第28回:王女様のピクニックは、戦場を横断する
暗殺者たちが全滅し、エリザベートが謎の光に包まれて傷を癒やしたという報告が王宮に届いた。
当然、ミリアの機嫌は最悪だ。
豪華な私室の壁には、彼女が苛立ちのあまり叩きつけた触手の跡が、どす黒い染みとなって幾筋も刻まれている。
「おかしいわ。絶対におかしいですわ。あの暗殺者たちは、この国でも指折りの実力者だったはずです。それが……傷一つ負わせられずに全滅だなんて」
ミリアは長い爪を噛みながら、部屋の中を獣のように徘徊している。
その背後に座る俺は、ティーカップを持つ手が震えるのを必死に抑えていた。
レベルアップの恩恵でMPこそ回復したが、身体侵食率五パーセントという代償は重い。
指先が時折、自分の意思とは無関係にピクリと跳ねる。
「……ミリア、落ち着きなさい。あの女はかつて聖女候補だった。死の間際で、失われていた魔力が一時的に暴走したに過ぎない。……だが、そんな奇跡は二度は起きないさ」
俺は声を絞り出し、冷酷な婚約者の顔を維持する。
実際には、俺がレベル二になった権限で、世界に新しい仕様を追記した結果なのだが。
「……ええ。そうですわね、ヴィンセント様。奇跡なんて、そう何度も起きてたまるもんですか。……ねえ、あの方たちは今、北方平原の激戦区に向かっているのでしょう?」
北方平原。そこは現在、北の魔族と王国の辺境伯軍が衝突を繰り返している最前線だ。
血生臭い風が吹き荒れ、飢えた魔物と亡霊が跋扈する、文字通りの戦場である。
「なら、そこであの方を歓迎してあげましょう。……私の特別な魔力で、戦場のすべての魔物を狂暴化させてあげますわ。……逃げ場のない戦場、四方八方から襲いかかる狂った獣。……今度こそ、あの方の悲鳴が聞こえるはずですわ」
ミリアが邪悪な笑みを浮かべ、窓の外の北の空へ向かって両手を広げた。
彼女から放たれたどす黒い魔力の波が、空を赤く染めながら北へと飛んでいく。
(……マズい。広域狂暴化か。今のエリザベートとレティシアがそんな場所に突っ込んだら、いくら攻撃力を回復に変えるパッチを当てていても、物量で押し潰される!)
俺はすぐさま、まぶたの裏でデバッグアイを起動した。
遠隔視の映像の中、エリザベートとレティシアは、雪原の向こうに広がる地獄のような戦場を目の当たりにしていた。
黒煙が上がり、地響きのような魔物の咆哮が響く。
レティシアは恐怖でエリザベートの服を掴み、エリザベートもまた、バルムンクを握る手に力を込めて立ち尽くしている。
(……二人とも、あそこを通るしかないんだな。……だったら、俺がその戦場を、世界で一番安全な場所に書き換えてやる)
俺はミリアの隣で目を閉じ、瞑想するフリをしながら、新しいパッチを脳内で構築した。
レベル二の権限、パッチ・アップグレード。
一時的な数値の改変ではなく、特定の条件を満たした際の挙動そのものを仕様として固定する。
【デバッグアイ:パッチ・アップグレード実行】
【対象:北方平原、特定の座標周囲における物理演算およびAI認識】
【条件:対象『レティシア』および『エリザベート』の半径十メートル以内】
【内容:敵対エネミーの存在を『背景オブジェクト(当たり判定なし)』に変更。さらに、地形ダメージおよび天候ダメージを無効化し、周囲に『清涼な空気と安らぎの音楽(幻聴)』を再生する】
脳が沸騰するような熱波が襲う。
システムが「戦場にそんな仕様があるはずがない」と拒絶反応を示すが、俺はレベル二の権限を強引に押し通した。
【警告:環境データの大規模な不整合を確認】
【判定:第一王子の『歪んだ美学』による、妹への最期の慈悲として受理。仕様を固定します】
現実の戦場。
エリザベートたちが恐る恐る一歩を踏み出した瞬間、奇妙な現象が起きた。
彼女たちの周りだけ、吹雪が止み、柔らかな陽光が差し込んだのだ。
目の前で、巨大な魔物が雄叫びを上げながら兵士をなぎ倒している。
だが、その魔物がエリザベートの横を通り過ぎる際、まるで彼女たちがそこに存在しないかのように、すり抜けていった。
剣のぶつかり合う音も、絶叫も、彼女たちの耳には届かない。
聞こえてくるのは、どこか懐かしい子守唄のような心地よいメロディだけ。
『……お姉様。……なんだか、とっても暖かいわ。……ここ、本当に戦場なの?』
レティシアが不思議そうに首をかしげる。
エリザベートも、構えていたバルムンクをゆっくりと下ろした。
『分からないわ、レティシア。……でも、私の周りだけ、まるで時間が止まっているみたい。……まるでお城の庭でピクニックをしている時のような……そんな穏やかな気分になるの』
彼女たちは、血飛沫が舞い、大地が裂ける地獄の真っ只中を、鼻歌でも歌い出しそうな足取りで悠々と横断し始めた。
魔物の牙も、流れ弾の矢も、すべてが彼女たちを避けていく。
まるで、世界そのものが彼女たちを愛で包み、守っているかのように。
一方、王宮の水晶球を見つめていたミリアは、目を見開いて硬直していた。
「……な、何ですの、これは……。なぜ、魔物たちが無視をするのです!? すぐそこに獲物がいるのに! なぜ襲わないの!?」
ミリアが水晶球を叩き割らんばかりに叫ぶ。
彼女に見える映像では、魔物たちが狂ったように暴れている。
だが、なぜかエリザベートたちだけが、その暴力の嵐の中を涼しい顔で歩いているのだ。
「……ククッ、ハハハハハ! 見ろよ、ミリア! あの女、あまりの絶望に正気を失って、戦場を散歩道だと思い込んでいるらしい! 魔物たちも、あまりの狂いっぷりに毒気を抜かれたんだろう。死人を食う趣味はないってわけだ!」
俺は椅子から転げ落ちんばかりに笑い声を上げた。
胃から込み上げる血を、笑い声に紛れて飲み込む。
視界が白黒に反転しかけているが、口だけは止まらない。
「面白い、実に面白いよ! 地獄の戦場を、少女たちがピクニック気分で歩く。……これ以上の喜劇があるか? ああ、愉快すぎて涙が出てくるよ……ッ!」
俺は目元を拭う。そこにあるのは涙ではなく、目から溢れ出した血だったが、暗がりにいるミリアには分からない。
ミリアは悔しそうに歯噛みし、俺の狂った笑い声に苛立ちを募らせている。
「……ヴィンセント様、笑いすぎですわ。……不気味ですわよ。……ええ、いいわ。戦場を抜けた先に何が待っているか、あの方もすぐに思い知るでしょう。……あの方の幸運、どこまで続くか見ものですわね」
ミリアは忌々しそうに部屋を出ていった。
一人になった俺は、床に這いつくばりながら、激しく咳き込んだ。
口から吐き出された鮮血が、絨毯を赤く染める。
(……ハァ、ハァ……。ピクニック、成功だ。……エリザベート、レティシア。……今はそれでいい。……地獄を歩いていることなんて、知らなくていいんだ)
俺は震える指でデバッグアイを操作し、彼女たちの「ピクニック」が戦場の終わりまで続くことを確認した。
身体が、内側からボロボロと崩れていくような感覚。
それでも、彼女たちが穏やかな顔で歩いているのを見るだけで、俺の痛みは一瞬だけ遠のいた。
(……もっと強くなれ、エリザベート。……俺がこの世界を『イージーモード』に書き換えている間に。……お前が、この腐りきった世界を終わらせるその日まで……)
俺は意識を失う直前、血に濡れた手で自分自身にパッチを当てた。
死ぬな。まだ死ぬな。
俺にはまだ、やるべき「悪行」が山ほど残っているのだから。
【デバッグアイ:経験値を獲得】
【レベルアップまで残り:一千九百五十】
【身体侵食率:六パーセント】
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次回お楽しみに。




