経済侵食
一五二九年(享禄二年) 二月初旬 尾張国 天神領
宗貞が弾正忠へ媚びを売って条件の良い臣従をと考えるに至ったのは、織田弾正忠家による経済圏に大いに巻き込まれていることに気づいたからである。
知多半島は作物がまともに育たず、漁業でしかまともに生計が成り立たない厳しい土地であり、どうにかして民の生活を安定させようかと宗貞や忠政が思い悩んでいると、そこに救いの手が差し伸べられる。
別松商会と名のったその商会は米や雑穀、塩などの必需品を捨て値とも言える価格で販売して瞬く間に知多半島に名を広めていった。宗貞も忠政もそのときは安い米が買えてよかった程度にしか考えていなかったのが運の尽き。
知多郡において北を押さえる忠政と南を押さえる宗貞、その二名が生活を織田弾正忠家に握られていることに気づいたときにはもう遅かった。安くて美味い米の味を知り、冬に飢えずに済む、これほど農民にとってありがたいことはない。別松商会は知多にとって欠かせない商会となっていた。
故に、暮れの迫った十一月末に別松商会の商会長から商会の大本が織田弾正忠家だと聞かされた宗貞が、やられたと思うと同時に抜刀しかけるほどの衝撃を受けるのも無理はなかった。いまさら仮想敵である織田家の手下だった別松商会を追い出しても決して民は納得しない。人間は我慢することはできても、できていたことができなくなるのは心が対応しきれない。飢えずに日々を過ごせていた知多の民に別松商会を追い出したと言ってしまえば、次は宗貞が知多から叩き出されることは明白であった。
十二月初頭、どちらともなく面会の約束を取り付けた二人は大野城で頭を突き合わせて何時間にも及ぶ会議を経て、信秀に臣従することを決心した。どれだけ悩んで挙兵しても二人には民に裏切られる未来しか見えなかったのだ。
諦めて臣従を決心した二人の行動は早かった。二名が連名して面会を信秀に求める書状を送り、信秀にそれが受諾されたのが十二月中旬。年明けに偶然を装って廉次の所有する天神村にて顔合わせをすることを秘密裏にすりあわせた。なお、この時点では廉次に話は通っていないのは御愛嬌。
閑話休題、そこに襲い掛かったのは尾張では未曽有の大雪。対処などしたことのない雪に佐治と水野の家は大混乱、大量に死者も出たために事態の鎮静化が終わるまで面談を延期して欲しいと佐治家が代表して津島に使者を送り、信秀も了承したことで面会の延期が決定した。
そして今日、佐治駿河守宗貞は約定の会合を行うため、船にて知多から蟹江の小さな港に到着した。
既に水野下野守忠政は陸路にて到着していると先行していた家臣が宗貞に報告する。
「水野殿は陸路で参ったのか」
「それに徒歩でだそうですぞ。老いてもなお益々盛んですな」
自身よりも年上の家臣が破顔して笑う様を見て、宗貞もつられて「ははは」と乾いた笑みを浮かべるが、内心は穏やかではない。人間五十年の戦国の世で数えで三十七になる忠政の健脚ぶりに思わず宗貞は舌を巻いた。宗貞は相変わらず抜け目のない爺さんだと心の中で愚痴る。
(水野の爺さんは水野家には水野忠政がまだ健在だと弾正忠に示したいのだろうな。クソ、俺も徒歩で来るべきだったか? それはそれで水軍を率いているのになにをやっているとそしられるか……)
宗貞はどうすれば信秀に気に入られるか。それだけしか考えられなかった。
◇
「よう来た、水野殿に佐治殿。雪もまだ深い故な、休息を少し取った後、ここからは天神領に慣れたワシらが先導しよう。なぁに、気にすることはない。自在天神様へ祈るのにケチがついては仕方ないからの!」
がははっと笑いながら厚着をした孫三郎こと織田信光が、天神領にたどり着いた佐治家と水野家の面子に休憩をうながしながら配下に命令して白湯を配らせる。寒い中、天神領まで休みなく歩いてきた面々は感謝を口にしつつ、それをゆっくりと啜った。
「こちらもまだ雪が残っているのですな」
「そうだな、知多もまだまだか?」
「北も南もどっさりです。船場をようやくまともに動かせるようになったばかりで」
白湯を半分ほど飲み終えた宗貞が周りの景色について、世間話がてら孫三郎へと話しかける。孫三郎は困ったような笑顔で肯定し、知多の状況について尋ねると宗貞も似たようなものだと返した。
「では、天神村に着いたら驚くかもしれんな」
「……それは、どういうことで?」
「はっはっはっ、己が目で確かめるといい。さ、天神村の屋敷では歓待の宴を準備しているらしいぞ。雪の中で歩きにくいだろうがもう少し気張られい」
全員が白湯を呑み終えたことを確認した孫三郎は、意気揚々と最低限の除雪がされた道を歩きはじめる。そのあとを二十名ほどの織田家兵士が続き、佐治家と水野家の者たちは慌てて後を追うのだった。




