第16回:妹からの手紙「お兄様は病気なの」
財務局から着服した莫大な軍資金が、俺の息のかかった商会を経由して、北の地へと流れ始めた。
これでエリザベートが飢えることはない。
冬を越すための装備も、最高級のものが整うはずだ。
俺は執務室の豪華な椅子に深く腰掛けた。
窓から見える王都の景色を眺めながら、心の中で全力のガッツポーズを決める。
(ふふ、完璧だ。これでエリザベートは『不屈の令嬢』から『反撃の聖女候補』へと着実にクラスアップしていくだろう。俺のMPと引き換えに贈った軍用ブーツで、雪山をバリバリと踏破してくれ)
表面上は、重税で苦しむ民のことなど微塵も気にかけない。
そんな冷酷な王子の仮面を、俺は一秒たりとも崩さない。
(よし、少し落ち着いた。今のうちに隠し場所にある彼女の刺繍ハンカチでも確認して、精神を安定させるとしよう。推しのグッズを確認するのはオタクの基本だからな)
俺がクローゼットの隠しスペースに手を伸ばそうとした、その時だった。
――バタン!
扉が乱暴に開け放たれた。
「ヴィンセント様、失礼いたしますわ! なんだか、とっても『面白そうなもの』が届いておりますのよ?」
入ってきたのは、言うまでもなく聖女ミリアだ。
彼女の手には、一通の小さな封筒が握られていた。
封蝋には、見覚えのある王家の紋章がある。
ただし、俺が使っているものよりも少しだけ小ぶりで、どこか可愛らしい意匠だ。
俺の心臓が跳ねた。
それは、妹のレティシアが使う専用の印章だったからだ。
「レティシアからの手紙か。……ふん、またあのガキ、懲りずにエリザベートの赦免でも乞うてきたのか? 目障りなことだ」
俺の声は、氷のように冷たく響く。
だが、俺の視界には、俺だけにしか見えない青いウィンドウが展開されていた。
【解析対象:レティシアの手紙】
【状態:筆跡の乱れ(不安)、微かな涙の跡(座標:中央下部)】
【内容:隠しパラメータなし。ただし、便箋の裏に『魔力の共鳴痕』を検出】
(……魔力の共鳴? なんだ、レティシアの奴、まさか何か危険な術式でも組み込んだのか?)
ミリアは、俺の隣に座ると、遠慮なくその手紙を開封した。
彼女は俺のプライバシーなど一切尊重しない。
俺のすべてを支配しているという自負が、彼女にこの無礼を許しているのだ。
「あら、ヴィンセント様。読んであげますわね。……ええと、『大好きだったお兄様へ。最近のお兄様は、とっても変です。まるで別の恐ろしい病気に罹ってしまったみたい』……ですって! うふふ、お兄様を病気扱いだなんて、失礼な妹君ですこと!」
ミリアが鈴を転がすような声で笑う。
その言葉を聞いた瞬間、デバッグアイが激しい赤色の警告ログを走らせた。
【警告:メインキャラクター(レティシア)による、プレイヤーの秘匿状態への肉薄を検出】
【判定:この疑念がミリアに共有された場合、支配スロットの再計算及び強制パージが発生する確率が80パーセントまで上昇します】
(……マズい。これは単なる『計算結果』だ。だが、その数値が絶望を物語っている。レティシアが俺の『異常』を指摘すればするほど、ミリアは俺が魅了されていない可能性に気づく。そうなれば、俺は殺され、レティシアも無事じゃ済まない)
ミリアは楽しそうに手紙を読み続ける。
「『お兄様、ミリア様はとても綺麗だけれど、お兄様から大切なものを奪っている気がします。お兄様、目を覚まして。病気なら、私が治してあげます。……だから、あのお姉様にひどいことをするのはもうやめて』……。まあ、ヴィンセント様。私、病原体扱いされてしまいましたわ。悲しい。とっても悲しいですわ、ヴィンセント様」
ミリアが、潤んだ瞳で俺を見上げてくる。
だが、その瞳の奥にある真っ赤な眼球が、不機嫌そうにギョロリと動いたのを俺は見逃さなかった。
彼女の影から伸びる触手が、イライラと床を叩いている。
彼女はレティシアのこの『正論』に、明確な殺意を抱き始めているのだ。
「……ハハッ、ハハハハハ! 病気だと? この俺が? 笑わせてくれるな、あの小娘は!」
俺は椅子から立ち上がり、わざとらしく大笑いしてみせた。
内心では「レティシア、お前の言う通りだよ! 俺は最高に病んでる! この化け物の隣にいるだけで精神がすり減って死にそうなんだよ!」と絶叫しながら。
「ミリア、君が病原体なわけがあるまい。君こそが、俺にとっての唯一の癒やし、唯一の特効薬だ。それを病気などと呼ぶレティシアこそ、頭が腐っている。あのような女を姉と慕い、この俺に意見するなど……。王家の面汚しもいいところだ」
俺はミリアから手紙を奪い取ると、それをグシャグシャに丸めた。
そして、暖炉の火の中に投げ捨てる。
紙が赤々と燃え上がる。
その火影に照らされた俺の顔は、自分でも驚くほど醜悪な悪役の笑みを浮かべていた。
「レティシアは、俺がエリザベートを追放したのが『病気』のせいだと思いたいらしい。……滑稽だな。俺は自分の意志で、あの女を捨てたというのに。……ミリア、あの子にはもっと強い『薬』が必要なようだ。……そうだろう?」
ミリアは、俺の豹変に満足したのか、クスクスと喉を鳴らして俺の腕に絡みついた。
「ええ、そうですわ、ヴィンセント様。……ふふ、あんな可愛い妹様が、貴方に絶望して、泣き叫ぶ姿……。想像しただけで、お腹が空いてしまいますわ。……ねえ、ヴィンセント様。あの子の心を、私がじっくりと『治療』してあげてもよろしいかしら?」
(……させねえよ。絶対にお前にレティシアの心は触らせない)
俺はデバッグアイで、ミリアの支配スロットの状況を確認した。
現在、スロットに空きがある。
レティシアをそこに嵌め込もうとするのは時間の問題だ。
俺はシステム・ディレイの零コンマ零五秒を使い、脳内で高速の思考処理を行った。
「……いや、ミリア。あの子の相手は俺がする。中途半端な支配では、あの子の我が儘は治らない。俺が、あの子の希望を一つずつ丁寧に潰してやり、自分から君の足元に跪くように仕向けてやる。それが、兄としての最後の教育だ」
俺の提案は、ミリアにとって『より残酷な遊戯』に聞こえたらしい。
彼女は「ヴィンセント様、本当に意地悪! でも、そんな貴方が大好きよ!」と俺に抱きついてきた。
ミリアが去った後、俺は暖炉の中で灰になった手紙を見つめた。
……病気。
レティシア、お前は本当に正しい。
俺は今、この世界という名の不治の病に侵されている。
けれど、この病を治すのはお前じゃない。
俺自身が、この世界のバグそのものになって、理を壊すしかないんだ。
俺はデバッグアイで、レティシアの部屋の様子を遠隔視した。
彼女は、俺からの返信がないことに怯え、部屋の隅で膝を抱えていた。
その瞳には、俺への恐怖と、そしてわずかながらの愛着が混ざり合っている。
(レティシア。……今は俺を憎め。病気のお兄様を、心の底から蔑んでくれ。その『正気』の憎しみこそが、ミリアの支配を跳ね返す唯一の盾になるんだからな)
俺は鼻から垂れてきた血を、エリザベートの刺繍ハンカチではなく、そこら辺にあった適当な書類で拭った。
大切なものは、まだ使えない。
俺の手が、完全に汚れきって、すべてが終わるその時までは。
視界の端で、経験値のバーが点滅した。
【デバッグアイの経験値を獲得】
【レベルアップまで残り:四百五十】
死ぬ気でデバッグを続けてやる。
妹を泣かせ、婚約者を追い出し、世界から罵られる『病気』の王子。
それが俺の選んだ、最高にハッピーな結末への最短ルートだ。
俺は、誰もいない執務室で、一人静かに狂ったような笑声を上げた。
その笑い声こそが、今、俺にできる精一杯の抵抗だった。
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次回お楽しみに。




