第14回:追放された彼女の持ち物が貧弱すぎて泣ける
鼻血を拭い、激しい耳鳴りを深呼吸でねじ伏せて、俺は扉を開けた。
そこには、春の陽だまりのような微笑を浮かべたバケモノ――聖女ミリアが立っていた。
彼女の赤い瞳が、室内をねっとりと這い回る。属性改変でオーガを焼き尽くした際の、あの「焦げた魔力の残滓」を敏感に嗅ぎ取ろうとしているのだ。
「ヴィンセント様、本当にお仕事中だったのかしら? なんだか、とっても……『遠くの誰か』を焼き殺したような、不吉で香ばしい匂いがいたしますわ」
ミリアが俺の胸元に顔を寄せ、クンクンと鼻を鳴らす。
俺の心臓はドラムを叩くように激しく脈打っている。だが、これを「恐怖」と悟られてはいけない。俺は即座に自分の感情をハックし、表面上の脈拍を「欲情による高揚」へと偽装した。
「……流石はミリアだ。鼻が利くね。……実はその通り、焼き殺していたんだよ。エリザベートが大切にしていた、俺との思い出の品々をね。あんな女の未練が部屋に残っていると思うだけで、吐き気がしてね。まとめて灰にしてやったのさ」
俺はミリアの細い顎をクイと持ち上げ、鼻先が触れ合う距離で冷酷に笑ってみせた。
実際には、オーガをハックして焼いた時の熱が、時空の歪みを伝って俺の部屋に漏れ出ただけなのだが、それを「愛憎による焼却」という物語にすり替えてやる。
ミリアは俺の瞳の奥をじっと覗き込み……やがて、満足そうに目を細めた。
「まあ、素敵。ヴィンセント様ったら、本当にあの方を嫌っていらっしゃるのね。うふふ、その憎悪の味……とっても美味しいわ」
首筋に刺さった触手が、ドロリとした歓喜を俺の神経に流し込んでくる。
危機は去った。俺は彼女の肩を抱き寄せ、部屋に置かれた古びた「遠視の水晶球」へと導いた。
「ところでミリア。ちょうどいい。……さっき、この魔法具で、あの女の惨めな様子を覗き見していたところなんだ。……映りが悪くてね、はっきりとは見えないが、君も見てみるかい? あの傲慢だった公爵令嬢が、泥を啜るように生きている姿を」
俺はあえて、市販されている低性能な水晶球を起動した。
ミリアに見えるのは、吹雪の中でぼんやりと動く灰色の影だけだ。
だが、その水晶球を凝視する俺の瞳には、デバッグアイによる高解像度な「真実」が重なって映し出されている。
誰にも見えず、俺だけにしか見えない青いウィンドウ。それが、吹雪の向こう側にいるエリザベートの姿を鮮明に描き出していた。
(……ああ、クソ。俺だけにしか見えないこの解像度が、今は恨めしいよ)
画面の中のエリザベートは、俺が「ゴミ」として送った魔導外套をしっかりと着込んでいた。
だが、その足元を見て、俺は思わず絶句した。
彼女が履いているのは、王都を出た時のままの、繊細な装飾が施された刺繍入りのパンプスだった。
ぬかるんだ泥と、凍てつく雪。
そんな過酷な大地を歩くために作られた靴ではない。
薄い革はすでにボロボロに裂け、彼女の白く細い指先が、寒さで赤紫に変色して露出していた。
彼女はその指先を、俺が属性改変で仕留めたオーガの「残熱」が残る地面に必死に押し当て、暖を取っていたのだ。
「ふふ、ヴィンセント様。この水晶球、本当に映りが悪いですわね。……でも、あの方が地面を這いずり回っていることだけは分かりますわ。まるで、道端に捨てられた野良犬のようですわね」
ミリアが鈴を転がすような声で笑う。
……野良犬。
俺の心の中のオタクが、怒りで爆発しそうになった。
(野良犬だと!? 寝ぼけたこと言うなよ、この寄生体! エリザベートのあの健気な姿が見えないのか? 絶望的な状況でも背筋を伸ばし、泥に汚れながらも誇りを捨てずに生き抜こうとしている……。あのボロボロの靴こそが、彼女の闘争の証なんだよ! 全人類、いや全デバッガーが涙する名シーンだろうが!)
だが、俺の口から出たのは、それとは真逆の罵倒だった。
「全くだ。あまりにも貧弱すぎて、見ていて虫唾が走るよ。……おい、見ろよミリア。あんな薄っぺらな靴で雪山を越えるつもりらしい。さすがは世間知らずの公爵令嬢だ。自分がどれだけ惨めな持ち物しか持っていないか、自覚すらしていないんだろうな」
俺はわざとらしく鼻で笑い、水晶球の中の霞んだ影を指差した。
「ミリア。……なんだか、あまりにも惨めすぎて、逆に気分が悪くなってきた。もっと徹底的に、あいつを辱めてやりたくなったよ。……そうだ。王宮の倉庫に、以前、反乱軍から没収した『鉄板入りの重たい軍用ブーツ』や、サイズが大きすぎて使い物にならない『分厚い羊毛の靴下』があったはずだ」
ミリアが不思議そうに小首を傾げる。
「そんな無骨なものを、どうするのですか? ヴィンセント様」
「決まっているだろう。……あいつに送り届けてやるのさ。『お前にはこんな、兵士が使い潰した汚物のような装備がお似合いだ』という嘲笑の手紙を添えてな。……繊細な靴すら履きこなせない無能な女に、鉄の重みで足を傷だらけにさせながら歩かせる。……あいつのプライドを、物理的な重みで粉々に砕いてやるんだよ」
ミリアは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにニチャァ……と、不気味な笑みを浮かべた。
「……まあ! ヴィンセント様、本当に、本当に底意地が悪いですわ! あの方の細い足に、むさ苦しい軍靴を強制的に履かせるなんて……。ああ、想像しただけでゾクゾクいたしますわ。ええ、すぐに手配させましょう」
(……よし。交渉完了。これで彼女に、最高級の防寒耐性を持つ軍用ブーツを、公然と送り届けることができる)
俺は内心でガッツポーズをした。
兵士が使い潰した汚物? 冗談じゃない。
没収品の中には、魔力付与が施された「疲労軽減」と「防滑」の機能を持つ、一級品の冒険者用装備が紛れ込んでいるのを、俺はあらかじめデバッグアイで確認済みだ。
それを「辱め」という包み紙でデコレーションして、彼女の元へ届ける。
俺は部屋に控えていた侍従を呼びつけ、ミリアの目の前で冷酷な命令を下した。
「おい、倉庫から一番無骨で、重たくて、可愛げのない軍靴を持ってこい。……あ、それから。中身を洗う必要はないぞ? あいつには『兵士の汗が染み込んだゴミ』だと言って渡せばいい。……もちろん、実際には魔法で完璧に滅菌・防臭処理をしておけ。あいつが変な病気にでもなって、すぐに死なれては面白くないからな」
俺はわざとらしく、ミリアに聞こえるように「死なれては面白くない」という理由を付け加えた。
ミリアは「ヴィンセント様は、遊び道具を大切になさるのね」と、すっかり俺の言葉を信じ切っている。
侍従が去った後、俺は再び水晶球を見つめた。
ミリアには見えないデバッグアイの補正映像。そこには、寒さで赤くなった自分の指先を、オーガの死骸の跡に残った微かな温もりに必死に押し当てているエリザベートがいた。
(……エリザベート。ごめんな。もうすぐ、変なメッセージと一緒に、最高に暖かい靴と靴下が届くから。……俺の評価はまた下がるだろうけど、君の足指が霜焼けで落ちるよりは、百万倍マシだ)
ミリアは、俺の腕に寄り添いながら、満足げに喉を鳴らしている。
彼女の「満腹度」は、俺の吐く嘘の毒気によって満たされ、支配の強度は増していく。
だが、それでいい。
彼女が俺を「最高の忠臣」だと思い込んでいる間だけ、俺はこの世界をバグらせることができる。
ふと、視界の端にデバッグアイのログが流れた。
【スキル:デバッグアイの経験値を獲得】
【レベルアップまで:残り550】
【現在のシステム・ディレイ:0.05秒】
レベルが上がるにつれ、俺の身体にかかる負担は増している。
鼻血だけではない。時折、内臓を直接握りつぶされるような鈍い痛みを感じるようになってきた。
システムによる、精神と肉体の不一致に対する「拒絶反応」だろう。
(……持ってくれよ、俺の身体。エリザベートがこの国を奪還しに来るその日まで。……俺が、彼女に『最高のバッドエンド』をプレゼントしてやるその日までな)
俺は、ミリアの冷たい手を取り、彼女の指先に恭しく口づけをした。
その唇の裏側で、俺は自分自身の吐き気と、そして彼女への剥き出しの殺意を、鉄のような意志で押し殺した。
エリザベート。君の持ち物が貧弱なのは、俺の責任だ。
だから、俺はこれから何度でも、君に「ゴミ」という名の「至宝」を投げつけてやる。
吹雪の中、彼女が空を仰いだ。
その瞳に宿った、消えない憎しみの火。
それこそが、俺がこの地獄で生き残るための、唯一の灯火だった。
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次回お楽しみに。




