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好きになったのは、空に一番近い塔の猫  作者: アレクサンドラ・シュロート


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14/21

14*雨の迷いの森

「本当は、ずっとこうしていたいけど……」

「ええ、私も」

「でも、そういうわけには、いかないからね」

「そうね」


 心を鬼にして、クリスティーネの両二の腕を掴む。旅人は自分の胸元から愛しい人を引き離した。

 ふたりの間に、雨の朝の冷えた空気が入り込む。キスの最中でもそれはたびたび入り込んでいたが、今はそのときよりも断然大きい。二の腕を掴んでいる手のひらにだけでしか、彼女の熱を感じ取ることができない。


「私は大丈夫。お兄さまと一緒にここで待っているわ。さぁ、雨が小降りになっている今のうちに」


 気丈夫にも、クリスティーネも出発を促す。旅人と同じで、感情にとっぷりと深く沈み込んでいない。クリスティーネは感情をコントロールできる理性を持っていた。大いに歓迎できる資質である。

 雨足の変化を指摘されて旅人が出入り口ドアの外へ視線を遣れば、彼女のいったとおりである。しとしとと降っていた雨は、いつの間にか雨粒が小さくなり視界も朝食時のときよりも明るくなっていた。


「すぐに戻るよ」

「ええ、期待して待っているわ」


 にこにこと笑みを浮かべて、旅人のセリフを疑わないクリスティーネがいる。

 この笑顔とはしばらくお別れかと思うと、旅人はとても後ろ髪を引かれる。だけど、いかなくてはならない。ライナルトは重体なのだ、こうしている間にも容体は膠着状態で、良くはならない。

 しぶしぶ旅人は、クリスティーネの二の腕を離した。


「じゃあ、いってくる」

「はい。お気をつけて」


 まるで仕事に出る夫を見送る妻のように、クリスティーネがいう。

 想いが通じ合ったがために、出発がとても名残惜しい。名残惜しいが旅人は、えいっとバックパックを背負った。

 このバックパックには二日分の食糧が詰まっている。もちろん旅人はすべてを平らげるつもりは、さらさらない。半日で戻る気概の旅人である。

 幸いにも天気は回復基調。それはまるで旅人に味方しているようで、さっさと救援隊を見つけ出し戻ってくると再度決心した。


「あ、クリスティーネ!」

 いざ、旅人が出入り口扉に立ったときだった。思い出したかのように、彼は恋人を呼んだ。

「はい? 何か?」

 雨に濡れないように塔の内部に留まっていたクリスティーネが、小走りして近寄った。素直な彼女の行動が可愛らしい。

 予想どおりの彼女の振る舞いに、旅人はたどり着いたクリスティーネへキスをした。肩を抱くこともなく、腕を掴むことなく、ただ上体を傾けて顔を寄せ、そっと珊瑚色のクリスティーネの唇に予告なしのキスを落とした。


「!」

 不意打ちのキスにクリスティーネの動きが止まる。青い目を大きくして、そのまま。一瞬何が起こったのか彼女はわからなかった。


(呆然とするその顔も、可愛いな~)

 はじめてみる驚いたクリスティーネの顔が、愛おしい。こんな隙だらけの顔、自分以外ではライナルトぐらいしかい知らないだろう。


「今度こそ、いってくるよ」

 そう旅人が告げると、それが解術の呪文であるかのように、クリスティーネがはっとなる。そして赤くなり、

「もう! ふざけないで!」

 と、揶揄われたことに気がついた。

 ぷくりとバラ色の頬を膨らませたクリスティーネをあとにして、はははと笑いながら旅人は塔を出たのだった。



 †††



(確か、宿屋の方向は出入り口とは反対だったはず)


 塔を出て、その塔の外壁に添って歩く。

 雨の視界は、小降りになったとはいえ、やはりぼやけている。季節が初夏であれば、もう充分に木々の葉は生い茂っていて、あたり一面はグリーンのスクリーンに囲まれている。

 太陽は雨雲に隠れているために、これを使った位置確認は期待できない。塔の外壁に添って歩く。なんとなくの勘で、このあたりかなというところで旅人は足を止めた。外壁を背にして、下草エリアの先に広がる森へ目を凝らす。

 この森に入ってたかだか十日ほど。その間に目印の赤いリボンがなくなってしまうことはないはず。多少は風に飛ばされて減っていたとしても、道案内が完全に消えてしまうことはない、そう旅人は予想していた。

 ちらちらと小さな赤い点が、森の樹木の間からみえた。間違いない、十日前に自分が枝に括りつけたリボンである。

 自分の野生の勘は、なかなか、どうして、大したものだ。

 真っ直ぐに赤いリボン目指して旅人は下草を踏みしめた。


 下草エリアでは天を遮るものがないゆえに、体はしっとりと雨に打たれる。纏う雨具が、雨粒を背負い重くなった。

 これ以上濡れると動きが悪くなるな、そう思うと同時に森に入った。

 途端、雨が当たらなくなる。夏の葉が天然の傘となっていた。その傘は何枚も重なって、頭上の高いところで開かれている。


(これはいい! これ以上濡れない、助かった)

(しかし、足元はそうじゃないけどなぁ~)

(とにかく滑らないように、と)


 一週間以上、雨が降り続いていれば、いくら天然の傘がたくさん開いていても、地面は濡れた下草と流れてきた泥水で滑りやすい。

 ライナルトが雨道を勧めない理由がこれなのだが、実際に体験すれば納得がいく。この森の土壌は水分を含むことで粘りが出て、ひどく歩きにくい。さらに木の根元に苔がびっしりと生えていれば、これも足元を滑りやすくしている。

 雨粒の心配から解放されても、転倒に注意する。旅人は慎重に足を進めた。

 そして、次なるリボンはどこだと、森の中で目を凝らす。

 少し離れたところに、ぽつんと赤いリボンが見つかった。十日前の記憶とそう違わないリボンの位置である。自分が付けたものに間違いない。

 慌てず騒がずで、雨の森を進んでいく。ひとつのリボンの元に到着すれば、また次のリボンを探す。こんなふうにして、旅人は赤いリボンの軌跡をたどっていった。


 リボンの道しるべは、順調に旅人を”迷いの森”を案内する。行けども行けども、視界は雨の空気に滲んだ緑である。体に雨は当たらなくとも、視界は雨の影響を大いに受けていた。

 何気に後ろを振り返れば、前方と同じ風景が広がっている。天を仰げば、黒緑の葉の重なりだ。そもそも雨だから、端から太陽のことは期待していない。森に入って約一時間、時刻は明るい昼前であったとしても、濃い影の中に旅人はいた。


 濃い影を意識すれば、自分を見失いそうになる。

 思わずまた天を仰ぐ。みえるのは葉に覆われた空。青空なんて、ひとかけらも感じられない。


(あれ、どっちの方向から、僕は歩いてきたんだっけ?)


 頭上から地面へと視線を落とす。つま先の向きを確認すれば、目標にしていたのあちらのリボンだ。


(太陽がないから、本当に厄介だな)


 現在位置の確認が、今になってとても困難になっていると気がついた。

 これもライナルトのいう、『雨道を勧めない理由』にひとつだ。宿屋の主人からきかされた”迷いの森”の正体でもある。

 昼なお暗き森の中にいることで、一度意識してしまった孤独感が尋常でない。人の存在が全く感じられなければ、森の真の恐怖に触れた瞬間であった。

 落ち着けと、冷静になれと、旅人は自分にいいきかす。

 奇妙な胸騒ぎがする。雨は体に当たらなくとも、ざあざあと葉を打つ雨音が旅人の耳をつんざく。

 その場に佇み、呼吸を整えているときだった。


 ざばりと大きな音がした。ざんと大きく枝が揺れて、揺れた枝の葉に溜まっていた雨水が旅人に降り注いだ。

 不意打ちのシャワーを頭から浴びて、驚きのあまり旅人はバランスを崩す。

 転倒を防ごうと、とっさにそばの木へ手を伸ばす。しかし苔むした樹木はつるつるで、旅人の手を受け付けない。そのままずるりと泥沼の中へ、旅人はダイブしたのだった。


「僕としたことが……」

「あー、参ったなぁ~」

「泥まみれだ」


 仰向けで滑り込んで、そのままの姿勢で旅人は自分の心臓の音をきいていた。実際にきこえるわけでないのだが、鼓動の打ち方は半端でない。どくどくと、心臓が興奮した血を全身に送り込んでいる。こめかみ付近がピクピクする。

 滑った弾みの跳ね飛んだ泥が、顔を汚した。たが、その泥汚れをぬぐい取ることはしない。全身が金縛りにでもあったかのように、旅人は身動きできなかった。ただひたすら転倒の動揺が過ぎ去るのを待った。


 しばらくすれば心も体も落ち着いてきた。このあたりは今までの旅の経験で、迷ったときは動かないを無意識のうちに実践できていた。

 そろりそろりと両手でそれぞれの拳を作る。スムーズに指は動き、ぎゅっと力を籠めることができる。左手の指先に苔の残骸がついていて、これが少々悔しい。

 両足にも力を入れてみる。つま先は動くし、膝を立てることもできる。

 背中のバックパックはぺちゃんこになっていた。これが緩衝材となって、旅人の背中を衝撃から守っていた。おかげで頭を打っていない。派手に転んだ割には、汚れただけで済んでいた。

 ゆっくりを上体を起こす。だが立ち上がらずに地面に座ったまま。旅人はしばらくそのままでいた。

 そして、あることに気がついた。倒れて潰したことはわかっていたが、背中の荷物がとても軽いのだ。


「あれ?」


 バックパックには二日分の食糧がある。多過ぎと思いながらも、念のために持ってきた。またあまりにも身軽だとクリスティーネが心配しそうでもあったから。

 濡れるのを承知でバックパックを開く。中を確認すれば、荷物がきれいになくなっていた。強く押しつぶした自覚はあったが、この凹み方はまさに空の鞄のものに間違いなかった。


「…………」


 猫を入れる隙間を作るために、旅人は何度も荷物を入れ替えした。猫一匹入れるのに、あんなに苦心したのだ。なのに、その荷物がごっそりなくなっている。

 物理的なものが消えるなんて、あり得ない。

 ここにくるまでの間に、落としてしまったのか?

 でも、このバックパックは穴の開いた鞄ではない。


「…………」


 うっかり転んで意気消沈したところに奇妙なことが起これば、人間いくら冷静になろうとしても、なかなかできない。ひとつのことだけなら対処できても、複数のことが同時にとなると難易度が一度にあがる。その罠に、旅人は陥ってしまった。



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