5*猫のクリスティーネ
ざぁざぁと、雨が降っている。夕方前から降った雨は、旅人と天文学者の歓談が終わっても、旅人が眠りについても、一向にやまないでいた。
雨が降れば、空気が冷えて涼しくなる。地上からぐんと高い塔の上は、通常の夏の昼でも過ごしやすいのだが、雨が降ることでもっと快適になる。
さらにここは、二度目になるライナルトの宿である。ライナルトのことを信頼していれば、何も心配することがない。安心しきった旅人の眠りは深い。
だから、旅人は気がつかなかった。リボンをもらったあの猫が、こっそりと旅人の様子を伺っていることを。
そろりそろりと、猫が階段を上る。自分の家であるのに、その警戒のほどはおかしなくらいに甚だしい。
観測部屋に鍵などついていない。そもそもが金目のものなどないライナルトの住居だ、塔の入り口だって施錠されていない。
ぴょんと飛び跳ねて、猫はドアノブを動かす。ききぃ~と小さなきしみ音を立てて、扉が開いた。薄く開いたドアのすき間に、するりと猫は体を通した。
猫は歩む、旅人を起こさぬように。猫だから、その点はお手のもの。
旅人はぐうぐうと眠っていて、入り口ドアが開いたことも、猫が抜き足差し足忍び足で歩んでいることも、気がつかない。
まんまとベッド下までたどり着いた猫は、いま一度後ろをみて、脱出路を確認する。
ドアは開いたまま。逃げ道は確保してある。いざとなればすぐに逃亡できる。
しばらくその場に佇んだのち、覚悟を決めた猫は、えいっとベッド上に飛び乗ったのだった。
時刻は深夜を過ぎて、明け方に近い。外は漆黒の闇ではないが、雨が降っていて、通常の夜明け前よりもやや暗い。
もう一度いう、ここは意気投合したライナルトの宿だ。ぐっすりと深く眠ることができて、こんな短時間の睡眠でも旅人は充分疲労回復できていた。
そう、明け方のこんな早い時刻でももう彼は覚醒寸前となっていたのだ。
ベッドの上に投げ出した旅人の腕に、何かが触れる。それは、一瞬だけちくりと皮膚を刺す。鋭い刺激の割には、痛くない。硬くはないだけでなくて、弾力があった。また、痛点はひとつでなく複数個。
そんな不思議で柔らかい刺激をもらって、旅人は目を覚ました。
「?」
腕に感じた点の感触に、旅人はぱちりと目を開いた。何だろうと、無意識に腕へ視線を遣る。
そこには空色の目をしたシルバーグレイの猫がいた。猫は、旅人の胸元近くまで寄ってきていて、顔をのぞき込もうとしていた。
そう、猫のほほ髭が、旅人の腕に触れたのだった。
「え!」
眠っている客人のそばに、猫がいた。猫は、眠っている旅人を調べていたのだ!
目を覚ました旅人と目が合って、猫は大慌てでベッドから飛び降りる。一目散に扉へ駈けつけて、あっという間にドアのすき間から姿をくらました。
「え? もしかして、僕のこと、気になっていたのか?」
ずっと無愛想な猫だと思っていたから、この展開に旅人は大いに驚いた。最終的には逃げられてしまったが、すぐそばまできてくれた。嬉しかった。
あのリボンの効果があったのかもと少し得意になって、旅人は早いけれど身支度を整えた。
†††
夜明けを待って、旅人はリビングまで下りていく。
天文学者の朝は早いらしい。旅人の心配をよそに、すでにライナルトは起きていた。
「おはようございます。ずいぶんと早いのですね」
「ああ、おはよう。明け方でないとみえない星を観測しようと思ってね。でも起きれば雨はやんでいなくて、空振りしたよ」
雨の降りはじめを当てても雨上がりは外してしまったと、おかしそうにライナルトが付け足す。そうして、朝食の準備をはじめた。
旅人は朝食の手伝いを申し出た。だがライナルトは認めない。
素直に客になることにして、彼の用意する様をダイニングテーブルから旅人は見つめていた。
「実は、ですね。明け方に、クリスティーネさんが客間にやってきました」
「ああ、それでか! 今朝早く慌てて部屋に駈け込んできたから、どうしたのかなと思っていたんだ。そうかそうか、昨日は君のところへいったんだ」
猫が逃げた先は、やはり自分の主人の元であった。
まぁ、そうだろうなと旅人は思う。
「せっかくのご訪問だったのに、目が合って、逃げられてしまいました」
「クリスティーネは人見知りが激しいからね。でも、どうやら君は違うらしい。逃げてしまったとしても、クリスティーネがそんなことをしたのは君がはじめてだよ」
ライナルトからクリスティーネ秘話をきかされて、旅人は驚いた。愛想の悪い猫に違いないが、はじめて客人に近づいたときくと旅人は鼻高々になる。そうかそうか、僕が最初なんだ、と。
「先日、君が都へ去ってからクリスティーネは客間で君の匂いを嗅いでいたよ。本当は気になって仕方がなかったらしい」
「え! そうなのですか?」
このクリスティーネ秘話にも、旅人は嬉しくなる。なんだよ、ツンデレじゃないか、と。
「猫はマタタビが好きだからね。私にはわからないけれど、君は“マタタビ臭い”のかもしれない」
「ちょっと、そのいい方、あまり嬉しくありません」
はははとライナルトは笑い、朝食ができたと告げた。
朝食を並べたテーブルに向かい合って座り、食べる。
猫は、姿を現さない。ライナルトによると、部屋を出るときには自分の寝床で眠っていたという。
ダイニングテーブルの近くの窓からみえる空は、鉛色。どんよりとした雲の厚い空だ。ときおり風にあおられた雨が、ガラス窓と塔壁をたたく。
「今日も雨だね。明日の出発までにやむといいのだが」
「雨の森をいくのは、やはり危険でしょうか?」
「どうしても濡れて滑りやすくなっているし、転んでけがをして、そこから雑菌に侵される心配もある。なんといっても、方向を間違えるだろうね」
移動の際には時刻と時計の針と太陽の向きから、旅人は現在地点を割り出していた。でも曇り空は太陽を隠す。データが不足するから、ライナルトのいうとおりである。
「そうですよね。ただでさえ、樹木しかない森だから」
「こちらは長居してもらっても構わないよ。私も雨では仕事にならないし、なんといっても悪天候の中、客人を追い出したなんていわれたくないからね」
旅人としては、ありがたい申し出だ。本当に、この天文学者はなんていい人なんだろう。
旅の安全のこともあれば、旅人はもうひとつ気になることが増えていた。
猫のクリスティーネである。
昨晩、正確には明け方なのだが、クリスティーネは自分のもとにやってきた。自分が出発したあとの彼女のことを知らされれば、もう間違いない。クリスティーネは明らかに自分に興味を持っている。
はじめは二日と決めた滞在期間であったが、雨のせいで延期にせざるを得なくなった。なんだかこれは、猫との対話をもっと進めろという神の天啓のようだ。
そうと思えば俄然、旅人にやる気がわいてくる。クリスティーネともっと仲良くなってやろうと。
そうして、旅人は天気が晴れになるまで出発を延期すると決める。
昼はライナルトと歓談し、夜は観測部屋でクリスティーネの登場を待つことにしたのであった。
猫はやってきた。深夜を過ぎた明け方に近いような時間に。まさに旅人の予想どおり。
旅人はベッドの上で狸寝入りをする。昼の間はライナルトと会話をしているだけで疲れることがなく、早い時刻に旅人は覚醒していたのだ。猫がくるのを今か今かと、とにかく旅人はじっとして待っていた。
猫は器用に扉を開けて、するりと部屋に入り込む。扉を閉めず、逃げ道をきちんと確保している。とても賢くて用意周到だ。
そろりそろりとやってきて、猫はベッドから垂れているシーツの匂いを嗅ぐ。匂いを確認したなら、ぐるぐるとベッド周りを歩いていった。自分をとらえる罠がないのを、確認しているのだ。
嘘寝をしている旅人にすれば、猫の警戒のほどがおかしくてたまらない。自分の家なのに、疑心暗鬼の猫のクリスティーネがいた。
しばらくクリスティーネはベッド周りを探索する。昨日、正確には今日の早朝だ、と変わったところがないと認めれば、ぴょんとベッドに飛び乗った。
ひらりと猫は旅人の足元に着地した。
雨が降り続けている今晩も部屋は快適な気温で、旅人は薄いブランケットを一枚かぶっているだけ。
その旅人を包むリネンの匂いを、クリスティーネはすんすんと小さく鼻を鳴らして嗅ぐ。旅人に気づかれないように、静かに静かに。
ここまでくれば、旅人はもう猫を抱きたくてたまらない。
しかし今ここで、がばりと彼女を抱きしめたりしたら、また彼女は逃げる。今度は逃げるだけで終わらず、恐怖して二度と旅人には近づかないだろう。
それが確信できているから旅人はクリスティーネにされるがまま、ずっと寝たふりをしていた。急いては事を仕損じる、だ。
なんとしてもクリスティーネと仲良くなりたい! 旅人は、ひたすら我慢した。
虎視眈々と控えている旅人の下心など、猫は知らない。はじめはおそるおそるだった匂いを嗅ぐ行為が、旅人がピクリとも動かないものだから、だんだん大胆になっていく。
旅人としては、むき出しの皮膚に触れる猫のほほ髭が、こそばゆい。でも今は、ぐっとこらえるのだ!
こんな我慢比べのような時間がしばらく続いて、猫は安心したらしい。旅人の二の腕にその小さな頭を擦り付けた。何度も何度も繰り返す。それはもう、ライナルトに甘えているかのような親密さで。
猫が、甘えてくれている!
一度に旅人の心は、嬉しさだけに満たされる。
依然狸寝入りしている旅人は、もうクリスティーネが可愛くて仕方がない。僕のことを認めてくれた、彼女を抱っこできる日は近いぞと密かに歓喜する。
甘えて疲れたのか、しばらくして猫は旅人の脇腹付近で丸くなる。そのままぴったりと旅人にくっついて、眠ってしまったのだった。




