第8回:唯一の希望は、いたいけな妹様だけ
自室に戻った俺は、誰にも見られないようにベッドに倒れ込み、枕に顔を押し付けて悶絶していた。
心の中の声は、もはや悲鳴に近い。
(……あああああああ! 言っちゃった、言っちゃったよ! レティシアにあんな酷いことを! 修道院送りにするとか、泥人形遊びしてろとか、俺のバカ! クズ! システムに操られているとはいえ、あんなに可愛い妹を泣かせるなんて、俺はもう人間失格、いや兄貴失格だ!)
レティシア。十歳の、花の蕾のような俺の妹。
彼女は俺を慕ってくれていた。ヴィンセントという王子が、どれだけ周囲に冷徹だと思われていても、妹の前でだけは見せる僅かな優しさを信じてくれていた。
それなのに、俺は彼女の目の前で聖女の肩を抱き、あまつさえ彼女の心の支えだったエリザベートを徹底的に侮辱してみせた。
あのアメジストのような瞳から溢れ出た涙。絶望に染まった顔。
思い出すだけで、俺の胸にデバッグエラーが起きて心臓が止まりそうだ。
(だが、やるしかなかったんだ。……ミリアの奴、あの時、影の触手をレティシアの足元にまで伸ばし始めていたからな)
俺はデバッグアイを起動し、ログを振り返る。
ミリアという精神寄生体は、自分の支配が及ばない『異物』を極端に嫌う。
エリザベートが追放されたのは、彼女が精神干渉を無効化するスキルを持っていたからだ。
そして今、レティシアもまた、ミリアにとっての『邪魔な小石』になりつつある。
レティシアは幼いため、魅了スロットの対象にはなっていない。つまり、彼女はまだ自分の意志で思考し、発言できる。その彼女がミリアに公然と反抗し続ければ、ミリアは躊躇なく彼女を『排除対象』に切り替えるだろう。
そうなれば、国外追放どころでは済まない。
『事故』を装って階段から突き落とされるか、あるいは食事に『不治の病』を引き起こす寄生種を混ぜられるか。
それを防ぐには、俺が徹底的に彼女を突き放し、ミリアに「レティシアはもう無害なガキです。俺がしっかり教育して黙らせました」と思わせるしかなかった。
「……ハァ。一難去ってまた一難か。エリザベートは北の国境へ向かい、レティシアは俺を憎んで引きこもった。この国の王族で正気なのは、実質的に俺とレティシアだけか」
俺は身体を起こし、デバッグ画面を操作する。
現在の俺のレベルはまだ低い。だが、零コンマ零五秒のディレイ時間をどう使うか、そのシミュレーションを繰り返す。
ミリアを騙し通し、エリザベートを救い、レティシアを守り抜く。
そのためには、今のままでは圧倒的に手が足りない。
俺の手足となって動ける、正気で、かつミリアに疑われない『協力者』がどうしても必要だ。
(……レティシアだ。彼女しかいない)
もちろん、彼女を危険に晒したくはない。
だが、このまま彼女が俺を憎み続け、一人で無謀な行動を起こせば、それこそミリアの餌食になる。
彼女に真実のすべてを伝えることはできなくても、せめて「兄様は味方だ」という確信だけは与えなければならない。
俺は再び自室を出た。
「妹を再教育してくる」という名目で、俺はレティシアの私室へと向かう。
廊下ですれ違う近衛騎士たちの目は、どこか虚ろで、ミリアの魅了が深く浸透しているのがわかる。
彼らは俺を見ると深々と頭を下げるが、それは敬意ではなく、ミリアの所有物に対する恭順に過ぎない。
レティシアの部屋の前に着く。
扉の外には彼女付きの侍女が立っていたが、彼女もまたミリアの影響下にある。
俺は彼女を冷たく睨みつけた。
「下がれ。妹と二人で話す。誰も中に入れるな」
「はっ、ヴィンセント殿下」
侍女が操り人形のように去っていく。
俺は大きく息を吸い込み、表情を氷のように凍りつかせた。
ノックもせずに扉を開ける。
部屋の中は暗かった。カーテンが閉め切られ、昼間だというのに夜のような静寂が支配している。
部屋の隅、天蓋付きのベッドの上で、小さな塊が丸まっていた。
俺が入ってきた気配に、その塊がビクリと跳ねる。
「……出ていって。お兄様なんて、大嫌いよ。もう二度と顔を見たくない」
掠れた声。一晩中泣き明かしたのだろう。
俺の心臓がズキリと痛む。
ああ、今すぐ駆け寄って「ごめんなレティシア、全部嘘なんだ!」と抱きしめたい。
だが、俺の身体は無慈悲にも冷酷な言葉を吐き出す。
「勝手に部屋に引きこもるとは、王女としての自覚が足りないようだな。レティシア、顔を上げろ」
「……嫌よ。お兄様は、あの化け物みたいな女の味方なんでしょう? エリザベートお姉様を捨てて、あんな女にデレデレして……恥ずかしくないの!?」
レティシアがベッドから飛び起き、俺を睨みつけた。
乱れた赤髪、真っ赤に腫れた瞼。その姿が痛々しくて見ていられない。
俺は彼女の元へ歩み寄る。
(……チャンスは一度だ。ミリアは今、この部屋を直接は見張っていないが、俺の首筋の触手を通じて俺の『感情』と『言葉』をモニターしている)
普通に喋れば、すべて検閲される。
だが、今の俺には零コンマ零五秒の自由がある。
さらに、デバッグアイで視覚化した世界の理を応用すれば、ある程度の『偽装』は可能だ。
俺はレティシアの目の前に立ち、彼女の手首を乱暴に掴み上げた。
「痛い……っ! 離して、お兄様!」
「黙れ。お前がいつまでもガキのままだから、エリザベートも安心して旅立てなかったのだ。少しは教育というものを叩き込んでやる」
俺は彼女を引き寄せ、至近距離で顔を合わせた。
レティシアの目に、恐怖が浮かぶ。
ごめんな、レティシア。ちょっとだけ、怖い思いをさせる。
俺はデバッグアイを全開にした。
俺たちの周囲の『音響データ』にハックをかける。
聖女の監視が届かない極小の死角。
そして、俺の意志が身体の支配を上書きできる零コンマ零五秒の瞬間。
(ここだ……ッ!)
俺の口から、システムの検閲を潜り抜けた『本当の声』が、囁きとなって漏れた。
「……泣くな。俺を信じろ、レティシア。すべては、あの女を欺くための芝居だ」
あまりにも短く、微かな声。
レティシアが、目を見開いた。
彼女の耳元で放たれたその言葉は、システムによる「変換」が間に合わなかった、剥き出しの真実。
直後、強烈な電撃のような痛みが俺の脳を貫いた。
修正プログラムの強制介入だ。
「……分かったか! 二度と、私の前でその不快な名前を出すな!」
俺の言葉は、再びクズ王子の怒声へと戻った。
俺は彼女の手を乱暴に放り出し、反動でよろめく。
脳が焼けるように熱い。鼻から熱い液体が垂れるのを感じた。鼻血だ。
だが、俺はそれを隠すように背を向けた。
レティシアは、呆然としたまま俺の背中を見つめていた。
彼女は賢い子だ。
今、自分の耳が捉えた信じられないような囁き。
そして、目の前で「冷酷な兄」を演じながら、鼻血を流し、苦痛に顔を歪めている俺の矛盾した姿。
「お兄……様……?」
「次に命令に背けば、その時は容赦しない。……部屋で反省していろ」
俺はそれだけ言い残し、逃げるようにレティシアの部屋を後にした。
扉を閉めた瞬間、俺はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
全身がガタガタと震えている。
(……伝わったか? 今のだけで、彼女は気づいてくれたか?)
俺は壁を支えにして歩き出し、デバッグ画面で自分のステータスを確認した。
【警告:システムへの重大な干渉を検出】
【プレイヤーのMPが危険域に達しています】
【状態:脳内出血(軽微)】
(ハハ……。一言、本当のことを伝えるだけでこれかよ。この世界のデバッグ、難易度がルナティックを越えてるぞ)
だが、絶望ばかりではなかった。
俺はデバッグアイのログの端に、小さな変化を見つけた。
【対象:レティシア】
【状態:混乱、微かな希望】
【思考:お兄様は……病気じゃない?】
よし。
彼女の瞳に、絶望ではない光が戻った。
これだけで、今日俺が脳を焼いた価値はある。
俺はふらつく足取りで廊下を歩きながら、心の中でレティシアに語りかけた。
(レティシア、お前は唯一、この城で俺が信じられる家族だ。俺が表側で泥にまみれている間、お前は城の中で『正気』を保ち続けてくれ。そして、いつか俺がエリザベートを連れ戻した時、三人でまたお茶を飲もう)
その時、廊下の向こうから、あの甘ったるい声が近づいてきた。
ミリアだ。
「まあ、ヴィンセント様。レティシア様のお部屋から出てこられるなんて。……教育は、上手くいきましたか?」
ミリアが、俺の鼻血に気づいて怪訝そうに眉を寄せた。
俺は即座に、傲慢な笑みを作る。
「ああ。わからず屋のガキを黙らせるのに、少しばかり熱が入ってしまってね。……全くだ、手間をかけさせおって」
俺は自嘲気味に笑い、ミリアの肩を抱き寄せた。
彼女の影から伸びる触手が、俺の体温や心拍数を確認するように這い回る。
だが、俺の心は、今のレティシアへの囁きを完全に『コメントアウト』して封印していた。
「ふふ、さすがヴィンセント様。……でも、あまり妹様をいじめては可哀想ですよ? 私、悲しいですわ」
(嘘をつけ。お前の影、さっきからレティシアが絶望したと思って歓喜の振動を上げてるじゃねえか)
俺はミリアと共に歩き出し、心の中で次なるデバッグ計画を練り始めた。
レティシアという希望の種は撒いた。
次は、北の国境へと辿り着いたエリザベートだ。
彼女が、俺の仕込んだ『バグ物資』を無事に手に入れられるかどうか。
俺のMPが回復するのを待つ余裕はない。
【スキル:デバッグアイの経験値を獲得】
【レベルアップまで:残り800】
経験値が、僅かに上がった。
この痛みが、俺の力になる。
この孤独が、彼女たちの未来になる。
そう信じて、俺は再び、地獄のような聖女との日常へと没頭していった。
「……さあ、ミリア。次はどんな楽しい話をしようか」
俺の笑みは、どこまでも完璧で、どこまでも嘘に満ちていた。
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次回お楽しみに。




