第30回:姿なき守護者。エリザベートの困惑
吹雪が止んだ北方の山嶺。
エリザベートは、自らの掌を見つめながら立ち尽くしていた。
先ほど飲んだ「差し入れの薬」の効果は絶大だった。
魔力回路はかつてないほど活性化し、全身に力が漲っている。
レティシアも、まるで疲れを知らない子供のように、雪道を軽快に歩き続けていた。
だが、エリザベートの心には、拭いきれない困惑が積もっていた。
(おかしい。あまりにも……出来過ぎている)
追放されてからの日々を振り返れば、それは「奇跡」という言葉でも足りないほどの連続だった。
襲いかかってきた野犬は牙を剥きながらも力なく、最強を誇ったはずの巨人は剣を振るう前に砕け散った。
そして、毒薬の疑いすらあった飲み物は、最高級の霊薬となっていた。
「お姉様、どうしたの? そんなに難しい顔をして」
「……いえ。ねえ、レティシア。貴女は、誰かの視線を感じない?」
エリザベートが周囲を見渡すが、そこには凍てつく岩肌と、白銀の世界が広がっているだけだ。
だが、彼女には確かに感じられた。
自分たちを、空のどこかから、あるいは世界の裏側から見つめている、圧倒的な密度の「何か」を。
――その「何か」は、今この瞬間も、彼女の命を救おうとしていた。
断崖絶壁の細い道。
上方の積雪が、わずかな振動で崩れ始めた。
音もなく滑り落ちる巨大な雪塊。それは回避不能な速度で、エリザベートたちの頭上へと迫る。
(――っ、レティシア!)
エリザベートがレティシアを抱き寄せ、衝撃に備えて目を閉じた。
だが、衝撃は来なかった。
ドォォォン、という凄まじい轟音が響いたが、彼女たちの体には雪のひとかけらも当たらない。
恐る恐る目を開けると、巨大な雪崩は、彼女たちのわずか数センチ手前で、まるで見えない壁に突き当たったかのように、不自然な角度で左右へと逸れて流れていた。
『物理演算エラー:流体摩擦および慣性ベクトルの強制偏向』
『判定:極めて稀な地形的要因による、奇跡的な回避として処理』
(……またよ。また、助けられた)
エリザベートは、震える声で虚空に向かって問いかけた。
「そこに、誰かいるの? ……貴方は、誰なの? どうして、私を、ここまでして守るというの……!」
その問いに応える者はいない。
ただ、冷たい北風が彼女の頬を撫でるだけだった。
――同じ時刻。
王宮の最上階。俺はミリアの細い指が、俺の喉元を優しく締め上げる感触を味わっていた。
「ヴィンセント様、ご覧なさい。雪崩さえもあの方を避けていくわ。……まるであの方が、この世界の主人公であるかのように」
ミリアの声には、隠しきれない不快感と、同時に強烈な好奇心が混ざっている。
彼女の影から伸びる触手が、俺の首筋に食い込み、微かな血を啜り始めた。
「……ククッ。運がいい女だ。……だが、運などいつかは尽きる。……ミリア、君がそんなに不満なら、もっと確実に、運など入り込めないような『密室の殺意』を仕掛ければいい」
俺は血の混じった呼吸をしながら、狂った笑みを浮かべる。
視界は既に、右目の侵食によって半分がノイズに覆われていた。
(危なかった……。今の雪崩、パッチを当てるのが一瞬遅れたら、レティシアごと潰されるところだった)
遠隔での環境デバッグは、MPの消費が尋常ではない。
さらに「姿なき守護者」の存在をエリザベートに確信させてはならないという、物語の整合性への配慮も必要だ。
「……そうですわね。運など、物理的に叩き潰してしまえばいい。ヴィンセント様、次はあの方が逃げ込んだ『街道の宿場町』を、丸ごと地獄に変えて差し上げますわ」
ミリアは満足そうに俺の唇を塞いだ。
彼女の冷たい舌から流し込まれる魔力が、俺の壊れかけた神経を無理やり繋ぎ止める。
(いいだろう、ミリア。……宿場町だろうが、奈落の底だろうが、お前の思い通りにはさせない。……俺が、彼女に見えない盾であり続ける限りな)
俺はミリアを抱き寄せながら、デバッグアイのログに視線を走らせた。
【対象:エリザベート】
【状態:守護者への不審・困惑(上昇中)】
彼女の困惑は、俺が世界を歪めている証拠だ。
いつか彼女がこの「幸運」の正体に気づく時、俺は彼女にとって最大の敵として、その前に立ち塞がらなければならない。
それまで、俺の心臓よ、どうか動いていてくれ。
俺は血に濡れた指で、自らのステータスを一時的に「正常」へと書き換えた。
【デバッグアイ:経験値を獲得】
【レベルアップまで残り:一千八百五十】
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次回お楽しみに。




