩を終えた犬はすっかり昼寝モードで、もう照れ隠しの手慰みにはなってくれない。侍は手持ち無沙汰に居心地悪く、ソファーにちょこんと座っている。


かわいそうなので新聞を読ませてやり、私はダイニングのテーブルでパソコンを開いた。黒船、と検索窓に打ち込んでみる。グラビアアイドルには用がない。ペリーが来たのが、「いやーゴミの多い国だと驚くペリー」だから1853年。黒船来航済みということは、1850年代後半だとして…150年前ってところか。


「こっちに来るの何度目?」


その問いには答えあぐねているようだったので、これも自主規制区域に含まれるのならば答えずともよい、と言ってあげた。150年の時を偶発的に超えてしまったのか、自分の意思で超えたのか。この様子からすると後者だな。選んでこの時代にやって来たということは──


妄想なら得意だ。私は筋金入りのモーソー族である。


自分の意思で時代を超えたのならば、たとえばターミネーターみたく何かの指導者を始末しにきたとか。いやそれなら未来から来るはずか。


じゃあ…時空警察? それを言うなら時空奉行か。


時おりガサリと新聞をめくる音がする。同じ空間に他人がいる感じ。けっこういいもんだな。


「ねえ」


広げた新聞の向こうで顔だけこちらを向ける。ああ、いい。こういうの。


「嫁になったらさ、私を江戸に連れて行くつもりだったの? それともアンタがこっちに永住するの?」


「そうだの…それを考えねばならんかったのだのう」


……向こう見ずか!


好き勝手に行ったり来たりできるんだったら、たとえば普段はお江戸で仕事をしていて週末だけこっちに会いに来てくれるとかでもいいなあ。それも遠距離恋愛というんだろうか。あ、でもあの時代に曜日の概念はまだないはずだから…薮入り? 薮入り婚!? それは会えなさすぎるって。そもそもこの人浪人だっけ。でも何らかの内職はしてるよね。それが時空奉行ってことか。だとしたら…


「ねえ」


そう、これを確認せねばなるまい。


「いつかは、あっちに帰っちゃうんでしょう?」


お奉行さまは少し考えるようにしてから、お答えになった。


「別に帰らずとも支障はない」


あれ、そうなの?


「待ってる家族とかいないの?」


迎えにくる同僚とかさ。


「待ってる者はおらん。儂が戻らねば、どこかでくたばったと思うまでよ」


…あら。ちょっとばかり暗い影?


「母上は、これからお前さんの家に一緒に住むといい、と言ってくださったんだがの」


…ちょ、コラ!!


「ダメだよ、うち布団ないもん」


て、そこか!


「布団ならこの家のものを持っていけばよい、とも言っておられた」


敵もさるもの、か。同衾しなければ事は起きないとでも思っているのか。あるいは既成事実を作れと? 残念ながら既成事実くらいで結婚できたら私は今ごろ独身じゃない。


「しかしのう…」


もじもじするのは構わないが、新聞をグシャグシャにするのはやめてくれ。まだ読んでないんだ。


「祝言を挙げるまで、などという野暮は儂も言わぬがの、せめて夫婦の約束をしてからでないとひとつ屋根には住めぬわなあ」


同感だわなあ。


彼が「私が覚悟を決めるまで」隠しておきたいこと──たぶん奉行(仮)の仕事のこと。それを知れないときっと私は踏み切れない。だからしばらくは平行線なんだろうけど……


「ねえ」


三回目でもちゃんと目を見てくれる。


「急ぐ?」


私が答えを出すのを。


「いいや」


ニヤリ、と、侍は私の好きな顔で笑ってくれた。


「そういえば私のことは何も聞かなくていいの?」


さっきから私ばかり質問しているし…半分以上は妄想だけど。しかし彼はまたもやニヤリと笑ってこう言ったのだ。あ、悪いほうの「ニヤリ」だ。


「大体聞いた」


……ちょっとお母さんっ!?



昼はチャーハンを作って供した。洗い物は侍がしてくれるという。システムキッチンの使い方も慣れたものだ。やはりOEDOとTOKIOの行き来は頻繁らしい。昼寝をしていた犬が河岸を替え、窓際のひだまりでまったりとしている。私も窓からベランダ越しに外を眺めた。


いい天気だ。洗濯物が気持ちよさそうである。……うちの洗濯物も干したいっ!


本当はすぐに帰るつもりだったのだけど。侍を置いていくわけにはいかないし、かといって連れて帰るわけにもいかない。幸い今日から三連休だ。もう少ししたら何か答えが出るかもしれない。気長に行こう。そうつまり、困ったときの伝家の宝刀・先送りだ。


あったかい……眠くなってきた。昨日はいろいろあったしな。そうだ、ちょうどこの場所だった。ベランダに侍がいて……


なぜだろう。


今もまた、窓の向こうに人が立っている。本当に予想もつかないことが起きたときは、驚くまでに時間がかかるらしい。


カラカラと窓を開けて男が入ってきて。


私が叫び声をあげるのと、男が私の口を塞ぐのがほぼ同時になったため、発されたのは「いひゃーっ」というなんとも様にならない声だった。


侍に異変を伝えようと、声が出ないかわりに壁をバンバンと叩く。すると、それを阻止するように口を塞いでいるのと反対の手で腕を封じられる。自然、その男に抱きすくめられる形になった。


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ怖いようっ。助けて! お奉行様ーっ!


そのとき。


後ろから竹光がぬっと出て、男の喉元にピタリとつく。


「てめェ…こんなところまで追って来やがったか!」


これが不審者のほう。


「ほう。逃げられるとでも思っておったか」


で、これが時空奉行(仮)。ちょっとちょっとお奉行様? 不審者を煽るのはやめてくれまいか。今私の身柄はこいつの手の中にあるのだぞ!


「捕まってたまるけぇ」


わ、私を引きずりじりじりと後退していく。その先はベランダだ。どいつもこいつも江戸の民衆はベランダから出入りするのか! うちは4階だぞ!


助けて……そう言おうとして気がついた。この人の名前をまだ知らないことに。呼びかけることもできず、なされるがままになっていると、侍は空中に向けて竹光を振り回した。その切っ先の描く軌跡に沿って、円形に空気がひずむ。


何が起きるの……?


男の腕に力がこもる。少しずつひずみに引き寄せられていくのを──私ごと引き寄せられていくのを!踏ん張ってこらえているようだが、ひずみの引力には抗えないらしい。


「元いた場所に帰れ。向こうでお縄がお前を待っておるわ」


ついに男はその円に吸い込まれ──その寸前に侍が私の腕を引き、男だけを飲み込んでひずみは消えた。私の腕を引いた侍は、そのまま私を胸に抱き寄せた。その状況を見せまいとするように。


震えが止まらない背中をなでてくれながら、私を連れてソファーに座る…と、私は彼の膝に座ることになるわけで。


……案外落ち着くな。この人の胸は。


こんなふうに誰かの鼓動を聞くのはいつ以来だろう。それは私をとても穏やかな気持ちにさせた。この人だから、だろうか。このまま既成事実を作ってしまってもいいような気分になってくる。クワバラクワバラ。落ち着きを取り戻すと同時に別の動悸が高まりそうになり、慌てて頭を切り替える。私はいま見たものの咀嚼を試みた。


つまり今のはきっと江戸時代から逃げてきた下手人で、この人はそれを捕まえて江戸に戻した、というところだろうか。私の時空奉行説をぶつけてみると、大筋は正解だったようで、非常に驚かれた。負け犬の妄想力をなめるなよ。


何から説明したものか、と考えあぐねている間も、背中の手は優しく動いている。それをいいことに、私はしばし、抱かれ心地を味わった。



=====

時のひずみ、というものがある。


それは何かのはずみで生まれ、また消えてゆく。うっかりそれに落ちてしまうとまったく別の時代に飛ばされ、元いた場所からは忽然と姿を消して──神隠しと呼ばれたりする。


一方、そのひずみを自ら作り出せる能力者というものもいて、落ちた人たちを迎えに行き、戻してやったりしているらしい。まれに、罪を犯した人がひずみを利用して他の時代に逃げ込むことがあって、今のようにそれを捕まえては戻す作業をすることもあるそうだ。能力者には、ひずみを越えてきた人がわかるらしい。オーラってやつだろうか。


「やっぱり時空奉行だ」


「…そんな名前ではないがの」


ぽつりぽつりと話してくれる内容は、本当だったら信じがたいことのはずなのだけど。胸の温かさのせいか、背中をさする手の優しさのせいか、私はあまり驚くことなくそれを受け入れていた──日ごろの妄想の賜物、という説もある。


「ひずみの存在自体が知られていないからの、我々の仕事も隠されておる。だからこの仕事を始めるときに家を出たし、それ以来連絡は取っておらん。家の者は儂がどこかでくたばったと思っておるだろうよ」


さっき言ってた「待ってる人はいない」というのはそのせいなのか。


「今みたいなこと、これからも起きる?」


この場所がひずみを引き寄せているのだとしたら、侍にはここに残ってもらい、両親を守ってもらわねばならない。侍自体に引き寄せられたのだとしたら、私はすぐにこいつを連れて家に帰る。


「……親御様の安全を考えるなら、ここを出るほうがよいわ」


「じゃあ、一緒にうちに帰ろう」


この体勢でモジモジされると非常に恥ずかしいんですが! でも気づかなかった私が悪い。危険を回避したいんなら、この男を江戸に戻して二度と関わるなと言ってやればよかったんだよね。本当は。

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