捨てられた子犬みたいな
「街の案内をすると言いましたが、このあたりは生活のための町なので、あまり見るべきところがありません」
「行先は市場でいいですか? 私も今日食材を買いたいと思っていましたし」
「それでしたら、荷物持ちは任せてください」
レオンは、まるで大事な役目を任されたみたいに背筋を正した。
ミレナは小さく笑う。
「ありがとうございます」
二人は並んで坂道を下り始めた。
道の両側には、孤児院の畑が広がっている。朝露を残した葉が風に揺れ、土と青葉の匂いが足元から立ちのぼっていた。
「ずいぶん広いですね」
レオンが畑を見渡す。
「ええ。このあたりは、だいたい孤児院の土地なんですよ」
「全部ですか?」
レオンは驚いたように言った。
「……支援してくださる方が、かなり裕福でして」
ミレナはそれ以上説明せず、畑の端へ寄った。大きく育ったキャベツの外葉を一枚ちぎり、レオンへ差し出す。
「いまはキャベツが旬なんです。食べてみますか?」
「このまま?」
「このままがおいしいんですよ。ほら」
レオンは半信半疑で葉を受け取った。ぱり、と小さな音がする。
「……甘いですね」
「でしょう?」
ミレナは少し得意そうに笑った。
「庶民は、余った土地があれば野菜を育てます。食べ物が高い時期もありますから」
畑を見渡す横顔から、さっきまでの軽さが少し消えた。
「王都なら、平時に飢え死にする人はほとんどいません。だから、リネ人で移住する人も多いんです」
森の向こうへ目を向けたまま、ミレナは続ける。
「人が増えればその分親のいない子も増えてしまいます」
口にしてから、ミレナは少し困ったように笑った。
「暗い話になってしまいましたね。すみません」
「いえ、そんなことは……」
ミレナは、気まずい空気を振り払うように言った。
「不幸なんて数え始めたら、きりがありません」
「庶民に生まれたら食うに困るかもしれないけど、貴族に生まれたって疎まれて育つ子もいるでしょう」
土のついた指先を、籠の縁でそっとぬぐう。
「ルクシア王国の貴族が、美しい金の髪を持つリネ人を妾にして子供を産ませたはいいものの、正妻が激怒してその子をいじめ抜く、って話も聞きますよ」
何気ない世間話のように口にしながら、ミレナは横目でレオンの様子をうかがった。
レオンは、食べかけのキャベツの葉を持ったまま動きを止めた。
返事をしようとして、けれど言葉が出てこないらしい。
その横顔に走った一瞬の硬さを、ミレナは見逃さなかった。
(正解、かな? なんだかいじめてるみたいだけど)
「人の幸不幸なんて外からはわからないものですよ。でも、たとえつらい人生でも、キャベツが甘いとか小さなことに幸せを見つけることはできるでしょう?」
「それなら、今日の僕の幸せはこのキャベツです」
「大げさですよ」
ミレナは笑った。
「そんなに喜んでくれるなら、今度野菜の収穫にも来てみますか?」
*****
坂を下りると、小さな市場が広がっていた。
野菜、果物、焼き菓子、布、古着。狭い通りに露店が並び、朝の空気を店主たちの威勢のいい声が震わせている。
ルクシア王国内でありながら、金髪のリネ人たちもあちこちで店を開いていた。
「ミレナ姉ちゃん!」
干し豆を売る少年が、店先から大きく手を振る。
「今日は早いね!」
「今日はお客様を案内しに来たから。少し早めに家を出たの」
少年は、ミレナの隣に立つレオンを見上げた。
「お客さん? ルクス人の?」
「ニコを助けてくれた方なのよ」
「ふぅん」
話している間に、隣の店の果物屋の主人が近づいてきた。少し傷のついたりんごを籠へ入れる。
「子どもたちに持っていきな。傷があるやつは売れないからね」
「いつもありがとうございます」
ミレナは籠を受け取り、丁寧に頭を下げた。
レオンは市場の様子を見回し、小さくつぶやく。
「ミレナさんは、この町で有名なんですね」
「このあたりはリネ人が多いですが、ルクシア語を読めない人が大半ですから」
ミレナは照れたように笑った。
「手助けをしているうちに、顔が広くなっただけですよ」
そのとき、市場の中央から大きな怒鳴り声が響いた。
「こんな傷だらけの品に、この値段をつけるのか!」
革手袋を売る露店の前で、ルクス人の男が一双の手袋を地面へ投げつけていた。
若いリネ人の店主は、青ざめながら頭を下げる。
「そ、その傷があるので、ほかより安くしていて……」
「リネ人が王都で商売できるだけ、ありがたいと思え」
その声に、市場の空気が凍りついた。
店主は何も言い返せず、唇を噛んでいる。
ミレナは買い物籠をレオンへ預けると、ためらわずに露店へ歩み寄った。
「お客様」
彼女はにこやかに声をかけた。
「確かに、そちらは少し擦れがありますね。でも、こちらなら傷のない品があります」
別の手袋を取り上げ、男の前へ差し出す。
「見る目のあるお客様でしたら、こちらの縫い目の細かさがおわかりになるでしょう」
男の手が止まった。
ミレナは有無を言わさぬ口調で続ける。
「もちろん、こちらをお選びになりますよね?」
男は無言で手袋をひったくるように取り上げた。
値札を見る。
最初の品より、ずっと高い。
しばらく迷った末、男は硬貨を乱暴に卓上へ置いた。
「次からは、最初からまともなものを出せ」
「ありがとうございます。お目が高いので助かります」
ミレナは最後まで笑顔を崩さず、男を見送った。
男の姿が市場の人波へ消えると、若い店主が深く頭を下げる。
「ミレナさん、すみません」
「謝ることじゃないですよ」
ミレナは店主の肩へ軽く手を置いた。
「あなた、真面目すぎです。難癖をつけて安く買い叩こうとする人なんて、適当にあしらって大丈夫なんです。これくらいで動揺していたら、やっていけません」
店主は、叱られた子どものように背を縮めた。
その様子がおかしくて、ミレナは少しだけ笑う。
「亡国の民は亡国の民らしく、強く生きなければ、ね?」
冗談めかした言い方だった。
けれど、言葉の奥には、簡単には笑い飛ばせない重さがある。
店主は唇を結び、それから小さくうなずいた。
「ミレナさんのように、ルクシア語はうまく話せないですが……がんばります」
ミレナは、店先に落ちていた手袋を拾い上げた。
砂を払って棚へ戻しながら、明るく言う。
「そのうち、うまくなりますよ」
店主が顔を上げるころには、ミレナはいつもの柔らかな表情へ戻っていた。
少し離れた場所にいたレオンが、ゆっくりと歩み寄る。
「何もできずにすみません」
「お客様には何もしていただかなくていいのですよ」
ミレナは首を横に振った。
「私たちリネ人の問題ですから」
「しかし……」
レオンは、言葉の続きを探すように黙り込んだ。
「ミレナさんは勇気がありますね。怖くはなかったのですか?」
「こんなの、なんてことないですよ」
ミレナは片腕を曲げ、小さな力こぶをつくってみせた。
「リネア王国では、もっとのんきに暮らしていましたけど。今は、こう見えていくつか修羅場をくぐってきているんです」
レオンは、少し困ったように笑った。
「俺は、ミレナさんのようにうまく対応できる気がしません」
「レオンさんは、戦うのが得意そうですものね」
「戦うことだけは」
「お互い様です」
ミレナはレオンを見上げた。
「今度レオンさんが困っていたら、私が助けてあげますね」
レオンは、すぐに返事をしなかった。
その言葉を、思いがけない贈り物のように受け取っているようだった。
*****
市場の端にあるパン屋の前で、ミレナは足を止めた。
「忘れてたわ。明日のパンを買わないと」
「今日は道案内をしてもらいましたし」
レオンはすぐに言った。
「僕が、子どもたちのために買わせてください」
「そんなわけには……」
ミレナが止めるより早く、レオンは財布から銀貨を十枚取り出した。
「銀貨十枚だったら、いくつ買えますか?」
パン屋の女主人が、驚いたように目を丸くする。
「銀貨十枚?」
棚に並ぶパンを見渡し、女主人は豪快に笑った。
「だったら、今店にあるパンが全部買えてしまうよ」
「本当に大丈夫ですから……」
ミレナが慌てると、女主人は彼女の耳元へ顔を寄せた。
「もらっといたらいいんだよ。お嬢ちゃんが好きなんだろうよ」
頬へ、熱が集まるのがわかった。
「ち、違っ……」
「まいどあり!」
女主人は聞く耳を持たず、棚のパンを次々に大きな袋へ詰めていく。
焼きたての丸パン。
黒パン。
甘い香りのする、小さな菓子パンまで。
袋はみるみるうちに膨らんだ。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
レオンは両手で袋を受け取った。
ミレナも観念し、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます。子どもたちも、きっと喜びます」
「あの、ミレナさん」
レオンが、抱えたパン袋へ一度目を落とした。
「さっき、おっしゃっていましたよね」
「はい?」
「今度、野菜の収穫にも来てみますか、と」
ミレナは、答えを返しかけて止まった。
(しまった。そういえば、そんなこと言ってしまったわ)
キャベツをおいしそうに食べる姿が少し可笑しくて、つい軽い気持ちで口にしただけだった。
まさか、本当に覚えているとは思わなかった。
(エリアスにも釘をさされたばかりなのに……)
「あの……」
ミレナが返事を探している間に、レオンは遠慮がちに続けた。
「子どもたちに食べ物も持って行きますし」
その言葉に、ミレナはさらに答えに詰まった。
レオンは、断られることを覚悟しているようにパン袋の持ち手を握り直す。
「もちろん、迷惑なら来ません」
ミレナはすぐには答えなかった。
赤い髪に混じる、細い金髪。
紛争地帯が多い国境沿いから来たと話す、強そうな男。
食堂で子どもたちに囲まれ、戸惑いながらも、一人ひとりの言葉に耳を傾けていた姿。
(今日限りの付き合いだと思っていたから、あまり気にしていなかった)
(けれど、また来るというなら、気になることが多すぎる)
(この人は生粋のリネ人なのか。混血なのか。それすら、まだ確定ではない)
ルクシア王国へ来てから、ミレナは何度も耳にしてきた。
ルクス人は、リネ人の美しい金髪を好む。
貴族がリネ人の女性に子を産ませることも、珍しくない。
そうした子どもは、金に困っていなくても、大切に育てられるとは限らない。
屋敷の隅へ追いやられ、正妻の子どもたちとは別の場所で食事を取り、居場所を探すように外へ出る。
(もしかしたら、この人もそんな人なのだろうか)
ミレナは、パン袋を抱えたレオンを見た。
子どもたちが喜ぶだろう食べ物を、まるで大切な荷物のように抱えている。
「……野菜の収穫に来るだけ、ですか?」
「はい」
レオンはすぐにうなずいた。
「畑仕事の邪魔はしません。言われたことをします」
あまりにも真面目な返事に、ミレナは危うく笑いそうになった。
「でしたら、お願いします」
レオンの顔が、ぱっと明るくなった。
「男手があると、こちらも助かりますから」
(きっとヴィヴィは、面白がるだろう)
(思った以上に、望んでいた展開になってしまっている)
けれど。
パン袋を大切そうに抱え、子どもたちの喜ぶ顔を思い浮かべているようなレオンを見ていると、ミレナは拒むことができなかった。
(捨てられた子犬を拾ってしまったみたい)




