第31回:暗殺者がバナナの皮で滑って転ぶ確率
聖女ミリアが仕掛けた「宿場町の地獄」は、非常に用意周到なものだった。
表向きは平穏を装ったその町には、ミリアが息の根を止めるために雇い直した、別ギルドの刺客たちが潜んでいる。
俺は王宮のバルコニーから、ミリアに肩を抱かれながら、その様子を「デバッグアイ」の仮想ウィンドウで俯瞰していた。
「見てくださいな、ヴィンセント様。あの町の住人は、半分以上が入れ替わっていますわ。あの方が宿に入った瞬間、逃げ道は全て塞がれるのです」
「……ククッ、流石はミリアだ。蜘蛛の巣に飛び込む羽虫の気分はどうだろうな。……楽しみで、酒が進みそうだ」
俺は震える手でワイングラスを煽り、毒々しい紫色の液体を飲み下す。
実際には、胃の中がキリキリと痛み、冷や汗が止まらない。
(不味い。刺客の数が多い。……物理的に弾道を逸らすだけじゃ、数が足りない。……だったら、戦闘そのものを成立させなきゃいいんだ!)
デバッグアイ、レベル2権限。
俺は宿の廊下や階段、そして刺客たちが配置されているポイントの「床データ」を全スキャンした。
(ハック開始。……項目、環境オブジェクトの属性付与。……範囲、エリザベートの周囲五メートル以内。……効果、対象『敵意を持つ者』が踏み込んだ際、足元に『スリップ確定の不可視オブジェクト』を生成しろ!)
脳内を直接火で炙られるような激痛。
システム側が、あまりにふざけた世界の書き換えに「不条理エラー」を吐き出す。
【警告:物理法則の著しい軽視を確認】
【判定:第一王子の『獲物を弄びたいという悪趣味』として受理。……仕様を固定します】
画面の中。
エリザベートが宿の廊下を歩いていると、背後のドアから二人の暗殺者が音もなく飛び出してきた。
彼らは一級品の武器を構え、無駄のない動作で踏み込み――。
「――っ、ぬわぁぁぁ!?」
「ぎゃふんっ!?」
何もないはずの平らな廊下で、二人はまるで巨大なバナナの皮を踏み抜いたかのような、見事な転倒を披露した。
一人は顔面から床に激突し、もう一人は勢い余って窓から外へとダイブしていく。
『……な、何? 今の音……』
エリザベートが驚いて振り返るが、そこには床でのたうち回る男と、割れた窓ガラスがあるだけだ。
彼女が困惑しながらさらに進むと、今度は階段の上から刺客が急降下してきた。
しかし、その刺客も空中で不自然な「空気の滑り」を誘発され、そのままエリザベートの頭上を飛び越えて、階段下のゴミ箱へとホールインワンを決めた。
(よし、いいぞ。転ぶ確率百パーセント。……プロの暗殺技術だろうが、足が滑ればただのギャグキャラだ!)
エリザベートの表情は、もはや恐怖を通り越して「虚無」に近くなっていた。
『……またよ。……また、敵が勝手に自滅していく。……どうして? 誰かが、私を笑わせようとしているの? それとも、馬鹿にされているの……?』
彼女はバルムンクを構えることさえ忘れ、呆然と宿のロビーまで辿り着いた。
そこには待ち構えていた十数人の刺客がいたが、彼らも一斉に踏み出した瞬間、ドミノ倒しのように重なり合って転倒し、勝手に気絶していった。
王宮で水晶球を見ていたミリアは、ワイングラスを握りつぶして立ち上がった。
「……意味が分からないわ! なぜ! なぜみんな、あんなに間抜けな転び方をするのです!? 床に油でも塗ってあるというの!?」
「……ハ、ハハハハハ!! 愉快だ! 愉快すぎるぞミリア!!」
俺は血の混じった笑い声を上げ、ソファに倒れ込んだ。
目からは赤い涙が流れている。
「……あいつらは、きっとあの女の『不運を呼ぶ体質』に当てられたんだ! 運命があまりにも悲惨すぎて、物理法則さえも同情して曲がっちまったのさ! クソ、腹が痛い……っ!」
実際には、デバッグの反動で腹筋が千切れそうな激痛に襲われている。
だが、俺の「悪役としての笑い」に、ミリアは再び陶酔の眼差しを向けた。
「……ヴィンセント様。貴方のその、狂った感性……やはり私には必要ですわ。……ええ、いいわ。物理的に殺せないなら、もっと別の方法で……魂を折ってあげますわ」
ミリアが俺を抱き寄せ、その冷たい唇で俺の頬の血を拭う。
俺は彼女の冷気を感じながら、意識の端でエリザベートの無事を確認した。
(……エリザベート。……今は、運がいいと思っておいてくれ。……滑稽な幸運の先に、お前が俺を討つための道があるんだからな)
俺の心臓は、確実に摩耗していた。
身体侵食率は、もうすぐ十パーセントに届こうとしている。
【デバッグアイ:経験値を獲得】
【レベルアップまで残り:一千八百】
【身体侵食率:九パーセント】
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次回お楽しみに。




