16*都にて
雨の森の向こう側に、かつて己が御用で訪れた都の城門がある。既視感でなく、本物の。これを目にして、旅人はめまいを覚える。
いま自分たちは赤いリボンを追跡して、ここまでやってきた。途中で回り道などしていない。
なのに、ライナルトとクリスティーネの住む高い塔のある下草エリアを通らなかった!
(あの草地を見失った? きちんとリボンを追っていたのに?)
(塔のまわりの草地は広く拓けていて、あんなにわかりやすい地形なんだ、ありえない!)
(一体どこで、道を間違えたんだ?)
知らず知らずのうちに杖を離し、旅人はおそるおそる城壁に触れる。力を込めて強く壁を押せば、びくともしない。頑丈なレンガの城壁がそこにある。
壁に手をついたまま左右を見渡せば、城壁よろしく、茶色のブロックの連なりが雨の視界の中へ延びている。数日前にみたのと何も変わりない城壁だ。
「何はともあれ、まずは都に入ろう。ずぶ濡れ寸前だ」
「ああ、それに腹が減った! ひと仕事終えたんだ、腹いっぱい食いてぇ~」
「俺はこの泥を、さっさと落としたいぜ」
旅人と違って、捜索隊のメンバーは任務明けにしたいことを口にする。宿屋の主人に依頼された旅人の捜索と、旅人から懇願された都への道の確認が済んだのだ、仕事は完了したと思うもの。
任務を無事大成功で終わらせてはしゃぐ捜索隊のメンバーがいるのだが、少し離れた場所で真逆の気持の旅人がいる。
歓喜するメンバーに何ひとつ告げることなく、旅人は杖なしでよろよろと森に向かって踵を返した。
一歩踏み出せば、ズシリと体が重い。
杖を拾ってくるべきか、そんな理性も働いたがそうはしない。ただ旅人の心は、森に、ライナルトの塔にしかない。
(早くライナルトさんの元へいかなければ!)
(クリスティーネの元へ帰らなくては……)
(ふたりが僕を待っている!)
ふらふらと覚束ない足取りで、旅人は捜索隊に背を向けて森へ歩み寄る。
城壁そばに到着しても、雨は依然降り続けたまま。朝からずっとそのやまぬ雨に打たれているが、森に入れば木々の葉で雨粒はしのげる。
「おい! 例の捜索人は?」
弾む部下らを尻目に、隊長が気がついた。どんな状況でも冷静なリーダーである。ざっと周りを見渡して、彼は見つける。よろよろと森へ戻ろうとする旅人の姿を。
あ、そうだったとリーダーは気がついた。森を踏破したことに気を取られてしまっていたが、本来の目的は病人の救助であったのだ。
急いでリーダーは旅人の元へ駆け寄ると、旅人の肩を叩いて、彼の歩みを止めた。
「おい! 気持ちはわかるが、まずは一度、休もう」
「いや、それはできない。ライナルトさんが……」
「だが今のお前さんの状態では、また遭難するぞ」
「それでも、いかなければ……」
リーダーの制止に耳を貸さない旅人がいる。もう旅人の中にあるのは、塔に戻ろうとする執念のみだ。
(ライナルトさんは瀕死の状態なんだ)
(クリスティーネがどれだけ心配して待っていることか)
(捜索隊と出会った場所から都まで戻れたんだ。もう一度ここからリボンを追えば、丁寧に逆走すれば、きっと見過ごしてしまった塔に辿り着けるはず)
ざあざあと、雨は降っている。あと数歩で森に入るというところで、旅人とリーダーが濡れ佇む。
そんなふたりの様子に気がついて、別の隊員が杖を拾ってやってきた。
「リーダー、こっちでの宿が見つかりました!」
早く休みたいメンバーは、ちゃっかりと次の段取りを整えていた。了解したとリーダーが頷けば、目でこの隊員を促す。この救助人を説得しろと。
阿吽の呼吸で、隊員は旅人を口説きにかかった。
「あなた様も、疲労の色が濃いです。森の中ではよくわかりませんでしたが、なんだか何日も食事を摂っていないかのような感じで、顔色が悪い。頬なんて、こけているじゃないですか!」
思いもかけないことをメンバーから指摘されて、旅人は大きく目を見開いた。
(何日も食事を摂っていない?)
(いや、そんなことはない)
(今朝だって、クリスティーネと簡易食糧を食べたんだ)
不思議なことをいうなと思ったら、旅人の足から力が抜ける。かくんと膝が折れて、旅人はその場に崩れ込んだ。
「?」
急に、体が変調をきたす。ライナルトとクリスティーネの救助に向かう気概とは裏腹に、体が悲鳴をあげていた。
旅人は、主の命を受けて世界各国を渡り歩いてきた。だから体力には自信がある。なのに、今の状態はなんだ? こんなにも自分は弱かったのか?
「ほら、いわんこっちゃじゃない!」
「疲労を通り越して、土色の顔じゃないか!」
「にーさんの気持ちは、よくわかる。わかるけど、もう間もなく夕暮れだ。雨もやまないし暗くもなれば、道が開通したとはいえ、また遭難してしまう」
地面にへたり込んでしまった旅人をみて、メンバーの声が理性的に心配する。そのセリフは、どれも真実だ。
(なんだ?)
(全然、体に力が入らない)
(それに……急に空腹感が……)
貰った杖に全身を預けて立ち上がろうとしても、途中までしかできない。それでも力を振り絞って立ち上がれば、今度はバランスを崩す。四肢のコントロールが失われていた。
「おっと!」
リーダーが素早く旅人の腕を掴み、自身のほうへ引き寄せた。のしかかるような形で旅人はリーダーに受けとめられる。旅人の転倒は回避できた。
「おい、このまま運ぶぞ!」
しっかりと旅人を確保すると、リーダーは部下に命じた。ほどなくして、手伝いのメンバーが集まった。
芯がなくなり、ぐにゃぐにゃになった旅人の体を三人のメンバーがしっかりと掴み支える。そのまま、そこから都へ運んでいく。
「あれ? にーさん、寝ちまったぞ!」
搬送途中で左腕を持つ隊員が気がついた。
「仲間を助けにいこうとしているが、そのにーさんも遭難者だからな。無理もないさ」
両足を持つリーダーが意識を飛ばした旅人に同情して、そう解説する。
手足を掴まれて仰向けの状態で、旅人は城門をくぐった。
旅人と捜索隊のメンバーの頭上には、灰色の雨の空。その灰色の中に、夕方のトワイライト色が微かに混ざっていたのだった。
***
急速に旅人は意識が薄れていく。
そんな意識の中でも、とさりと体が柔らかいところへ横たえられたとわかる。これはベッドのシーツの感触だ。ここは宿屋のベッドなのだと旅人は認識する。
早く塔へ戻らなければと思いつつも、自由にならない体ではどうにもできない。体が動かなくなっただけでなく、ひどく眠くもなる。この感じは山中で遭難しかかったときとよく似ている。
あのときは道に迷い、もうダメだと思いながら野宿した。だが今は、屋根の下。外の星空の下で眠るのではなく、家屋の中である。とても安全な場所だ。
捜索隊を探しに出て、その彼らと合流して、都まで戻ってきた。最終目的地がライナルトの塔でなく御用を済ませた都では、安全だとしても口惜しい。望んだのは、それではない。自分ひとりが助かってしまうなんて……
ずぶずぶと、睡魔の沼に旅人は沈み込んでいく。体だけでなく、心も沈んでいく。
ライナルトとクリスティーネの顔が脳裏に浮かぶも、睡魔のほうが強かった。ふたりの笑みが、次第に睡魔のつくる暗闇の中に隠れていった。
そうして、何時間眠ったことだろう。
チチチ……と鳥の鳴く声がする。ひどく爽やかなそのハーモニーが旅人の耳に入り、彼は目を覚ました。
重い瞼を開けば、木目の天井だ。外界の星空でもなく、青空でもない。
部屋は明るくて、この明るさは雨の日のものではない。
首を動かして部屋を仰ぎみる。よくある建物の一室である。数多くの旅人がここで宿を取り、その際に煙草などを煙らせたのだろうか、経年の燻の染みも見つけた。
すぐに窓が見つかって、そこからさんさんと太陽の光が差し込んでいた。
(ここは?)
(あれ、城壁で倒れてから……よく覚えていない)
(一体、どうなったんだ?)
赤いリボンを辿って城壁にまでたどり着いた途端、得体の知れない疲労感に襲われた。全身の力が抜けて、四肢の末端から熱が逃げていく。ひどく寒くなれば、空腹を覚え、さらに睡魔もやってきた。
そんな状態だったから、簡単に意識を失ったのだろう。そして、そんな己を捜索隊のメンバーがここへ運び込んだのだ。
このあたりの記憶は旅人にはない。城壁からライナルトの塔へ、クリスティーネの元へ戻ろうと、いま来た道を引き返そうとしているところまでしか覚えていない。
身を起こし、両手をみた。きれいになっている。森の中で転倒して、泥と苔まみれになった手ではなかった。服装も同様で、清潔な寝間着になっていた。
深く考えなくとも、すぐにわかる。誰かか手当てしてくれたのだ。
状況から考えると、捜索隊のメンバーの世話になったのだろう。
耳を澄ませば、部屋の外から雑多な足音が聞こえる。断片的に会話もきこえてくれば、それは商隊らのもの。出発は何時だとか、どのルートを使うとか、関所がどうのとかいっている。
扉越しにきくその音は、どこか懐かしい。そう遠くない過去に、自分だって同じような音を立てて宿屋から出ていったからだ。
(いまが出発の時刻とすれば……宿は一番忙しい時間か)
(とすれば……もう少し待ったほうがいいな)
(疲労困憊で伏せていたとして、どのくらい僕は眠っていたのだろうか?)
ふとみれば、ベッドわきに自分が背負っていたバックパックがある。こちらは泥まみれのまま、そして膨らみが乏しい。
捜索隊を探して森を歩いている途中で、急にバックパックが軽くなった。二日分の食糧がきれいさっぱりなくなった。その数時間後に自分は恐ろしく腹が減り、そのまま力尽きた。
これは、まるで胃の中に入っていた食事もバックパックの荷物と同様に消えてしまったかのようだ。
「…………」
倒れる直前にきいた捜索隊のメンバーのセリフも思い出す。
――疲労の色が濃いです。
――なんだか何日も食事を摂っていないかのような感じで、顔色が悪い。
――頬なんて、こけているじゃないですか!
思わず旅人は自分の顔を手のひらでなぞってみる。そういわれると、確かに頬の肉がそぎ落ちたような気もしないこともない。
きちんと目印のリボンをつけてあったのにライナルトの塔へ戻ることができなかった。二日分の食料が消えて、異常な空腹を感じた。空腹感はそれだけでなく、体が絶食期間を経たかのような状態になっている。
身の上に起こったことを整理すれば、不思議なことばかりだ。
現在わかっている事実を組み合わせて、もっと深く分析しようとしたときだった。控えめなノックの音が邪魔をした。
「ああ、目が覚めたようだ。よかった、よかった。ずっと眠ったままだとどうしようかと思っていたよ」
見覚えのある捜索隊のメンバーのひとりが、扉のそばに立っていた。彼は隊長に命じられてこの都に留まり、旅人の保護を任されていたのだった。




