第7回:泣かないでエリザベート、俺の心は死んでいる
後日、エリザベートを乗せた馬車が王都の巨大な正門をくぐり、視界から消えていった。
俺は王宮の高いバルコニーから、その光景をただ黙って見下ろしていた。
冷たい風が俺の頬を叩く。だが、今の俺にはその寒さすら心地よかった。自分の心がドロドロに溶け出した熱を、少しでも冷ましてくれるような気がしたからだ。
(……行っちゃった。本当に行っちゃったよ。俺の理想を形にしたような、銀髪吊り目の最高レアリティ美少女が、俺自身の命令で、魔物の巣窟へと送り出されたんだ。前世の俺なら、今すぐこのバルコニーから飛び降りて、後悔の念と共に異世界転生をやり直したいレベルの絶望だぞ、これ)
俺は手摺りを握る拳に力を込めた。
デバッグアイを起動し、視界の隅に彼女の馬車の内部を投影する。
画面の中のエリザベートは、窓に頭を預け、音もなく涙を流していた。
その涙が彼女の白い頬を伝い、膝の上に置かれた拳に落ちるたび、俺の胸に鋭い針が突き刺さるような痛みが走る。
(泣かないでくれ、エリザベート。頼むから、そんな顔をしないでくれ。俺の心臓はもうボロボロなんだ。君が泣くたびに、俺の精神力(MP)じゃなくて、俺という人間の魂そのものが削り取られていくんだよ)
叫びたかった。
今すぐ「デバッグ・ハッキング」を全開にして、馬車の車輪を爆破し、彼女を無理やり城に連れ戻したかった。
だが、俺の隣には、その機会を虎視眈々と狙う「化け物」が寄り添っている。
「ヴィンセント様、いつまであちらを見ていらっしゃるのですか? そんなに、あの罪人のことが気になるのですか?」
甘ったるい声。
ミリアが、俺の腕に自分の細い腕を絡めてきた。
彼女の影から伸びる無数の触手が、俺の足元を這い、俺の感情の揺らぎを検知しようと蠢いている。
【警告:ターゲット(ミリア)による不信感の増大を検出】
【判定:エリザベートへの未練を見せた場合、支配スロットの再編が実行されます】
(……チッ、これだから寄生体は。少しでも隙を見せたら、即座に俺を捨て駒にしてエリザベートを直接殺しに行きやがる。ここは……耐えろ。心を殺せ。俺はヴィンセントだ。冷酷非道で、聖女に溺れた、救いようのないクズ王子なんだ)
俺はバルコニーから視線を外し、隣のミリアを見つめた。
顔の筋肉を器用に操り、最高に傲慢で、最高に軽薄な笑みを作る。
「気になる? まさか。あんな女がどこで野垂れ死ぬか、その最期を想像して楽しんでいただけだよ。……ようやく、俺の隣にふさわしいのは君だけだと確信できた。あの女の泣きっ面を思い出すだけで、最高の気分だよ」
最悪だ。
自分の言葉なのに、吐き気がして胃液が逆流しそうだ。
「最高に気分がいい」なんて嘘だ。今すぐ自分の舌を引き抜いてやりたい。
だが、ミリアはその答えに満足したのか、クスクスと喉を鳴らして俺の胸に顔を埋めた。
「まあ、ヴィンセント様ったら。本当に意地悪。……でも、そんな貴方が大好きですわ。エリザベート様も、きっと今頃、貴方の冷たい言葉を思い出して、絶望のどん底にいらっしゃるでしょうね。ああ、なんて素敵な響きかしら」
ミリアの影から伸びた口が、ジュルリと音を立てて空気を啜った。
彼女は俺から発せられた「偽装された悪意」を、美味なスープのように飲み干している。
俺は彼女の背中を優しく撫でながら、視界の隅のデバッグ画面を凝視し続けた。
画面の中のエリザベートが、ふと、馬車の窓を閉めた。
彼女は震える手で、自分の懐から何かを取り出した。
それは、俺が昨晩「呪いの手紙」として送りつけた、あの最低な便箋だった。
(……あ、それ、読んじゃダメだ! いや、読んでほしいんだけど、でも今読んだらもっと悲しくなるし……!)
俺の心臓が早鐘を打つ。
エリザベートは、涙で濡れた瞳で、俺の書いた罵詈雑言の数々を見つめていた。
「地獄へ落ちろ」「醜い豚」「無価値」。
そんな言葉が並ぶ紙面を、彼女は食い入るように見つめている。
その時だ。
彼女の動きが止まった。
エリザベートは、アルトワ公爵家の令嬢として徹底的に仕込まれた教養の持ち主だ。
彼女は、俺がわざと仕込んだ不自然な「頭文字の並び」と、アルトワ家の家訓に似た「独特の韻律」に気づいたようだった。
彼女の指が、紙の上の特定の文字をなぞる。
……北……三……村……隠……物……。
エリザベートの瞳に、一瞬だけ、強烈な戸惑いの色が走った。
彼女は手紙を胸に抱きしめ、信じられないものを見るような目で、遠ざかる王宮を振り返った。
その視線は、真っ直ぐにこのバルコニーへと向けられている。
(気づいたか……? いや、まだ確信は持てないはずだ。あんな酷いことを言った俺が、裏で助けを求めているなんて、普通は思わない。でも……)
エリザベートは、再び手紙を強く抱きしめた。
そして、先ほどまでの「死んだ魚のような目」ではなく、何かに耐えるような、あるいは何かを確かめようとするような、強い意志の宿った目へと変わった。
彼女は顔を伏せ、声を押し殺して泣いた。
けれど、それは先ほどまでの「絶望の涙」ではなく、何かの「熱」を帯びた涙に見えた。
「ヴィンセント様? どうかなさいましたか? 少し、身体が強張っていますけれど……」
ミリアが不審そうに顔を上げた。
俺は即座に思考を切り替え、彼女の腰を引き寄せて耳元で囁いた。
「ああ、すまない。あまりにも君との未来が楽しみで、興奮を抑えられなかったんだ。……今夜は、君のために最高の晩餐を用意させよう。あの女がいなくなった祝杯を挙げなきゃいけないからね」
「まあ! 嬉しい! ヴィンセント様、大好きよ!」
ミリアは上機嫌で俺の頬にキスをした。
俺の頬に、彼女の冷たく湿った感触が残る。
俺はその感触を「無」として処理した。
今の俺は、ヴィンセントという名のプログラムだ。
感情なんてない。心なんて死んでいる。
そう自分に言い聞かせなければ、今にも叫び出して、この化け物をバルコニーから突き落としてしまいそうだったから。
俺はミリアと共に部屋へ戻る際、廊下の角で立ちすくんでいる小さな影を見つけた。
レティシアだ。
彼女は、俺たちが仲睦まじく歩いてくる姿を見て、恐怖と怒りが混ざったような顔で震えていた。
「お、お兄様……。どうして、そんなに嬉しそうに……。お姉様が、あんなに酷い仕打ちを受けて、今も一人で震えているのに……!」
レティシアの叫び。
その声は、廊下に響き渡り、召使いや騎士たちの耳にも届いた。
ミリアの影が、レティシアに向かって不気味に蠢く。
マズい。このままだとレティシアが「邪魔なバグ」として排除される。
「黙れ、レティシア。貴様のその泣き言にも、もう飽き飽きだ」
俺はミリアの肩を抱いたまま、妹を見下ろした。
これまで一度も向けたことのないような、冷徹極まる視線。
「次にその女の名前を出してみろ。お前を修道院へ送り、二度とシャバの空気を吸えなくしてやる。……分かったら、さっさと自分の部屋で泥人形遊びでもしていろ。このガキが」
レティシアが、目を見開いて後ずさった。
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出す。
「お兄様なんて、大嫌い!!」
彼女はそう叫んで、走り去っていった。
その言葉が、俺の胸に致命傷を与えた。
心の中で、俺はレティシアに土下座した。
ごめんな、レティシア。大嫌いでいい。それでいいんだ。
お前が俺を嫌えば嫌うほど、ミリアはお前を無害な存在だと思い、お前の命は守られる。
俺一人が泥を被れば、それで済む話なんだ。
「ふふ、ヴィンセント様。本当に厳しくなりましたわね。でも、そういう強い貴方も、とっても素敵ですわ」
ミリアが満足げに俺の腕に寄り添う。
俺は彼女を連れて、冷たい廊下を歩き続けた。
俺の心は死んでいる。
そう、死んでいるんだ。
死んでいなきゃ、やってられない。
エリザベートの涙を画面越しに見て、妹の絶叫を正面から浴びて、それでも隣で笑う化け物を愛しているフリをする。
そんなことが、正気のままでできるはずがない。
(デバッグアイ……。レベルを上げろ。もっと、早く……。俺が完全に壊れてしまう前に、この世界のコードを書き換えられるだけの力を……!)
俺の視界の中で、経験値のバーが微かに上昇した。
だが、レベルアップまではまだ遠い。
俺は、ミリアの楽しげな鼻歌を聞きながら、奥歯を噛み締め、冷徹な王子の面を被り続けた。
夜が来る。
エリザベートは、最初の村へと辿り着くだろう。
そこには、俺が今日弄り回した「事務的なミス」によって、大量の毛布と食料が「放置」されているはずだ。
彼女が生き延びること。
それが、今の俺の死んだ心が、唯一求めている救いだった。
【スキル:デバッグアイの経験値を獲得】
【レベルアップまで:残り850】
【現在のシステム・ディレイ:0.05秒】
変化はない。
けれど、俺は止まらない。
この孤独なデバッグが、いつか世界を覆すその日まで。
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次回お楽しみに。




