6 きょうのサラリーマンと
よく晴れた日の午前11時。僕は鯵田市のビル街に来ていた。ここはさくら街道の、店や公共施設が軒を連ねる道の奥にある通りだ。背の高い様々な会社のオフィスが立ち並んでいる。
往来を忙しなく闊歩する人々はほとんどがスーツやオフィスカジュアルな格好で、どこかへ向かって歩いている。
僕は近くの広場でうわんを待っていた。
つい先日のことだ。夜、眠ろうとベッドに入ると、窓からいつかのようなコツコツ叩く音がした。驚いて声を上げると「俺だよ」と言われ、やっと僕はそれがうわんだと気づいたのだ。
その後何度かやり取りをし、うわんは「次の土曜の昼頃、さくら街道の“匙玉出版”という会社の前で待っていてくれ」と連絡をして帰っていった。来る際は学校の制服を着てこい、とのことだった。恐らくそこに、札のことを知っているか当たる妖怪がいるのだろう。人間の社会に紛れてせっせと働く、妖怪が。
どんな妖怪なのだろう。僕は恐怖より、単純な興味でそう思った。今まで出会った妖怪たちは、僕から見ても完全に人間社会に溶け込んでいた。妖怪としての正体を見ない限りは、今でも「実は妖怪のふりをしていました」と言われても「やっぱり」と思ってしまうほどだ。
最初こそ、うわんの恐ろしい姿を見てしまったせいで他の妖怪に捕って食われるんじゃないか、と恐怖を覚えていたが、今ではそんな怯えはあまり無い。あまり。
布団を顔まで引き上げる。僕は先ほど見たうわんの真っ黒な長い爪を思い出しながら、複雑な気持ちで眠りについたのだった。
「探したよ」
「すみま…ど、どちら様ですか」
僕が到着して15分ほど経ってからうわんが来た。会社の前で待てと言われたものの、なんとなく気まずくなってしまい、エントランス部分が見える広場に移動したのだ。仕事中の人に混じり、休みの高校生が一人突っ立っているのは少しそわそわしてしまう。
後ろからかけられた声に振り向くと、そこには茶色がかった黒のスリーピーススーツを着たうわん(と思しき男性)が立っていた。髪型も若干整えられている。いつもの寝癖がない。
「今日会う奴に、来るならスーツで来いと言われたのさ。よくわからなかったから木霊に仕立ててもらった」
「そうなんですか。かっこいいですね」
僕が軽くお世辞を言うと、うわんは少し得意げな顔になった。
「出版社の編集長をしているから、外で会うならなりは良くしてこいって」
「だから僕に制服で、と言ったんですか」
「ああ」
普段は着流しの男と、見るからに学生の僕。確かに仕事中外で会っていると、それを見かけた部下やなんかに何か聞かれそうだ。それにしても僕はがっつり制服なので不審には思われそうだが。
「ちなみに、これから会うのはその…どなたなんでしょうか」
「天狗だ」
「て、てん…」
ここに来て僕の知っている名前の妖怪だとは。天狗といえば風で災害を起こしたり、空を飛んだりする鼻の長い真っ赤な顔の…くらいしか知識はないが、誰でも名前は知っていると思う。そんな天狗が、出版社の編集長?一体何がどうなればそうなるのだろうか。
「見た目はただのおっさんだよ。そんなに身構えることもないさ」
「なんだか不思議すぎて…」
「昼は社内に併設されている喫茶店で軽食をとるらしい。僕たちもそこへ向かう」
「わかりました。そこでお話を聞くんですね」
「そうだ。行こうか。腹も減ったし」
「は、はい!」
僕は歩き出すうわんを追いかけた。いい格好をしていると普通のサラリーマンみたいだな、と思った。
僕とうわんは、“匙玉出版”と書かれた大きなビルの自動ドアをくぐった。広いエントランスの奥にエレベーター、右手に受付がある。「こっちだ」とうわんに声をかけられ、左手側を見ると“カフェ・オンデドルチ”と書かれたブラックボード、後ろにガラス越しの店内が見えた。そこそこに客がおり、観葉植物に囲まれた扉は通りにくそうな印象だが、中は意外と広いようだ。
店内に入ると、若い女性店員が「いらっしゃいませ」とだけ言った。席は自由のようだ。会社に併設されているので、ほとんど社員食堂みたいな感じなのだろう。
うわんはキョロキョロと席を見回し「いた」と呟いた。女性店員二、三人がひそひそとこちらを見て何やら喋っている。「どこの人だろう」とか「イケメン」とかいう言葉が聞こえたので、うわんのことだろうと気にしないようにした。
「女がいるな」
「え?」
「天狗一人じゃない。知らない奴がいる」
「そ、それって…」
「人間ではないと思うよ。行こう」
「えぇっ!」
天狗と、もう一人知らない妖怪がいるという席へ向かううわんに続いて歩き出す。すると4人がけの席の前で止まった。
座っていたのは、小太りで髪の薄い50代くらいの中年男性と、セミロングほどの髪を高く括り前髪をきっちり分けたOLらしい女性だった。見た目は20代前半くらいだ。なんとなく、社会人としての初々しさがあった。
「こんにちは、編集長」
「おう、来たかい」
うわんにそう言って片手を上げる中年男性。テーブルの上には既にオムライスが乗っており、昼食をとっているようだった。二重顎の口を大きく開き、次の一口を放り込む。光のない、くたびれたような目の下に大きな団子鼻がくっついている。ジャケットの前を開けており、シャツのお腹の部分がぽっこりと膨らんでいるのが見えた。ビール腹というやつだろう。見た目はどこにでもいるおじさんだった。
「羽木原と言います。よろしくお願いします」
僕は男性にそう言うと、「君は…」と僕の顔を見た。
「そちらは」
男性が僕に名乗ろうとした時、うわんが女性の方を示し問うた。男性は「ああ」と言うと同時に、女性が口を開く。
「初めまして、羽木原くん。矢鳥ユキエ(やどりゆきえ)と申します」
矢鳥さん、はサッとケースから名刺を出しこちら側に見せた。“匙玉出版 営業部 矢鳥ユキエ”と書かれている。
「何者だ?」
うわんが少し警戒した様子で聞いた。瞳の赤が、濃くなっている気がした。
「鵺です」
女性がそう言うとうわんは一瞬目を見開き、こわばっていた肩の力をふっと抜いた。
「なぜここにいる」
「まぁ座れ。目立つ」
呆れた様子で言ううわん。男性が自分の向かいの席を示し、口を挟んだ。席に着くうわんの隣に、僕も腰掛ける。横をチラッと見ると、矢鳥さんから目を離さずにメニュー表を手にとっていた。
「俺はこの会社の編集長をやっている。名刺を渡しておくから、何か相談事や聞きたいことがあれば連絡しなさい」
ガヤガヤと人の多くなっていく店内。オムライスを食べ終えたらしい男性が口を開いた。僕に名刺を差し出す。受け取って見ると、“匙玉出版 月刊フシギダマ編集部編集長 山手田稔”と書いてあった。
「は、はい。ありがとうございます」
「俺の事はもう聞いているかな」
「えぇ、こちらの、上山さんから。天狗だと…」
僕は声をひそめて言った。
「そうだ。…って、人の名を持ったのか、お前」
天狗さん───いや、山手田さんは驚いた顔でうわんを見やった。めっちゃデジャヴだなと思った。
なぜなら、小池クリーニング店の小池さんにもそう驚かれたことがあったからだ。あの時は確か、「あのうわんがなぁ」とか「お前は昔は…」とかそんなことを言われていた気がする。うわんはなぜか、バツの悪そうな顔をしていた。
うわんが人の名を持つという事は、実はうわん関係者にとってはものすごい事なのかもしれない。何がすごいか、よくわからないが。
うわんはあの時と同じように、頭を掻いて「外にいる時はそう呼ぶように言っているだけだ」と言った。
僕とうわんはメニューの中からそれぞれカフェオレとサンデーを注文し、届いたものを口に入れながら山手田さんと矢鳥さんとの話を続けていた。
「そいつがなぜここにいるんだ」
うわんは再び矢鳥さんのことを聞く。矢鳥さんは変わらず姿勢良く座っている。ぱっちりとした目に小さな鼻、目立たない色のリップを塗った唇は緩やかに弧を描いていた。
「一緒に働かせてもらってます。部署は違うけど」
「ここの出版社の、俺は編集長、こいつは営業をやってるんだ。お前は?仕事してないのか」
「する必要がないからね」
「そんなあ。いいですよー仕事は!適度なストレスで野菜は甘くなるんです」
「意味がわからない」
矢鳥さんは脈絡があるのかないのかわからないことを元気よく言い、力こぶを作ってみせた。なんだかどんどん不思議な人だ。子供っぽいのに、しっかりして見えるというか。
しかし先ほどのうわんの態度といい、過去にこの二人は何かあったのだろうか。それとも、うわんのいつもの無愛想だろうか。
「あの、上山さんは矢鳥さんとその…お知り合いなんですか」
「いいや、全然」
「この人と私は、結構前は住んでるところが近かったんですよ」
正反対の返事があったので、信憑性の高い矢鳥さんのレスポンスに耳を傾けることにした。うわんは多分、例によってひねくれ者の性分が出ているのだろう。
「住んでるところって…ここより田舎の、ところですか?」
「ハギワラくん、どうしてそれを?」
あっ、と思った時にはもう遅かった。そうだ、コンビニで会ったがしゃどくろ──志賀さんのことをうわんにまだ話していなかった。案の定うわんは、訝しげな目でこちらの返答を待っている。
誤魔化してもしょうがないので、僕は先日のコンビニでのことを話した。
「そんなことがあったのか」
「すみません。言うタイミングが無くて、そのうちに忘れてしまっていました」
「…いや、謝ることはないさ」
謝る僕に意外にもうわんの反応は淡白だった。こないだの夏目くんの時は、「どうして言ってくれなかったんだ」と言われたので、てっきり今回も怒られるかと思っていたが。
「これからは、ちょっとしたことでも俺に教えてほしい」
「は、はい。わかりました」
僕の身を案じてくれているのだろうか、うわんは僕に視線を合わせるようにして、優しい目つきで言った。まともに顔面を見ることがないので少々たじろいでしまったが、なんとか応える。確かに木霊さんが管理しているとはいえ、僕は妖怪の世界の只中にいるのだ。いつ大きな爪で、牙で、あの世行きとなるもしれない。
「…なんか上山さん、メンヘラ彼女みたいですよ」
矢鳥さんが僕たちの、というかうわんの姿を見てそう言った。思わず僕は吹き出す。
「ッフフフ」
「めんへら?意味はわからないが、二度と言うな」
うわんがサンデーの最後の一口を咀嚼しながら、ピシャリと言い放つ。折り畳み傘やスーツを知らない男なので本当に意味はわかっていないのだろうが、なんとなく文脈と矢鳥さんの表情で察したようだ。「じゃあ束縛彼氏?」「だから、なんだそれは」などと言い合っている二人のやりとりを見て、僕はまた笑った。
「話戻しますけど、私と上山さんの関係はそんな感じです。元ご近所さん?みたいな。でも、よく叱られてはいました」
「叱られていた?どうしてですか」
「私ね、声に特徴のある妖怪なんですけど、夜に声を出すたびに“うるさい、俺の声が霞むだろう”って。あはは」
そうか、うわんは大声を出して驚かせる妖怪だった。声の響く鵺と大きな声を出すうわん。かち合えば相当な騒音になりそうだ。
「君の声は変だからな。目立つんだよ」
「ひどいです!乙女に向かって!」
「ガワだけだろう、けだものめ」
うわんの本当の見た目もなかなかケダモノの類だと思うが、あえて口を出さないでおく。会話を静かに聞いていた山手田さんが「ところで」と本題に入る。
「今日はなんだって、こんなとこまで来たんだ?」
その質問にうわんは身を少し乗り出し、声を低くして聞いた。僕も体に力が入る。椅子に座り直した。
「ヒジツの札がどこにあるか、知っているか」
「ヒジツの札ぁ?お前、そんなもん探してんのか。なんで」
山手田さんは腕を組み、心底不思議そうに聞いた。
「この子に使うんだ。知らないならいい」
席を立とうとするうわんを、山手田さんが「待て待て」と制する。山手田さんの先ほどの反応が少し気になる。
「矢鳥、お前わかるか?」
「いえ…わかりませんね。見たこともないかもです」
「…そうか」
うわんは少し俯き、首の後ろをかいて呟いた。考え込んでいるような、落胆しているようなその様子をかける言葉が見つからないまま凝視していると、途端に目が合う。
「どうしました?」
「あ…いや」
一瞬、苦虫を噛み潰したような表情になったが、いつもの微笑みに戻ったうわんは「時間を取らせた」と言って今度こそ立ち上がった。
「おい。木霊の所は行ったのか?」
「とうに行った」
「…力になれず、悪かったな」
「私も。何かわかれば連絡しますね」
「ああ」
うわんはそう言って手をひらりと振ると、僕を促して退店した。「俺が出しとくから」と言ってくれた山手田さんに「ご馳走様です」とお礼を言うと、今日初めて笑った。その後、別れ際にうわんをじっと見つめ、「頑張れよ」と一言いった。
───
午後1:30。僕とうわんはビル街を抜け、さくら街道のメインストリートを歩いて帰路についていた。
「スーツというのは、どうしてこう窮屈なんだ。全く」
「そうですね」
「今日のぱへは小さかったが、それでも腹がいっぱいになったよ」
「あれはパフェではなく、サンデーです」
「どっちでもいい」
「そうですか」
くだらない会話をしながら歩を進める。僕は気になっていたことを聞いてみることにした。
「あの、札のことを聞いた時の山手田さんの反応は…どういうことなんでしょうか」
「どうとは?」
「そんなもん探してんのか、なんでって…。ヒジツの札は、記憶を消す力があるんですよね?僕が人間だとわかっているなら、探している道理はわかるはずです」
そう、人間を連れている時点で──ヒジツの札が本当に記憶を消す効力があるのなら─説明せずとも察せるはずだ。こいつは人間に自身が妖怪と勘づかれたので口止めしたいんだろう、と。それを山手田さんは“そんなもん探してんのか、なんで”と言い放ったのだ。
僕がなんとか言葉を選びながら言い終わると、うわんは真っ直ぐ向こうのほうを見つめたまま口を開き、
「ハギワラくん。君は、自分がどこにどう生まれ、今までどう生きてきたか、説明できるか」と言った。
「話をそらさないでください」
「そらしていない」
「…わかりません。質問の意味が」
「君は今、俺を怪しんでいるな」
足を止める。
僕は少し考え、頷いた。
するとうわんは、先ほどまでの飄々としたポーカーフェイスとは反対に、捨てられた子犬のような悲しげな顔をした。おっかないことになるのだろうかと危惧していた僕は、なんだか肩透かしを喰らった気持ちになった。
「お願いがある」
「今度はなんですか」
「俺のことを、信じてほしい」
「…へ?」
真剣な顔で言ううわんに拍子抜けする。態度こそ真摯なものだが、どういう意味が含まれているかわからない。
「確かに不審に思うだろう。妖怪の考えることなんて知れないだろう。だが化かされたと思って、信じて、ついて来てほしい」
僕をじっと見つめてくるうわん。普段からは想像もつかない、キャラ違いと言っても過言ではないあまりのひたむきな言葉に、なんだか先ほどまでの警戒心が解けてしまった。この男は何を企み、僕に何をしようとしているのだろうか。
「ふ、ふふふ」
「何を笑ってるんだ」
「いえ、認めるんだなと思って。僕に嘘ついてること」
体の力が抜けていく。化かされたと思って、って言っちゃってるし。うわんは器用そうで、とても不器用だ。
この男の気が済むまで、ついていってみよう。これも何かの縁だ。そんなにやな奴じゃないし。
「…悪いことをしようとしてるわけじゃない」
「そうですか。じゃあまあ、信じます」
「本当かい?」
自分が言ってきたくせに、少し驚いたような、ほっとしたような顔を見せる。
“昔はもっと素直だったんだけど”
僕は志賀さんから聞いた話を思い出していた。いつもの皮肉屋なうわんと、今僕の目の前で子供のように表情をコロコロ変えて見せているうわん。素のうわんはどちらなのだろうか。
「でも、いつか教えてくださいね。本当のこと」
「札が手に入ったら、話そう」
「ええ」
「さんでもまた、食べよう」
「サンデーです」
「次は図書館に行く」
「はい…え?」
唐突な連絡にポカンとしてしまった。図書館といえば、桜詰の北側に位置している大学の近くにある市立図書館だろうか。
「また来週末、家に行くよ」
「わ、わかりました」
────
家の前でうわんと別れ、僕は遅めの昼食をとることにした。両親は仕事なので、適当に一人で食べよう。
“今までどう生きてきたか、説明できるか”
皿に盛ったご飯に昨日の夜の残りのカレーをかけ、レンジで温める。僕はうわんの言葉を思い出しながら一番古い記憶を探っていた。
派手に転んだ中2の体育祭、プールが楽しみだった小6の夏、給食のパンを公園の池の鯉に撒いていた小5の放課後…。
あれ?それより前は、何をしていたんだっけ。
チン!と仕事終了の合図を出すレンジの真っ暗な窓に、僕の間の抜けた顔が写っていた。