第38回:聖女の歓喜、俺の決意
王宮の最奥、聖女ミリアの私室は、もはや神聖な気配など微塵も残っていない。
天井からはどす黒い粘液のような魔力が滴り、壁一面には俺の身体を侵食しているものと同じ、不気味な魔紋が脈打つように広がっていた。
ミリアは、椅子に座る俺の膝の間に割り込むようにして立ち、恍惚とした表情で俺の頬を撫でる。
彼女の指先が触れる場所から、刺すような冷気と、精神を掻き乱すノイズが流れ込んできた。
「見てください、ヴィンセント様。貴方の右目は、もうこんなにも美しく濁っていますわ。……あの方への憎しみが、貴方を完成へと導いている。……ああ、なんて愛おしいのかしら」
ミリアは俺の右目のすぐそばに顔を寄せ、その赤い燐光を愛でるように見つめる。
俺は麻痺した右半身を動かそうと試みるが、まるで岩を動かそうとしているかのように手応えがない。
システムログによれば、俺の身体の支配権は徐々に「魔王」というプログラムに明け渡されつつある。
「……フン、当然だ。あいつへの復讐……その一念だけで、俺はこの肉体を維持している。……ミリア、君が喜んでくれるなら、俺が人間でなくなることなど、安い代償だよ」
俺は冷徹な仮面を貼り付けたまま、彼女の腰に左手を回した。
内心では(うわ、冷たっ! 湿気すごっ!)と絶叫しているが、表情には一ミリも出さない。
ミリアは満足そうに微笑むと、懐から一つの小さな黒い結晶を取り出した。
それは、周囲の光を全て吸い込むような、不吉な輝きを放っている。
「これは『天の欠片』……。いいえ、貴方ならお分かりでしょう? この世界の『不純物』を凝縮したものですわ。これを貴方の胸に埋め込めば、貴方は真に、あの方を絶望させるための存在へと至ることができます」
(……出たよ、最終強化アイテム。そんなもん埋め込まれたら、俺の心臓が物理的にバグの塊になっちまうぞ!)
俺は心の中で毒づきながら、デバッグアイを全開にした。
結晶をスキャンすると、そこには数万行に及ぶ「破壊命令」が詰め込まれている。
これをそのまま受け入れれば、俺の自我は消滅し、ただエリザベートを殺すだけの自動人形になるだろう。
(……だが、逆だ。これを逆手に取れば、俺のシステム権限をさらに拡張できる。……ミリア、お前の『プレゼント』、美味しく利用させてもらうぜ!)
俺はあえて、その不吉な結晶を自分の手で受け取った。
「……素晴らしい。これを待っていたんだ。……これさえあれば、あいつのバルムンクさえも赤子の玩具に変えてやれる」
俺は、ミリアが見守る中で、その結晶を自分の胸元へと押し当てた。
凄まじい衝撃が全身を駆け抜ける。
視界が反転し、全身の毛穴から血が吹き出すような苦痛。
だが、その意識の混濁の中で、俺は必死にコマンドを叩き込んだ。
【デバッグアイ:外部プラグインの強制統合を開始】
【項目:天の欠片】
【処理:魔王化の進行を抑制し、全エネルギーを『システムメンテナンス能力』へ転換】
【判定:魔王変異率の上昇を偽装。……完了】
表面上、俺の身体からは禍々しい黒いオーラが溢れ出し、部屋の温度がさらに数度下がったように見えた。
ミリアは「ああ……っ!」と歓喜の声を上げ、俺の胸に縋り付く。
だが、その裏側で、俺のHPとMPは最大値を超えてオーバーフローしていた。
(……くっ、キツい。……死ぬほど痛いが、これで準備は整った。……この過剰な魔力を使って、アイゼンガルドの街にさらなる『隠し財宝』を配置してやる。……エリザベート、お前にはこの魔王(俺)を倒せるだけの、最高の装備を整えてもらうからな)
俺は血を吐きながらも、ミリアの頭を優しく撫でた。
彼女は俺が「完全な魔王」への一歩を踏み出したと信じて疑っていない。
だが、俺の決意は揺るがない。
ミリアが俺を魔王にしたいなら、なってやろう。
世界が俺をクズと呼ぶなら、甘んじて受けよう。
その果てに、エリザベートがこのバグだらけの世界を切り開くための「最後の一撃」を放ってくれるなら、俺の存在そのものが消滅しても構わない。
「ミリア……楽しみだな。……あいつが、俺たちの元へ辿り着くその日が」
「ええ、ヴィンセント様。……その時こそ、あの方に本当の地獄を見せてあげましょうね」
俺たちは、地獄のような部屋で、寄り添いながら笑い合った。
俺の右手の麻痺は、ついに肘のあたりまで達している。
それでも、俺は消えかけの視界の中で、エリザベートの進むべき道を、一文字ずつ丁寧にデバッグし続けた。
【デバッグアイ:経験値を獲得】
【レベルアップまで残り:一千四百】
【魔王変異率:十八パーセント(結晶統合により安定化)】
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次回お楽しみに。




