悲願花と死神
「ここは……?」
そう呟いて、百合は記憶を辿った。
そうだ、確か塾から帰ったとき。受験勉強の計画を反芻しながら、百合はため息をついた。思わず泣きそうになって、慌てて手でごしごしと目を拭った。勉強しようとリュックへ手を突っ込みかけ、不自然に伸びた両手を机に落として、枕代わりに顔を埋めた。一つ結びが崩れることを気にせず、だるさに従ったのだ。ふとペン立てが目に入った。シャープペンやボールペン、マーカーペンと一緒に、カッターやハサミが刺さっている。
気づけば手を伸ばし、自室をがっちりと閉め、カッターの刃を左手首に押し当てていた。
その瞬間意識が薄らぎ始め、やがて完全に途切れた。
それで、起きたらここ――一面に青色の彼岸花が咲く奇妙な場所に座り込んでいた。
ひりひり出血する左手を見て顔をしかめると、幾分か回復した気分で百合は立ち上がった。見上げると、空は不思議な色になっていた。いや、なっていたのではなく、百合が来たのか。
今百合がいる地点からずっと奥に、水色の丸がある。一番地面から離れているように見えるところだ。それを起点にして色が変わっている。地面からその丸まででグラデーションのようになっているのだ。水色から青色、そして紺色へと変化している。つまり、地面に一番近い空は真夜中のような黒色だった。
一つの空で昼から夜へと変わる過程を表しているようで、なんともいえない気持ち悪さと美しさを感じる。
そのわりに、夕暮れや朝焼けの色はないのだが。
不気味さを感じ、百合はどこまでも続くように見える彼岸花を見下ろした。
存在しない花。彼岸花に青色はない。
目がちかちかするほど鮮やかな反り返った青色を風で揺らす。リボンのように絡まった六枚の花被がどことなく気持ち悪い。細長く伸びたおしべとめしべが、彼岸花同士でぶつかりあっている。
花が足に当たる不快感を覚えながら、出来るだけ彼岸花を踏まないように気を付けながら歩いていく。動くのは怖かったが、動かないことにはどうしようもない。後ろをちらちら振り返りながら慎重に足を進めていった。幸いなことに、帰ってからも脱がなかった長い靴下がある。素足で彼岸花に触れないからまだ不快感はマシだ。
いつの間にか浅く切れた左手からの血は止まり、痛みもなくなっていた。それどことか、傷跡が残っていない。
百合は半袖のブラウスで、ここでは寒い。定期的に手でこすって温めながら、無心で歩いた。足が徐々に冷えていっている気がするが、歩き続けた。
どれほどの時間が経ったか、空は晴れた春空めいた色に見えた。目覚めた場所の真上の空は薄明かりの夜のような色だったのに。
それだけ、あの水色に近づいたということなのだろうか。
そもそもどういう形なのだろうと疑問に思いながら、百合は唐突に歩みを止めた。
真っ白なワンピースに、真っ黒な髪。背格好は、幼い少女のように小さく、どこか大人のように強さの感じられる姿だった。
百合に気づいたように、前触れなくスカートが回る。黒髪が風に乗る。
星のように控えめに、太陽のように強く、光輝いた瞳。真っ白な肌に、血色のない唇。
両手でそっと、花の茎を包み込んでいた。
「……百合さん、ですか」
少し困ったように百合を見る瞳は、幼さも大人びたものもあわせ持っていた。
百合は戸惑いを隠さず問うた。
「貴方は……? それに、ここがどこか、分かりますか?」
「ここは、彼岸です。亡くなった方の悲願が花となって咲き誇る、彼岸の中の花園です」
冗談か本気か分からず、なんと反応するべきか、と百合は迷った。それを感じ取ったかのように、少女は続けた。
「私は死神。この彼岸で悲願花……リコリス、というのでしたか、この花を見守っている者です」
リコリスというのは彼岸花の学名だ。
「……ああ、私としたことが、一つ嘘を言ってしまいました。私は先ほど、亡くなった、と言いましたが、違いますね。ここには命あるもの、つまりいつかは命を失う者すべての花が存在します」
「……悲願、なんて、誰にでもあるものじゃないのに?」
百合は一つ引っかかったことを無意識のうちに口にしていた。
「いいえ。悲願というのは、命あるものの誰にでもあるものです。百合さんにとっては分かりませんが、私のいう悲願というのは、その者が人生の中で一番願ったものですから。神様からそう教わりました。話を戻します。悲願花は彼岸にて今世、もしくは来世以降で叶う時を待っているのです。悲願が形を変え、欲に溺れぬようにしたとて、私が心の底から掬い上げます。それによって悲願は永遠に続いていきます。私は悲願を続かせるために私はここにいます。最も、望んだことですが」
「なんでですか?」
百合は現状を忘れ、少女の話を熱心に聞いていた。
「難しい質問をしますね。そうですね、私は生きる者が頑張るのを見るのが好きなのです。生きたいとがむしゃらに生きていく姿が、好きなのです。だから、彼らにとっては全く見えない道を進む、それを私は見ていたい。……それが、私の悲願です」
天使のように滑らかに微笑む少女。
「……死にたいって、思う人は」
「百合さんが、そうなんですね」
心を読んだような少女の発言に、百合は今まで言えなかった言葉を言った。言ってしまった。
「ここにいたいです。生きるのが辛いの」
「……それは」
気持ち固くなった声に、百合は気づけない。
「私は、私が大嫌いなの。いつもいつも同じ失敗を繰り返して怒られて、当たり前なのに不満に思って傷つけて、勉強も頑張ったのに志望校に入ることができなかった。だから今度は絶対に第一志望に入りたいのに、受験勉強が怖いの。集中しなきゃいけないのに、えって困ったような顔をするお母さんと厳しい顔のお父さんが思い浮かんできて、怖くて手が震えるの」
「百合さ」
「ずっと見てるだけなら私だって失敗しない! ……生きるの、もう疲れちゃったんだ」
死神を名乗った少女の言葉を遮り、百合は泣き出した。
「もうやだ。疲れた。疲れたの」
元々、限界だった。自分も他人も傷つける凶器のような人生だった。終わりのタイミングを見計らっているために生きているようなものだった。それが、少女の優しい声音によって、守っていた殻が全部溶けて本心がだだ洩れになってしまった。
「百合さん。貴方の気持ちを想像するしか、私にはありません。私は貴方ではありませんから。けれど、けれどね、私にだって言いたいことがあります」
少女然としていて、強さのある表情だった。
「辛さを吐露するのもいいでしょう。時に死を軽く見るのもいいでしょう。しかしそれを実行に移すのは、死を軽く見るのとは違うのではありませんか」
手元の、真っ白に輝く青の彼岸花を見つめ、百合と目を合わせた少女は芯の感じられる声を発した。
「百合さんにとって、貴方の人生は真っ暗で、黒歴史というに足るものなのかもしれません。でも、違います」
声を出したら、嫌なことを口走りそうで、黙っていた。高校三年生が大人げない。泣いた時点で今更だろうか。
「思いは、こんなに光っています」
百合の視線を、自らの手に誘導して、少女は少し声をやわらげた。
「この花は、貴方のです。百合さんの悲願花です。大丈夫です。百合さんなら、真っ暗な道を歩いて行けます。こんなに強い灯りが、貴方の心にあるのです」
「……これは、何の光ですか?」
「生きているという印の光です」
「そんなの、誰にだって、あるじゃないですか」
「そうですね。種類は様々と言っても、少なくとも、生きている方はね。ですが、光が消えるのは一瞬です。今日にでも消えるかもしれませんし、半世紀あとかもしれません。分かりません。そして、一度失われた光は二度とは宿りません」
「だから、様々な種類があるって、ことですか」
「ええ、その通りです。もう少し詳しくお話します。悲願花は変化します。悲願が変化するか、あるいは少し魂が変わるかで、です。輪廻転生をすれば、魂は変わります。悲願花は変わります。変われば、別の種類の光が宿ります。……別の種類と言っても、同じ光は一つとしてありません」
オカルトのようになったな、と百合はぼんやり思った。
「貴方には、光があります。いえ、貴方だけではありません。生きている者には、綺麗な輝きの光を持っています。それを自ら消すなんて、そんなこと、しないでほしいのです。私は、その光が大好きです。できることならずっと見ていたい」
「……どうしてそこまで、光に執着をするんですか?」
「私はその光を自らの手で消しましたから」
それは、つまり、彼女は自らを殺した、と、そういいたいのだろうか。重たい言葉に、百合の呼吸が一瞬、止まった。
「だから、生きてほしいのです。死が天国で、生が地獄に感じることもあります。それを軽んじはしません。けれど、辛くたって、生の光は美しく、空は綺麗です」
その少女の言葉を聞いた途端、視界がぐにゃりと歪んだ。意識が遠くなっていく。
「……死ぬ気がなくなったようですね。貴方がここに導かれてくれて、よかった」
ありがとう、と言えただろうか。分からない。しかし彼女の手の光は強く強く、脳裏に焼き付いた。
気づけば寝ていたらしい。お母さんがご飯だと叫ぶ声が聞こえる。
むくりと体を起こし、妙にはっきりとした気分で百合は目を覚ました。
カッターを持っていた手に心臓が止まりそうになった。気持ちが限界だったらしい。左手につくぎりぎりで止まっている。寝ている間に切れていなくてよかったと刃をしまいペン立てに戻す。
受験勉強を頑張って、大学に行って、失敗を一つ一つ書き留めて、そうすればなんとか生きていけるかもしれないから、頑張ろう。……ご飯を食べてから。
百合は真っ白な強い光を脳にえがき、自身で思い描いたその光景に首を傾げながら席を立った。