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香草の庭で眠る影

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/06

第1章 眠草の香る朝


 風が変わった、とシエラは思った。冬の名残に湿った土の匂いがようやく薄れ、乾いた陽の気配が庭に降りる。青藍館の薬草園では、薄桃色の小花が曇った硝子越しに霞んでいる。眠草。煎じれば安眠、煮詰めれば毒。瓶の蓋で音を立てるたび、かすかな杏の甘い香りが鼻の奥に残った。

 剪定鋏を置き、棚の引き出しから麻の小袋を取り出す。細く刻んだ葉と蕾を混ぜ、ミントの粉を少量まぶす。眠草の重さを軽くするための工夫だ。結び目は二重の蝶。自分の手癖は、誰が見ても分かる。仕事とは、そういう跡だ。

 裏口の閂が半ば外れているのに気づいたのは、袋を十に揃えたあとだった。昨夜は確かに閉め、外からの風が入らぬよう重ね塗りの油で音を殺した。それなのに今朝は、扉の下に砂目の小さな筋が走っている。柔い靴底の跡。庭師のゴルドなら土の塊を落とすし、台所の娘マリアならもっと大股だ。見知らぬ足。

「嫌な合図だわ」

 独り言に、眠草の花が震えたような錯覚を覚える。屈んで菜箸の先で砂筋をたどり、鼻先で匂う。土、油、騎馬の汗……それに、王都の路地に立つ揚げ菓子の甘い匂い。端的にいえば、都会人の匂いだ。

 表の方から、乾いた蹄の音が響いた。その音は、粉砂糖を落としたように庭の上に散って、薄く消える。来客だ。めったに来ない。辺境の離宮に王都の馬車が差すと、館の空気そのものが固くなる。シエラは棚の布巾で指先を拭き、眠草の小袋をひとつだけ懐に滑らせた。


 玄関広間に出ると、侍従のリュートが既に客と向き合っていた。白い立襟、寸分違わぬ礼。彼の横顔はいつも凍った湖のようで、近寄ろうとする者の姿をよく映す。

「王都医務局の使者、セドリック殿。第二王妃様の病状について、聴取と検分の命を受けております」

 男は年のわりに頬が赤く、鼻の頭に粉が残っていた。旅の疲れと、甘いもの好き。手の甲に墨の跡。片付けの悪い文官だ。シエラは半歩進み出る。

「薬草係のシエラです。長旅の疲れに、香りの寝茶を」

 懐から取り出した小袋を両手で差し出す。使者は一瞬だけ何かを値踏みする目をしたが、すぐに受け取って笑った。

「心遣い、感謝する」

 リュートが横目でわずかにこちらを見る。その視線は「余計な貸しを作るな」と言っていた。シエラは受け流す。善意は毒にもなる。だからこそ、瓶に入れて扱う。

 挨拶が終わると、使者は王妃の寝所へ向かった。足取りは軽く、興味本位と職務が半々といったところ。リュートが後に続く。扉が閉じる音を、庭の風がさらっていった。


 昼、台所へ顔を出すと、マリアが大鍋の前で頬を膨らませていた。

「使者様、昼も甘いパンがいいって。おかず、手を付けないんですもん」

「甘いものが好きな人は、甘さで疲れを測るのよ」

「測りすぎです」

 半分笑って、半分呆れて、マリアは鍋をかき回す。鍋の湯気に、さっき渡した眠草と似た香りが混じる。シエラは鼻でその違いを確かめる。ミントはない。ラベンダーの茎の匂い。鍋の蓋を半ば閉じ、湯気に鼻を近づける。舌の奥に苦味が走り、目の裏で薄い紫が瞬く。

「ラベンダーは三本分でいいわ。五本入れたら、目が覚める香りよ」

「薬師様には、湯気も見えるんですね」

「匂いが見えるの。色で」

 マリアは羨ましそうに目を丸くした。匂いの色は、誰にでも見えるものではない。けれど、世界の輪郭は誰にでも匂う。そういう時にだけ、シエラは自分の嗅覚に救われる。


 昼餉の終わりごろ、広間に淡い騒ぎが走った。最初に駆け込んできたのはマリアだ。白粉のように血の気を失い、口をぱくぱくさせて言葉を掬い上げる。

「使者様が……お部屋で、倒れて……」

 沈黙が落ちる。青藍館は、悲鳴を知らない場所だ。けれど静けさはときに重石になる。シエラは肩布を掴み、マリアの背を軽く押した。

「案内して」


 使者の部屋は、南向きの小窓から春の陽が差していた。寝台の上、セドリックは仰向けに倒れ、開け放たれた口端に白い泡を残し、指先は葡萄の皮のように紫がかる。爪の下に薄い点々――痙攣で自分の皮膚を傷つけた跡。青酸系の典型。枕元には、見覚えのある麻袋。結び目は二重の蝶。自分の手癖。

 テーブルには茶器、湯の入った銅壺。茶碗の内側に光が跳ね、縁に薄い油膜が揺れる。鼻を近づける。眠草とミント、ラベンダー――そこに、杏仁の核の匂いが細く刺さる。梅核油。湯に溶ければ、色は出ない。

 舌の根が冷え、背中の皮膚がひやりと縮む。これは、誰かが用意しなければ生まれない香りだ。

「……あなたの袋を使って」

 背後でリュートの声。振り返ると、彼は直立したまま視線だけ落とした。

「言いたいのは分かるけれど、順番が逆よ」

「順番?」

「疑うなら、まず匂いから。これは私の袋じゃない。袋は私が作った。でも、中身は私のままじゃない」

 リュートは眉をわずかに動かしただけで、何も言わない。沈黙は、彼の同意の形だ。

 シエラは使者の喉元に指を当てた。まだ硬直が浅い。死は新しい。手のひらに墨の粉が落ちる。彼は死の直前まで何かを書いていた。机の上を見渡すが、紙は見当たらない。床にも、枕の下にも。あるべきものが、ない。

「報告書は?」

「見つかっていない」とリュート。

 シエラは小さく息を吸い、吐いた。匂いが入って、匂いが出る。その往復のあいだに、嘘は紛れ込めない。


     *


第2章 静かな死


 遺体を覆い、窓を開け、室の空気を入れ替える。甘さを帯びた杏の匂いが薄まると、不自然さが露わになる。部屋そのものの匂いは、旅の布や革、紙、油。毒の匂いは、そこに後から貼り付いた異物のように浮き上がっていた。

「小袋を渡したのは朝。誰が彼の茶を淹れた?」

「俺だ」とリュート。

「いつ?」

「昼の少し前。王妃様の診察が終わり、部屋に戻られたあとに」

「香草包に触れたのは?」

「触れていない。使者殿が自分で袋を開け、湯に沈めた」

「その茶器は、誰が洗っている?」

「台所の当番だ」

 マリアを呼んだ。彼女は強ばった手を握り合わせ、目を潤ませている。

「茶碗は朝、棚から。いつもの列の三番目。洗ったのは昨日の夕方。干して、そのまま」

「茶碗の内側、油は塗っていない?」

「そんなこと、しません」

 マリアの声は正しく怯えている。怯えの匂いは汗腺から出る。彼女の汗は塩と若い果実の匂いで、毒の匂いはない。

「王妃様は?」

「お加減は安定。お通じが少し」とマリア。余計な情報が混ざるのは、悪いことではない。嘘は、必要なことしか言わない。

 シエラは茶器と湯壺を布で包み、薬草園へ運んだ。温室の棚に器を並べ、内側を綿で拭う。拭い取った綿を小瓶に移し、匂いの沈殿を確かめる。眠草の青、ミントの淡い緑、ラベンダーの薄紫。その奥で、杏の核の無色が光る。色は見えないが、手触りがある。舌の付け根が軽く痺れる。

「これは、袋ではない」

 袋を解き、中身を嗅ぎ、指で砕き、粉にして湯を落とす。湯気が立ち上る。眠草とミント、ラベンダー。毒の輪郭はない。つまり、毒は茶器のほうだ。杯の縁か、内側か、湯の注ぎ口か。油膜があった。梅核油で練った青酸は、薄く塗れる。

 温室の外で砂利が鳴る。リュートが立っていた。彼はいつだって影のように物音が少ない。

「王都へ知らせを出した。検死官が来るまで、遺体に触るなと」

「検死官は匂いが見える?」

「規則だ」

「規則は死因を嗅がない」

 リュートは眉をわずかに寄せた。その顔は、不愉快というより面倒事を一つ増やされた書記のようだ。彼の袖口に、微かな香りを拾う。杏仁。昨日から、薄くついている。今日のは少し強い。

「袖口、洗った方がいい」

 彼は自分の袖を見る。「なぜ?」

「香りは残る。あなたの忠告も、残る」

「忠告?」

「賢い者は長生きしない、とあなたはさっき言った」

 リュートの目が一度だけ笑った。珍しいことだ。笑いの匂いは湿った木の匂いに似ている。

「君は自分が賢いと知っている」

「知っていると長生きできないなら、忘れるしかない」

「忘れられるのか?」

「匂いは忘れない」

 彼は何も言わず、ひとつ息を吐いた。その息にも杏仁の気配が混じった。近くで、誰かが梅を潰したのだ。台所か、庭か。境目は匂いに薄い。


 夕刻、遺体は涼しい納戸に移された。館の者は皆、沈黙の殻に入る。王妃は寝所にいて、外のことには関与しない。関与しない、という関与の仕方。シエラは薄暮の庭を歩き、眠草の花弁に指を触れた。花弁は、冷たい。冷たさは匂いをはっきりさせる。風が走る。風にも匂いがある。遠いところから、焼けた砂と馬の汗。近くでは、油。梅核油。誰かが、どこかで不器用に瓶の口を拭った。

 足音。庭師のゴルドが鍬を肩に歩いてくる。彼の靴は大きく、土を落とす。匂いは湿った土と樹皮で、油の匂いはない。

「薬師様、今日の眠草はよう咲いとる」

「咲きすぎると、寝過ぎるわ」

「わしもよう寝た。昼寝しすぎて腰が痛い」

 嘘のない会話は、証拠にならない。けれど、嘘のない匂いは、嘘のある匂いを浮かび上がらせる布地になる。

 温室に戻ると、扉の前に紙片が差し込まれていた。拾い上げ、匂いを嗅ぐ。新しい墨、乾く前に砂を振った匂い。王都の文具。開くと、たった二行。

〈報告書は渡さない。渡せば、王妃様が壊れる〉

 崩した筆跡。使者の字ではない。リュートの字でもない。マリアでも、ゴルドでもない。王妃の――はずがない。彼女は字を人前で書かないし、この文面は外に向けたものだ。外に、ということは、館の中に“外”がいるということ。紙に顔を寄せ、もう一度匂う。薄い香。幽かに、白檀。王妃の部屋だけに焚かれる香の匂い。


     *


第3章 疑いの庭


 王妃の寝所は、障子に青い絹が張られ、いつも薄暮のように静かだ。香炉から白檀が細く立ち上り、糸のように天井へ消える。寝台の上、第二王妃リヴィアは上半身を起こし、枕に背を預けていた。色の薄い女。美しいというより、色素を抜かれた羽のように軽い。けれど、その軽さは時に人を切る。

「おいで、シエラ」

 呼ばれて入ると、王妃は微笑んだ。その笑みには、疲れと諦めのなかに柔らかい棘が一本、混じっている。

「使者殿のことは聞きました。お気の毒に」

「お気の毒、という言い方は、少し他人行儀です」

「わたくしはいつだって、他人行儀よ」

 返す言葉に困る正直さだ。正直はいつも危うい。王妃の枕元の卓に置かれた香炉の蓋を、シエラは指先でずらした。香の匂いが濃くなる。白檀に、微かな杏仁の名残。王妃の衣の袖にも、薄い。

「昨夜、梅の夢を見ました」

 王妃は唐突に言った。夢の話は、たいてい嘘だ。けれど、匂いは本当だ。

「庭一面に梅が落ち、わたくしはそれを拾っては瓶に入れるの。でも瓶の口が小さ過ぎて、種が詰まってしまう。目が覚めたら、胸が苦しくて」

「夢は身体の言い訳です。胸が苦しいから、瓶を詰まらせる夢を見る」

「詰まりは、わたくしのせい?」

「詰まりは、詰まるべくして詰まる」

 王妃は微笑み、目を伏せた。睫毛が薄い影を落とす。

「使者殿は、わたくしの“出自”を確かめに来たのでしょう?」

「王都は何でも確かめます」

「確かめることは、わたくしを軽くする?」

「軽くもし、重くもする。ただ、匂いは変わる」

「匂いは正直ね」

「正直は、時々不親切です」

 王妃は小さく息をつき、言葉を置く場所を探すように指で布団の縁を撫でた。指の節が白い。薬指には指輪がない。彼女の身に付く香りは白檀と薄い蜂蜜。青酸の香りは、衣にうっすら絡んでいるだけ。近くにいた、という程度。直接、毒に触れてはいない。

「シエラ、あなたはわたくしを助けてくれる?」

「助けることはできます。でも、救うことはできません」

「違うの?」

「違います」

 王妃は目を細めた。半分笑い、半分泣く手前の目。沈黙が、風鈴のように響く。

「……リュートを、責めないで」

 袖の内側で、心臓がひとつ強く打つ。言葉の位置が、少し前に出た。

「責めるとか、責めないとか、まだ決めていません」

「決めるのは、あなた?」

「匂いが決めます」

「便利ね」

「不便です」

 王妃の声が少しだけ震えた。震えの匂いは金属の匂い。冷たい刃物を舌に当てたときの鉄の味。

「わたくしは、何も命じていない」

「命じないで、知ることはできます」

 王妃は目を閉じた。睫毛の影が深くなり、白檀の煙がその影をくぐっていく。


 寝所を辞し、廊下に出たところで、リュートが柱の影から現れた。立ち位置を選ぶ男だ。影は彼に似合う。

「王妃様は?」

「夢を見たそうよ。梅の夢」

「詩的だ」

「詩は、時々、証拠のふりをする」

 彼は薄く笑った。袖口にまだ杏仁。今日のは廊下の香と混じって、わずかに薄まっている。彼が袖を擦ったのだ。

「君は、俺を疑っている」

「疑わないで済むほど、あなたは単純じゃない」

「褒め言葉に聞こえない」

「褒めてないから」

「君は正直だ」

「不親切だとも言われる」

 ふたりの間に、風が通る。廊下の隅に置かれた壺の中の花がかすかに揺れ、花粉の匂いが飛ぶ。花は王都からの土産。王都の匂いは、館のどこに置いても馴染まない。

「昼前、君は使者殿の部屋に行った?」

「行った。茶を淹れた」

「その茶器は、君が選んだ?」

「棚の三番目。いつもの場所」

「“いつも”は安心を装うから、厄介ね」

 リュートがわずかに目を細めた。彼は言葉を選び、選ばないことも選ぶ。

「君は一人で夜遅くまで温室にいた。危ない」

「危ないことは、匂いが先に来る」

「匂いは見えるのか?」

「あなたが思うより、よく」

 彼は頷いた。頷きの角度が、少しだけ曖昧だった。その曖昧さが、彼の忠誠と似ている。


 台所に戻ると、梅の種が詰まった壺が棚奥に押し込まれていた。昨日より量が減っている。マリアに尋ねると、彼女は首を振る。

「料理には使いません。甘露煮は季節じゃないし」

「誰が触れる?」

「庭師さんは梅は嫌い。リュート様は台所来ない。王妃様は……来ない」

 壺の縁に、拭き残した油の輪がある。指で触れ、鼻へ。梅核油。台所の油と違う。小さな瓶から垂らした痕だ。壺の横に、使い込んだ布が小さく丸められている。布からも杏仁。雑な拭い方だ。雑は、慣れていない証拠。

「マリア、その布、誰が?」

「知りません。朝にはもう」

 朝には、もう。つまり、夜のうちに誰かがここで瓶を扱った。夜、台所に出入りできるのは、厨房の当番、夜警、侍従。あるいは、王妃の使い。王妃の使いは――リュート。

 けれど、結論を急ぐ匂いほど危険なものはない。匂いの線を一本ずつたどる。庭師の小屋、裏口、温室。裏口の閂は朝、半ば外れていた。誰かが夜に通った。柔らかい靴底。王都の靴。王妃の寝所に入る時、床板が鳴らないように薄底の靴を履くのは、侍従。王妃の書きつけに混じっていた白檀の香の紙片。文は外へ向けて書かれていた。外へ伝えるのは、内の者の役目。リュートの袖には杏仁の匂い。彼は茶器を扱った。触れずに淹れることはできない。彼は賢い。賢い者は、雑を装うことがある。油の拭い痕は雑。装いか、本当か。

 温室の棚に茶碗を並べ、縁を指で撫で、唇に軽く当て、舌先でわずかに触れる。痺れはごく薄く、そこだけに残る。そこに塗られた。飲み口。誰かに飲ませたいなら、飲む人の唇に触れる場所を狙う。狙いが正確なのは、愛か、憎しみか、忠誠か。

 夜、温室のガラスに自分の影が映る。影は薄く伸び、眠草の列を横切る。懐から先ほどの紙片を取り出し、灯下に透かす。繊維の走りは王都の紙。水で濡らすと、白檀の香がわずかに立つ。王妃の部屋の香炉と同じ調合。王妃が知らないはずがない。紙片は、彼女の部屋の机の引き出しの紙束から切り取られたのだ。切り口の繊維がまだ毛羽立っている。今日の朝、あるいは昨夜。

 足音。扉がわずかに開き、リュートが姿を見せた。彼は灯火の手前に立ち、光を遮る。

「また夜更かしだ」

「眠れない人への処方は、たいてい眠れない」

「君自身が眠る処方は?」

「毒」

 彼は小さく笑った。さっきよりも、笑いが近い。袖の杏仁は薄い。洗ったのだろう。彼の手が、扉の縁に触れる。指先に小さな擦り傷。油で滑った痕に似ている。

「検死官は明日の正午に着く。王都は、君の調合した袋を調べると言っている」

「どうぞ。袋は無実」

「無実でも、形は君のものだ」

「形は、嘘に使われやすい」

「真実も」

 会話は、二人の間で静かに折り畳まれていく。リュートは扉から身を離し、闇の方へ下がった。闇の匂いは、何もない匂いではない。冷えた石、濡れた木、眠る土。そこに、人の呼気が混ざると、世界は狭くなる。

「君は、何を嗅いだ?」

「罪の香りは、似ていない」

「誰とも?」

「ええ。誰にも似ていない。けれど、誰にも似ている」

「詩的だ」

「詩は、時々、真実の輪郭線だけを描く」

 リュートは頷き、言葉を置いた。

「王妃様は、守られるべきだ」

「守られるべきものは、守られる時に壊れる」

「壊れないように守るのが、俺の仕事だ」

「壊さないように暴くのが、私の仕事」

 彼は一瞬だけ目を伏せ、それから目を上げた。そこで灯が揺れ、彼の瞳に小さな火が映る。火は、燃えるものがある限り続く。

「明日、話をしよう」

「今ではなく?」

「今は、まだ香りが濃すぎる」

 扉が閉まり、温室は再び静かになった。眠草の列に身を寄せ、シエラは瓶の蓋をひとつずつ確かめる。音が階段のように続き、その段差を登るたびに、心が少しずつ別の高さに移っていく。高くなれば、庭全体が見える。低くなれば、土の粒が見える。どちらも、必要だ。


 夜の底で、白檀の香がひときわ細く伸びた。王妃の部屋からだ。風は、匂いを運ぶ。匂いは、記憶を運ぶ。記憶は、罪を運ぶ。罪は、愛を運ぶ。愛は、毒にも薬にもなる。


第4章 香りの矛盾


 翌朝の青藍館は、不自然に静かだった。

 マリアは厨房に籠り、王妃は寝所から出てこない。

 庭師は昨夜から戻らず、館の空気は閉ざされた瓶の中のようだ。


 シエラは、温室の中で小瓶を並べていた。

 茶器から拭い取った綿を粉砕し、水と混ぜて沈殿を観察する。

 やがて浮かんできたのは、わずかな青い膜。

 「――梅核油ね」

 口の中で言葉を転がすように呟く。


 毒は眠草ではない。

 香草包の中身もすり替えられてはいない。

 ならば毒を仕込めるのは――茶器の内側だけ。

 杯の縁に塗り、乾かせば、飲む瞬間にだけ溶ける。


 問題は“誰が塗ったか”。

 茶器を棚から出したのはマリア。

 茶を淹れたのはリュート。

 そして飲んだのは使者本人。

 だが、毒の濃度は「飲む人間の重さ」に合わせてあった。

 つまり、分量を知る者が塗った。


 ――この館で、分量を知る者は私しかいない。


 そう呟いた瞬間、背後から声がした。

 「まるで自分を疑うみたいですね」

 リュートだった。

 夜明け前に見た彼の顔よりも、今日は穏やかだった。

 穏やかさの中に、どこかで諦めの匂いが漂う。


 「あなたが毒を塗ったの?」

 「もしそうなら、あなたはどうする?」

 「嗅ぎ取って、瓶に詰める」

 「瓶?」

 「証拠という名の、香りの保存瓶よ」


 リュートは苦笑し、袖を軽く掴んだ。

 「君は本当に、匂いの中でしか生きていないな」

 「それ以外の世界は、息苦しいの」

 「息苦しい世界で、王妃様はどうなる?」

 「……それを聞きに来たの?」


 リュートは一歩、近づく。

 「使者が持っていた報告書。王妃様の“出自”が書かれていた。

  彼女が平民出であることを王都が公にすれば、廃妃は免れない。

  だから、彼を止めた。俺が」


 淡々とした口調だった。

 けれどその瞳の奥に、焦げつくような痛みがあった。


 「王妃様は知らなかった」

 「それは本当?」

 「少なくとも――知らぬふりをした」


 シエラは目を閉じた。

 白檀と杏仁の香りが混ざり合い、記憶が揺らぐ。

 忠誠、愛、罪、そして沈黙。

 どれも匂いの成分は似ていて、色だけが違う。


 「あなたは彼女を守ったつもりなのね」

 「それ以外、俺には何もない」

 「でも、守るために壊したのよ」

 「壊さなければ、王妃様が壊れる」


 理屈と狂気の境界線を歩く声だった。

 シエラは小さく首を振った。

 「毒は私が見つける。でも、罪を嗅ぎ分けるのはあなたよ」


 リュートの表情が一瞬揺れ、唇が微かに震えた。

 その震えは、香の糸よりも短く、脆かった。


第5章 王妃の罪


 王妃リヴィアは、翌日、面会を望んだ。

 薄暗い寝所に入ると、彼女は起き上がっていた。

 その顔には、疲れよりも覚悟が滲んでいた。


 「――シエラ、あの子は、言いましたか」

 「あの子?」

 「リュートです。彼は、また“罪を自分に背負う”と言ったでしょう」


 シエラは黙って頷く。


 王妃は長い沈黙のあと、静かに語った。

 「わたくしは……王の前では“貴族の娘”ということになっている。

  でも本当は、薬師の娘。あなたと、そう変わらない」


 「薬師の……娘?」

 「ええ。昔、王の病を治した父が功を認められたけれど、

  平民のままでは妃にはなれない。だから、出自は作られた」


 王妃の声が微かに震えた。

 「報告書には、その“嘘”が記されていた。

  わたくしが彼に告白したの。信じたかったのよ。

  でも彼は王都に報告すると言った。……それで、あの子が――」


 言葉が途切れた。

 香炉の煙が揺れ、杏仁と白檀が再び混ざる。


 シエラは息を吸い、吐いた。

 「あなたは止めなかった」

 「止められなかったの」

 「それが罪よ」

 王妃は微笑んだ。

 「罪は、香りと同じ。風が吹けば、いずれ消える」

 「でも、瓶の中には残る」

 「瓶?」

 「あなたの心よ」


 王妃の瞳が揺れた。

 その中に映る自分の顔が、まるで鏡のようにひび割れて見えた。


第6章 香草の庭で眠る影


 その夜、リュートは護送の準備を命じられた。

 王都の馬車が門前に止まり、兵が二人立つ。

 青藍館に、春の風が吹き抜けた。


 シエラは温室の前で、最後の瓶の蓋を閉じていた。

 リュートが近づき、微かに笑う。


 「君は、瓶に何を閉じ込めた?」

 「匂いと、嘘と、私自身」

 「重くない?」

 「重いからこそ、沈むの」


 彼は手を差し出した。

 掌には、ひとつの白い花。

 「眠草の花。王妃様の部屋から持ってきた」

 「彼女の香りね」

 「いや、君の香りだ」


 風が花を撫で、淡い香りが舞う。

 杏仁の気配がまだ彼の袖に残っていた。

 シエラは微かに目を伏せた。


 「あなたは、これからどうなるの?」

 「罰を受ける。それでいい」

 「それで、彼女は救われる?」

 「救われなくても、俺がそう信じればいい」


 シエラは唇を噛んだ。

 「信仰と毒は似てるわね。どちらも、少しずつ蝕む」

 「なら、君は毒の神だ」

 「毒は人を選ばないわ」


 沈黙。

 リュートは、静かに花を渡して去った。


 馬車の音が遠ざかり、青藍館に再び静寂が戻る。

 風が吹き抜け、温室の瓶がわずかに鳴った。


 シエラは花を瓶の上に置き、囁く。

 「毒も愛も、使い方次第」


 夜の庭に、眠草が咲き乱れる。

 香りは薄く、しかし確かに残る。

 人は皆、誰かの香を抱いて生きる。

 毒を嗅ぎ分ける者は、心の毒も嗅ぎ分けてしまう。


 シエラは空を仰ぎ、風に向かって微笑んだ。

 「罪の香りは、誰にも似ていない」


 そして瓶の蓋を、そっと閉じた。

 音は小さく、それでも世界の終わりのように響いた。


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