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ガトゥン湖の虹

作者: 渡邊雅人

   ガトゥン湖の虹          渡邊雅人


船出


 一九六〇年一月十九日、日米新安全保障条約はホワイトハウスで調印された。アイゼンハワー米大統領立ち合いのもと、日本側から岸首相を首席全権として、藤山外相、石井光次郎自民党総務会長、足立正日本商工会議所会頭、朝海浩一郎駐米大使の五全権、米側からハーター国務長官、マッカーサー駐日大使、パーソンズ国務次官補の三全権が署名した。

 五月十九日、政府・与党は衆院での委員会審議を中断し、野党議員・自民党反主流派議員欠席のなかで、「新安保条約」を強行採決。この採決は一ヶ月後に訪日するアイゼンハウアー米大統領の日程に合わせたものであると見られ、少なからず世論の反発を生むことになった。翌五月二十日、請願デモは怒りの抗議デモに変わり、岸内閣退陣要求に発展した。

五月二八日、岸首相は「新聞だけが世論ではない」「新聞報道には現れない声なき声にも耳を傾けなければいけない」と記者会見で語り、潜在する安保支持派の存在を指摘した。

 六月四日、総評は時限ゼネストを指令、全国で四六〇万人以上の労働者がストに参加。

 八日、自民党、衆院安保特別委を単独で開き、安保条約の審議を開始。

 十日午後三時二九分、米大統領訪日の打ち合わせのためハガチー米大統領新聞係秘書が羽田空港に到着。ハガチー氏を乗せた車は空港周辺でデモ隊に包囲され立ち往生し、海兵隊のヘリコプターで脱出。(ハガチー事件)

六月十五日、この日のストには五百八十万人が参加。東京では十一万人が国会議事堂を包囲。「第十八次統一行動」として、「国民会議」「都労連」「新安保反対キリスト者会議」「安保改定阻止新劇人会議」などが参加した。さらにこれに同調した全学連反主流派も抗議デモを敢行。

 また全学連主流派も各地の大学へ呼びかけ、「国会正門前に七千五百人を動員する」と主張し、気勢をあげた。これに対して、衆参両院議長は警察に派出要請、約一万人の警官が警備にあたった。議事堂周辺を守るのは三千四百人ほどの機動隊、方面警察隊である。


 午後一時半頃から、全学連主流派の東大、中大、明大を中心とした約六千人の学生が集まり始め、午後三時半頃には約七千三百人に膨れ上がり、抗議集会を行なった。

 国会はデモ隊に包囲される形となり、参院側から、衆院南通用門の方へ行進した。

 デモ隊が衆院第二通用門交差点にさしかかった頃、平河町方面から歩いてきた右翼約百二十人と遭遇し、大乱闘となった。双方の関係者二六人が検挙された。

 全学連主流派はスクラムを組んで通用門に体当たり、有刺鉄線などをペンチで切断し始めた。

 午後五時四〇分、学生らは、門扉にロープを巻いて引き倒し、門内に並んだ警備車両にも火を放った。

 これに対して警官隊は放水して押し戻そうとしたが、抑えきれずに学生らは構内へ乱入し、規制しようとした警官隊と衝突、そのなかで午後七時過ぎに東大生・樺美智子が転倒し、学生らの下敷きとなって圧死した。

 一方、国会構内ではその後も一進一退の衝突が続き、午後八時半頃に三千五百人ほどの学生が中庭で、シュプレヒコールや阻止車両破壊を始めた。警官隊が学生を門外へ排除できたのは午後十時過ぎだった。

 学生らの多くは国会周辺でデモ行進を行ない、それは三千人にもなった。正門前の車両を横転させ、次々と放火、計十八台が全半焼した。

 結局この日、学生一九三人含む二三二人が検挙された。警察側の負傷者は七百二十一人。それまでの闘争警備において、最大の被害を出した。

 六月十九日、強行採決からちょうど一ヶ月後の午前零時、前夜からデモ隊三十三万人が国会を取り巻くなか、新安保条約が自然承認される。新条約は内乱鎮圧条約や、第三国への軍事的便益提供禁止などは削除され、条約存続期間は十年とされた。

 六月二三日、午前十時二十分、新安保条約は東京・白金の外相公邸で批准書の交換が行なわれ、すべての手続きを終えた。そして岸内閣は「人心一新」「政局転換」を理由に、この政治的混乱の責任をとって総辞職を発表。

 七月十四日に池田勇人が党総裁に選出され、十九日に池田政権が発足。この後、デモは驚くほど速やかに終息した。


当時、内山茂は全学連主流派に属し安保反対運動に熱中していた。安保批准前夜も仲間と共に国会突入を図って、正面近くの鉄柵を乗り越えた。機動隊の放水車から飛んでくる礫のような高圧噴流を浴びながら、怒号、悲鳴、夜空に交錯する火炎瓶、サイレンの咆哮、肉を打ち骨を砕く警棒の鈍い音、うめき声、炸裂する催涙弾と閃光、低い勝ち鬨のような音のうねりの中にいた。前方には十重二十重の機動隊がはだかり、国会突入は阻止され失敗に終わった。

警棒に叩かれた痛みと、下着まで濡れ鼠となって、悪寒に震えながら仲間と共に地を打って泣いた。

「畜生! 日本は俺達の国ではないのか、〝何が声無き声だ!″、二千万の国民の反対請願を無視しやがって……」巨大な国家権力に対して武器を持たない民衆の無力さを見せ付けられて、挫折感というか無力感というか、無性に情けなかった。

 時が経ち熱は消え、ある者は学園を去り、ある者は学園に戻っていった。茂は学業を続ける情熱も、気力も無かった。飢えを満たし、命を繋ぐために働き、彷徨う精神に安らぎを与える為に酒を飲んだ。

 ぐらぐらと揺れ動く酔いの中で、自分はこの国にはとても住めそうにない事が良くわかった。貧困と暗鬱に満たされた当時の日本は、茂には一切が灰色に見え、将来に希望は持てそうに無かった。社会から放逐された黒羊として、遠い辺境の虜囚の身の、凍えるような虚しさが身体中を吹きまくっていた。

 茂はそんな日本に絶望して、日本脱出を決心した。


一九六二年五月、移民船アメリカ丸は一万五千トンの巨大な船体を赤い喫水線近くまで沈ませて神戸埠頭に停泊していた。甲板に通じる長いタラップを船出する人、見送る人々が上り下りし、船内はごった返していた。やがて銅鑼が鳴り、追われるように見送り客も下船して、移民達はデッキに鈴なりになり、岸壁の見送り人にテープを投げ、今生の別れを惜しむのである。

 拡声器から鳴り出した、寂しい〝蛍の光 ″の調べに遠い外地に船出する人、見送る人、皆涙、涙の宴の後、海面に落ちた夥しいメランコリーを掻き分けて船はゆっくりと反転し沖を目指す。

 二昼夜走って横浜に寄港、新しい別れと嘆きを載せて船は又沖に向かう。

 神々しい富士の霊峰を拝んで、皆祖国との今生の別れを心に刻む。もう泣いても叫んでも運命の矢は放たれたのだ。後は自分の才覚と度胸で人生を切り開いてゆくしかない。人々は決意新たに現実に戻って自分の船室に帰ってゆく。

 政府から派遣された移民監督官や次の寄港地ロング・ビーチで下船する一般客はデッキの上部に設けられた白亜の船室に優雅に収まっていたが、移民達は地獄のような振動とエンジン音の喧しい船底の貨物室に設えた蚕棚に似た、建設現場の足場用のパイプを組み立てたベッドに寝起きを強いられた。隣のベッドを仕切るのは一枚の布地のみで、プライバシーも人権も無視されていた。

 食事は船倉の床に拵えた工事現場の飯場そのままで、パイプの足場の上に板を並べた即席のテーブルで、囚人のように与えられた餌を食んでいる。

 南米まで二ヵ月に近い長旅なのに、夫婦はプライベートな空間も無く、若者は精力のはけ口に困り果て、些細な事で移民仲間と喧嘩を繰り返した。

 本船に乗っている移民は殆どがアマゾンのベレンから南に二百五十㌔程下った、トメアス植民地に胡椒栽培に夢を託す五十家族の集団と、コチア農業組合呼び寄せの単身青年、それに少数の写真見合いによる花嫁移民達だった。


 横浜を出て船は北に進路を取り、海は荒れてきた。茂は船底の最後尾、後部右舷舷側に近い二段ベッドに寝ていたが、海が荒れると船尾が持ち上がり、カラカラとスクリューが空回りして不気味な音を立てた。

 北太平洋の荒れはすさまじく一万五千トンの巨体を玩具のように持ち上げたかと思うと瞬時に奈落の底に突き落とすのだった。

茂は甲板に出て、突き上げる波のうねりを眺めるのが好きになった。遠く水平線に視野を固定して、上下に揺られながら観測していると、波の動きは何故か人間の運命の法則と何処か似通っている気がした。

《奈落の底で人生を諦めればそれで終わりだ。運には必ず幸・不幸の波動と上下差がある。遣ってくる次の幸運を掴むには暫しの辛抱と、チャンスを読み、待つ余裕が必要なのだ》茂は波の飛沫を浴び、凍える寒さの中で、これから自分に訪れる人生は何かと荒れ狂う北太平洋の荒波を見ながら、そんな事を考えていた。

 戦後の混乱と食糧難の中で、死病と呼ばれた結核に感染し、最後まで闘い続けた父と、父の死後、残された五人の子供を育てる為に命を削って逝った母。その母の困窮を知りながら、自分の野心を捨てきれず、母の秘めたる願い事も無視して、ブラジルの新天地に夢を追っていく自分。それに反して姉や妹は従容として運命に逆らわずに平凡に生きている。そして結局はその平凡な生き方が人間にとっては正しいのかもしれない。

 然し俺は違う。俺はそんな生き方は出来ない。折角の一生を空しく平凡に生きるなんて俺には出来ない。もしそんな生き方を強制されたら、自分の生命は輝きを亡くし忽ち死んでしまうだろう。

 生前母が口癖の様に言っていた「貴方が生れてきた理由、此処に存在する理由、全て訳があるのです……それは自分の心の叫びを聞く事ですよ……」その訳を知りたかった。突き上げられ、奈落に落ち込む重力に身を任せながら茂はそれを考えていた。

 然し答えは無く、空しく思考は回転し、視線は茫洋とした水平線を彷徨うばかりだった。


 移民船客の年齢は様々で、乳幼児から家族の南米移住に無理やり参加させられた高齢者もあって、その事情や動機は様々だった。

茂は二十二歳、自然年齢や趣味の似通ったグループと親しくなり行動を共にするようになった。その中に次の寄港地ロス・アンジェルスで下船する予定の若い美しい姉妹が居た。  

母親が米国軍人と再婚して、ロス市郊外に暮らしており、今回の船便で娘達を呼び寄せてくれたのだという。

 姉妹は知性美と教養に輝き、品があってしかも控えめで驕らず、他人には親切で茂も

好感を持った。姉は十九歳で妹は十七歳だった。ロス寄港が間近になって茂は、姉妹にロス市の中心まで車の座席に余裕があったら便乗させて貰えないかと頼み、二人は快く茂の頼みを受け入れてくれた。


 横浜出港後十日目の朝、船はロング・ビーチの沖合に停泊した。船倉の丸窓から外を覗くと辺り一面乳白色の濃霧が立ちこめ何も見えない。暖かい蒸気と薄明るい乳白色の光の中で、穏やかな波のたゆたいを心地よく感じながら霧の晴れるのを待った。

 午後になると海面の温度が下がったのか、霧も晴れ、船は無事ウイリミントン港に接岸した。

 当時の米国移民法は査証の無い者は、船のタラップから埠頭のコンクリートにタッチする事さえ認めていなかった。茂は出発前に米国領事館で査証を申請し、取得していたので大手を振って、待望の米国本土に上陸する事が出来た。安保反対に命を掛けた茂が米国上陸を希望したのは奇妙に感じるだろうが、当時の学生は正確には米国との安全保障条約に反対ではなく、むしろ強引な国民無視の強行採決・批准をした岸政権に反感を感じていたのである。


姉妹を迎えに来たのは、娘と顔立ちの良く似た美人の母親とロバートという名の若い空軍所属の将校だった。こんな美しい(ひと)が姉妹の父親と離婚し、敵国の軍人と再婚している事実に茂は当惑したが、ロバートは気さくな人柄で茂の同乗を気軽に同意してくれた。

ロバートの運転する真っ赤なパッカードの新車は助手席に茂、後部座席に久しぶりに再会した母に甘える姉妹を乗せて、滑る様にロスのダウン・タウン目掛けて走ってゆく。当時はまだハーバー・フリーウエイは無く、ウイリミントン港からガーデナ市、ロス・アンジェルス市にはサウス・ヴァーモント・アヴェニューの黒や黄色のけばけばしいペンキを塗った奇抜な黒人街を抜けて行くしか方法が無かった。

ロバートは姉妹と一緒に茂を日本人街にある京都レストランに招待してくれた。姉妹の母もロバートも茂を大事なお客様のように扱い、姉妹と一緒に日本食をご馳走してくれたのである。

京都レストランの二階に上がって茂は驚いた。日本風座敷ではなく、洋風で席には革張りのソファーが並び、出てきた蒙古烏賊の刺身の厚いことに二度驚いた。茂はするめ烏賊しか食べた事が無かったからである。

食後ロバートは日本人街で日本食品や姉妹へのプレゼント等を買い込み、茂もその買い物を手伝った。姉妹の母は優しく茂の質問に答え、アメリカの生活が如何に便利で快適かを説明し、茂の南米行きを心配している様子だった。一家はオンタリオ空軍基地内に居住し、日本人街のあるロス・アンジェルス市までは二時間も掛かるので、こうして日本食を纏め買いするのだと説明した。

買い物も済み、これから遠い郊外の空軍基地まで帰って行く姉妹達の都合を考えて、茂はボブに握手を求め別れを告げた。

「お陰でロス・アンジェルス市も見物でき、久しぶりで新鮮な刺身もご馳走になり、本当に有難う御座いました。僕はバスに乗ってロング・ビーチに帰りますから、どうかご心配なくお宅へお帰り下さい。どうぞ此処でお別れしたいと思います……」茂のたどたどしい英語は姉妹の母によって通訳され、ボブは茂の申出を理解した様子だったが、

「とんでもない、娘達が船中でお世話になったそうだし、買い物や荷物も運んで貰ったし、最後に貴方に米国のステーキをご馳走したい」といって夕食に招待してくれた。

 ステーキハウスの名前も場所も忘れてしまったが、確かマッカーサー・パークの傍にあったような記憶がした。出された厚さ三センチの巨大なステーキに茂は三度驚いた。若い茂はそれをペロリと平らげ、今度は姉妹達を驚かせた。

 ハッピー・タイムは瞬く間に過ぎ去る。美しい姉妹とその母、夫のロバートに感謝の言葉を何回も繰り返し

「この経験は美しい楽しい思い出として一生忘れません。」

と握手を皆と交わし、別れを惜しんだ。

「あそこからロング・ビーチ行きのバスに乗って、終点まで行けば、後はタクシーで港の岸壁まで直ぐの距離だ。気をつけて……」

ボブの言葉を姉妹の母が要点をメモして渡してくれる。

「OK、解りました。皆様も御元気で、サンキュー、ボブ! 又逢いましょう」


 幸福の寿司詰みたいな家族を乗せた車からダウン・タウンの薄汚れたメイン街で降りて、茂は現実に引き戻された。当時のメイン街も現在も同じくホームレスの男女が、為す事も無く虚ろな目をして屯していた。通り過がりの通行人に手を差し出して小銭をせびり、紙袋に隠した小瓶から酒を飲んでいる。汗とアルコールの饐えた匂い、退廃と破滅の匂いがした。

 ロバートがわざわざ不潔で退廃の匂いのするメイン通りで茂を降ろしたのは、其処にグレイ・ハウンド・バスのターミナルがあったからである。

一人になって薄汚い路上に立つと、茂は道行くアメリカ人の姿に驚いた。日本を壊滅的に破壊した聡明なヤンキーが垢に塗れて昼間から酒に溺れ喚いている。完璧だと思った敵国人の弱点を発見した所為か、緊張感が解けリラックスした気持ちになった。

通りに面した小さなマーケットに入って、カリフォルニアの陽光で育ったオレンジの艶やかな色と香りに見惚れてしまった。所持金は米ドルで五十ドル、それが全てだった。これからの長い船旅と現地に着いたら金が必要になる。その為に大事に財布に仕舞って置いた虎の子である。大粒のオレンジが六個入った袋を二つ、大枚六ドルを叩いて買った。

査証が無く、船で待つ友人達にせめてカリフォルニア・オレンジの芳香を味わって貰いたかった。

夕方八時過ぎにターミナルでウイリミントンまでのバスの切符を買い、行き先を確かめてバスに乗込んだ。日本を発つ前新聞で報道されていた南部のリトル・ロックで起こった黒人差別の問題が頭を過ぎったが、車中では何もなかったし、何時しか草臥れて眠ってしまった。終点のウイリミントンに着いたのはもう夜だった。車内の薄明かりで時計を見ると、もう十時を過ぎていた。バスを降り暗い静かな通りを暫く歩くと、眩いばかりに電飾を施したカフェテリアが前方に浮かび上がった。

茂は惹かれるように店内に入っていった。


明るいカウンターを選び、コヒーを飲みながら、買ってきた絵葉書にロス市の印象を書いていると、隣に座った黒人の男が話しかけてきた。

「お前はスマートだ……」

と、しきりに感心している。

「どうしてそう思うのか?」

と質問すると

「漢字でそんなに早く字が書けるからスマートだ」

という。茂は笑って

「日本人は誰でもこれぐらいは書ける教育を受けている」

と、いうと黒人は首を振って驚いていた。

葉書を書き終わり、郵便ポストを探したが、日本の赤いポストらしいものはなく、仕方ないので近くのポリス・ステーションに行き、明朝出港するのでこれで切手を買い投函してくれるように頼んで一ドル紙幣を渡した。

 濃い髭を生やした警官は茂の頼みが判ったのか、紙幣と絵葉書を受け取り投函すると約束したが、その後絵葉書の消息は着いたのか、着かなかったのか不明である。

 カフェテリアに戻りコヒーを啜りながら、窓から見えるウイリミントンの夜景を眺めながら静かに夜が明けるのを待った。

 店内には客が四、五人、港湾労働者や客待ちのタクシー・ドライバーがコヒーを飲んでいる。朝の五時になった。六時までに本船に帰るようにと注意を受けていたので、ぶらぶら歩いて帰ろうかと思っていたら、二人連れのタクシーの運転手が声を掛けてきた。

「岸壁まで五マイルもあるから乗せて行ってやる。日本船に帰るのだろう?」

と、言う。波止場まで五マイルあるとは思ってもいなかったので、

「サンキュー、ご親切を感謝します。」

と、二人の好意を感謝してタクシーに乗込んだ。

 流石タクシーの運転手である。日本船がどの岸壁に係船して、何時出港するのかも知っている様子である。有り金はもう四十ドル位に減っていたし、見たところイエロー・カブの運転手もGI刈りで真面目な人間に見えた。朝鮮戦争で佐世保に居た事があるらしく、二言、三言日本の話しに茂も打ち解けた。

 闇の中を二十分も走ると前方に明かりが見えてきた。出港前に貨物を積み込んでいるアメリカ丸の黒い船影がシルエットの様に立ち昇る靄の中に浮かんでいた。

「有難う御座いました。」

茂は親切なタクシーの若い運転手に丁寧に礼を述べて、船のタラップをゆっくりと上って行った。

 アメリカの印象は明るく楽しく、人々は親切で愉快な反面、暗く汚い街の光景、疲れて無気力な黒人やメキシカンの姿など、意外な弱点も見せ付けてくれた。

《又何時か必ずこの街に帰ってくる……》

茂は朝焼けに浮かぶロング・ビーチの山影に向かってそう誓った。


 船はメキシコ沖を一路南下して行く。バッハ・カリフォルニア半島の先端にあるサン・ルーカス岬も過ぎた。波は穏やかで北太平洋のそれとは全く違う。温暖な気候で移民客も漸く船に慣れたのか甲板に出て日光浴を楽しむ様になった。

 ある夜、甲板の船倉を覆っているシートに座り波間に流れる夜光虫の妖しい光を眺めていると、二、三度言葉を交わした事のある花嫁移民の上妻アキがやってきて茂の隣に腰を降ろした。

「まあ綺麗、海の蛍みたい……」

と、夜光虫の妖しい美しさに見惚れている。彼女は亜国のブエノス・アイレス近郊で花卉園を営む夫の許に移住してゆく途上であった。出身は和歌山県と言ったが、訛りもなく都会的なセンスを持ち、色白の若々しい魅力溢れる女性だった。

 降るような星空の下で、甲板のシートに座り、穏やかな洋上のうねりに身を任せていると、人恋しさが募り、二人は互いに自分の身の上話を打ち明け、何か急速に惹かれるものを感じた。

「君は何故南米にお嫁に行こうと思ったの?」

若くてこんなに美人だし、何も好き好んで南米に苦労を買いに行くことはないじゃないかと茂は思った。

「私、天蓋孤独の身なの……日本に居ても南米に暮らしても同じなの。今回県庁から花嫁募集の話しが有って、どうせ嫁ぐなら異郷で私を待っていてくれる孤独な夫の所に行こうと思ったの……」

「……」

茂は一瞬言葉に詰まってアキの白い顔を見つめた。自分よりも孤独で、健気な女性が頑張ってこの世に生きている……そんな感慨が胸を熱くした。唾を呑み込んで

「相手の方とは面識があるの?」

と、だけ尋ねた。

「ううん、写真だけ、私達写真結婚なの……」

アキは手元の手提げから男の写真を出して、愛おしそうに茂に見せた。その仕草に、弟が嫁に行く姉に感じるようなジェラシーを感じ、思わず

「それで、もし上手く行かなかったらどうする心算なんだ?」

と、言わずもがなの問いを浴びせてしまった。

「その時は諦めるわ、私昔から諦めるの上手なの……無料で南米旅行させてもらったと思えば気も済むわ……」

と潔い。

「……」

 鈍い単調なディゼル・エンジンの振動が伝わってくる。暗い洋上から星空を眺めると心が洗われたように純真な気持ちになる。何故か独り南米に旅する互いの孤独な運命が悲しかった。日本人に生れてきたのに何故他国で生きる運命を選んだのか、その必然性が判らなかった。

「僕も早く父を亡くし、母も去年逝ってしまった。母の苦労を知りながら、僕は自分の事しか考えられなかった。年老いた母の面倒を見るのが当たり前なのに、僕はこの閉鎖的な日本から逃げ出す算段ばかりしていた。学歴もなく有力なコネもない自分が、一生社会の下積みになって呻吟するのは堪えられなかった。僥倖を狙っているわけではないけれど、公平で開明された社会に住みたかった。日本ではその機会さえ与えられないのだ……」

訥々として語る茂。

「貴方のお話を聞いていて、私、男と女とは住む世界が違うなって、思ったの……女は出世とか名誉とか、そんなものは生甲斐ではなくて、自分が誰かに愛され、必要とされている事を感じればそれで満足と思うのよ……」アキは淡々と話し、淡々と問いかける。

「公平な機会を与えてくれる社会への脱出? 果たして貴方の行くブラジルが公平な機会を与えてくれるかどうか心配だわ、下手をすると、一生幸福の青い鳥を求めて逃げまわらなければならないなんて、考えると男って悲しいものね……」

アキは息を継いで茂を見た。年上の女の貫禄と言うのか、社会経験の差と言うのかアキの一言はズシリと重い。

「私の夫となる上妻も、貴方のように日本を嫌って逃げ出して行ったのかしら、五年の契約で花卉農園に短期実習生として亜国に渡ったの……」

「今の外貨統制の日本では外国渡航への門戸は固く閉じられている。金も無くコネもない僕等にはブラジル移民や親日的なアルゼンチンぐらいしか門戸は開かれていないのだ。しかも、農業移民と言う契約期間で縛られた農奴のようなものしかない。憲法に基本的人権として職業の自由、移住の自由が保障されているのに日本の移民政策は基本的に棄民なんだ……」

「じゃ貴方はこれからブラジルで農業をなさるの?」

アキは心配そうな声を出して茂の表情を読み取ろうと顔を近づけたが、夜の甲板の薄暗がりでは互いの表情は定かではない。

「農業が僕に出来る訳が無いでしょう。鍬も握った事が無いんだから、ところが天佑と言うか、建設省がケネディ大統領の平和部隊を真似て、日本版平和部隊を創設する構想を池田内閣が国策として認めたんだ。」

 茂は出発前、首相官邸で行われた壮行会で訓示を垂れた長澤亮太隊長の山伏のような厳しい風貌を思い出す。

「彼の言う夢……海外進出に意欲のある青年を集め、建設省で技術訓練を施して、卒業者を南米に技術移民として送り出す……この構想に取り付かれた長澤審議官という一役人が実際現地ブラジルに飛び、交渉してパラナ州に三〇〇ヘクタールの訓練所建設用地を無償で取得し、長年の夢を実現したのだが、僕はその七期生になるんだ」

 少し間があって

「技術移民ってブラジルで何をするんですか?」

アキは茂の説明では充分ではないのか、当然の質問をしてくる。

「ブラジルに電気を点け、工場を興し、ブラジル製の機械を製造するのが夢なんだ。パラナ州の訓練所には既に七〇名の隊員が訓練を始めている。僕は蓄膿症の手術で出発が遅れたんだ……」

「だからお独りで乗船されたのね……」

アキは納得したように頷いた。

 異性との出会いの中でこんなに淡々と話しをした経験が無かったので、茂は姉か妹と話しているような気がした。茂は技術者としての抱負を語り、ブラジルのサントスで下船し、パラナ州の奥地に在る訓練所に入所する心算だと告げた。そして技術者として成功したら、何時か必ずアルゼンチンのブエノス・アイレスを訪ねてゆくから、互いに元気で頑張ろう。と、少年と少女のような約束をした。


 アキの他に数人の友人が出来た。大塚と言う上智大のスペイン語科を出て、日本の商社の南米支店に勤める友人を頼ってサン・パウロに行くビジネスマン、東京農大を出てブラジルで養鶏場を開く心算だと言う高木という青年、付き合っていた女が自殺したと、深刻な身の上話を誰彼と無く打ち明ける平田と言う出っ歯の元会社員、関西の天理大のスペイン語科を出た森田と言う男、それにアマゾンに花嫁移民する二九歳の山田智子という気さくな女性も居た。

花嫁達は風紀上の為か、一般移民の蚕棚とは違って正規の三等船室に居住していた。部屋の中は中央の廊下を挟んで上下二段のベッドが二対づつ並び、合計八名の女性が起居していた。ロング・ビーチで例の姉妹が下船して、残り六名の花嫁が夫の待つ南米に不安と期待の織り交ぜた気持ちで毎日を暮らしていた。

智子は年齢の所為か冷静で落ち着いており、他の若い花嫁のリーダー格で大人の雰囲気を持っていた。さっぱりと言うか、さばさばした気性で、誰にでも親切に声を掛けたり、冗談を言い合ったりして退屈な航海の時間を過ごす良い仲間だった。

彼女はマージャンが得意で交際室に設えたマージャン・テーブルで鴨が葱を背負ってやってくるのを高木と大塚の三人で待ち構えて、勝負は何時もこのうちの誰かが勝つ仕組みになっていた。お陰で茂達グループは小遣い銭に不自由しないで、目的地のサントス港に着けそうだった。

茂はマージャンは苦手で彼等が稼いでいる間、プールで泳いだり、柔道教室を開いて中学生の男子や若い男達を相手に受身や投げ技、寝技を教えたりして時間を過ごした。

ある日、移民監督官から小学生や中学生相手に船内学校を開くから、茂に先生を引き受けてくれないかという相談があり、茂は中学生相手の先生を引き受けた。

対象児童は総数二五名で、その大半がアマゾンのベレンで下船し、更に二百五十キロほど南下したトメアス植民地に入植する予定だと言う。

大半が北海道出身で、何故寒冷の北海道から赤道直下の熱帯アマゾンを選んだのか不思議に思った。その二十五名の生徒の中で、飛びぬけて優秀な生徒が二人いた。

一人は北海道出身の中学三年生、名前は白井麻紀といった。大柄で色白の美少女で、性格も穏やか、学力も図抜けていた。彼女はトメアス入植組で、他の一人は、やはり中学三年生の女生徒、名前は加藤聡子といった。東京出身の、勝気で打てば響くといったタイプだった。彼女の行き先はサン・パウロで茂と同じサントス港で下船するという。

二人の実力と人間力なら日本でも大きく花開き幸せな人生を歩む事が出来るだろうと、茂はそう思った。

船内学校といっても適当な教材も無く、全ては先生各人の自由裁量に任せられており、国語と英語を教える事になった茂は、毎日ガリ版刷りの教材作りに追われた。教室は船倉の食堂で飯台を利用して、居室である蚕棚のカーテンを開けて見ている父兄参観のもとに授業を進めるのである。

船は平均時速十二ノットで進んでいる。一日五百キロ前後の距離を進んで行く。ロスを出港して一週間も経つと既に船はグアテマラ沖を航行していた。次の寄港地はパナマである。


ある朝目覚めると船の機関が止まっていた。慌てて階段を昇り、甲板に出るとパナマ湾に多数の船舶が運河横断の順番を待って待機していた。

パナマ運河は北米と南米の境に近い狭いパナマ地域を横断して太平洋と大西洋を結ぶ運河でパナマ・シティから中央のガトゥン湖を経由してコロン間は屈曲して九十三キロの距離がある。船の通過には普通七、八時間を要する。

本船の順番が来て、閘門式運河を船はゆっくりと昇ってゆく。高低の差のある水門を開けたり、閉じたり水量を調節して船を昇降させてゆく。当時の運河地帯はアメリカ軍の管理下で武装したアメリカ兵が運河を護っていた。閘門の両端には高さ二十五メートル程の鉄製の水門扉が二重に並び、直径六メートルの主水管から水が給排水されて船が持ち上げられてゆく。適度の高さに到達すると、今度は両岸の電動牽引車で引っ張られ、静々と隣の閘門に移ってゆく。

運河中央に位置するガトゥン湖の水位と同じレベルに達したのか、船は運河から開放されて湖面を滑るようにゆっくりと大西洋の方向に向けて進んでいる。

何時来たのか、子供達も茂を囲んで美しいガトゥン湖の風景を見惚れるように眺めている。広い湖面と柔らかな木々の緑がまるで絵のように鮮やかである。

「ねっ、先生何かお話しして!」同じような光景に退屈したのか、三年生の女子から声が掛かる。

「先生の子供時代の話がいいな……」腕白な山田薫が悪戯っぽい顔をして茂を見る。

「そうだ、先生の子供の頃はどんな子だったか、それを知りたい……」と目を輝かせて茂のデッキに凭れた腕を揺さぶるようにしてせがんでくる。

「話しか……子供の頃の話は苦手なんだ……」茂は一旦言葉を切って考えてみるが、何も面白い子供が興味を持つような話しは出てこない。とりあえずソファーのある社交室に入り皆の顔を眺めながら

「どんな話しがいい?」と聞いてみる。

「そうだ!先生は子供の頃、何処に居たの?」と、好奇心満々の河野輝男が身を乗り出すように奇声を上げた。

その声に押されるように茂はぼそぼそと話し始めた。

「君たちがまだ生れていない昭和十九年の夏、先生はまだ四歳だった。大阪の淀川という大きな河の堤防の近くにある下町に住んでいた記憶がある。街を走る電車道の大きな十字路には高射砲が据付けられ、防空頭巾を被り、もんぺを穿いた小母さん達が上空を睨んで高射砲の砲座に座り、ハンドルを廻していたのを覚えている。子供心にも奇妙な事は兵隊さんが一人しかついていない事だった。つまりもう街を護る兵隊さんは居なくて、防火、防空は皆住民の力に頼っていた事になる。

ある日、母と一緒に訪れた近所の小母さんの家の玄関に入ると焼夷弾に焼かれた小母さんの真っ赤にただれた太ももを見てびっくりした事もあった。」

 茂は皆の顔を見回して

「どうだ、こんな話し面白くないだろう?」

と尋ねると、皆異口同音に

「面白い、続けて……」

と真剣な顔つきをして茂を見つめる。

「大阪は既に何回も空襲を受けており、空襲の度ごとに近くの風呂屋の横に掘った防空壕に入って、空襲警報解除!の声が掛かるまで、脛迄水の溜まった防空壕の中で震えていたものさ……そんな訳で、親父も、もう大阪も危険だと判断し、その年の秋一家全員で岐阜の美濃太田という木曽川べりに疎開してきたんだ。」

「私、知ってる。高山線の美濃太田という駅、昨年木曽川のライン下りで美濃太田から鵜沼まで皆で川下りをしたことがあったの……」

加藤聡子が元気に声を掛ける。茂は頷いて話を続ける。

「その木曽川の河原で二日程野宿をして、借りてきた第八車に持ってきた家財道具を乗せ、一山超えた村の農家の離れにやっと辿り着いたのを、今でもぼんやりと覚えている。

盆地の様に山が村を囲み、集落と山の間に黄金色の稲穂の波が風に揺れていた。」

 子供達は皆、ソファーに座り、膝を抱いて茂の話に耳を傾けている。


「ある夜半に遠くポンポンと何か物の爆ぜる音がして、四才のワッチは目が覚めた。」

「先生! ワッチってどういう意味?」

二年生の山下紀夫が目を輝かせて問いかける。

「これは美濃弁で、僕とか私っていう意味だよ、当時村では未だこんな言葉が使われていたんだ。」

「先生は私達に合わせて、子供言葉で話しをして下さっているのよ……黙って聞いていなさい」

白井麻紀がお姉さんらしく皆を嗜める。

「電灯を消した暗い部屋の中から赤い火の塊が無数に見える。ワッチは怯えて傍に寝ている母の懐にしがみついた。」

「キャー」

数人の女の子と下級生の男の子が悲鳴を上げて立ち上がった。

「お化けだー」

上級生がふざけて飛び上がる。

「静に!」

茂は軽く嗜めて話を続ける。

「無数にある雨戸の節穴を通して山向こうの各務原飛行場が真っ赤に燃えていた。アメリカ空軍に爆撃され炎上していたのだ。」

「それって、戦争で?」

中学一年生の安田保という男の子が手を上げた。茂は黙って頷く。

「爆撃から二、三日経つと、近くの寺の境内や広場には飛行場や工場から運び出された飛行機の計器や電気機器が山のように積み上げられた。無論何に使う機器かはわからない。初めは好奇心で集まった村人も暫くすると興味を失い見向きもしなくなった。高価な航空機器が雨にぬれて野ざらしになっていく様は何故か日本のこれからの運命のような気がして悲しかった。

 秋も深まり夕焼けの空を巨大なB29が単機ゆっくりと飛んでいた。もう日本軍は手も足も出なかったのだろうか?」


「先生、戦争中にもお正月はあったの?」

暗い話しを逃れるように、明るい声がした。見ると河合宏子である。明るい性格は彼女の一生の宝と思えた。

「勿論あったよ……」

茂は頷いて話題を変え、お正月の話しを始める。

「さっき話したけれど、ワッチの疎開した村の百姓家はお婆さんと成人した娘さんが二人の三人家族の農家だった。今思うと若い男衆は皆兵隊に取られて誰も家に居なかった訳さ……大晦日の夜、母屋の方で餅を搗く杵の音がした。」

『茂ちゃん、御餅が出来たから取りにいらっしゃい。』と、優しいお婆の呼ぶ声がしたのでワッチは急いで田舎屋の木戸についている潜り戸の障子を開けてお婆のもとに一目散、大家の婆様から大皿に山盛りのあんころ餅を貰って『有難う、お婆ちゃん』と、お礼を言って潜り戸を開けてもらい、両手に重い皿を抱えて表に出ると、美味しそうなあんころ餅が未だ湯気を立てている。思わず口の中に涎が溜まり、食べたくなる。

『美味しそうだな、一個食べても、母さんにわからないから、一つ食べよ……』

ワッチは框の横木に大皿を置いて、一番大きなあんころ餅を掴んで、口にねじ込んだ。母屋の潜り戸から離れの入り口まで、子供の足でも数十歩、その間に食べ終わらなければ母に見つかってしまう。餅を丸ごと口に頬張ったが、搗きたての餅は噛んでも噛んでも噛み切れない。飲み込もうと焦るが、丸ごと一つの餅は大きすぎて咽そうになる。それでも何とか餅を呑み込もうと目を白黒して焦るのに、足だけは皿を抱えてどんどん進んでもう家の前に来てしまった」

「ばかだなぁ……」中学三年の、のっぽの竹田が笑いながら呟く。

「僕にも先生とおんなじことがあった……」山田が頭を掻きながら笑い出す。

 茂も笑いながら話を続ける。

『何をしてるの?』

戸が開いて母の心配そうな声がした。苦しくて目を白黒しているワッチの口から母は急いで餅を取り出し、事なきを得た。結局餅は一個もワッチの腹には入らず、お仕置きの為、夕飯抜きで早めに寝かされ、泣き寝入りした苦い思い出がある。」

茂が話し終えると、皆は腹を抱えて笑って居る。誰にでもそんな思い出の一つや二つはあるらしい。茂の話は続く。


「年が明けて昭和二十年三月、ワッチは疎開先の農家の離れで五歳の誕生日を迎えた。誕生日には小ぶりの鯛の尾頭付きが出て、母は例年の様にワッチの誕生日を祝ってくれた。」

 ぱちぱちと一年生の男女から拍手が起こる。無事に鯛の尾頭付きを食べたのだろうかと心配そうな顔をしている。茂は笑顔で話を続ける。

「五歳になったワッチは毎日絵を画いてすごした。画くのは何時も傾いた二本煙突のクイーン・エリザベス号の豪華客船と丁髷を結い、着物に帯を締め刀を二本差し、草履を履いた侍の姿で、来る日も来る日もそのお絵描きに熱中していた。

 二本マストに張られたワイヤーに万国旗を靡かせて進んでゆく豪華客船は何故か子供心に魅力的で、何回も何回も飽きずに描いた事があった。

多分どこかで客船の写真か映画のシーンを見た時の感動がワッチの頭を占領していたと思われるが、とにかくこの貴婦人のようなクイーン・エリザベスを描くのが好きだった。 

その理由を知りたいと思い、先生が一五歳になった昭和三〇年、学校の図書館で百貨辞典を借りて調べた所、クイーン・エリザベス号についてこんな記述があった。

《一九三〇年代にスコットランドのクライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニー造船所で建造され、イギリス国王・ジョージ六世の妃・クイーン・エリザベスにちなんで命名された。一九三八年九月二七日に進水し、一九四〇年三月三日に就航した。当時は世界最大の客船であった。

一九三九年九月に勃発した第二次世界大戦中、クイーン・エリザベスとクイーン・メリーはカナダ、シンガポール(対日戦勃発前)、シドニーへ徴用され、兵員を輸送した。高速性を活用することで、護送船団なしでも潜水艦の脅威を回避した。大戦中の輸送人員は七五万人以上、航海距離は五〇万マイル(八〇万キロメートル余り)にも及んだ。船長はジョン・タウンリー(John Townley)、アーネスト・フォール(Ernest Fall)、C・ゴードン・イリンズワース(C. Gordon Illinsworth)、C・M・フォード(C. M. Ford)とジェイムズ・ビゼット(James Bisset)が務めた。

クイーン・エリザベスは当初、オーストラリアから作戦地域であるアジアとアフリカで運航された。一九四二年以後はアメリカとヨーロッパの間で北大西洋にて運航された。

一九四五年八月の第二次世界大戦の終結に伴い、軍役から戻ったクイーン・エリザベスは、ジョン・ブラウン(John Brown)造船所で内外装を大幅に改修され、北大西洋航路に復帰した。》

この記述を見て想像するのは、ワッチが一九四四年の秋以降にアメリカから食料や兵器を英国に届けるクイーン・エリザベスの写真を新聞か雑誌の写真で見てすっかり気に入ってしまったらしいと、思われる。何故なら船の絵を画き始めたのは岐阜の田舎に疎開した翌年の終戦の年の春以降だったからである。茂はここで昔を思い出すように目をつぶり、

「余りに絵に熱中するので、父親から絵を画くのを止められた事もあった位だ……」

と、笑った。

「どうして絵を画く事をお父さんが止めたの?」

二年生の色白の河合和子が大きな目を瞬いて茂を見つめる。

「多分、息子が漫画家になるのを、父は恐れたのかも知れないな……」

茂の答えに皆噴出した。

「水緩む四月になると村の農家は田打ち、田植えで忙しくなる。猫の手も借りたい田植え時である。小昼(こびる)の弁当を届けるのは学齢前の子供達の仕事で、お茶を容れた重い薬缶と蒸し芋や握り飯の包みを提げて野良に向かう。ある日ワッチが母屋の脇の村道で遊んでいると、ワッチと同じ年頃の女の子が両手に重い弁当の包みを提げてやって来た。紺がすりの着物に素足に藁草履を履き、三つ編みをした可愛い村娘である。ワッチは初めて会った村娘に心ときめいて、何とかしてこの子の関心を引きたいと、思った。ワッチは咄嗟に白目を剥いて少女の前に立ちはだかり、通せん坊をして手を広げた。少女は驚いたように道の真ん中に立ち止り臆する色も無く、俺の顔をじっと見つめている。ワッチはこの子がどんな行動に出るか楽しみだった。泣きながら今来た道を戻るのか、それともわっちを押し退けてでも家族の待つ野良に向かうのかと、やおら少女は持ってきた包みを開けて蒸した薩摩芋の一個をわっちに差し出し、にこりと笑った。

 突然見知らぬ少女から予期せぬ蒸し芋を貰ってワッチは嬉しかった。そしてその村娘を可愛く思った。ワッチは条件反射のように、蒸し芋を片手に離れの母の元に駆け出した。何故なら人から何か貰ったら必ず母に知らせる事という約束が母とわっちの間にあったからである。

 麻紀が口に手を当てて笑っている。多分自分の小学生の弟のことを思い出したのだろう。

「それでその女の子はどうしたの?」

今度は和子が聞いてくる。

「けろりとして家族の待つ田んぼの方へ行ったよ……でもわっちは御芋さんの方が大事だったんだろうね、でも後でその子が同い年の同級生だと判ったけれど……」


「四月も終わりに近い朝、ショッキングな事実が飛び込んできた。戦争末期のあの草深い岐阜の田舎でも新聞は発行され配達されていたのか、母の見ている岐阜タイムスの電送写真に独裁者ムッソリーニの処刑写真が一面に踊っていた。

「これで戦争も終わりね……」わっちの質問に答えた母の言葉が何故か悲しかった。

愛人クララ・ぺタッチと一緒に吊るされたイタリアの独裁者の死を報じた写真は五歳のわっちに強い衝撃を与えた」

皆シーンとして聞いている。戦後の日教組の方針か、学校では今大戦の経過を教えられていない所為か、誰も戦争についてコメントしない。それが茂には物足りない気がした。

「ワッチは知らなんだが、翌日の四月三〇日、ドイツのヒトラー総統も愛人ブラウンと共に自殺、一九四〇年九月ベルリンで調印された日独伊の三国同盟は事実上崩壊した。

イタリア、ドイツが降伏を宣言。アメリカは八月六日に広島、八月九日、長崎に原爆投下。八月十五日、昭和天皇がラジヲで終戦を宣言、日本は無条件降伏をした。

当時五歳のワッチは勿論この経緯を知らなかった。 時折、アメリカの飛行機が飛来した。巨大なB29 、双胴のP38、ずんぐりした葉巻型のグラマンと、幼いわっちでも敵機の機影を見れば機種の判別は出来たのである。

『日本勝て、勝て! アメリカ負けろ、日本勝て、勝て、アメリカ負けろ』

飛行機の爆音に誘われて庭先に飛び出した五歳のワッチは、空の敵機に指先を向けてそう連呼した。それを見ている父親は、何故かもう何も言わなかった」

 それから暫くして、曇天の或る日、蓑笠をつけた村の青年達が隣村の井深の正眼寺に通じる県道を補修する為に、鍬やスコップ・笊などの道普請道具を担いで、わっちの立っている農家の脇を大声で話しながら通り過ぎていった。

「昨日厚木にマッカーサーが降りたそうや」

「コーンパイプを咥えてB29 のタラップを降りてくる写真が大きく載っていたな……」

「これで神州日本も終わりだな……」

 五歳のワッチは、村の青年達の会話に耳を澄まして聞いていたが、聞きなれない言葉に直面して、困惑した。

B29の意味は判ったが、『マッーカーサー……松かさー……』その言葉の意味を理解しようと必死に頭を回転させるが、それが敵国アメリカの将軍で、厚木飛行場に着陸した事とは、小学校に上がるまで判らなかった。」茂の背後で突然大きな笑い声が上がった。

「僕、マッカーサー知っているよ……、日本軍に追われてヒリッピンのコレヒドールを退却する時、アイ・シャル・リターンと言って、必ず此処に帰って来ると言った有名なアメリカの将軍だよ。コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB17でオーストラリアに飛び立って行ったんだよ……」

と、戦記に詳しい三年生の谷口薫が知識を披露する。

「中々詳しいね」

茂は谷口の博識を褒め、アマゾンに行っても、本は読めよ、と言って励ました。

「とにかく、日本が戦争に負けた事はわっちにも直ぐ判った。小学二年生の姉が教科書を墨で真っ黒に塗りつぶされ泣いて帰って来たからである。」

「進駐軍が学校に来て教科書を調べて黒く塗りつぶせと命令しているの、もし命令に背いたら本を取り上げるって言われたの……」

 小学五年生の長女の場合も同じだった。殆ど黒く塗り潰された教科書は墨汁で重く膨らんで瓦の様に重かった。

「酷い事しやがる」

ワッチはそう思ったが、それでも姉達が羨ましかった。早く学校に行きたいな、そうすれば父から止められている絵を好きなだけ描けるから……」

 翌年の昭和二十一年の春、ワッチは六歳になり、七分咲きの桜並木の連なる校門を母に連れられて潜り小学校に入学した。村は裕福ではなかったが、米どころで自給自足の出来る閉鎖的な社会だった。都会から戦火を避け、或いは焼け出されて疎開してくるよそ者を村人の一部は悉く嫌い、差別し、子供たちは集団で疎開者の子供を苛めた。わっちも姉も訳もなく苛められ、苛めっ子の姿を見ると恐怖に立ち竦んだ。

「何故何もしない姉やワッチを殴るんだ?」

 或る日、ワッチは何時もは無抵抗で為すがままにしていた相手に武者ぶりついていった。拳骨で頭を二、三発殴ると、相手は泣きながら逃げて行った。

「何だ、こんなに弱いのか?」

それからの俺は、苛められた連中に仕返しの拳を振るった。

「先生、急にワッチから俺に変わるからびっくりするやないけ……」

 皆も二年生の竹内良平の言葉に頷いて笑った。

「たとえ相手が上級生や中学生であれ、俺は容赦しなかった。拳大の石を手に、苛められた相手に近づいて膝小僧目掛けて石を投げると、相手は空中に飛ぶ様にひっくり返った。

「ざまあ見ろ」

上級生が追いかけてきても、俺は校庭を横切って職員室に駆け込み、先生の庇護を求めると、大半の中学生は二度と俺にちょっかいは出さなくなった。『人間の存在は、その人の意気込みで決まる。真剣に、死に物狂いに戦う人間には誰も勝てない』

僅か八歳の俺が、子供達との修羅場で会得した人生観であった。

「先生強かったんやね……」

感心したように山田薫が茂に見せた笑顔が印象的だった。

 それから、俺は学校や狭い部落で起こる苛めや配給物資の差別問題に疑問を持つようになった。

「何故配給物の藁半紙や鉛筆は五人の兄弟が居る我が家よりも裕福な一人っ子の隣の健太君の家の方が多いの?」

とか

「何故村の子は疎開の子供を苛めるの?」

「何故おうちは貧乏で他のうちはお金持ちなの?」

父は医者の不養生というのか、戦中戦後の無理が祟って肺結核に罹り、東京から取り寄せた特効薬のパスやクロマイを自分で注射器を煮沸して打っていたが、栄養不良の所為か病状は一向に良くならなかった。

「頭さえ良ければ何をしても良いの?」

当時の学校や担任の考えている、成績優先の考え方に俺は疑問を持っていた。俺の問いに、父は黙っていた。子供からそんな質問を受けたら、やはり答えにくい問題でもあったのだろう。《確かに俺は勉強が出来ない。頭が悪いから出来ないのではなく、今は何故か勉強に身が入らない。然し、俺が本気を出して勉強すれば、この村の子の誰にも負けない自信があった。その証拠に、勉強しなくても、絵の才能は一年生から傑出していたし、優等生の誰にも負けない自信があった。》 その自信と自負が俺を傲慢な性格に形成したのかもしれない。

 俺が五年生になった秋、父は肺に卵大の空洞が三つも見つかって死を覚悟したのか入院していた美濃太田の病院から毛布を衣服代わりに身体に巻いて退院してきた。駅に父を出迎えた俺の目に、その異様な父の姿が目に焼きついた。死を目前にして、父は世間の目を気にもせず、家族の居る家に帰りたかったのだろう。姿格好は異様だったが、俺の目には、父は気高く落ち着いて見えた。こんなに落ち着いている父の心……その一種澄み切った凄惨な覚悟を感じる時、俺には貧困も苛めも空腹も痛みも何でもなくなった。『父の痛み苦しさに比べたら…』父のやり場のない怒りを考えたら、自分が受けている虐めなんか問題ではなかった。

 問題は死期を待つ結核患者の父と同居している学齢期の子供が四人も同じ屋根の下に起居している現実だった。父は結核菌の感染を恐れ、隔離するために俺を県の児童相談所に預けた。

 俺は初めて家族と離れて、民生委員に連れられて岐阜市に在る相談所の門を潜った。一ヶ月後、俺は大田の渡しのある木曽川の対岸、可児郡土田村の児童施設双葉園に移された。その施設は、戦災孤児や被災した生活困窮者の子女を収容する為のもので、幼児から中学三年生までの男女児童がおよそ一〇〇名ほど生活していた。学校は村の小学校や中学に通い、一般の児童と共に通学するのである。寮には寮長先生と呼ばれる痩身で白髪の柔和な老人と、軍人上がりの頑丈で濃い髭を生やした副寮長が舎監として泊り込んでいた。寮母は近隣の村から雇われた農家の主婦達で幼児や低学年の男女児童の世話係として泊まり込んでいた。

男子寮は小学五年生から中学三年生までが収容されており、まるで軍隊の内務班で行われた初年兵虐めのような虐待が日夜横行していた。

中学三年生のボスを筆頭に軍隊式規律と絶対的服従が強制され、逆らうと集団リンチが科された。中学生と言っても、戦中戦後のどさくさで、まともに通学していない子供が殆どで、本当の年齢は十八才か、中には二十才に近い大人も紛れ込んでいたのである。

戦争と戦後の混乱期を生き延びてきただけあって、彼等は普通の大人より世故に長けて、狡猾だった。喧嘩も組織の統制も驚くほど上手かった。例え殴るにしても、決して顔や頭は殴らない。ズボンに隠れた太股や脛を思い切り蹴り上げたり、膝蹴りにして相手がもがき苦しむのを楽しんで見ていた。

彼等のやる仕置きの中で布団蒸しという私刑があった。畳の敷いた日本間に虐める相手を座らせ、押入れから取り出した何枚もの小便臭い布団を頭から被せ、上級生がその上で宙返りをしたり、人を投げ飛ばしたりして衝撃を加え、相手が窒息して気を失うまでリンチを続けるのである。

俺も何回もこのリンチにあった。慣れてくると、投げ重ねられる布団の中で、急いで頭を庇い肩と両腕で空間を作り、空気の絶対量を確保する。それが布団蒸しで窒息しない最善の方法だった。上級生のボスは決して仲間を殺したり傷つけたりはしなかった。番長の美学と言うか、冷静で物事の限度を知っており、仲間が行過ぎると、平手打ちをして仲間を牽制した。

もう一つのリンチは薪割り正座とも言うものであった。このお仕置きは小学校の五年から六年の児童が集団で受けるものだった。上級生の前に集められた仲間が、算数の九九の暗算を間違えたり、言いよどむと、その子だけでなく、全体責任として全員が松の節くれだった割木を膝の間に挟ませられて硬い板の間に正座させられるのである。膝立ちをした脹脛に太い松の割り木が差し込まれ、ごつごつとした切口が少年の柔らかい脹脛に食い込み、鋭い痛みが走る。子供達は泣きながらその鋭い痛みに耐えなければならない。

俺達の寝室は、洋館と呼ばれる四室の洋間だった。幅の広い廊下で結ばれた四室の洋間、部屋は板張りの床、両側に二段ベッドが二つ並び、合計八名の居室として造られていた。ベッドの後部は観音開きの押入れで、衣類をしまう抽斗とその上に布団を仕舞う構造になっていた。ベッドのマットは畳で、天井には電灯が燈り、カーテンを引けば個室となり、本も読むことが出来た。部屋中央にある床は幅二メートル、奥行き六メートルと長方形で、四つの木梯子が上段のベッドに繋がっていた。各ベッドは転落防止の為の柵で囲われ、上級生は上段、下級生は下段のベッドが割り振られていた。

寮の消灯時間は午後十時、副寮長が宿直する部屋は男子寮とは離れた女子寮の更に向こうで、余程の大声で喚かない限り、気付かれる心配は無かった。

ましてや、ボス達は細心の注意を払って、廊下には見張りを立て、男子寮生は殴られても声を立てることは厳禁だった。

子供達は夜を恐れた。俺は九九の暗算などは問題ではなかったが、同じ五年生で大下という同級生が虐めの対象となっていた。傍から見ても愚鈍な、その怯えた目が落ち着き無く、傍に近寄ると不潔な小便の匂いがした。口が呆けていかにも痴呆な印象を与えた。

俺は冷静に大下を観察していた。先天的ではなかったが、彼の過ごした過酷な環境が彼を痛みつけ、知能も誇りもずたずたに切り裂いたのだろう。五年生なのに未だに寝小便をしているという噂があった。こんな所では一番虐められ易い存在だった。おまけに彼は緊張するとどもった。

俺は彼を可哀想だと同情した。出来れば何とか助けてやりたいと、そう思っていたが、彼のどじや失敗の為に五年生全員が薪割り正座に呻く時は、やりきれない思いがした。同情と憎しみに似た侮蔑の交錯する感情の中で驢馬のように大声で泣く大下の悲鳴を、歯を食い縛って痛みに耐えながら聞いていた。

「……」

茂を囲む子供達は声も出さないで聞いている。同じ年頃の子供の話なので身につまされるのだろう。

「学校は寮から歩いて一キロ程の所にあった。古い木造の校舎で、北側に傾き、太い丸太の支え棒が壁から四本、まるで船のオールの様に地面に刺さっていた。

 この学校に転校してきてから初めて友達が出来た。山田五郎と言う名の、元気な、笑うと前歯の大きな少年だった。ある時、一寸した事が原因で殴り合いの喧嘩をしたが、仲直りをしてから急速に仲が良くなったのである。

 俺は初めて学校が楽しくなった。前の学校では、姉妹全員がいわれの無い虐めにあい、学校に行くのが悲しくて苦痛の時もあったが、この村の子供達は、施設に入所している俺達に同情的というか好意的だった。施設の子供との交流に慣れていたのか、それとも貧しい村の持つ寛容というか、相手を理解しようとする思いやりの心があった。そんな村人の気風に助けられてか、俺は前向きに毎日を送るようになった。

 放課後、寮に帰ると、寮長に頼んで白い画用紙を一枚貰い、絵の具と画板を抱えて野に出た。 

夏になると増水して氾濫する木曽川の所為か、このあたりの畑は痩せて表土も薄く、小石混じりの畑が堤防と平行して延々と続いている。その殺風景な野原に腰を下ろして、時間を忘れて無心に山野の風景を画いた。絵を画いていると何もかも忘れる事が出来た。自分の置かれている環境や運命、将来への漠然とした不安、病気の父、空腹や寒さまで忘れて絵に集中出来た。

 絵を描き終り辺りを見ると既に夕暮れだった。寮に帰ると、忘れていた空腹感が襲ってくる。アルミボールに盛られた一杯の雑炊、それが夕食だった。冷たくなった雑炊でも美味かった。食べても直ぐ腹が減る。夜遅く、育ち盛りの少年達は人影の無い炊事場に忍び寄る。食器棚に残されている上級生の雑炊のボールを見つけると、見境も無く手を伸ばして掻き込んだ。後で見つかれば恐ろしいリンチが待っているのは判っていたが、ひもじさの苦痛はそれを上まった。

 消灯の後に上級生の犯人探しが始まった。そして恐ろしいリンチが始まる。然し、翌日になると又腹の虫が泣く。昨夜の恐怖を驢馬のように忘れ去り、残飯を漁りに食堂に忍び寄る。それが当時五年生の俺だった。

ぱちぱちと乾いた拍手が上がった。

「先生頑張ってたのね……」

見ると東京出身の加藤聡子である。目にうっすらと涙をためて、こんな勝ち気な子が泣いている。茂も込み上げる熱いものを飲み下して話しを続けた。


「学校と写生と、空腹と恐怖のリンチ、その合間に俺には秘めた楽しみがあった。月に二度ほど、母が木曽川の急流を渡し舟に乗って逢いに来てくれるようになったのである。手紙で約束した土曜日の午後、俺は洪水用に築かれた堤防の高い土手から竹薮の中に細く続く坂道を辿って河原に下り、岩陰に座って対岸の堤防を斥候兵のように緊張して眺める。希望と不安で胸が締め付けられるように高鳴る。三百メートル前方の対岸に目を凝らし、そして白い点を探す。白い割烹着を着た母が、堤防から急な坂道を下りて渡し舟に乗り込む姿を食い入るように眺め、船が川の両岸に張られたワイヤー・ケーブルを滑りながら渡って来るのを、まるで恋人を待つような熱い瞳で見守る。

 船から降りた母に纏わりつつ、渡し船から少し離れた岩陰に川風を逃れ、母が持ってきた心尽くしの弁当を頬張る。

 俺は積もる思いを一気に母にぶつけ、冷え切った心を暖かい母の言葉で暖め、これでもかと母の愛を貪るように確かめる。

「先生甘えん坊だったんですね!」

白井麻紀や加藤達の声が飛んでくる。

 母と子の楽しい時間は忽ち過ぎ去り、別れの時間が迫ってくる。

「おーい、おーい」

俺は岩場から船着場に走り出し、対岸で客待ちしている老いた船頭に大きく手を振り船を廻すように合図して知らせ、二人手を繋いで船の遣って来るのを見守る。船に乗り込む母、

「さようなら、又来てね……」

「元気でね……頑張るのよ」

涙ぐむ母、にび色の川面を渡ってゆく小さな母の姿に手を振りながら《有難う、お母さん!》俺は心の中で話しかける。対岸の堤防を母の白い割烹着が物影に隠れて見えなくなるまで手を振り見送る俺……」

 母の姿が見えなくなっても、その場を立ち去りがたく、河原の岩山に腰をおろし木曽川の早い流れを焦点もなく眺めていた時……突然前触れも無く下流から白い帆に風を孕んだライン下りの大きな川船が上ってきた。

 落日まじかの強い西日と川風を受けて五重六重に膨らんだ巨大な白帆は夏の残光を集めて川面をゆっくりと滑ってくる。長いロープで船を曳く若くたくましい青年が岸辺を水を撥ねながら上流に駆け上がって行く。

昭和二六年の晩夏、俺は初めて船頭と助手の二人で木曽川の急流を帆をかけて昇って来る美しい帆かけ船の光景を見た。その美しさに俺は見惚れ、自分の置かれた淋しい境遇も暫し忘れていた。


 毎晩のように起こる恐怖のリンチから逃れる為に、俺は消灯前には成るべく洋館には近寄らない事にしていた。洋館に居れば上級生に使い走りを頼まれたり、とにかく碌な事は無かったからである。夕食後は優しい寮長から英語や苦手な数学を教えて貰い、勉強する習慣が出来た。来年の春は中学生になる。英語のジャック・アンド・ベティの教本を手に消灯までの数時間を学習室で過ごすのである。

 こうして初めて学習する楽しさを俺は実感した。昼間は寒風の中で絵を描き、夜は十時まで学習室で勉強した。

 待望の春が来て、俺は中学生になった。毎晩寮長先生に教えてもらった甲斐あって、中学生になっても勉強に困る事も無く、英語も問題なく理解できた。そんな自分に大きな喜びと言うか、楽しみが待っていた。

絵の郡大会に学校代表で選ばれた事と校内弁論大会の弁士に選ばれた事であった。自分の中に人に話しかけたい、訴えたい、主張したい、表現したいという意欲が、それも迸るような情熱が隠されていた事を発見した時は、自分は我ながら驚いた。

 小学校に入学するまでの自分は、どちらかと言えば、大人しく一人で静に絵を描いたり、物思いに耽る大人しい性格だった。疎開先の小学校で理由無き虐めに遭い、それが極限まで来て猛反発をした。あのいわれ無き虐めが自分の内面を変えてしまったのだろうか?

 あのターニングポイントとなった、虐められるものが突如立場を変え、歯を剥き出し虐める側に立ったあの日から自分は変わってしまったのだろうか? 

 それとも、情熱とは以前から俺の中に内包されていたもので、偶々弁論と言う自己表現の機会を与えられて、その甘美さに情熱が堰を切ったように迸り出たのかもしれない。」

「ターニングポイントって何?」

市原がおずおずと質問してくる。

「変わり目ってこと……」

麻紀がすかさず説明してくれる。


「俺は自分で論文原稿を書き、木曽川の河原で大声を出して練習した。演題は『校長先生の模範的行動』という、今から考えれば気恥ずかしい内容のものであったが、俺は大真面目で、論旨は自分が目撃した、校長先生が校庭に落ちているごみを拾う行動を純真な子供の目を通して観察したものだった。

 壇上から見渡すと、何時もは怖い上級生や壁際に椅子を並べて座っている先生達が壇上の俺を見つめて、水を打ったように静まり返って聞いている。

たとえ一年生でも熱情を傾けて訴えれば人の心を打つことが出来ると俺は感じた。校内弁論大会の後、寮の上級生の俺を見る目が変わった。一目置くというのか、俺達施設の子の誇りでもあるかの様に、特別扱いを受けたのである。俺は益々アカデミックな方向に興味を深めていった。

絵の才能も中学に入って芸大出の美術の先生に認められ、絵画の時間は俺の最も楽しい時間となった。昔、小学校の一年生の時のように、皆が教室に引き上げても一人で校庭で絵を画き続けるような熱情は流石になくなっていたが自分に絵の才能があることは認識していた。そんな頃、県下中学生の選ばれた児童による写生大会が催された。俺は一年生代表の数人と共に近くの御岳市で開かれた大会に参加した。

テーマは自由、この辺りの風景なら何を描いても良かった。俺は画材を抱えて辺りを歩き回った。自分が気に入った好きな風景を探して歩き回るのである。

『駄目だ、此処じゃない……』気に入った絵の対象に出会わないと、絵を描いても集中出来ないのは判っていた。あちらを探し、こちらを探し歩き回ったがどうしても気に入った風景に出会わない。時間だけが無為に過ぎ去り、神経が苛立って焦燥感に駆られる。早くしないと時間切れになってしまう。

そんな時、『ここら辺で手を打つか……』そんな感慨がするスポットが見つかった。時間は余す所二時間、画用紙に2Bでデッサンし、軽く絵の具をのせてみる。気負った事も無く、淡々と仕立て、出来上がったのは、締切時間の五分前だった。でも自分では充分に心を込めた作品だと思った。俺は絵を提出してそれきりその絵の事は忘れてしまった。


六月の或る日、山田五郎が飛んできて、

「君の絵が特選になったよ……」

と、俺を職員室前の廊下に引っ張って行った。

「ああ、あの絵がある……」

懐かしい自分の分身が額に入って壁に飾られていた。金紙に特選と朱書きがしてある。喜びと熱い何かが俺の胸を浸し始めて俺は嬉しかった。

「この絵は県下の中学校を転々と回覧されて今度この学校に来たんだって」

 俺は忘れ去っていた自分の分身である絵が県下の中学校で展示されてきた話しを聞いて本当に嬉しくなった。自分の絵の才能が漸く社会から認められたような嬉しさが、身体を熱くした。すると、この絵は俺の所には帰ってこないのかな、又別の中学校に旅立って行くのかな……」

俺の心配したとおり、絵は暫くすると廊下の展示場から消えてなくなり、二度とその絵を見ることは叶わなかった。

 中学生になると校内だけではなくて、他校に出かけて優劣を競う行事が多くなった。写生大会や弁論大会に学校の代表として出かける俺を寮では誰も虐める者は居なくなった。俺は県大会で特選した絵の賞状や副賞の五十円を押入れの奥深く隠し、夏休みに家に帰ったら、病気の父や母に見せて褒めて貰おうと、夏の休みの近付くのを待ち焦がれた。

 木曽川の堰堤に繁茂する木々の緑も黒さを増し、台風の齎した大雨が濁流となって岸を洗った。待望の夏休みが明日から始まる。俺は帰省の準備に余念がなかった。通信簿も弁論大会で貰った賞状、絵画の大会で貰った賞状と金一封。封も切らずに大切に仕舞、父母に見せたい一心で隠し持ってきた茂であった。

 翌朝、姉が迎えに来た、今朝方父が死んだと言う知らせと共に。

 昭和二十七年七月二十七日、奇しくも七の数が四つも並んだ命日だった。父は行年四十七歳だった。

 開け放たれた涼しい座敷に、父は浴衣を着て北枕で寝ていた。まるで生きているように手を胸の上で組んで静に目を瞑っていた。遺髪を刈り取られていた為に丸刈りで、それが異様に思われた。

 父の遺骸と対面した時、悲しみが湧き上がるように満ちてきた。これでもう父とは永遠に会う事が出来ない。地球の何処を探しても、父はもう居ない。その絶対的現実が悲しみとなって胸を塞いだ。

 俺は胸の上で手を組んでいる父にむしゃぶりついて号泣した。

「お父さん……何で僕を待ってくれなかったの、賞状や賞金を見てもらおうと思っていたのに……」

涙が溢れ、浴衣を着た大柄の父の胸を濡らした。三年も結核を患い、碌に栄養も取れなかっただろうに、父の胸は大きく厚く逞しかった。

 父の死体を入れる棺桶もなく、押入れに衣類が仕舞ってあった古い大きな茶箱の中に、長身の父は膝を折り曲げ座棺で葬られた。

 生れた富山の氷見の習慣なのか、母は葬列には加わらず、独り床の間の仏壇に向い死者を弔っていた。俺は幼い弟と一緒に葬列に加わり、深い赤土の穴の中に父を葬った。

 墓場の木々に吊るしたしめ縄の白い紙の簾が風に揺れて父の魂を癒し、天国へ誘っている様子だった。


 父を野辺に送ったその夜、皆疲れて眠っていた。夜半俺は物音に気が付いて目を覚ました。裸電球の照らしている土間に若い男が長さ三十センチもあるある抜き身の短刀を母に翳しているところだった。俺は起き上がり土間に設えたテーブルに近寄った。

廃屋に近い農家のあばら家の戸は鍵も閂もなかった。俺は侵入者に冷静に対処している母の気丈な姿に安心した。そっと制服のズボンのポケットから護身用の小刀を取り出し、テーブルの下で刃を開き、右手に握り締めた。

強盗である。選りによって父の死んだ命日の夜にやって来るとは……歯噛みしたくなるような不幸の連続に、俺は冷静に耐え考えた。

「隣の人家まで少なくとも五十メートルもある田舎では少々の声を出しても村人は気付いてくれないだろう。男の言うとおり金を出して帰って貰うしかない。もし家族に乱暴したり傷つけた場合は、その時はこの小刀で男の胸を突いてやろう。男はあの短刀で俺を刺すだろう。それでも傷を負った男は逃げて行くだろう。父の居ない今、家族を護るのは長男の俺しか居ない。もしもの時は飛びかかろう」

俺はそう決心して冷静に男の動きに目を配った。

若い逞しい肉体と酒を飲んで来たのであろう。常人にない気力と言うか気迫が伝わってきた。白い晒しを腹に巻いているからやくざか遊び人らしい。年は十九か二十歳。肌が電球の光にてかてか光っている。が、獰猛な感じは無い。話せば判る男の様である。男の狙いは、何処で聞いてきたのか、父の葬儀に集まった香典だった。

「有り金出せ!」

ドスの利いた声に、皆驚いて寝床から起き上がり母の居る居間に集まってきた。男は短刀を突きつけ、父が生前、子供達が腰掛けて勉強できるようにと、床材を使って造ったテーブルの板にその短刀を突き刺した。

 ドスは刃渡り三十センチ以上もある。こんなに長いと使いにくい感じがした。鈍く裸電球の明りに光る美しい短刀を、俺は惹きこまれるような思いで見つめていた。

「とにかく、お金は上げますから乱暴はしないで下さい。今日主人が死んで葬式を済ましたばかり、これ以上子供たちを悲しませないで下さい」

 母は冷静に男に頼んだ。

「……」

男は無言で、母を心配して事態を見守っている姉達に

「早く金を出せ!」

と叫び、土間から上がり框に土足を掛け、早く出さねば自分で探すぞ、といった意思表示を見せ、奥の床の間に飾られている真新しい白木の位牌を眺め、左手の片手拝みで新仏に頭を下げた。

 長女の姉が奥の位牌に供えてある香典の束を掴んできて、男に手渡した。男は香典の束を弄って、

「もっとあるだろう、出さなければ、自分で探す……」

 男が上がり框に片足を掛け、更に電気を消すような素振りをした時、俺は今だと思い、立ち上がった。男に一瞬の躊躇がなかったら、そのまま俺は小刀片手に男の首筋に一撃を加えていただろう。

 母の制止と姉達の悲鳴で男は座敷への侵入を諦めた。

姉は隠していた香典袋の入った紙包みを全部差し出し、後はどうなとするならしろといった表情で男の顔を睨みつけた。

 《俺は一瞬甘い陶酔に浸っていた。小刀は男の首に突き刺さり、怒った男は短刀で俺の胸を突き刺した。よろよろと外へ逃げ去る強盗、母や姉達に囲まれて息絶える俺…・・・それを空中から眺めている自分》甘い感傷の中から俺は引き戻された。

『岐阜へ出るには、どっちの方へ行けばよいのか?』

 強盗の言葉は自分に土地鑑が無いことを印象付ける芝居だという事が全員に判った。丁寧に岐阜への道を教えている母は、無論その犯人が隣村の知り人の息子であると確信していた。男が外に消え、緊張も解け、家族も寝間に入り、俺もやがてぐっすりと眠った。」


「良かったね、先生が死ななくて…」竹田がしみじみとした声で、大きくため息をついた。そのため息に皆も声を上げて笑った。

「翌朝目覚めると、屋根に立てかけた竹囲いを伝う南瓜の蔓に咲く大きな黄色い花の陰に、見知らぬ男の影が仄見えた。《昨夜の強盗か?》恐る恐る確かめると、なにやら懐かしい面影が、何と父の若い頃の写真にそっくりの、初めて見る叔父の出現だった。

 地獄で仏という形容通りに、叔父の出現で家族全員が生き返り、まともに考える気力を取り戻した。母も姉達も男の仕返しを恐れて警察には被害届を出さない心算で居たらしい。それが叔父のアドバイスで、やはり届けるべきだという方針に変わった。

 母は既に犯人の目星が付いていたらしく、警察に隣村の何某の息子らしいと被害届を出した。母の直感は当たっていた。犯人は三日後、岐阜市の繁華街で捕まった。無論金は一銭も戻ってこなかった。地方紙の社会面に《香典強盗捕まる》という小さな記事が出てそれで終わりだった。

 父の死から二ヵ月後、俺は施設から母や姉妹の住む自宅に帰ってきた。皮肉な事に、父の死と引き換えに、結核菌からの隔離の必要がなくなったからである。


 それから暫くすると村の中学校で県警主催の防犯作文コンクールがあり、応募した俺の作文が一等に入賞し、全校生徒が並ぶ朝の朝礼で表彰された。あの怖い体験と父が最後に残していった香典全てを強奪された結果が金一封の三十円だった。」

「たった三十円…」その金額に少なさに不満のような声が上がった。

「あの当時アンパンが十円だったから、アンパン三つの賞金だね…」茂も声を出して笑った。

「あっ、雨だ!雨が降ってきた…」子供達の声に窓の外を見ると本船が微速前進しているガトゥン湖の湖面に霧のような驟雨が音もなく降っていた。

 茂は声を励まして

「これで先生の子供時代の話は終わり。さあ、甲板に出て通り雨を眺めよう…」

 デッキの手摺に群がって茂と生徒は湖面を通り過ぎて行く暗い通り雨を眺めていた。驟雨に煙る湖面の上を雨雲が棚引くようにゆっくり移動してゆく。暫くすると上空は明るい太陽の光が戻り、暖かく生き返ったようである。

「狐の嫁入りだ」と、男の子達。

「ああ、虹だ! 虹が出た!」

 わっ、と歓声が上がり、視線を上げると、午後の太陽を背に、湖面中央から匂い立つような美しい虹がカリブ海のリモン湾の方へ七色の光を放っている。

「…」皆うっとりと美しい虹を見上げている。

「なんて綺麗な通り雨…」麻紀の優しい声がした。

 茂は、それが何故か遠いアマゾンの奥地に架かる虹に思えて、其処に旅立ってゆく彼等子供達に、幸あれと祈らずには居れない気持ちだった。


 夕方遅くリモン湾のクリストバル港で下船して、賑やかな市場を訪れ、船で待つ子供達の為に青いバナナの大房を三ドルで買い、肩に担いで船に戻った。船倉の梁にロープで吊るし黄色く熟れるのを皆で待った。


 運河を抜けると次は御伽噺に出てくるような美しい島キュラソーだった。湖の島はオランダ領で石油基地でもある。移民船が何故この島に寄港したのか説明はなかったが、上陸して驚いた事はアメリカ並に物価の高い事だった。

 一日走ってヴェネズエラのラ・グアイラに入港した。北緯一〇度の熱帯サバンナ気候で汗が噴出してくる。上陸してタクシーで首都のカラカスに向うと途中で噴出していた汗がぴたりと止まった。カラカスは高度一〇〇〇メートル以上の高原に在る。気候は草原気候で首都は涼しかった。豪壮な大統領宮殿の厳めしい鉄門と対象に山肌を埋め尽くす貧民窟の原色で塗られた小屋の彩が秋の紅葉を想わせた。天国と地獄そのままの光景に茂は圧倒された。


 カリブ海を囲んでいる西インド諸島の南端、トリニダード・ドバゴ島の沖合いを抜けて船は大西洋の広い外洋に出た。一路赤道に向けて突っ走る。連日茹だるような暑さと、午後には定期便のスコールが皆を和ませた。


    ブラジル


 日本の二十三倍の面積を持つブラジル、現在の人口は一億八千八百万人)と当時のほぼ倍である。当時のアマゾナス州はブラジル全体の四分の一を占め、人口は僅か三百万人に満たなかった。

 アマゾン河とネグロ河の合流点から十六キロ上流に開けた街が州都マナウスであり、人口は現在百六十万人、一九六七年マナウスはアマゾン開発のための自由貿易港として指定され、工業団地が造成され、日本の優良企業が多数進出し内陸の大工業地帯として発展を続けている。


 海の色がどす黒く変わった。陸地は未だ見えないのに、アマゾン河が吐き出す沃土が黒い流れとなって大西洋の海水を茶色く染めている。

 子供達も別れが迫った事を敏感に察知し、不安な表情をして不気味な海水を睨んでいる。赤道は彼らが下船するアマゾン河の河口を半分に切り裂くように南北に分けている。

 赤道近くに近付いたのである。船内は俄然活気を帯びた。赤道の通過を祝って赤道祭を行うのが船客の恒例の行事だそうで、全員が赤道祭の趣向に知恵を出し合った。船内学級の先生達も自分の教えている生徒達による学芸会を開く事に決め、急遽出し物を考える事になった。茂は、歌と芝居をミックスした歌劇を考えて生徒達に相談すると、皆異口同音にスイス民謡『オー、プレネリ』がいいという希望が集まった。

 背景には、スイスのピレーネ山が聳え、赤い瓦の屋根と丸太作りの山小屋が山裾に画かれている。小屋の前には美しい湖が広がり、白い雪を被ったピレーネの山の連邦を湖面に映している。髪を赤いパンダナで包んだ美しい少女プレネリがパン籠を腕に舞台に現われ歌を歌う。


オー、プレネリ 貴女の御家(おうち)は何処?

私の御家はスイツランドよ

綺麗な湖水の(ほとり)なのよ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホ


オープレネリ 貴女の仕事は何?

私の仕事は 羊飼いよ

狼出るので 怖いのよ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホートゥラ ララ ラ

ヤッホー ホ


 茂はそのプレネリ役を、北海道から魔境アマゾンに、人身御供にされてゆく少女麻紀を指名した。麻紀の持つイメージや明るい性格が主役の少女『プレネリ』にぴったりだった。


 茂と生徒全員が協力して背景の絵を描いた。北欧の住んだ空気と美しい山々、青い神秘的な湖に赤い屋根の丸太を積んだ山小屋、その背景にその美しい少女麻紀はぴったりだった。

 夢のように時が流れて、何時か楽しかった移民船の思い出を辿る時、麻紀はこの寸劇を思い出すだろうか? 自分を主役のプレネリに抜擢した茂の複雑な想いを果たして彼女は理解するだろうか?


 赤道祭の当日、甲板では男達が騎馬戦をして子供のようにはしゃぎ楽しんだ。紅白の玉入れ競争や綱引きに全員が参加し、小学生は甲板を競争して喜んだ。

 昼食には赤飯が振舞われ、男衆には日本酒も出た。祖国を船出して早や三十五日も経っていた。

 午後からは子供達待望の学芸会が始まった。小・中学生の息子や娘を持つ家族は、舞台を設えた大広間に席を取って、自分の子供の出番を首を長くして待っていた。

 歌や踊り、飛び入りの喉自慢、その次が茂の演出する中学生全員の歌劇だ。

 少女プレネリと対話する役は例の東京出身の利発な聡子だった。怜悧な彼女は皆をまとめてやってくれるに違いなかった。

 茂が少年の頃、誰が学芸会の主役に指名されるかクラスで揉めたことがあった。担任のえこひいきと憤る子も居たが、こうして立場を変えて自分が先生になってみると、茂はそのからくりを始めて理解した。

 演出をしている側から見れば、主役は自ずから決まってしまうものだった。クラスの中で一番傑出した魅力ある子供を抜擢し、その子の持っている雰囲気と情熱を生かさなければ、演出は失敗してしまう。何故なら台本はその子の為に書かれたものだからである。そんな簡単な理屈が判ったのが先生役を引き受けた最大の収穫だった。

 舞台の中央に並んで歌うコーラス隊、そして赤い頭巾を被って歌問答するプレネリと対の少女、生徒達全員で描いたスイスの山々と湖面、赤い屋根の丸太の小屋、懐かしい日本の学芸会の思い出がノスタルジアを誘ったのか、父兄は皆涙を流して舞台を見つめていた。

 舞台の袖で彼等父兄の表情と真剣な子供達の演技を見ていた茂は泣きたい様な感動を覚えた。

《何時か君達が大人になった時、先生が君達をどんなに愛しく愛しく想っていたか、それが判る時が来るだろう…》


 赤道直下のアマゾンの陸地が近付いた。人口五十万のベレンの街がアマゾン川を遡航する船上からきらきらと輝いて見えた。

「ベレン沖で下船してマナオスまで別な船に乗り換えて行くんだよ」

 あどけない顔の中学生が緊張した顔を紅潮させて茂に説明してくれる。

「頑張るんだぞ、早くポルトガル語を覚えて、日本語も忘れるな。そして本を読むんだ、毎日だぞ」


 トメアスに入植する五十家族の人々は名残惜しそうに手を振って別れを告げ、船を下りて艀舟に移り本船から離れてゆく。

「さようなら」

「元気でね」

 互いに交わす言葉も涙ぐみ、沈んで…茂は幸多かれと、彼等の幸運を祈った。

 気丈な姉御肌の山田智子も汽艇で迎えに来た夫に従って、無口でタラップを降りていった。

 この後本船はベレン港に停泊し、船客を降ろしてからアマゾン河を下り、大西洋に引き返し、一路サン・パウロを目指して南下する。

次の寄港地はサントス港、それが茂の目指す目的地でもある。


               完

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