冠水都市 第五話
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尾坂恵子は、意外なことに、今回の大規模水害の件のおかげで。
職場の上司からは信頼と高評価を。都民からは人気を。それぞれ、得ることになった。
なぜそんなことになったのか、といえば。水難救助チームが、気象庁の尾坂恵子という女性が被災地でこのような素晴らしい活躍をした、とマスメディア側に紹介したからだった。
テレビ局や新聞は恵子の救助行動を、その日のニュースで大きくとりあげた。
おかげで、大勢の都民がそれを知る運びとなった。その結果として、上記のような展開になったわけだ。
言ってしまえば、尾坂恵子は有名人になったのだ。目新しい出来事が、めまぐるしくとりあげられる毎日では、一時のあいだの出来事ではあったが。
水害がもたらした被害の内容は、まだ調査中だったが。それでも今回の練馬区で起きた都市型水害は、過去の水害と比較してもヒドイものであって、記録に残るほどの被害をもたらした。
(関東では、私たちが考えている以上に豪雨による水害が起きている。今回以上の被害もめずらしくない。記憶に新しいものでは、2015年9月に起きた関東・東北豪雨がある。関東と東北地方を中心に、19の河川で堤防が決壊したほか、67の河川で氾濫が起きて、広大な地域が浸水した。また各地で河川の氾濫、土石流、がけ崩れなどの、土砂災害も発生している。
これは日本海に停滞していた台風18号が変化した温帯低気圧の湿った空気の流れと、台風17号の湿った空気の流れがぶつかり、南北に連なる雨雲が線状降水帯として発生したために起きた災害になる)
救出後に二人は、都内にある総合病院に搬送されると、そこで前回同様に一通りの検査をうけた。そして、二人とも、強いショックをうけていますがどこにも異常や問題はありません、と医師から診断をされた。
耕一と恵子は、病院で別れた。というよりも恵子が気付いたときには、耕一は勝手にいなくなっていた。
恵子は賃貸マンションの自室にもどった。疲れ果てていたし、充分な休息が必要だったが、恵子はけっきょく翌日も休まずに、気象庁本庁にむかった。
水害から一晩が経過したが、それでも耕一に告げられたことが恵子の胸中に重くしこりのように残っていて、それがどうしようもなく彼女の気持ちを沈ませていた。
顔色は悪く、足どりも重く、肩を落とした、どんよりした沈んだ表情で、恵子は会社にやってくる。
きっとまた課長をはじめ、職場の同僚たちから昨日の水害の被害額のことで嫌味や文句をいわれるんだろう。憂鬱な気分でそう考えながら、恵子は広報課の部屋に入る。だがそこで、予想とはまったく逆の対応でむかえられて、眼をまるくして驚くことになる。
部屋に入ったとたん、同僚たちが恵子を拍手でむかえる。それだけではない。課長が、満面の笑みをたたえて、席を立ってワザワザ恵子のもとにやってくると、その手をとって恵子をほめだす。
「よくやった。恵子クンは、わが課の誇りだよ!」
「あの、これはいったい……」
歓待される理由がわからずに、驚いた表情でいた恵子は、拍手している同僚たちと、笑顔の課長を交互に見てから、おそるおそるその理由を課長にたずねる。
問われた課長は、それがまるで自分の手柄でもあるように、胸を張って次のように恵子に言いきかせる。
昨日に君から無事を伝える連絡があったあとで。救出チームの隊長から、あそこでなにがあったのかを教えてもらったよ。大雨が降りそそぐ危険な被災地のなかで、君は気象庁の職員として、じつに勇気ある、リッパな行いをした。君は、救出チームにも所在がわからなかった被災者たちを発見して救出して。彼らのもとに送り届けていたそうじゃないか!
救助チームの隊長は、君の勇気と行動をほめていたぞ! それどころか、大絶賛していた! それだけじやない。君の尊い行いは、昨日の夜のニュースでもとりあげられたんだ。広報戦略室の室長もそれを見て、君の勇敢な行動を賞賛していたよ! 私としても、じつに鼻が高い。いや、快挙だ! 栄達だ! 恵子クンはまさに、気象庁の善き手本だ! じつに素晴らしい!
「ええと、その。あの。ありがとうございます。とても嬉しいです。身のあまる光栄です。ええと、それでですね」
耕一に告げられて以来、昨日からずっと気になっていることを課長に問おうとした恵子だったが。それを寸前でグッとこらえて思いとどまると、かわりに無理にでもひきつった笑みを浮かべて、こう続ける。
「じつはまだ、指示された水害対策の計画書ができあがっていないんです。自分なりに努力しているんですが。どうしても、うまくいかなくて」
恵子がそう告白すると。課長は上機嫌のままで、次のようにかえして、恵子を仰天させる。
「ああ、あの件かね。安心したまえ。あれは保留になった。提出はもうしなくていい。そう決定された」
「え? は?」
「この件を指示していた、広報戦略室の室長が、今回の君の活躍で、いままで続いていた国民側からの大量の非難のメールの内容が、百八十度逆転して、好意的な内容に変わった。だから必要なくなった、とさっき連絡してきたんだ。というわけで、水害対策の計画はとりやめとなった。そういうことだ」
「……」
恵子はあぜんとした表情になると、言葉を失う。
茫然自失の状態でいる恵子の肩をたたいて、課長だけが上機嫌で、課の連中を相手に喋りまくる。
「いまいったように、広報戦略室の室長をはじめ、関係している各省庁の皆が、今日のことを非常に喜んでいる。私もそれは同様だ。恵子クンの貢献はじつにめざましい。君には、どうかこれからも、この課のために頑張ってもらいたい! 皆もこのことを見習ってだね……」
つまりは、今回の水害対策も国民側からせっつかれてたからとりかかったわけで。国民側が水害現場の人命救助の救出劇に夢中になって、なにが問題だったのかを忘れたので、それは棚上げになった。だからべつに解決しなくてもよくなった。そういうことらしい。
昨日の水害の発生過程を考えれば、いつまた都内で集中豪雨による水害が再発しないともかぎらない。呑気なことをやっている場合じゃない。国民のご機嫌とりをしているだけでは、この問題は解決しない。はやく、なんとかしないと。そう主張したかったが、自分の立場をかえりみると、恵子はとてもいいだせなかった。
課長はふりかえると、言葉を失っている恵子に、こういいきかせる。
「ああ、それからね。一週間後に、今回の君の功績をたたえる表彰式が行われる。式の様子はテレビ局も中継するそうだ。くわしいことはなるべく早く伝達するから、よろしく頼むよ。表彰式の壇上で、テレビを通じてしゃべる適当な話を、いまのうちから考えておいてくれ。そうだな。気象庁のイメージアップになるスピーチがいい。それで頼むよ。いいね?」
「……はい、わかりました。了解です。まかせておいてください」
無理やりにこしらえた笑みと、消え入りそうな力ない声で、うなずいてかえす恵子に満足すると、課長は自分の席にもどる。さっそくどこかに電話をかけると、電話のむこうの相手に、課長はこの一件の自慢を始める。
課長が音頭をとっての一幕は、どうやらここまでだったらしい。やれやれ終わった、といった態度で、同僚たちもそれぞれ各人の仕事にもどる。
席について小さくため息をつく恵子のもとに、先日の同僚がやってくると、隣の机によりかかって、きっと内心では物凄くくやしがっているのだろうが、恵子にむかってこう呼びかける。
「おい、ずいぶんとうまくやったじゃないか。今度の件で、てっきり大失敗をすると思っていたのになぁ。あの通り、課長は大喜びだ。かなり点数をかせいだな。今回のことで、君の昇進もみえてきたんじゃないか?」
恵子は席についた格好で同僚を見てから、同僚を追い返そうとするが。そこで気が変わって、次のように問いかける。
「お願いがあるのだけど。今回の水害についてのくわしい資料をまとめて、できるだけ早くもって来てくれないかしら?」
「なんに使うんだよ? その仕事はなくなったんだろ? それとも、別件を命じられたのか?」
「そうじゃないわよ。気象情報に関する資料が欲しいのよ。そうね。気象レーダーでとらえた、線状降水帯の発生から、それが消えるまでの、雲の動きをまとめた資料をもらえないかしら?」
「それなら、次の会議で使う予定だった配布用の資料が、もうすぐにできあがる。ちょっと、待っててくれ。そいつを持ってこよう」
恵子は資料が届くのを待つあいだ、自分のノートパソコンを起動させて、デスクトップにあった水害対策の計画書のファイルを選択する。そのまま、ファイルを消去しようとする。
そこで、操作していたマウスの手がとまる。ノートパソコンの液晶画面をみつめた格好で、恵子はジッと考え込む。
恵子は、自身に問いかける。いくら課長から命令されたからとはいえ、このまま水害対策の計画を無かったことにしていいのだろうか?
かといって、命令に逆らい苦労して計画書を作成しても、いまさら計画書が採用されることはないだろう。それにだ。難癖をつけて水害対策が失敗した責任を押し付けられるくらいなら、やっぱりこのまま消去してしまうのがベストな選択になる。
そうするべきだろうか。ほかに方法はないんだろうか。机についたままで、恵子がボンヤリと考えごとをしていると、同僚がまたもどってきて、注文されていたファイルした資料を机に置いていく。
恵子はファイルをひろげて、今回の水害についてまとめた紙資料を読み始めるが。ページをめくるばかりで、肝心の資料の内容が頭に入ってこない。
自分が疲れているのを、恵子は思い知る。それでも無理やりに集中して、恵子は資料の内容を読み込むと、せめて必要なことだけでも、自分の頭に入れようとする。
そうだ。今回のことで、どうしてもわからないことがある。まだ解決できていない疑問がある。気持ちはずっと沈んだままなのに、その疑問が彼女の胸中に居座り続けていて、皮膚に刺さったトゲのように、自分を苦しめている。
昨日にあった、練馬区で発生した大規模水害が、線状降水帯によってもたらされたのは理解した。ゲリラ豪雨に連続してみまわれるこの現象のせいで、集中豪雨が降ると、こんなにも大きな被害になるのもわかった。それはいい。
資料によれば、こうした集中豪雨は決してめずらしいものではないし、線状降水帯もわりとよく発生する現象であるらしい。なるほど、そうか。それもわかった。
だけど、それがなぜ、練馬区という場所で起きたのだろうか?
恵子は、水害の資料のなかにあった、練馬区の夏季の降雨記録の項目を読む。それといっしょに、練馬区の過去の夏季の気温の記録についても読んでいく。
練馬区は昔から、ほかの区よりも夏になると暑くなる土地だった。練馬は、じつは都内でもトップクラスに暑い地域なのだ。
だから、練馬では大雨が降る。実際に練馬でのゲリラ豪雨の発生回数はとても多い。昨日の線状降水帯も練馬で発生した。
それではなぜ、練馬はこんなにも暑くなるのだろうか?
ヒートアイランド現象のせいで、練馬は暑くなるのだろうか? 練馬が暑いのは、アスファルトやコンクリートに蓄熱されるヒートアイランド化のせいだろうか?
いやそれはおかしい。なぜなら資料によれば、練馬区は23区のほかの区とくらべても、畑の面積が大きい、緑が多い区なのだ。他所よりも舗装されていない地面の面積が大きくて、緑が多い練馬区が、ヒートアイランド化するのは理屈にあわない。
この理由がどうしてもわからない。解けない疑問として、恵子をイライラさせていた。
耕一にメールを送信して、この疑問について質問するべきなのかもしれない。でもいまは耕一の顔を見たくないし、声もききたくない。耕一とは関わりたくなかった。耕一に頼りたくなかった。
悩んだすえに恵子は、あまり良い印象を持っていない職場の同僚に、質問してみることにした。
同僚は恵子からその質問されて、意外そうな顔で驚いていたが、セキぱらいしてから、しかたがない、といった態度でこう語りだす。
ぼくの意見としては、これは温暖化の影響だ。同僚はそう、もったいぶった態度で語りだす。
なぜ都内で、地区を水没させるような集中豪雨が降ったのか。その理由は、世界中で温暖化現象が起きているからだ。そしてはそれは進行している。だからいままでは九州や広島など、暖かい地方で起きていたこの現象が、関東でも起きるようになったんだ。
昨日の集中豪雨も温暖化が原因だ。練馬が温暖化で暑くなったから降ったんだ。温暖化の影響がついに、こんなかたちで関東にもあらわれたんだ。
同僚の、そうに違いない、と確信を込めて語る自説を最後まで拝聴すると、恵子はそれに一応は感心してから、こう反論してみる。
「なるほどね。で? それなら、どうしたらいいの?」
「え?」
「それなら、私たちはどうやって、その温暖化がもたらす都市型水害に対処したらいいの? 原因が温暖化なら、温暖化をどうするかしかないわけよね? つまりは地球の気候を変えないと、効果がある対策はとれない、ってこと?」
「あ。いや。それは、その……。温暖化に関しては、原因かどうかはまだ明言されていないし。まだ解明されていないことのが多いからね……。いちがいに、そうだとは断言できないんだよ……。だけど、もしも温暖化が原因なら、そういうことになるのかな?」
さっきまで自信たっぷりな態度でいた同僚は、恵子から指摘をうけて、顔をそむけてくちごもってしまい。あくまでも、これは仮定や推論、憶測や推察だから、と歯切れが悪い反応で、いいわけを始める。
それ以上は追いつめるのもかわいそうだった。なので恵子は同僚に礼をいって自分の席にもどると。けっきょくはまた、自分の机について、先ほどの疑問を解明する作業にもどる。
世間一般の認識は、いまの同僚の理解と同じなんじゃないだろうか。でも自分はそれでは納得できない。
だいたい、温暖化なら。都内のほかの場所も、同じように暑くなっているはずだ。この地域だけが特別に暑くなる、なにか特別なわけがないとおかしい。だったら、その理由とは。原因とは、いったいなんだろうか?
もしかすると、それをつきとめることが、今回のような水害をふせぐのにつながるんじゃないだろうか?
そこで恵子は、机においたファイルをとると、ページをめくって、また最初から読み直し始める。
数字とにらめっこしているうちに、妙なことに気付く。練馬で降るゲリラ豪雨が、いや局地的大雨の発生件数は、アメダスの記録開始の頃は、全国平均と大差がない。
ところがだ。2000年代になると、いやもっと正確にいえば2004年頃から、急に発生件数が増加を始める。七月から九月にかけての夏季の気温の上昇も、この年の、この頃から始まる。
夏季の気温の上昇が、豪雨や集中豪雨をもたらすようになったのはわかる。でもなぜ最近になって、夏季の気温の上昇が、この地域で生じるようになったのだろうか?
恵子は考える。自分の考えをまとめるために途中でメモをとったりもしたが、それよりも机にかじりついたままで、必死に考え続ける。
課長をはじめ同僚たちは、恵子が一週間後のスピーチの内容を考えるのに苦しんでいる、と思ったのだろう。むずかしい顔で机からずっと動かないでいる恵子には、触れないでいてくれた。
練馬区の水害における人命救助の功績をたたえる表彰式は、都内にある大きな市民センターで行われた。
会場として最初は、都民へのアピールを考えて、な被災地となった練馬でやることも考えられた。だがまだ現地の復興は済んでいないし、8月の真夏日に外でそんなことをしたら日射病で倒れる人がでるだろう。
今回は気象庁以外の関係省庁の面々も集まるので、空調装置が完備されている大型施設として、都民も利用している、この市民センターが選ばれたのだった。
当日は、放送用の機材を積んだ、テレビ局のクルマがやってきて、テレビカメラをたずさえたカメラマンと、番組中継役のレポーターが、表彰式の様子を生中継することになっていた。
恵子は指示通りに、今回の式典の最後をかざるスピーチを用意してきていた。ちなみに、あれから一週間かけて用意したスピーチを、あらかじめ課長たちの前で披露して、それで頼む、とすでに了解を得ていた。
授賞式の当日。式は予定通りに始まると、とどこおりなく進行していった。
恵子は、紺色のブレザーにスカートという服装に、黒髪をうしろできっちりとまとめた髪型にすると、化粧はひかえめに、とにかく清潔で有能そうで若づくりした格好で、この授賞式に望んでいた。
式には、気象庁の長官や次官をはじめ、国土交通省から、消防庁や警察署からも、それぞれ偉い人が出席していた。気象庁の関係者一同も、もちろんきていた。
じつは当日の式で、人命救助で表彰されるのは、恵子だけではなかった。練馬区で起きた水害で、表彰される行いをした人物は、ほかにも消防庁の隊員や警察官など、大勢いたのだ。
式はまずそちらの、彼らが属する組織のトップの人物が壇上にあがると、表彰者を紹介して、感謝状や賞状や記念品を対象者に授与していく。そういう段取りで進行していった。
最後が恵子だった。壇上にあがった気象庁の長官がまず、被災地で恵子が行った人命救助の内容を、会場に集まっている皆と、特にテレビカメラをかまえたカメラマンに語ってきかせる。長官はそれから、壇上の横手にひかえている恵子を呼びだして、賞状を手渡す。
受けとって一礼した恵子は、長官がさがったあとで、課長から指示されていた、気象庁を世間にもっとアピールするためのスピーチをするために、マイクの前に立つ。
恵子は、一見すると落ち着いた態度でいたが、じつは緊張のあまりにシャツの下は汗をかいていた。これから恵子は、課長たちにも話していない、予定外の行動を始めるつもりでいたからだ。
会場に集まっている、席についた制服姿や背広姿の大勢の人々を見渡すと、恵子はまず「ありがとうございます」と感謝の気持ちを全員に伝えてから、課長や同僚たちにも伝えずにこっそりと一人で練習していた、べつの話を始める。
「私は今日、気象庁の職員として、集まっていただいた皆さん、それにテレビを見ている都民の方々に、きいていただきたい話があります。それは七月の最終日に起きた、先日の大規模水害についてです。
なぜあのような水害をもたらした集中豪雨が、都内で降ったのか。そして、そうした都市型の水害がふせぐにはどんな対策をすればいいのか。それについて、自分なりに考えてみた話をしたいのです。予定のスピーチとは違いますが、どうでしょうか?」
緊張のあまりに壇上の恵子の脚はふるえていたが、恵子はそれでも微笑を浮かべると、魅力的に見えるように、と注意しながら、会場に集まっている人々にもう一度、同じ呼びかけをする。
会場に集まっている気象庁や関係省庁の役職つきの人たちの顔には戸惑いが浮かんでいる。なかには、なにか気がきいたアトラクションでも始めたのだろう、と拍手している人もいる。
課長や同僚たちは、予定にない行動を始めた恵子に気付いたのだろう。顔を見合わせて小声で話しあったり、困惑した表情や、疑いの目をこちらにむけている。
恵子は会場の人々の反応をみて、これなら、だれかが壇上にあがってきて強制的に退場させられない、と判断してから、自分が関わることになった水害対策について、自分なりにまとめたことを語りだす。
「なぜ、今回の練馬区における水害は、こんなにも被害が大きくなったのでしょうか? それは豪雨や集中豪雨という大雨のせいです。
ゲリラ豪雨、正式には局地的大雨と呼ばれる最近の大雨、豪雨は、30分間たらずのあいだにとんでもない量の大雨を降らせます。先日の練馬での大規模な水害も、(ゲリラ豪雨をさらに拡大した)線状降水帯と呼ばれる現象によってもたらされました。
ではなぜ、このような大雨が練馬区で降ったのか。なにが、ゲリラ豪雨や集中豪雨をもたらしたのか。
原因は、練馬区で気温の上昇が起きるようになったからです。それが従来よりも高温多湿な空気を生みだすようになった。今回の水害は、その弊害なのです。ではなにが、この気温の上昇をもたらしたのでしょうか?」
恵子はまず、会場にいる人々が、というよりもテレビ中継を見ている視聴者が興味を失わないうちに、東京の都内23区でヒートアイランド化が進行していること、それからヒートアイランド現象とはなにか、それぞれの説明にとりかかった。
都市という人工被覆された環境が、それ以外のほかの場所よりも暑くなる作用を、ヒートアイランド化、あるいはヒートアイランド現象ということ。それを説明してから、恵子は続ける。
「世間でいわれる、二酸化炭素などの温室効果ガスが増えることで生じる温暖化も、たしかに都市を暑くします。
ですがその暑くなった都市のなかで暮らすために私たちがだす排熱が、都市をさらに熱くする、ヒートアイランドを押し進める原因になるのです。
東京という狭い地域に一千三百万人以上の住民が集中して暮らしていて、それだけの大人数が生活にともなう熱をだしているのですから、これはもうしかたがないんですけどね。人間が集まり活動する場所であるかぎり、都市のヒートアイランド化は避けられないことなんです。
その東京都23区のなかでも特に暑いのが、千代田区をはじめ、墨田区や荒川区や足立区になります。主に都市の中心部が高温地域になる、そう考えるのがわかりやすいでしょう。都市の中心部で生じたこの熱が、高温な空気を生みだして、ゲリラ豪雨を降らせる積乱雲を生じさせる。
ですがこの理屈で考えてみると、集中豪雨にみまわれている練馬区は、上記の例にはあてはまらない。なぜなら練馬は23区のなかでも、畑が多くて緑が多い区だからです。
練馬区が暑くなるから、練馬区で線状降水帯が発生してしまい、集中豪雨が降ったのです。ではなぜ(ヒートアイランド現象とは関係がなさそうな)練馬区で、気温の極端な上昇が起きて、線状降水帯が生じたのでしょうか?
ここからが本題です。思い出してください。東京のような臨海部にある大都市では、夏のあいだは、日中は海から陸にむかって風が吹いています。これを海風と呼んでいます。そして夜になると今度は、逆に陸から海にむかって風が吹くようになります。これを陸風と呼んでいます。
なぜこうした現象が起きるのか。それは昼と夜で、陸地と海で温度差があるからです。夏の太陽からの強烈な放射を受ける日中は、陸地はあたたまるが海はあたたまりにくい。このせいで陸地は温度が高くなるので、上昇気流が発生して気圧が低くなる。すると温度が低いままの海から、気圧が低くて温度が高い陸にむかって風が吹く。これが海風になる。
夜はその逆のことが起きます。夜は、太陽熱がないので放射冷却により冷えた陸地から、それとは相対的に温度が高いままだった海にむかって風が吹く。これが従来は、関東平野で起きていた現象でした。私たちが暮らす、東京都23区で起きていたことでした。
そして練馬は23区のなかでは、内陸に位置している区です。そのために沿岸部に位置する海風をうけて冷やされる区にくらべると、地理的にどうしても暑くなってしまう地域でした。
ですが近年の練馬の気温の上昇には、それ以外のわけがあるのです。これはまだ実証されていませんが、練馬で暮らす住民のあいだで定着している説です。
日中に東京湾からくる風、つまりは海から陸にむかって吹く海風が。都市の排熱を、空高くあがって上昇気流になった熱い空気を、内陸部の練馬まで運んでくる。だから暑くなる。
さらにその、都市の熱気をはらんだ海風が、秩父連山から吹く風とぶつかり、降りてくる場所が、練馬になる。だから暑くなる。そのような説です。
ほかにも、大田区臨海の工業地帯の熱や、江東区や墨田区の熱を、海風が練馬方面に運んでくる。新宿副都心の高層ビル群からの排熱が、海風で運ばれてくる。だから暑くなる。こう解説する説もあります。
このような仕組みや理屈によって、海沿いにある江戸川臨海や羽田よりも、練馬のが暑くなる。臨海副都心のビル群よりも、緑が多い練馬のが暑くなる。そういうわけなのです。
つまりは、練馬が暑いのは。そして、練馬区で豪雨や集中豪雨が降るのは。海からくる南風が都内の熱を練馬まで移動させるからだ。このような仕組みが働いているからなのです。
そしてこの熱風が、ゲリラ豪雨を降らせる積乱雲を生じさせたり、積乱雲を連続的に発生させる線状降水帯を生みだしている。強引ですが、このように考えることもできるわけです。
注意しなければならないのは。海風や陸風は、私たちが風を感じられる地面に近い、低い位置で吹いているだけではない。そこよりもずっと高い位置でも吹いていることです。そして、そちらの上空を吹く風のが、ずっと強力なのです。
上空を吹く、海からくる空気と風は、膨大な量の水分をふくんでいます。この空気中の大量の水分が、集中豪雨を降らせる材料になるのではないか。つまりは水分を多く含む海風が、東京の上空にある熱をいっしょに運んでくるせいで、東京の内陸部やその先までがヒートアイランドになる。ヒートアイランド化が進行する。そう考えることもできるわけです。
この東京湾から吹く、上空をながれる熱風が。練馬区の気温を上昇させて。ゲリラ豪雨や線状降水帯の集中豪雨を降らせて。あれだけの水害をもたらした可能性もあるのです。
ではどうすれば、先日のような大規模な水害をふせげるのか。そのために、私たちはなにをするべきなのか。それを考えてみましょう。
以前に私は、東京の排水能力をひきあげるという対策を知人に提案しました。東京の地下に埋まっている下水道の関連設備の容量を増やせば、つまりは設備の一新ができれば、集中豪雨が降っても街中に排水しきれない大水があふれないようになる、という計画です。知人は、実現不可能だ、とつっぱねました。たしかに冷静に考えてみれば、東京にある下水道設備をすべてとりかえるのは荒唐無稽ですよね。知人が指摘したように、そんな大それた都市改造計画を実行に移せる予算はどこにもありません。皆さん、ここは笑ってもけっこうですよ?
ですがこれは、都市の形態を変えてヒートアイランドをふせぐ、という対策案として、実現不可能なだけで、方向性は間違っていない、と私は思います。ではその、都市の形態を変えてヒートアイランドをふせぐアイデアですが、どのようにすれば、現実的で、実現も可能な計画になるのでしょうか?
そのひとつに『風の道』と呼ばれる計画があります。これは私が考えたのではなくて、ドイツのヒートアイランド対策として行われた都市計画を、日本むけに改良した計画になります。
風の道は、都市部の気温の上昇をおさえるために、風を誘導する通り道を対象の都市内につくることによって、海風や陸風を都市に通して、蓄熱された道路や建物を冷やす、という計画になります。
東京のように湾岸にある都市なら。海風を都心部にまで誘導することで。気温の上昇を緩和して、ヒートアイランド現象をおさえる。抑制するわけです。
国土交通省が2006年までに行った調査では、風の道をつくる対策は、東京だけではなくてほかの都市でも有効だ、と見込まれています。このあたりは皆さんで調べてみてください。
ただし東京で実行するとなったら、風が流れる都市につくり変えるために、障害物になっている建物を整理する必要があるわけですから。そうなると高層ビルを取り壊すわけで。やはり実行はむずかしいでしょうね。
ここで解説を入れさせてもらう。
風の道の計画で、頻繁に引き合いにだされる東京都内にある建築物に、汐留シオサイトがある。
汐留シオサイトは、東京港区の海沿いにある再開発地域に立つ、高層ビル群をいう。
南北に約1、2キロ、東西に約0、3キロ、約31ヘクタールの広さの面積に、14棟からの高層ビルがならんでいる。このために高層ビル群は、海側からは巨大なついたてのように見える。
実際にこの高層ビル群は、東京湾からの海風の流れをふさぐという効果を発揮した。
高層ビル群の建設後に、汐留地区の後方1、2キロ以上の広さに弱風域が生じるようになると、虎ノ門や新橋などの港区北部は、ほかの臨海部よりも日中の最高気温の平均が1度から2度も高まるようになった。これが汐留シオサイトにまつわるヒートアイランド化について調べると、よくでてくる解説になる。
資料を全部は紹介できないが、気象学者の意見によると、東京都の高層ビル群の風下の地域で、局地的な大雨が多発する傾向があるのは、こうしたヒートアイランド現象にくわえて、風がビルにぶつかって上昇気流が起きやすく、雨雲が発生するからだ、といっている。
また建築学の教授は、この現象について「海風はヒートアイランド現象の緩和に大きな効果がある。国や都が風や気温をくわしく計測して、河川や道路をふくめて連続的に風が流れる都市をつくる計画を講じる必要がある」と述べている。
都市のヒートアイランド化で調べると、この高層ビル群はしょっちゅうでてくる。つまりは、それだけ使いやすい参考例なのだろう。そのあとはだいたい、ヒートアイランド化を緩和するために、高層ビル群を整理して風の道をつくるべきだ、と展開させるのも常である。
「でも。たとえこの計画がうまくいっても、私たちを悩ませているゲリラ豪雨の発生はふせげないかもしれません。
たしかに汐留シオサイトの高層ビルをなくせば、ふさがれていた海風が通ることで、その後方の地区にいた都民はきっとまた涼しさを感じられるようになるでしょう。練馬に運ばれてくる熱量も減るかもしれません。
ですがそれはあくまでも低い位置を吹いている海風であって、ずっと高い位置を吹いている海風は手つかずのままです。上空を吹いている、都市が排出する熱が上昇気流になって高層ビル以上の高さに持ちあがった風や。海面から放出される水蒸気をたっぷりと含んだ上空を吹いている海風とぶつかって、内陸部にまで運ばれてくる風については、それではふせげないわけです。
もしもそちらが豪雨や集中豪雨を降らせる原因ならば、高層ビルを撤去しても根本的な原因はそのままに残るわけですから。高層ビルを壊したのに、ゲリラ豪雨や都市型水害はなくならなかった。そういう結果にもなりかねないわけです。
注意しなければならないのは、けっきょくは、まだよくわかっていない、ということです。それでも大雨は降り、こうして水害は起きている。だから対策をしなければならない。ですからまずは、私たちは、どうしてそうなるのか、なぜこんなことが起きるのか、その仕組みを解明しなければならないのです。
私が思い付いたのは、風の通り道になっている高層ビルからでる排熱を一時的に減らしてみる、というものです。高層ビルで使用されるエアコンや各種の電気機器をとめれば、高層ビルから排出される熱量は減ります。
海風や陸風といった自然現象は、努力しても変えるのはむずかしい。ですが、これなら簡単に実現可能です。真夏にエアコンが使えないので、私たちに苦痛を強いることにはなりますが。
この対策の重要なポイントは、べつに都内にあるすべての高層ビルの機器を停める必要はない、ということです。風のながれる方向は、気象庁が行っている観測機器による観測でわかりますから、その日そのときの風がながれる進行上にある高層ビルだけを対象にすればいいわけです。
(つまりは、風の進路上にある高層ビルで、機器を停めて排熱量を減らして、ゲリラ豪雨の発生回数に変化が生じるかどうかを実験してみるわけです)
試みてみて、ちゃんと効果あれば、豪雨の発生回数は減少するはずです。その結果を踏まえたうえで、もっと効果がある試みを。より効果的な方法がとれるようにすればいい。
きっと猛反発が起きるでしょう。暑いさなかにエアコンをとめたり、オフィスの機器を使わないでいるのは、むずかしいでしょうからね。
でもこれは実現可能なアイデアです。都民の賛同や同意さえ得られれば、すぐにでも実行できます。
水害の原因を調査、研究する試みとしては、すぐにでもやるべきことです。
より具体的な対策を計画するのは、そのあとでもいいわけです。
恵子は続いて、次のようにも語った。
重要な点は、この問題が練馬だけの問題ではないことです。なぜなら都市のヒートアイランド化が今後も進行するとすれば。いや実際に進行中なのですが。日中だけでなくて、夜間にも、海風が吹くようになる。
東京のような巨大都市では、ヒートアイランド化が進行すると、夜になっても海よりも陸のが暑い、という状態になる。都市の排熱を内陸に移動させる熱風が、一日中とぎれずに吹くようになる。
この熱風は線状降水帯のような、長時間継続する集中豪雨をもたらすようになるでしょう。いまよりも都市型水害の危険が高まるわけです。場合によっては、練馬のように地形的な問題から高温になる内陸部だけでなくて、都心のような高温地域でも線状降水帯が生じることになる。
では、どうすればいいのか。私にわかるのは、この問題を解決するには、気流の働きを始め、気温と雲や雨をもたらす気象変化を調べて、それが現在はどう変わりつつあるのか。それを調べて今後の都市計画を盛り込むことだ、と思います。
高層ビルと風の問題は、許可をいただければ、今後も気象庁のほうで調査を続けて、効果的な対策の立案を、対策を講じていきたい、と考えています。
私は、ヒートアイランドによる排熱を処理する方法をみつけることが、大規模水害の発生をふせぐ、いまとるべき対策になる、と考えます。
東京という巨大都市に吹く、風の流れと、高層ビルの関係。ヒートアイランド現象がうみだす熱。線状降水帯と積乱雲。今回の水害は、これらの要素が作用しあい、起きています。
私たち気象庁は、気象現象の急変がもたらす災害の危険から、皆さんを助けるのが仕事であり役目です。適切な気象情報を提供することで、皆さんの生命や財産を守るのが、気象庁の仕事なのです。
いま起きている気象現象を記録し変化した理由を解明して、効果がある現実的な対策を立案しなければなりません。たとえ災害発生をくいとめられなかったとしても、くりかえしその原因を解明することを続けて、必要な対策を見付けるべきなのです。
恵子は、語るべきことを語り終えると、まだテレビカメラが自分の発言を中継しているのをたしかめてから、壇上よりさがった。
会場にいる聴衆から拍手はなかった。聴衆はポカンとしている。集まっていた大勢の人々は皆、どう反応するべきかわからない、といった困惑した表情でいる。
壇上の横手にある階段から席側にでた恵子は、課長や同僚たちのもとに行く。
見れば課長は、テレビ局のレポーターに、いまの恵子の発言について質問をうけている最中だった。
課長は、無理にこしらえた笑顔で、もちろんそうです、我々としても彼女のいまの発言に沿った対策計画の遂行に協力していくつもりです、都民の期待に応えるのが私たちの役目ですから、とマイクをむけるレポーターに話している。
恵子はそれをきいて、そうか、課長も同意してくれたのか、とうけとめそうになったが。自分に気付いた課長が、コワイ顔でこちらをにらみつけてから、またテレビカメラを意識して笑顔にもどるのをみて、いやそういうわけでもないな、とため息をつく。
同僚たちが集まってきていろいろと質問ぜめにされる前に、恵子は壇上から席を見ていたときにその存在に気付いた人物のもとへとむかう。
二方耕一は、気象庁の職員が着用する青の制服を着て、会場に集まっている大勢の関係者になかにまじって後の列にいた。それが当然のような態度で参加していたので、部外者だとは気付かれなかったらしい。
そばにやってきた恵子が耕一の前に立つと、気になったの? 心配だから見にきたの? と尋ねると、耕一は持っていたファイルをさしだして、次のようにかえす。
「資料を返却しにきたんだよ。紛失したら罪に問われるんだろ? ちゃんとかえしたんだから、これでいいがかりを言うのは、やめてくれよな?」
耕一は恵子がファイルを受けとったのをたしかめてから、用事はすんだから帰る前についでにきいておく、とことわってから、恵子に質問をする。
「あんな真似をするなんて、いったいどういうつもりだよ?」
「感動のドラマだけで、解決したことになるのが納得できなかったのよ。水害が起きた原因をあきらかにして、対策を講じないと、同じことのくりかえしじゃないの。また水没した街のなかを、遭難者をさがしてうろつくなんて、もうまっぴらだわ」
「こんな真似をして、これで昇進も出世もパーになったんじゃないのか? おれみたいに気象庁をやめるつもりなのか?」
問われた恵子は、驚いた顔をしてから、眉根をひそめると、耕一に言い返す。
「まさか。私はあなたとは違う。私は自分の仕事に誇りを持っている。これからも気象庁の職員を頑張るつもりよ?」
「そうか。それをきいて安心したよ」
耕一はぶっきらぼうな態度でそうかえすと、それで納得したのだろう。恵子の課の連中だろう、気象庁の職員たちがぞろぞろとこちらにやってくるのを見て、自分の正体がばれる前に、その場から素早く立ち去ろうとする。
恵子はその後姿にむかって、また今度ね、呼びかけようとしたが、けっきょくは言わずに黙って見送る。