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好きになったのは、空に一番近い塔の猫  作者: アレクサンドラ・シュロート


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11/21

11*出発の朝

 旅の天幕の中で、昨日までいた花嫁が忽然と消える。従者はさぞかし驚いたに違いない。青ざめる彼らの姿が容易に想像できる。だが……

「ひとつ確認していい?」

 リアリストの旅人は気になりことがあり、また確認を入れた。

「はい」

「分身を作ったというのを知っているのは、誰? お兄さまと君だけ?」

「はい。そのとおりです。お父さまにもお母さまにも、ほかの兄弟にも、もちろん侍女にも誰にも知らせていません」

 ああ、そういうことかと、旅人は腑に落ちた。

 輿に乗っている姫さまが分身だなんて、誰も知らなければ旅の途中で本当に誘拐されたと思うだろう。両国から捜索隊が出たということから、ふたりは結婚に賛同していた家族を徹底的に欺いていたのだった。


「もっと教えてもらっても、いい?」

「はい、どうぞ」

 魔法のことは別にして、気になることがどんどんわき起こってくる。旅人は、興味の赴くままにクリスティーネに問うた。

「猫になった君は、どこにいたの?」

「お兄さまのお部屋に」

 涼しい顔をして、クリスティーネはいう。

 王子が猫を飼いはじめても、城内に咎める者はいない。城中が明日にでも出発するクリスティーネの花嫁行列のことで騒がしければ、それどころではないだろう。

 王子ライナルトが膝の上にシルバーグレイの猫をのせて、撫で慈しんでいる姿が容易に目に浮かぶ。その猫もぴたりと主人に身を寄せて甘えていれば、つい先日までのこの空に一番近い塔の中での風景に他ならない。


「捜索隊が出て花嫁のクリスティーネは見つからなかったとして、そのあとは?」

「はい。相手国の王子さまは私のことを諦めてくれました。代わりの姫を寄こせとも、要求されませんでした。花嫁行列の嫁入り道具はすべて相手国に献上して『これでおしまい』にしたのです」

 政略結婚の終焉まで話してしまうと、禁句を解除されて心のつかえが取れたか、クリスティーネに安堵の表情に浮かび上がる。

 手にしていてもずっと飲んでいなかったティーを、やっと彼女は口にしたのだった。




 そうして、夜がやってくる。

 昨日の夜まで、この部屋に猫のクリスティーネがやってきた。ここ数日の習慣であれば、すっかりそれが当たり前になっている旅人がいる。

 だが、旅人と猫の穏やかな夜の時間は終わった。猫のクリスティーネが人間のクリスティーネになってしまったから。

 いくらクリスティーネがあの猫であったとしても、年頃の娘が青年のいる夜の部屋を訪れることはない。猫とは仲良くなれたが、クリスティーネとはそこまでではない。彼女は旅の途中の恩人の妹で、恋人のようなものではないのだ。

 お互いが常識人であれば、今夜はひとり寝になるのだと旅人は自分にいいきかせた。


 しとしとと雨が降る。傍らに小さな熱の塊がなければ、ひどくもの寂しい。雨音は、そんな寂寥感を助長する。

 いつもの猫のクリスティーネがやってくる時間になれば、無意識のうちに扉のほうへ旅人は耳をそばだてる。そんな無意識の行為から、いつの間にかすっかり自分は猫に魅了されているのだと気がついた。

 その証拠に、昼の準備のときだってバックパックに猫がすっぽりと収まる空間を見つけてどきりとした。そのときから意識はしていたが、夜明けの前の雨降る暗闇の中でしっかりと旅人は自分の気持ちを自覚した。




 ***




 夜が明けた。今朝もしとしとと雨が降っている。しかしその勢いは昨日ほどではない。

 雲の厚みが薄くなったせいか、昨日よりも明るい雨の朝である。その薄明りの中で旅人は目を覚ました。

 昨晩は旅人の睡眠を邪魔をする侵入者が訪れなかったので、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。

 猫が、もちろん猫でなくてクリスティーネでも構わないのだが、隣りにいないことが、こんなにも心的ダメージを与えるのかと驚愕する。昨日の晩よりも今日の朝、ますます旅人は、猫に、クリスティーネに恋心を自覚する。


 昨日の対話では、クリスティーネの縁談を破談にできた経緯をきいた。その先のこともききたかったが、あえてやめておいた。クリスティーネが疲れてしまっていたからだ。

 では、今日はその続きを……とはしない。

 旅人にはしなくてはならないことがある。ライナルトのために、ここまで救助隊を案内して連れてこなくてはならない。

 さっさと準備をすませて階下へ降りれば、ダイニングにはクリスティーネがいた。昨夜の旅人のもとにクリスティーネはこなかったが、早起きして旅人のために湯を沸かして待っていたのだった。

「おはようございます」

 背後から旅人がそっと挨拶をすれば、くるりとクリスティーネが振り返る。旅人を認めて、ぱっと彼女の顔が輝いた。

 自分の姿を認めて微笑むなんて、なんてかわいいんだ。雨の朝の薄暗いダイニングに、旅人の心の中に、花が咲いた瞬間であった。

「おはようございます。お湯ができています。私、お湯しか用意できませんけど、よければ使ってください」

 クリスティーネの指先には昨日の包帯が巻いたまま。そんな手であっても、できることをできる範囲で頑張る心優しいクリスティーネがいた。

 自分のために慣れない家事仕事をしてくれていたのだと思えば、先の笑顔とあわせて旅人は勘違いしそうになる。

 もちろんそれは、旅人のほのかな願望でしかない。昨晩と同様に、彼女に恋心を自覚しながらも自制しろと叱咤するのだった。



「昨日より雨が少し弱まってきたようですね。これなら、歩きやすそう」

 ふたりで向かい合って、朝のティーをいただく。食卓にはティーセット以外に昨日旅人が作った簡易食糧が並んでいる。早朝の出発だから、スープなどを作る時間はないのだ。

「こんな簡単な食事で、大丈夫ですか?」

 これから森に入る旅人のことを気遣って、そうクリスティーネが問う。

「大丈夫ですよ。今日一日のことですから。捜索隊が取りそうなルートも大体わかっているし、運がよければ昼前に戻ってこれるかもしれません」

 森の入り口からここまで、赤いリボンの目印をつけてある。それを、塔のある場所から旅人が、森の入り口から捜索隊が辿っていくのだ。

 風などで結んだリボンの一部がほどけて飛んでしまっていても、あのリボンの色は遠目からでも充分目立つ。リボンとリボンの間隔が、多少の距離が広がっていても見失うことはない。そのための、派手な赤い色なのだ。

 旅人のほうはそんな確信があるから、自分のことについてはそう心配していない。旅人が心配しているのは、もっぱら救助隊到着までライナルトの容態が持つのかどうかである。


「本当に、大丈夫ですか?」

 余裕の旅人に対して、クリスティーネは違う。ひどく旅人のことを心配している。

 放浪している旅人にすれば、人との出会いは一期一会だ。それゆえに、こんなふうに親身になってもらえると心がこそばゆい。

「僕はいろいろなところへいっているし、いろいろなものをみてきています。その中で、この森はよくあるタイプです。ここへくるまでの目印だって、つけてある。何といっても僕は一度、森の端から端まで通り抜けてもいるから、全然未知なるものではないですよ」

 はじめて入る森でないといえば、クリスティーネの顔から不安が消える。この塔の中で暮らしているクリスティーネと違って、旅人の知っている世界はとても広いのだと気がついたのである。


 食事が終わり、旅人は席を立つ。昨日作ったバックパックを背負い、そのままライナルトの元へひと言、挨拶することにした。

 クリスティーネとともに彼の寝室へ向かう。ノックしても返事がない。クリスティーネが様子をみてくれば、ライナルトは眠っていた。

「起こすのは酷だから、そっとしておこう。昨日、挨拶をしてあるし」

 クリスティーネが扉を閉める隙間から、そのライナルトの様子が窺えた。ベッドの上で、きれいな仰向け状態で眠っている。直立不動の姿勢でそのまま横になったかのようだ。

 きれいな睫毛に縁どられた瞼に筋の通った高い鼻、引き締まった唇と眠るライナルトは優美な彫刻像である。シーツに一筋の乱れがなければ、もう天に召されたかのようにみえた。でも胸元がかすかに上下していて、これが旅人をほっとさせた。

「ごめんなさい」

「謝ることはないよ」

「では兄に代わって、私が下までお見送りにいきます」

 静かにライナルトの寝室の扉を閉めて、ふたりは階下へ降りる。

 キッチンを横切り、ソファセットのあるリビングを抜け、その先の塔の階段に繋がる扉を開いたのだった。



 よく考えたら、この扉を開くのは十日ぶりだろうか?


 すっかりこの塔の部屋で長居をしてしまっていた。

 あちこちを放浪している旅人にすれば、一ヶ所にこんなに長く滞在したのは、旅を開始してからはじめてだと気がついた。雨による足止めもあるが、このライナルトのいる部屋が居心地がよかったのは間違いない。


 扉を開ければ、ぼわんとした暗闇が足元に広がっている。雨の朝であれば、明り取りの窓からの光量が乏しい。予想はしていたが、ここまで登ってくる塔内部の階段は旅人の想像以上の暗さであった。まるで暗雲の中を進むような、恐怖感がないこともない。

 夜が明けたばかりなのに、旅人はランプをつけた。それを手にして、扉から下へと伸びている階段を照らす。ランプの光は螺旋階段の反対側の壁まで届いたが、地上までは届かない。完全に内部が照らし出されていないが、ゆっくり下っていく分には問題のないランプの光であった。


 ふと気になって、旅人は後ろを振り返る。

 以前ライナルトが塔のふもとまで見送りに出てきたときは、クリスティーネは猫だった。猫のクリスティーネは彼に抱かれて階段を降りた。

 でもいまは、彼女は人間のクリスティーネ。自分の足でこの手すりのない暗い階段を降りることになる。

 下まで見送りにいくとクリスティーネはいったが、本当にこの暗闇の階段を歩いてくるのだろうか? 

「あの、かなり暗いから、無理しなくてもいいよ。ここで見送ってくれるだけで、充分です」

「いえ、大丈夫です。猫じゃないから夜目がきかないけれど、ここは私の家よ」


 ――ここは私の家。


 ああそうだったと、旅人は考えを改める。

「でも、危険だから」

 と、旅人はクリスティーネに手を差し出した。

「ありがとうございます」

 少しはにかみながらもクリスティーネは、旅人の手に自分の手を預けたのだった。

 

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