第39回:さようなら、優しいお兄様
辺境都市アイゼンガルドの空が、毒々しい紫色の雲に完全に覆い尽くされた。
大地が悲鳴を上げるように揺れ、石造りの家屋が次々と砂のように崩れていく。
聖女ミリアが放った『天の欠片』の残滓が、ついにこの街のデータを根本から削除する最終フェーズへと移行したのだ。
王宮の玉座の間。
俺はもはや感覚の失われた右半身を引きずるようにして玉座にへばりつき、空中に展開した数十のデバッグウィンドウを必死の形相で叩き続けていた。
【警告:魔王変異率、十九パーセント】
【システム限界:広域データ保護によるMP消費が、プレイヤーの生命維持コストを三百パーセント上回っています】
【判定:このまま続行すれば心停止、および魂のロストの危険があります。直ちに干渉を中断してください】
(……うるせえ! ここで俺が手を離したら、あの街ごとあいつらが物理的にマップから消滅するんだぞ! 心停止上等、ロスト上等だ!)
俺は口から止めどなく溢れる鮮血を左手の甲で乱暴に拭い、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
画面の中では、崩壊を始めた街の中央広場で、エリザベートがレティシアを必死に庇いながら、降り注ぐ瓦礫から逃げ惑っていた。
逃げ道は全て、ミリアの魔力によって「通行不可のオブジェクト」として完全に塞がれている。
(なら、俺が道を作ってやる。……ただし、最高に『最悪な方法』でな)
俺は残された全魔力を振り絞り、魔王の権限を使って彼女たちの目の前に、俺自身の姿を巨大なホログラムとして投影した。
頭部には禍々しい黒い角が天を突き、右目は血のように赤い燐光を放っている。
そして右半身には、呪いそのもののような赤黒い魔紋が蠢く。
それは誰が見ても、この世界を滅ぼす「魔王」そのものの姿だった。
『……ククッ、アハハハハ! 見ろよ、エリザベート! 無様に逃げ惑うネズミどもめ! お前たちの逃げ場は、もうどこにもないんだよ!』
俺の声は、デバッグアイによる音声加工で、聞く者の魂を凍らせるほどの重低音と悪意に満ちたエフェクトが掛かっていた。
『ヴィンセント……様……? その姿、一体どうして……。貴方は、本当に……本当に、私たちをここで殺すつもりなの!?』
エリザベートが絶望に顔を歪め、震える両手でバルムンクを構える。
その背中に隠れるようにしてしがみついていたレティシアが、俺のホログラムを見上げて、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
『……お兄様? ねえ、お兄様なの……? やだ、やだぁっ! なんでそんな怖い顔してるの!? なんでこんなヒドイことするの!?』
十歳の少女の、悲痛な叫び声が広場に響く。
レティシアはエリザベートの腰にすがりつきながら、しゃくりあげて泣き叫んだ。
『お兄様は、本当は優しいお兄様のはずだもん! 私が転んだとき、いつもおんぶしてくれたもん! 内緒で甘いお菓子をくれたもん! ……あんなに優しかったのに、どうしてそんな、悪いオバケになっちゃったの!? 元のお兄様に戻ってよぉっ!』
(……ッッッ!! レティシア、やめてくれ。頼むからそんな純粋な目で俺を責めないでくれ。俺のHPがゼロになっちまう……!)
俺は玉座で激しく咳き込み、大量の血を吐き出しながら、心臓を直接素手で握り潰されるような激痛に悶え苦しんだ。
物理的な魔王変異の痛みなど比ではない。妹からの真っ直ぐな涙は、俺の精神に特大のクリティカルヒットを叩き込んでいた。
だが、ここで泣いて謝るわけにはいかない。
俺は地獄の苦しみに耐えながら、あえて右腕を高く振り上げた。
その動作に合わせて、彼女たちの背後にある「行き止まりの城壁」に向けて、極大の破壊光線を放つ。
【デバッグ:座標データ強制書き換え】
【対象:崩壊しかけた城壁】
【処理:破壊と同時に『王都へ続く安全な地下秘密通路』のIDを上書き(オーバーライド)】
ドォォォン!という鼓膜を破るような爆音と共に、壁が粉々に砕け散った。
しかし、その土煙の向こう側に現れたのは、崩落の危険が一切ない、整備された一本の地下道だった。
『……ハッ、手元が狂ったか! だが、その先はさらに深い地獄だ! 精々、泥水を啜って生き延びるがいい! 俺はお前たちが絶望し、這いつくばって俺の足元へ命乞いに来るのを、この玉座で待っててやるよ!』
俺はわざとらしく舌打ちをし、三流の悪役のような捨て台詞を吐いた。
エリザベートは、開かれた地下道と、俺の狂った姿を交互に見つめ、ギリッと唇を噛み締めた。
彼女はついに、かつての婚約者への未練を完全に断ち切ったのだ。
『……レティシア、行きましょう。あいつはもう、私たちが知るヴィンセント様じゃない。……ただの醜い、魔王よ』
その言葉に、泣きじゃくっていたレティシアがビクッと肩を震わせた。
彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、もう一度だけ俺の巨大なホログラムを睨みつける。
『……お兄様のバカ。……大っ嫌い! もう絶対、許してあげないんだから!』
レティシアは小さな手で首元を探り、一つのペンダントを引きちぎった。
それは、俺が昔、彼女の誕生日に王都の露店で買ってやった、不格好な熊の木彫りのペンダントだった。
彼女はそれを、渾身の力で地面に叩きつけた。
『こんなの、もういらない! さようなら、バカお兄様! ……次に会うときは、お姉様とドカンってやっつけてやるんだからね!』
レティシアはエリザベートの手を強く引き、自ら地下通路へと駆け込んでいった。
エリザベートは最後に一度だけ俺を振り返り、その瞳に「宿敵」を討つという燃え盛るような決意を宿して、暗闇の中へ消えていった。
――アイゼンガルドの街から、彼女たちの反応が完全に消える。
脱出成功。全滅回避。
直後、俺のホログラムはノイズと共に霧散し、王宮の玉座で、俺は糸が切れた操り人形のように床へ転げ落ちた。
「……ゲホッ、……ッハ……。ハ、ハハ……」
冷たい大理石の床に広がる自分の血の海の中で、俺の右目から一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。
デバッグアイのログの隅に、レティシアに捨てられた熊のペンダントのデータが、誰にも拾われることなく【破損】の文字を点滅させている。
【システム通知:レティシアとの因縁ポイント、マイナス一万を突破】
【フラグ成立:勇者の誕生を確認】
【称号:『最凶の魔王』を獲得しました】
「……ああ、大成功だ。……これで、君たちは本当の勇者になれる。……最高に……最高に、愉快な気分だよ……クソッタレ……」
俺はピクリとも動かなくなった右腕をそのままに、薄れゆく意識の中で、自分の胸元の魔紋がさらに深く、暗く広がっていくのを感じていた。
【魔王変異率:十九パーセント】
【身体侵食率:二十パーセント(部分的な感情の欠落を検出)】
静まり返った王宮に、俺の荒い呼吸音と、虚しい笑い声だけが響いていた。
さあ、第二部を始めよう。
俺が完全に「俺」でなくなる前に、彼女たちが俺の心臓を止めてくれる、その最高にハッピーな結末を目指して。
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次回お楽しみに。




