5 〜 死地 〜
「ほらぁ、やっぱりいたじゃない?」
「…………」
楽しそうに大鎌を回すアリシアの後ろから、狼炎が彼女に負けず劣らずの殺気を纏って続いて姿を見せる。
「しかも、大物中の大物よ。だから言ったでしょう? 私の勘は当たるって」
「……ふん」
饒舌なジャンヌにうんざりした様子の狼炎だが、目の前の光景に殺気を隠しきれないのは彼女以上だった。
「はじめまして、アリシア・エイトテイル」
「アポイントメントは受け付けていないのだけれど?」
「まぁ、良いじゃない。私たちはあなたに会えることを心より望んでいたのよ?」
「押し売りは遠慮させて頂いています」
「辛辣ねぇ」
全身に突き刺さるような殺気を受けてなお、アリシアは淡々とジャンヌと言葉を交わす。
「人の家のドアをぶち壊してまで入ってくる人に、親切にお茶を出す文化を私は知りませんよ。私とご近所付き合いがしたいなら、奏のようにちゃんと差し入れを持ってくるように心掛けてください」
「まぁ、良いじゃない。どうせ、私たちはそんな間柄にはなれないもの」
「そうですね」
軽口の応酬だが、水面下では互いへの隠しきれない嫌悪感が溢れ出ていた。
「痛ってぇ。ったく、何なんだよ、お前等は――」
そして、ようやく奏が机の山から体を持ち上げる。
「大丈夫ですか、奏?」
「心配するならちゃんと心配しろ。ちょっと頭打ったじゃねぇか」
「大丈夫そうで、何よりです」
完全な不意打ちではあったが、ジャンヌの漏れ出た殺気のおかげで不意打ちはどうにか防ぐことができた。
代わりに教室の端まで弾き飛ばされたが、その代償が小さなコブ一つだったのは格安だろう。
「おい、ジャンヌ、あのゴミがまだ生きてるぞ?」
「だって、最初から殺す気なかったんだもの」
「チッ――」
「そんなに怒らなくても良いでしょう? どっちにしろ、死ぬのは一緒だし。それに自分で殺したがっていたでしょう?」
「物騒な話を本人抜きで進めるなよ」
本人を目の前に勝手に生殺与奪を握らないで欲しい。
失礼にも程がある。
「でもねぇ、忍霧の。君はもう過程はどうあれ、懲罰対象だから死んでも文句は言えなの。人権とかそういうのはもうないのと同じなのよ」
「意味が分からん」
「彼女が何者かはきちんと理解しているのかしら?」
その言葉の意味は理解していた。
ヘカトンケイルが――魔女狩り機関のエージェントが二人も揃いも揃ってご足労した上で、これだけの殺意を向けてきている。
奏だってバカではない。
要するに――
「コイツが魔女ってことだろう?」
アリシア・エイトテイルは魔女である。
これまで散々、本人が口にしていた通り、彼女は本物の魔女だったというわけだ。
「はい、お利口さん。お姉さん嬉しいわぁ」
「まさか、お前みたいなぐぅたらな魔女がいるとは思わなかったよ」
「失礼ですね。私はずっと言っていたじゃないですか」
「あれを信じるヤツなんて、そうそういないからな?」
そもそも魔女と謀ることは国際法で禁止されている。
もし、行政にでもバレたらそれだけで罰金モノ。
それで済めばまだ良い方で、最悪魔女狩り機関による極刑もあり得る。
それこそ今回のように。
なんとか誤解を解いて、お帰り願いたいところだが、当の本人が否定する気配がない。
どころか、肝心のヘカトンケイル側もアリシアのことを知っていると見える。
これだけの状況証拠が揃ってしまえば、否定できる材料を探す方が難しい。
認めるしかない。
アリシア・エイトテイルは魔女である。
「しかし、君はとんでもないタヌキだねぇ、忍霧の」
「何だよ。めんどくさい押し問答は嫌いなんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」
「ふふん。良いねぇ。話が早い。そういうのは嫌いじゃないわよ」
中途半端に言葉を濁すのは互いに好まない。
「君も知ってると思うけど、 魔女の擁護は重罪なのよ?」
「それは該当する魔女がメイギスだった場合だろ?」
いくら魔術に疎い奏でも、国際魔女法くらいは流石に知っている。
魔女とはヘカトンケイルに登録されて初めて魔女として認知される。
そうでない魔女の擁護、秘匿は罪となる。
その場合、魔女がウィッチとして登録された場合は軽罪で済むが、そうでない場合、つまりメイギスとして判別された場合は重罪となる。
とはいえ、それも魔女がメイギスだと判別された場合だ。
「だから、君はそのメイギスを擁護したんだよ」
「は?」
「君は本当に何も知らないんだねぇ。御愁傷様としか言いようがない」
最高の喜劇を観覧したかのように満面の笑みでジャンヌはかの魔女を指し示す。
「彼女はメイギスだ」
この世界には二種類の魔女がいる。
良い魔女はウィッチと呼ばれ、世界中から敬意を持って崇められる。
そして、悪い魔女はメイギスと呼ばれ、悪意、畏怖の象徴として恐れられる。
現在、魔女として登録されている存在は百四十三名。
その内の約八割が、ウィッチだ。
残りの二割、メイギスとして登録された魔女は、当然、討伐対象として国際的に指名手配されることになる。
だが、その討伐実績はあまりにも少なく、魔女という存在の恐ろしさの証明に他ならない。
事実、討伐履歴のほぼ全ては魔女狩り機関――ヘカトンケイルのエージェントによるもので、完全討伐となるとその数は更に少ない。
討伐には成功したモノの、封印するのが精々というのが一般的だ。
それほどまでに、メイギスは強く、厄介だ。
厄災の象徴として語られるのも当然。
「登録ナンバー000。最悪にして災厄の魔女、アリシア・エイトテイル。全ての始まりにして、原初の魔女」
「っ……」
予測は、できていた。
しかし、まさかメイギスだとは思っていなかった。
メイギスとして登録されるにはそれなりの理由がいる。
一番ベーシックなのは、大規模殺害だ。
それも十や百という規模ではない。
千や万という規模、それこそ街が一つ丸ごと滅ぶ、または傾国レベル。
まさに災害、災厄と呼ばれるだけの規模を犯して、ようやくメイギスとして殲滅登録がなされる。
なぜ、その規模までいかなければ登録されないかと言えば、その前の段階で既に魔女狩り機関によって討伐されてしまうからである。
その規模まで討伐されない時点で魔女としての実力は既に折り紙付きというわけである。
奏だって冒険者を目指している身である以上、魔女については学んでいる。
なんだったら冒険者を目指す者にとって、魔女についての知識は基礎の基礎。危険なクエストに関わることがあれば、魔女の影がちらつく可能性はゼロではない。
最悪の可能性を想定した場合、どうしてもメイギスという言葉は出てくるのだ。
それでも、奏はその可能性を考えてはいなかった。
魔女どうこうではない。
彼女がアリシア・エイトテイルだからだ。
友人として、彼女と付き合った期間は一年程度。
たったそれだけの期間とはいえ、人となりをある程度把握するには十分な期間だ。
影があるなとは思っていた。
でなければ、学園の一室を占拠してまで引き篭ったりはしていないだろう。
しかし、彼女がメイギスだとは思っていなかった。
そう告げられた今でも、その言葉は奏の喉元を通り過ぎてはいかない。
「信じられないな。コイツは変なヤツだが、そういうことをするヤツじゃない」
「君が、ソレの何を知ってるの?」
「お前こそ、コイツの何を知ってるんだよ」
交渉は決裂。
和解する術は皆無だ。
覚悟を決めるしかなかった。
準備は万全どころが、足りないモノだらけだが、そんなことはどうでも良い。
いつだって、戦場は待ってはくれない。
今が、戦わなければならない時だ。
想定外なのは、この戦況にアリシアがいるということ。
戦力としてカウントはしないものの、彼女が魔女であるというのであれば、計算そのものが覆る。
「おい、アリシア!」
「何ですか?」
こんな状況でも彼女は淡々と言葉を返してくる。
「色々聞きたいことはあるけど、とりあえずは敵じゃねぇってことで良いんだろ?」
「そう、ですね……」
「だったら、それで良い。手を貸せ。とりあえずここを切り抜けないと話になんねぇ!」
「そんなことができると思っているのか?」
美術準備室に熱が走った。
身体中から一気に汗が噴き出すような灼熱。
転がっていた椅子と机が弾けて転がり、キャンパスが焦げて、燃えた。
ゴォ――ッ!
燃える大気を切り裂いて、炎を纏った戦斧が眼前に迫った。
「これでようやく貴様を殺せる!」
「狼炎っ!」
殺意剥き出しの一撃を、奏は短刀で受け止める。
しかし、その威力はこれまでとは比にならない。
今日、実技演習で使っていた短刀とはいえ、たったの一撃で短刀の刀身が軋んでいた。
まともに撃ち合うのはやはり得策ではない。
「おい、ジャンヌ! 約束通り、コイツは俺が貰うぞ!」
「えぇ、構わないわ」
「吼えろ! 暴炎!」
言葉と共に、狼炎の足元を起点として、炎が爆ぜる。
「構築魔術か!」
構築魔術は接近戦に長けた魔術師が良く使う技術だ。
威力や範囲、属性など、事前に決められた魔術を媒介に記録し、特定のキーワードで発動させる。
媒体は武器や防具、アクセサリーはもちろん、自身の体に刻むということも可能だ。
そのメリットは言うまでもなく発動時間の大幅な短縮。
それが威力の減少や消費魔力の増加というデメリットを介さずに行使できるため、実力者の多くが採用している。
当然、ヘカトンケイルである狼炎もそれくらいは仕込んでいるとは踏んでいたが、この規模の魔術をこの場所でとは想定していなかった。
構成としては極めてシンプル。
狼炎自身を中心に、炎の渦を発生させて周囲を薙ぎ払うというモノ。
ただ、その威力、規模が桁違いに大きい。
ゴパ――ーッ!
美術準備室は一瞬にして炎に飲み込まれ、膨張した空気に耐えきれず、一斉に窓ガラスが爆散した。
オールダッドである奏に魔術は効果を発揮しない。
だが、その周囲の事象は別である。
薙ぎ払われた机や椅子は炭となって崩れ落ち、室温は一気に汗が噴き出すほどの高音サウナレベルにまで上がる。
炎で自身が焼かれることはないが、その影響を受けた空気は間接的に奏に影響を与える。
体質のおかげか多少は緩和されているような気はすれど、酸素を取り込む度に、喉と肺がチリチリと熱を感じていた。
アリシアの方はと咄嗟に視線を向けたが、彼女の方はいきなりの炎の波にも何かの影響を受けた様子はなく、定位置の椅子に座ったまま、ジャンヌと対峙していた。
流石は魔女。
戦闘の余波についてはこちらが気にかける必要はなさそうである。
「死ね! ゴミがッ!」
とはいえホッとするだけの余裕はない。
熱波の中心部から、狼炎が一気に距離を詰めて逼迫してきていた。
巨大な戦斧を軽々と振りかぶると、躊躇なくこちらの脳天に向かって叩き付けてくる。
流石にその一撃を受け止めるわけにはいかない。
取るべき選択肢は回避一択。
砕かれ、飛び散る木製の床の欠片から目を庇いながら、奏は縦横無尽に教室の中を飛び回る。
先に狼炎が放った炎の波によって、ごちゃごちゃしていた教室内は彼を中心に障害物が排除されたこともあり、奏にとってはやりづらい。
撹乱するにしても動き回れる範囲が狭いくせに、見通しが良いせいで、自慢の動きが活かしづらいのである。
「――ッらぁ!」
また、狼炎は自身の扱う武器のデメリットも十分に熟知していた。
軽々と扱って見せてはいるが、戦斧はかなりの重量を伴う武器である。
当然、一撃から次の動作までに要する時間は大きくなる。
それを彼は鞍刃同様、武器自身の重さを利用することで解決していた。
振るった一撃は止めず、そのまま自身の体を回す勢いと利用し、次の一撃へ。
回転しながら次から次へと繰り出される強打はどんどんと重く、鋭くなっていく。
上段から下段、下段から中段へ。
一撃でもその身に受ければ、奏の体は真っ二つに千切れ飛んでしまうだろう。
その勢いは止まることを知らず、まだ残っていた机や椅子の残骸を砕きながら、奏へと迫る。
部屋の隅へと追いやられないように器用に立ち回りつつも、戦場の狭さからどうしても迫り来る強撃を短刀で捌かざる得ない場面は生まれてしまう。
バリン――
三度目の衝撃で呆気なく、短刀が砕けた。
事前に狼炎との戦いで悲鳴をあげていた一本だったが、この数分で早々に限界を迎えたようだ。
「ちッ――」
砕かれた短刀を投擲し、ほんの僅かに狼炎のリズムを崩して距離を取る。
着地して大きく深呼吸を一度。
目の前の狂犬から目を逸らさずに、二本目の短刀を抜く。
用意している武器はこれを含めて残り二本。
この後のことも考えるとこれでどうにか事足りて欲しいところではあるが、そんな余裕はなさそうだった。
後先を考えていられるような状況ではない。
「ちゃんと予備くらいは用意していたか。ゴミのくせに!」
「ゴミゴミうるせぇな。犬っころ。もうちょっとまともな躾は受けてこなかったのか?」
飼い主の性格が窺い知れる。
「ゴミは黙って死ね!」
「噛みグセのある駄犬はちゃんと躾ねぇとな――」
狼炎の動きが一度止まったことで、そのスピードはリセットされた。
攻めるならここしかない。
先手を取るべく、奏は狼炎よりも先に一歩を踏む。
忍霧流歩武術――無為。
狼炎が戦斧を振りかぶるよりも先に、奏の姿はその懐へ。
「シッ――」
左手を戦斧の柄に添えて押し込む。
「ぐっ」
バランスを崩し、一歩後退した狼炎の両足の間に自らの足を捩じ込み、体重を乗せた体当て。
体格的には狼炎の方が奏よりも一回りは大きい。
それでも、バランスを崩した相手であれば、これで十分だ。
よろけた彼の体に奏は短刀を振る。
一、二、三回。
深追いせずに切り付けられたのはそれが限界だった。
それ以上の一歩は彼の間合いへと踏み込むことと同意だ。
現に、その瞬間を狼炎はこちらに殺意を向けて狙い澄ましていた。
その瞬間、無理な体勢から狼炎が戦斧を振った。
炎を纏わせた雑な一閃。
かわすのは容易い。
ただ、それは狼炎も分かりきっていただろう。
必要だったのは自らが体勢を整える時間と距離。
仕切り直しである。
「ふ――」
緊張と疲れと共に、息を大きく吐き出す。
得られた代価は三つの刀傷。
二つは小さく彼の胸元に、残りの一閃は彼の右肩に深くはなくとも浅くもない。
致命傷とはならずとも、多少動きに影響が出るくらいは期待できるだろう。
「楽しくなってきたじゃねぇか」
学園に来て以来、初めての流血に狼炎が獰猛に笑う。
「なんだ、マゾ犬かよ」
「はっ――」
バーサーカーとの戦いはまだまだ油断できるような状況ではない。
その一方で、アリシアはジャンヌと対峙していた。
奏の戦いを静観していたと言って良いかもしれない。
「良い騎士を見つけたのねぇ、原初の魔女」
「そういうのではありませんよ」
「へぇ、じゃあアレが、ヘカトンケイルに入りたいって言っても良いのかしら?」
「……好きにすれば良いじゃないですか」
「あはっ――」
その瞬間、大鎌はアリシアの首元で見えない壁に阻まれていた。
僅かな感情の起伏。
それをジャンヌは見逃さなかった。
「流石にこれくらいじゃあ、ダメね。でも、見つけた。見つけたわよ、原初のぉ! 良かったわぁ。我慢した甲斐があったってものね! アレがそんなに気に入ってたなんて! やっぱり私の勘は正しかった!」
「…………」
「そんな泥棒猫を見るような目を向けないでよ。別に取りはしないわ。アレにはもう先にフラれてるもの」
「そうですか……」
言葉は淡々と。
しかし、その言葉の端に、わずかな安堵が滲んでいた。
ジャンヌ・アルメリアは人の感情に敏感だった。
それは魔術ではなく、彼女の昔からの特技のようなモノ。
そしてそれを弄ぶのが彼女にとって、二番目の娯楽。
ガギッ――
大鎌が再度閃く。
結果は同じく、その切先はアリシアには届いていない。
だが、全くの同じではなかった。
ほんの僅か、一ミリにも満たないレベル。
大鎌の刃がアリシアの白い肌に近付いていた。
「怖い? ねぇ、怖いのかしら? 原初の魔女が! 厄災のメイギスが! 死なずの魔女が! たった一人の他人の! 神にすら見放されたと言われるオールダッドの死が恐ろしいの? ねぇ、アリシア・エイトテイルっ!」
大鎌の刃がまた更に障壁に食い込んだ。
「あは――――っ!」
愉悦。狂気。嘲笑。侮蔑――
様々な感情がジャンヌの全身を駆け抜ける。
「決めたわ! 殺すわよ、魔女! お前ではなく、あのゴミを! お前の目の前で! ぐちゃぐちゃにしてやるわ!」
「…………」
反応は無言。
ただ、アリシアの視線はジャンヌを捉えていた。
「良いわね、その目。濡れちゃう――」
今すぐにでも殺されそうな彼女の視線に、ジャンヌの背筋を冷たいモノが走る。
こんなスリルを感じたのは久方ぶりだった。
魔女と呼ばれる存在はいずれもバケモノ揃いだが、その中にも階級がある。
コレはその中でも間違いなく最上級。
否、そんなレベルを無視できるモノ。
これまで幾人モノ魔女を屠ってきた彼女から見ても、アリシアというメイギスは間違いなく例外だ。
あのゴミを狼炎にあげてしまったのは失敗だったかもしれない。これなら自分がアレを殺した方が楽しかったのではないだろうか。
しかし、約束は約束だ。
今はこの茶番を観覧するしかない。
どちらにしろこのゲームは最初からこちらの勝ちが決まっているのだ。
焦らず、じっくり楽しませて貰えば良い。
「――らぁッ!」
狼炎の戦斧が未だ冷めやらぬ大気を切り裂く。
斧刃は炎によって超々高音に熱せられ、通常の戦斧を超越した切れ味を生み出していた。
障害物など関係なく、戦斧は床を、壁を砕きながらも、彼自身の早さを損なうことなく、奏に迫っていた。
当然ながら、そんな超高温の一撃を短刀で受けるわけにはいかない。そんなことをすればたったの一度で、短刀は使い物にならなくなってしまう。
際どいモノはどうにか弾いて逸らすことで対応してはいるが、それでも短刀の耐久力はみるみる削られている。
どこかで攻勢に転じなければ、状況は変わらない。
だが、狼炎は強い。
そんな隙など、そう簡単には生まれない。
そのための一歩を踏む時間がない。
どうするべきか。
何か、僅かな変化でもあれば、状況さえ変えられれば。
「吼えろ!」
奏の思考を遮るように、狼炎が叫ぶ。
戦斧に宿る炎は更に大きく雄叫びをあげて、大気を焼く。
破壊力上昇の魔術。
「チッ――」
そんなモノは受け流すことすら悪手なのは明らかだった。
余波をも受け流すように奏は全力でその場を離れる。
そのすぐ後を戦斧は追うように薙ぎ払い、床をアイスクリームのように抉り取っていった。
抉られた断面が溶けて、真っ赤に染まっている。
ほんの数分で準備室は見るも無惨な状況になっていた。
備品はほとんど原型を留めていないし、床だって段々と軋みが大きくなっていた。
「……ッ」
変化はある。
勝機を見出すとしたら、きっとそこだ。
後は奏が持ち堪えられるかどうか。
「やってやるよ!」
狼炎の動きに自分の動きを乗せる。
戦斧をかわして、かわして、かわす。
動きを止めないように、だが、悟られないように。
燃え盛る炎は更に苛烈に、戦斧の刃を紅く輝かせる。
壁が、床が、何度も砕かれ、抉られて、いつの間にか部屋中に無数の亀裂が走っていた。
ただ、そこにいるだけならまだ耐えられただろう。
しかし、狼炎が繰り出す一撃、一撃は確実に導いていた。
そう――
「ここ、だっ!」
崩落へ。
狼炎の渾身の一撃を回避し、天井を踏む。
その反動で放つのは蹴り。
ただし、その相手は狼炎ではない。
今の狼炎による一撃で耐久が限界に達していた、美術準備室の床だ。
鍛え抜いた奏の脚力は並ではない。
それこそ、狼炎の一撃にだって劣らない。
その一撃を今にも崩れ落ちそうな準備室の床へ。
場所は既に目星をつけていた。
無数の亀裂が連なり、脆くなったその中心。
ミシッ――と、部屋全体が軋む音。
その瞬間、限界は訪れた。
「落ちろッ!」
ギシッ! ドガガガガガ――ッ!
亀裂が縦横無尽に広がり、崩れ落ちていく。
重力に従って崩壊していく美術準備室。
無数の瓦礫が下の部屋に全て落下するまで、たった数秒。
この数秒が唯一無二の勝機。
この数秒だけが、奏が得られる圧倒的アドバンテージ。
仕掛けるのは今しかない。
落下する瓦礫を足場に一歩を踏む。
忍霧流歩武術――雨雫。
瓦礫を渡り歩くその一方では静かで優しく。
響く足音は雨音のよう。
それでいてその気配は無数。
まさに雨のように、狼炎の周囲に降り注ぐ。
死角へ気を配れば配るほど、結果として新たな死角が生まれる。
散見する意識のもっとも薄いその場所から奏はそっと間合いに侵入する。
閃く短刀による一撃。
「ぐっ――」
意識が向けられるその時にはもう奏の姿はそこにない。
極限まで自らの気配を殺した上での一撃離脱。
得られた数秒という好機を最大限に活かす。
落下する瓦礫というフィールドのおかげで一撃を繰り出すためのルートは三百六十度に存在する。
予備のもう一本の短刀を抜き放つ。
二刀での連撃。
ここで攻め切る――
全力で短刀を振り、無重力を駆けた。
奏が放った斬撃は計四十三度。
だが、それでも彼を仕留め切ることはできなかった。
「――吼えろ! 暴炎!」
炎が、爆ぜる。
全方向へ無差別に放たれる炎の波。
当然、奏に魔術は影響を及ぼさない。
しかし、それ以外は当然、別である。
落下する瓦礫が一瞬で弾け、消し飛ぶ。
足場を失った二人は当然、大人しく落下するしかない。
「小細工だけで勝てるほど甘くねぇんだよッ!」
戦斧が振り抜かれる。
紅く輝く紅蓮を纏った戦斧は波を切り裂いて確かに、獲物を捉えた。
「――――っ」
短刀を重ねて迫り来る戦斧を受け止める。
が、焼石に水。
超高音に熱せられた戦斧の前では、盾としての意味を成さない。重ねられた短刀はまるで飴細工のように簡単に砕け散った。
腹部を抉る熱。
肉の焼ける臭いがする。
衝撃に体が歪にひしゃげたのを遅れて理解した。
「がっ――」
次の瞬間、奏の体は教室の壁に叩きつけられていた。
痛いというよりも熱かった。
下腹部から何かが大量に流れ出ていく感覚。
寒いのに、熱い。
このまま意識を手放してしまえればどれほど楽だろう。
しかし、そうするわけにはいかない。
立ち上がらなければならない。
短刀はどこだろうか。
手探りで周囲を探るが見つけられない。
違う。思うように手が動いていないのだ。
自分を見下ろしている気配があった。
それが誰かは言うまでもない。
立たなければならない。
酸素を体に取り入れて、息を整えろ。
動け。
うご、け――
「終わりだ――」




