3*天文学者ライナルト
思いかけず旅人は、森で一夜を過ごすこととなった。それも野宿でなく、高い塔の上のベッドでだ。
――ここは、空に一番近い塔だからね。
案内された部屋は、旅人とライナルトが会話を楽しんだリビングからさらに上の部屋である。
猫が消えた方向に階段があって、そんなところに隠し階段があっただなんてと旅人は驚いてしまったのだが、そこを上る。リビングのすぐ上の部屋がライナルトとクリスティーネの寝室で、その上が客間となっていた。
めったに客人はこないというが、皆無ではない。客人は、くれば必ず泊まっていく。
森は、健脚自慢が歩いても半日以上の広さがある。寄り道をすれば、踏破に二日をみておくほうがいい。この塔の場所が場所だけに。
そんなことをいいながら、ライナルトは旅人を案内する。
いざ客間に着けば、そこは観測所としても使われていた。というか、観測部屋を客間に転用しているようだった。
部屋の中央にベッドがあり、窓際に三台の望遠鏡が並んでいて好きに覗いてくれていいよとライナルトはいう。簡単に部屋の使い方を説明して、ランプと水差しを残して下りていった。
好きに覗いてくれていいといわれて、素直に旅人は手前の一番大きな望遠鏡に近づいた。望遠鏡はカーテンのない窓外に、この部屋だけは観測部屋よろしくカーテンがなかったのだ、レンズを向けていた。
旅人は、そのまま覗く。暗い視野がみえるだけで、よくわからない。
専門家じゃないし、変に弄って壊してはいけない。
それに望遠鏡を覗かなくとも、窓から充分、星空がみえるじゃないか! 覗くまでもない。
今までの行動と反して、望遠鏡での確認をあきらめる。好奇心旺盛でない旅人がいた。
ライナルトとは天文学の話で盛り上がったが、それとは別に旅人は疲れていた。ここにくるまでに旅人は“迷いの森”を冒険し、“空に一番近い塔”を上ったのだ。肉体的に疲労困憊状態であった。
翌朝になれば明るくなり、森の全貌がみえるだろう。この高さなら、窓から都がみえるはず。
塔を上った本来の目的は、それである。
今晩はもう休もう、ランプの明かりを小さくして空に一番近い塔の部屋で旅人は眠りについた。
†††
翌朝、カーテンのない窓からさんさんと朝陽が入る。カーテンだけでなく遮るものが何もない塔の上の部屋では、途轍もなく朝が早かった。
昨夜、入室したときには星空だった窓外は、青い空とその下に広がる緑の森の二色の世界になっていた。
遠目にふたつの岩崖が見つかり、その間から薄く都の城壁とその中の建築群がみえる。
反対側の窓を覗けば、森、森、森……。昨日の朝出発した宿屋はみえない。都の建物に比べれば町の小さな小さな二階建ての宿屋など、視界にかすりもしなかった。
またこの高さだと、枝に付けてきた目印の赤いリボンもわからなかった。
「おはようございます」
旅人が階下へ降りていけば、朝食を食べているライナルトいた。一方、猫はすでに食事を終えているようで、旅人が姿をみせると同時にリビングソファのほうへと逃げていった。
ダイニングテーブルにはスープとパンが並んでいる。これにも、旅人は大いに驚いた。こんな高い塔の上で、簡単なものとはいえスープとパンにありつけると思っていなかったのだ。
「食材は定期的に運ばれてくるから、困っていない。料理をするのは嫌いでもないし」
と、森林地帯で孤独な観測の仕事に就く学者らしく、さらりという。
促されるままに旅人が着席すれば、ライナルトは新しく温かいスープを入れ、山盛りのパンのバスケットを差し出してきた。
旅人はひと匙スープを掬う。具だくさんの野菜のスープだ。よく煮えていて、舌で簡単に潰せた。パンもスープ同様の素晴らしいもので、柔らかくて甘い白パンである。
「ありがとうございます。突然押しかけてきて、夕飯だけでなく、またご馳走になってしまいました」
「いやいや、こちらこそ面白いお話をきかせてもらったからね。それに都に向かうのだから、しっかり食べておかないと」
相変わらずの優しい笑みを浮かて、ライナルトは旅人に朝食を振る舞う。
昨晩の夕食は、山鳥の燻製を軽く炙ったものと果物、ワインであった。どれも柔らかくて、芳醇だった。
対して、前々泊の森の手前の宿屋で出された夕食は、同じ燻製肉でも硬くて塩辛いもの。薄いエールはあったが、宿屋にワインなんてなかった。朝食にいたっては、黒パンとスプリング・ウォーターだけだった。
これらのことに、旅人は思う。王宮の研究者ともなれば、配給される物資だけでもずいぶん待遇がいいんだなと。
金目のものはないといった昨日のライナルトの記憶がよみがえった。
こんな食事をみてしまったら、勘違いしてしまう人がきっといる。
食材でこのレベルなら、この塔には他にもいいものがあると思うだろう。
ここは‟迷いの森”といわれているのだ、森だけでも神秘的で興味を湧き立てるのにライナルトのことが加わればさらに拍車がかかる。それがもっと過剰強調されて、金持ち天文学者がいるなんて噂になりかねない。
旅人は恩を仇で返すつもりはない。この塔での出来事は、都ではもちろん森の手前の町でも口外厳禁にする。旅人は出されたものを綺麗に平らげながら、そう決めた。
「今から出れば、昼過ぎには都に到着できるだろう」
朝食のあと、猫のクリスティーネを抱いてライナルトは、塔の下まで旅人を見送りにきた。
猫を抱いて階段を下りるライナルトの足取りは、塔の住人らしく何ひとつ危ういものがない。普段からこの手すりのない階段を行き来しているとわかる。
旅人のほうは、はじめての塔の下り階段ということもあり少し及び腰。上りは上だけをみていればよかったのだが、下りはみえない最下層のことを意識してしまうからだ。
塔の最下層にたどり着いて、旅人はライナルトに向き合った。
「本当にたくさんお世話になりました。帰りにまたお伺いしてもよろしいでしょうか。昨日今日のお礼をしたいのですが」
「ああ、構わないよ。お礼とは別に君を歓迎しよう。ずっとふたりきりだからクリスティーネもいい気晴らしになる」
そうだろう? クリスティーネと、ライナルト腕の中の猫に話しかける。
でも猫は愛想が悪くて、ライナルトの胸元に頭を擦り付けてはいるが一向に旅人のほうへ視線を移さない。
「ふたりきりで生活していれば、どうしても臆病な子になってしまってね」
困ったようにライナルトは弁解した。
「いえ、猫は簡単に懐く生き物ではないでしょうから。むしろ、ここまで大人しく付いてきてくれただけでも光栄ですよ」
これは旅人の本心である。クリスティーネは、宿屋や店にいるような人慣れした猫ではないのだ。だって名前からしてこの猫は、高貴そうじゃないか。
猫は食事のときも全然知らん顔であれば、今もやっと邪魔者が消えるという顔をしている。
(ちょっとぐらい抱っこできればと思ったけど……)
明り取りの窓からの光を受けて、クリスティーネのシルバーグレイの毛はキラキラと輝いていた。正面からクリスティーネのオッドアイを覗かないようにして、旅人はつれない猫の姿を目に焼き付けた。
「では、これで失礼します」
「道中、気を付けて」
こうして旅人は塔をあとにした。
昨日までの赤いリボンの目印と塔の位置を確認して、旅人は都を目指す。塔の上から算段したところ、旅人は昼前に都へ入ることができると判断していたし、実際その通りとなった。
宿屋の主人からもらったリボンをきれいに使い果たし、町を守る城壁をくぐって旅人は都に入った。
見事、旅人は“迷いの森”を踏破したのであった。
†††
さて、都で御用を済ませた旅人は、今度は“迷いの森”の塔を目指す。
ライナルトは通りすがりの旅人に、食事とひと晩の宿を提供した。それ以外にも彼から興味深い話をきくこともできた。
旅人としてはそれらの礼もあるのだが、可能ならばあの天文学者と今後も交友を結びたいと思う。そのくらい昨日の語らいは楽しい時間であったのだ。
猫のクリスティーネについてもライナルトと同様で、仲良くなりたい思う。あのきれいな毛並みを撫でてみたい。でもクリスティーネは人見知りが激しいから、これは至難の業だ。運よくライナルトと友人になれても、クリスティーネについてはずいぶん先のことになるだろう。
こんな具合に、すっかり塔の住人と猫に心奪われた旅人が出来上がっていた。
「へー、にいさん、本当にあの森を抜けてきたのかい?」
森に入る直前の都の飲食店で、旅人が腹ごしらえをしているときであった。彼の足元には、ライナルトとクリスティーネへの土産物が詰まった鞄がある。一目でトラベラーと見抜いた隣席の客が話しかけてきたのだった。
「ああ、そうだよ。でもやっぱり、一日では無理だったよ。距離的には問題ないと思ったけど、やはり街道じゃないから足場が悪かったし」
「まぁ、魔法使いが隠れ住んでいるって森だからな。魔法使いなんて古臭いものが出てきたり、道は整備されていない。そうとなれば気味が悪い悪路だ。たいていの人は遠回りしていくよ。そんな道をよく通ってきたもんだ」
「魔法使い?」
森の道について、“迷いの森”の手前の宿屋の主人と同じようなこという。しかし宿屋の主人のほうでは、“魔法使い”なんて言葉は出てこなかった。
「あ、それね、その魔法使いだけど……」
と後ろのテーブル客が、旅人らの話をききつけて口を挟んだ。
「この国の昔話と合わさって、いろいろなバージョンがあるらしいぞ」
雑多な昼時の飲食店で、森にまつわる噂話の発表会がはじまった。




