冠水都市 第四話
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20☓☓年、7月の最終日。
午後1時45分頃に、練馬区××で、局地的大雨が降りだすと、まもなく、それが原因で都市型水害が発生した。
降りだした雨は、すぐに時間降雨量50ミリを越える豪雨へと変わった。
練馬区××は、大きなビルが多く、小売店舗が集まる商業エリアになる。デパートや百貨店や駅ビルに、地下鉄の駅と路線もある。
付近一帯に降り注いだ豪雨は、地下鉄の駅をふくめた、地下街や地下道などの、地下施設全般に、雨水の浸水というかたちで被害をもたらした。特に地下施設は、水没に近い被害をこうむることになった。
さいわいにも、豪雨の発生からすぐに、地元の自治体が警報をだして呼びかけたことで、××の住民は自主的に避難することができた。商業地区にいた利用客も同様に避難を行った。
水害の発生後も、警察と消防の両組織が協力して救出チームを編成すると、冠水した地区に取り残された住民の救出にあたった。
こうした努力によって、現在のところ、死傷者、不明者はでていなかった。
あとは、取り残された住民の救出だけだった。
では被害地域になった練馬区☓☓の現状がどうなっているのか、というと。
5時間が経過したことにより、それまでに降った雨量の総量は、観測地点となるアメダスの雨量計からの送信記録から判断すると、900ミリを超えて、1100ミリに達していた。
これはつまり、排水溝や下水道を使い河川に捨てられなければ、道路や庭やそのあたりすべてに、私たちの目から見て深さ90センチに達する大量の水が、雨として降ってきた、そんな異常事態でもあった。
とはいえこれも、気象レーダーとアメダスで観測した数値でしかない。直接的な被災地になっている練馬区××の豪雨が降っている範囲内に、雨量計を設置した場所がない以上は、正確な数値ではない。
実際の数値は、発表よりも高かった。つまり、雨量はもっと多かった。
現地に入って、冠水した街の様子をまのあたりにすれば、だれでもすぐにそれを実感できたろう。
取り残された被災者の救助と救出のために、被災地に入った警察官や消防隊員たちは、いまや水没しかかっている都市の風景を前に、衝撃をうけた。
道路はもう、道路本来の役目をはたしていない。道路はあちこちで、雨水がたまってできた、けっこうな広さがある池になっている。もと道路だった場所に、広い池が数知れずできている。そして池と池とのあいだは、雨水の流れる川でつながっている。
現場に到着した、警察と消防の救出チームは、パトカー、救急車、消防車といった大型車両を、冠水した道路に入れられなかった。そんな真似をすれば二次災害が生じてしまう。
このような状況から判断して、取り残された被災者を救出するには、車両以外のものを使うよりなかった。だが警察や消防も、あたり前だがそんな装備を持ちあわせていなかった。
水難救助隊を呼ぶべきだった。このような大規模水害に対応できる、専門の訓練をうけた、水難救助隊の隊員たちとその装備で、この困難な事態にあたるべきだった。
だが救出チームは、自分たちの人員と装備で対応できる、と考えた。
(マスメディアの関係者は被災地に入ってこなかった。理由は道路の冠水と、上空に発達した雨雲のせいで、車両の進入ができない、ヘリを飛ばせないためだった)
さいわいにも前述のように、住民の大半は自主的に脱出をすませている。高齢者や病人など、なにかの事情で動けないでいる住民も、地元の自治体の職員や、ほかの住民たちの協力で、ここまで移動経路が水没する前に、大半が移動を終えている。
被災地に残っているのは、数十人程度の、ほんの一握りの住民たちだった。
電気の送電は続けられていた。携帯電話の基地局も稼働していた。だから残された数十人の住民も、自分の現在位置や人数や状況を、警察や消防の側に連絡することができた。
そこで隊員たちは、それぞれ個別に、取り残された被災者たちのところに出かけていくと、各員が一人一人を自力で被災者たちを救助する、という方法で対処していった。
しかしそれも程なく限界がきた。なぜなら、大雨はその後も降り続いたからだ。おかげで、道路にところどころ生じた池はつながってしまい、しだいに池でなく大きな湖のようになってくる。
さらにマズイことに、捜索開始から5時間が経過したことで、被災者の救助活動において大きな障害となる、夜がせまっていた。
現在判明している、救助されていない被災者はまだ三名いた。女性と、高齢者と、その女性が連れた赤ん坊だ。
警察署に連絡してきた電話の録音の内容で、この女性は、足が悪い高齢者をともない、赤ん坊を連れているので、躊躇しているうちにいつのまにかせまってきた水にまわりをふさがれてしまった、と証言していた。
買い物ちゅうに大雨が降ってきたので、近くの建物に入ったが、ここがどこかわからない。携帯電話のバッテリーの残量もない。とりあえずは水がこない、行けるところまで行ってみる。それだけ話して通話は終わると、それっきりだった。
この三名の被災者の現在位置がわからなかった。携帯電話の会社に連絡をとって、電波を送受信した基地局の位置から三名の位置を調べようとしたが、対象範囲が広すぎて被災地になっている市内のどこかだろう、としかわからない。
人手が足りないこの状況では、隊員を大勢投入してしらみつぶしにさがすことはできない。あとできるのは水難救助隊を呼んで協力してもらうことだが、それでも発見できる保証はない。
早く救出しなければならない。でも居場所をみつける方法がない。そうした危機的状況だった。
隊員たちは、無線での連絡や、顔をつきあわせてのやりとりで、この状況を打破しようと必死になっていた。
「なにか、いい方法はないのか?」
「被災者がどこにいるのかさえわかれば、救出に行けるんだが」
「ぐずぐずしていると、日が暮れて真っ暗になっちまうぞ? そうなれば救助活動ができなくなる!」
「おい、だれか。被災者をみつける方法を、思い付けないのか!」
救出チームの隊員たちは、土嚢を並べて水が入ってこれない場所をつくってから、救急車や消防車を車両が入れられるぎりぎりの場所まで乗り入れて、救出した被災者を受け入れるためのキャンプを設営していた。
車両の列のうしろにテントをたてて、ベッドと医療品と医療機器とスタッフをおいて、被災者があらわれたらすぐに対応できる受け入れ体勢を維持していた。
そしてその場所を、携帯電話の緊急速報メールで配信したり、まだ水がきてない周辺地域から車両に積んだスピーカーからアナウンスして、被災者側にしらせるようにつとめていた。
(とはいえ、捜索中の三名には、携帯電話のバッテリー切れで、緊急速報メールが届いていない可能性が高かった)
隊員たちは皆、ヘルメットをかぶり、雨水をふせぐためにレインコートを着用して、各員が雨のなかで作業を続けていた。皆ができることを必死にやっていた。
土嚢を積んでいた隊員たちが作業の手をやすめると、前にひろがる水没しかけている街をにらみつけて、なにもできない自分たちの無力さをいらだたしげに噛みしめる。
そのとき、雨で視界が悪くなっている街の景色を透かし見ていた隊員の一人が、あそこにだれかいるぞ、と声をあげる。
冠水して広く浅い池のようになった道路を、二人の正体不明の人物が、なにかをひっぱってやってくる。水のなかを歩いてやってきた二名は、最初は逃げ遅れた住民が緊急警報メールでキャンプの位置を知って、ここまでやってきたのか、と思われた。
やってきた二名は、雨がっぱやレインコートよりも防水性能にすぐれている、雨のなかでも作業ができる、オレンジ色をしたレインスーツを着用していた。
レインスーツは、ジャケットとズボンにわかれていて、着用後に上着のそでぐちやズボンのすそを締めてマジックテープでとめれば、膝まである水のなかに入っても服のなかに浸水しない仕組みになっている。
さらに、くびのところにボタンでとりつける、頭からすっぽりとかぶるフードを装着すれば、髪の毛や顔を濡らさずにすむ。なによりも、量販店でも販売しているし、価格も安いので、一般客も購入しやすい。
二人とも、頭頂部まですっぽりと覆うフードを取り付けて、フードの前を閉じているせいで、どちらも顔はわからない。
二人は、ここまで悪戦苦闘してひっぱってきたコンパクトな小型のゴムボートを、土嚢でつくった防波堤に寄せると、集まってきた隊員たちの前で、ゴムボートにかぶせていた雨よけのシートをめくる。
シートの下から、隠れていた女性と、抱かれた赤ん坊と、高齢者の、疲労しきった姿があらわれる。それをみて、集まった隊員たち驚きの声と、大きなどよめきが起きる。
ついに発見された被災者三名は、隊員たちの手でキャンプのなかへと運ばれる。それを見送ってから、一人がオレンジ色のレインスーツのフードの前をあける。その下からあらわれたのは、女性の顔だった。
その女性は、レインスーツのジャケットの前をひらいて、身分証をとりだすと、自分は気象庁の職員で、尾坂恵子と言います、と隊員たちに名乗る。
それから恵子は、大急ぎでやってきた隊長と、隊員たちに、疲れた表情で、ここまでの経緯を説明する。
「アウトドア用品をあつかうスポーツ用品店にむかう途中で、駅前の大型駐車場にいた、この三名の方々を発見しました。母親の女性の話では、携帯電話のバッテリーもなくなってしまい、どこにも連絡がとれず、しかたなくそこで雨がやみ、水がひくのを待っていた、とのことです。
三名とも衰弱していたので、すぐに移動させたほうがよい、と判断しました。そこで私の独断で、スポーツ用品店から、防水用の衣料品とゴムボート、ロープや懐中電灯を借用して、許可されていない救助活動を行いました。緊急メールはうけとっていたので、私たちでこのキャンプまで、彼らを運んできたんです。
違反行為についての処分は、後日に受けます。ですから、今回はこのまま見逃してください。私たちにはまだ、やらなければならないことがあるんです」
隊長は恵子の説明を、いちいち合槌をうちながらきいていたが、感服した様子で、敬語でもって恵子にたずねる。
「いったいどうやって、あの三名の被災者がいる位置がわかったんですか? 我々も救助に行きたかったのですが、彼らの場所がわからず、八方ふさがりの状態だったんです」
「水害事故で被災者がどのような行動をとるのか、ある程度は見当がついていたんです。脱出するために、いったんは駅まで移動しますが、電車が動いてないのを知る。動くのを待って駅で待機するうちに、水にかこまれて逃げられなくなる。だから駅周辺の建物をみまわっている最中に、彼らと出会ったのです。そういうわけです」
恵子の説明をきいて、隊長はすっかり感心した様子でうなずいてかえす。集まっていたほかの隊員たちも、おおさすがだ、たいしたもんだ、すばらしい判断だ、と声をそろえて恵子を賞賛する。
恵子は一通り説明をすませると、この方々をよろしくお願いします、と隊長に告げて、隊員たちに背をむけて、そこから立ち去ろうとする。
「どこに行かれるんですか? まさか、またあそこにもどるつもりですか?」
「私たちは水害の現場にもどります。気象庁の職員として、まだ調査すべきことが残っているからです。もしもほかに救助が必要な住民のかたを発見したときには、こちらに必ず連絡しますから。それでは」
なんというリッパな人たちだ。そんな驚きと感嘆の背後できいて、大勢の尊敬の表情に見送られて、恵子は耕一が待っている土嚢のむこう側にむかう。
ちなみに気付かれないようにフードの前を閉じて顔を隠したが、恵子はじつは得意の絶頂にあるニヤケた顔だった。笑いでゆるんだ顔をみられないように、急いで隊員たちのそばから離れたのだった。
いつのまにそばにやってきたのか、気付くと、こちらもフードで顔を隠した、オレンジ色のレインスーツ姿の耕一が彼女の背後を歩いている。
耕一は恵子にむかってこっそりと、よくもそんな自分の手柄みたいにいえるもんだ、あきれた、と小声で文句をいう。
説明するまでもないが、恵子はここまで耕一の指示通りに行動していた。取り残された被災者を発見したり、被災者たちをここまで運んだのも耕一だった。恵子はそれに協力したにすぎない。
ただ二人ともレインスーツのフードで顔を隠していたので、助けだされた女性や高齢者は、二人が自分たちが何者かを名乗っても、顔まではわからなかったに違いない。
耕一が、あたりにきこえるように、辛らつな皮肉と、きびしい忠告を始める前に、恵子は自分から声をあげてそれをさえぎると、冠水した道路に入ってバシャバシャと歩きだす。
「さっ、もどるわよ! 被災者の救出も重要だけど、私たちの役目はそれとは別なんだから。なんでこんなことになったのか、それをつきとめなきゃ! それが気象庁職員のつとめなのよ! そうしなきゃ、水害対策だって立てられないわよ!」
「いや、恵子ちゃん? それはちょっと強引すぎないか? ひどすぎるんじゃないか?」
耕一は反論しかけたが、大急ぎでここから離れようとする恵子をそのままにするわけにもいかず、雨が降りしきる水没した都市に、彼女とともに再び踏み入っていく。
語り手が知識不足なので知らなかったが、じつは消防局には、水害が起きたら救助活動を行う組織がある。消防局なんだから、消防が仕事だ。火事や火災の関係だけが仕事だ、と思い込んでいたが、そうではないのだ。
この国には、四つの水難救助隊がある。消防組織の水難救助隊。東京消防庁の水難救助隊と舟艇隊。警察の水難救助隊。海上保安庁の水難救助隊。この四つだ。
二つ目の、東京消防庁の水難救助隊と舟艇隊は、計18隊、合計80名という、かなりの人数で構成されている。これは専任部隊と専任の隊員たちだが、一つ目の消防組織の水害救助の隊員たちは、火災のときにはほかの消防隊員といっしょに活動するようになっている。水害対策のための要員だが、まずは消防組織の隊員として行動する(かねている)、という立場であるわけだ。
警察の水難救助隊の隊員も、ふだんは機動隊に配置されていて、水難事故がないときは機動隊員として、警察の活動をしている。
この四つの組織で、都市で大規模な水害が発生した場合には、まず最初にやってくるのは、消防局や消防庁の水難救助隊になる。ハナシの都合で登場しないが、今回のような都市水害のときには、本来であれば消防組織の水難救助隊が対応する仕組みになっているわけだ。
各隊員たちは、水害対策のための訓練をうけているだけでなく、各員が潜水士の資格を持っている。また装備として、酸素ボンベにウェットスーツ、ゴーグルにヘルメットにフィン、水中ライトや水中時計といった、潜水装備をそろえている。
ほかにも、救命ボートや船外機、水中スクーターもある。さらには東京消防庁の救助隊は(消防組織の装備と兼用だが)、大型消防艇、小型水難救助艇、救助工作車、クレーンや救助資材を持っていて、これらの装備を使いこなすための訓練もうけている。
火事だけではない。消防組織は、都市で起きそうな水害にはだいたい対応できるし、必要な訓練をうけていて、その装備も非常に充実しているのだ。東京は河川事故や、河川の氾濫が多いせいだろう。
また消防組織の水難救助隊は、警察の水難救助隊とも協力できるように、ふだんから合同訓練を熱心に行っている。
ただし基本的には、都市型水害や大規模災害が起きた場合は、まずは消防組織の隊員たちが被災地で積極的に救助活動や救出活動を行い。その後、警察の隊員たちが、遺体のひきあげや、検視と身もと確認を行う。このように、協力はするが、役わり分担はハッキリとわかれているらしい。
耕一と恵子は、水没しかけた街にもどってくると。先刻よりも水位が上昇した濁流のなかを、ザブザブと歩いて移動していく。
耕一はとなりをいく恵子に、できるかぎり歩きやすい場所を選んでいる、と説明するが、恵子には言い訳にしかきこえない。
にごった泥水が、渦巻き、逆巻き、泡立ち、のたうち、音をたてて、自分にぶつかって流れていく。泥水といっしょに、おびただしい数の大量のゴミが押し流されていくが、そのなかでもっとも多く流されているのは、土だった。
なぜ大雨が降ると土砂災害が発生するのか、恵子はそれのわけを理解する。大雨が降れは、雨は地表を流れて、いっしょに大量の表土が運ばれていく。表土をはぎとられて無くした山や崖はもろくなるし、崩れやすくもなる。だから大雨が降ると、土砂崩れや土石流が起きる。そして土砂崩れや土石流が起きれば、その先にある建物もクルマも人も呑み込まれて、このように押し流されて埋まってしまう。
住民はすべて、もう避難をすませたらしい。流れる河のようになっている道路をザブザブと歩いていても、二人は途中でだれとも出くわさない。
暗い空には雨雲が低くたれこめている。雨は、いつ終わるとも知れず、降り続けている。まるで世界の終わりのような、ものさびしくて、詩的な光景だ、と表現したいところだが、べつにそうでもなかった。
車道も歩道もそうでないところも、舗装路上には降ってきた雨が流れて水流ができている。そのなかを歩いて、水流に逆らい移動するのは、大変だった。とにかく、歩きにくくてしょうがない。川に入って流れに逆らいながら歩いている。そういえばわかってもらえるだろうか。詩的な気分にひたるどころではない。
流れる濁流は、さっきまでは20センチくらいの水位だったのに、もう25センチに達しようとしている。場所によっては、もっと深いところもできている。
耕一の説明によれば、人が水のなかを歩ける深さは、男性で70センチまで、女性で50センチまでだ、という。腰まで水につかるようになったら、無理な移動はできなくなる。でもまだこのくらいの深さなら、なんとかなる。むしろいまのうちに、急いで移動したほうがいい。
耕一はそう強調するが、恵子にはとてもそうは思えなかった。
人が乗ったゴムボートをひっぱったり押したりして動かしていたときもそうだったが、冷たい水のなかを流れに逆らい歩いているだけで、汗がふきだしてきて顔からしたたり落ちる。着ているスーツの内側に、それが落ちる。
恵子は足をとめると、面をあげて、吐く息でくもった水滴だらけのフードの透明な覆い越しに、にごった泥水でいっぱいになって水没しかけている街の情景をながめる。自分が見ている光景を、よくよく、たしかめる。
いまこのあたりにある、どれだけの数の建物が浸水をして、どれだけの数の部屋が水浸しになっていて、どれだけの価値あるものが泥水につかったのだろうか、と恵子は考える。
恵子はどこか自嘲気味に、自身に言いきかせる。
「これはもうウン十億円どころじゃない。それを上回るケタ違いの損害額になったわよね。いったいぜんたい、いくらくらいの額になるのかしらね……」
水没しかけた都市の情景を見ていると、首都圏23区全体がこれと同じような都市型水害に見舞われているんじゃないか。東京駅も新宿駅も、山手線もほかの路線も、どこもかしこも水につかって機能しなくなっているんじゃないか。そんな想像をしてしまう。
今回のゲリラ豪雨がもたらした被害で、もっともわけがわからない、おかしなところは。被害が生じている場所は、水没しかかっているところは、雨が降っているここだけ、ということだった。首都のほかの場所は平常通りに運営されている、場所によっては晴れている、ということだった。
気象情報のサイトで現状を調べてみて、雨が降っているのが、5キロから8キロ平方メートルの狭い範囲だけだ、と知ったときは、恵子は驚いてしまい、その事実をとても信じられなかった。
でも電波の圏内まで移動してから、スマホのワンセグの機能を使い、ためしにニュース番組を見てみると、いつもと変わらない夕方のラッシュで混雑する東京駅や新宿駅、渋谷駅前の中継映像が映しだされる。
インタビューをうけているワイシャツ姿の暑そうなサラリーマンが、雨のせいで地下鉄の路線の一部が使えなくて不便ですよね、夜までには駅の浸水を解消してほしいです、と言っている。
ニュースの中継映像の夕暮れの空は晴れている。それを見て、恵子は思わず、雨が降り続いて、池や湖になろうとしている自分たちのまわりの都市の様子を、ふりかえってたしかめてしまった。
こんなことが起きている原因や理由がわからなくて、恵子は耕一に、この現象について何度も質問をした。
「その答えは、雨がやまないからだ、と返すよりないだろうね」
小休止を終えると、再び移動を開始しながら、耕一はそのように返答する。
「雨がやまないから、水がなくならないんだよ。雨さえやめば、街にあふれているこの大量の雨水も、排水溝から下水へ、下水から川や海へと流れて、やがて消えてしまう。そうなれば、すべてもとどおりになる」
「そりゃ、そうだけど。なにかもっと専門的で、納得がいく説明をきかせてもらいたいわ。それだけじゃ、なんだかうまく、ごまかされている気がする。水害が起きてしまった原因は、この水害の問題点となる本質は、そこじゃないわよね?」
そう返すと、恵子は考えごとをしながら、冠水した道路をザブザブと歩いていく。そこで、いきなり腕をつかまれて横にひっぱっられて転びそうになってしまい、恵子は、なにをするのよ! と怒って耕一をにらみつける。
耕一は、恵子の進行方向にあるものを、あいているもう一方の腕で指し示す。
冠水している、泥水の河になっている道路だが、その泥水の色が変わっていて、水の流れも変化しているところがある。
下から大量の水がふきだしているせいで、にごった川の水の色が変わってしまい、河の流れが変化しているのだ。
水流に変化が生じている理由を、つまりは恵子の腕をつかんだわけを、耕一は手短に説明する。
「下水道を流れる下水の水量が増えたせいで、マンホールのふたが下から押しあげられてはずれてしまい、あそこから水がわきだしているんだ。それに気付かずにあの上を歩くと、マンホールの穴に落っこちる。下水道に落ちて溺れることになる」
耕一の説明をきいて、恵子はレインスーツの下でまた冷汗をかくと、身震いをする。ふだんなら一目瞭然なはずの足もとの危険も、大雨のせいで判断できなくなっているのを知る。
再び歩きだした恵子は、これまで以上に足もとに注意しながら、先を歩く耕一に問いかける。
「助けてくれて、ありがとう。でもあなたは、こんな大水害に直面したのに、ずいぶんと落ち着いて冷静に、物事に対処できるのね。
ゲリラ豪雨がやまない、と知ったとたんに、必要になる品々を調達するために、この近くのスポーツ用品店にむかったし。残っている人をみつけたときも、ゴムボートを使って彼らを救出したし。まるでこうなるのをずっと前から予想していた、わかっていた、そんな態度と手際のよさだわ。いったいどういうことなの? なにか異常に気付いていたの?」
恵子の質問に耕一は黙り込む。ザブザブと二人の歩く水音だけが響いたのちに、耕一はこう語りだす。
「それはね。おれにとっては、予想を越える大雨が降るのも、その大雨のせいで街が水没しかけるのも、その水没した街に取り残されて生き残る方法をさがすのも、いつ起きてもおかしくないことだからだよ。
ほかの連中にとっては、いま起きていることも、フィクションの世界の出来事なんだろう。でもあいにくとおれは、現実の出来事として、二度もこの身で水害を経験している。
おれはあの日、そしてあの日にも、押しよせてきた大水の記憶なかで、いまも生きているんだ。大水がやってきたら、どうしたらいいのか。大水のなかから、どうやって脱出するのか。そんなことばかり考えて今日まで生きてきた。だからこうしたことにも、あたり前のように対処できるのさ」
「え……。なにそれ? どういうこと? なんでまた、そんなことばっかり考えているのよ? べつにそれ以外のことで悩めばらいいじゃないのよ? そっちのがよっぽど、楽しくて愉快な、まともな人生を送れるはずよ?」
「しかたないだろっ! ほかにどうしようもないんだからっ! おれにとって、世界がこうなるのはあたり前なんだよ! 君が見ている世界のが、おれにはいつわりなんだ!
目をつむって寝入ろうとすると、静寂のむこうから濁流のとどろきが、おれにせまってくるのがきこえるんだ。夢のなかだとわかっているのに、押しよせてきた、津波のような濁流に呑まれて、流されながらそこから脱出しようともがき続ける。(これは洪水、津波の場合で、土砂災害は流れてきた泥土と水で家屋がつぶれて埋まってしまい、そこから脱出する、という悪夢だよな)
ハラだたしいのは、大水に呑まれて流されても、それでも目が覚めないことだ。濁流に呑まれて押し流されながら、泥水を飲んで、窒息しそうになって、なんとかしてそこから脱けだす方法をさがさなきゃならない。これは夢だ、本当のことじゃない、と自分に言いきかせてもだめだ。やっと目が覚めても、恐怖と不安は去らない。だからおれはいまもまだ、あの水害事故の大水のなかから脱出する方法を、さがし続けているんだよ」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと。あのさ。いきなりそんな事実を打ち明けられても、私は困るんだけど? あなたの素性を調べた報告書には、事故のトラウマは克服したってあったけど、あれはウソだったわけ?」
自身のトラウマを語りだした耕一に驚いてしまい、恵子は耕一のセリフをさえぎると、あわててそう問いただす。
耕一は自嘲をまじえて、こうかえす。
「嘘じゃない。克服したさ。だからいまもこうして、君とふつうにやりとりができる。こんな水害のまっただなかでも、人助けなんて余裕がある行動がとれる。
ひどかったときは、海抜が低い、水害にみまわれる平屋や建物の低い階じゃ、夜にねむることもできなかった。でも悪夢をみる回数も、以前よりずっと減ったんだ。ちゃんと、よくなっているんだぜ?」
「なんてことだ。こんな危なっかしい状態の相手に、私は協力を頼んでいたのか……」
耕一が現在の自分の胸中を、過去に起きた水害事故の経験をまじえて語るのをきいて、恵子は自分のうかつさに、自分の判断のあまさに、言葉を失う。
子供の頃に彼が経験した水害事故の件について、地方局にいた頃に、耕一は自分に話さなかった。もともと、そんなに親しい間柄ではなかったせいもある。
だから耕一がどんな精神的な外傷を抱えこんでいるのか、わかっていなかった。これはつまり、今後、耕一がパニックを起こして、とんでもない行動をとる可能性もある、ということだ。
とはいえ、こういう事情になったのだから、二人の安全を確保するためにも、ここでヒロインの役目として、トラウマを克服するように耕一をはげます言動をとるべきだった。
よくきいてちょうだい。あなたは信頼できる同僚だったし、私が困っているときは、いつも今日のように助けてくれた。本当に感謝しているわ。だから、なにか助けられること、手伝えることがあれば言ってちょうだい。
せめて、これくらい言ってやればいいのに、恵子はそうしなかった
恵子は、先を行く耕一のあとを、足もとに注視してうつむいて歩いて追いながら、自身に言いきかせるように、耕一に語りかける。
「うん、そうね。あなたは苦しんでいるんでしょうね。いまの話をきいて、私にもそれがわかった。でも私はあなたを助けない。助けるつもりもない。そんなこと、私にはできない。だってそれは、あなたの問題だから。あなたがどうにかしなきゃ、よくならない。私には、どうしようもないことだわ」
よくよく考えたうえで、恵子がそのように言いきかせると、耕一は足をとめて、恵子のことをふりかえってながめる。
恵子のほうも立ちどまると、なにも言わずにジッと自分を凝視している、耕一を見返す。
その表情はフードに隠れてわからないが、これまでの経験上から、きっとものすごくこわい顔をしているんだろう、と恵子は理解する。
もしかすると、自分はここに置き去りにされるかもしれない。これ以上は面倒をみきれない。あとはお前の勝手にしろ。そう宣告されて放置されるかもしれない。恵子はそれを覚悟する。
スマホの充電は、できる場所ですませてある。でもいるここが、携帯電話の電波の圏内かどうかはわからない。置き去りにされたら、ここから救助を呼べるだろうか。恵子はそんなことを心配する。
水没しかけた雨降る街のなかで、二人の緊迫したにらみあいが続く。ややあって、耕一は前をむくと、こうつぶやいて、また歩きだす。
「そうだな。それが当然だな。いまは水害の最中なんだ。仲間割れや言い争いはしょっちゅう起きる。ここを乗り越えなきゃ、ここから脱出はできない。それが当然だ」
恵子はホッと安堵すると、平静を装い、「そ、そうね」と耕一に応じてから、彼のあとについて再び歩きだす。
だが恵子は、耕一の背後から次のように呼びかけて、耕一をイラだたせる。
「あなたを助けることはできない。それはともかくとして、私のことは助けてくれないかしら? 今回の水害は、いったいどうすれば解決するの? どんな対策をうつべきなの? 私はなにをしたらいいの? もしもあなたがそれを知っているのなら、ねぇ、それを教えてもらえないかしら?」
「……」
あんなこと言ったくせに、悪びれもせずまた、自分勝手な要求をしてくる背後の恵子に、言いかえすかわりに、耕一は怒りをこらえた沈黙で応じる。
耕一の目的は、大雨で水没しかけている練馬区××で、できるだけ標高が高い場所に移動すること。そしてそこから、やまない大雨を降らせている雨雲の様子を観察すること。それだった。
本来であれば、降っても30分程度でおさまってしまうはずのゲリラ豪雨が、なぜ今回にかぎって長時間、降り続けているのか。その理由を雨雲の観察によって調べようとしていたのだ。
練馬区××で、もっとも位置が高くなる土地は、標高58メートルになる××町××丁目だった。
標高58メートルというと、なんとなく高台のイメージがあるが、べつにそういうわけでもない。だいたい標高58メートルといっても、東京湾の平均海水面からの高さになる。山の上でもなければ、丘の上でもないのだ。23区のほかの場所とくらべて、じゃっかん高くなっている程度の土地でしかない。
ここも都内のほかの場所と同様に、大小多くの建物が密接して立ちならんでいるので、見通しはよくない。雨雲の観察をやるには不向きな場所だった。
歩きにくい冠水した街なかを徒歩でザブザブと強行軍を続けて、耕一に連れられるままに苦労してここまでやってきた恵子だったが、ここでも建物にじゃまされて肝心の雨雲の様子がわからない、と知って、耕一に次のような提案をする。
「だったらいっそ、この区にある、できるだけ高い高層ビルをみつくろって、そっちに行ったほうがいいんじゃないかしら? ここは都内なんだから、高層ビルだったらよりどりみどりのはずよ? 高層ビルのが、ここよりもずっと雲の観測にはむいている、と思うわよ?」
「ところがね。そういうわけでもないんだよ。そう考えて、おれも何度か試みてみたんだ。でも高層ビルやタワーマンションへは、容易に侵入ができない。住民以外の出入りは、厳重にチェックがされている。そりゃいまなら、マンションの住民は避難をすませて、ビルはもぬけのカラかもしれないが、送電は続いているんだからビルの出入口の電子ロックは作動している。それに住民の財産を守るために、シャッターを下ろして出入りができなくしているだろう。
それならこのあたりで、屋上階にまであがれるてきとうな建物をさがして、その屋上から観測したほうが確実なんだよ」
「ああ、そうか。なるほど。これまで何度も試したことがあるのね。経験に基づいた意見なら納得もできるわ。だけど、それをほめる気にはまったくならないわね。つかまらなくて、ホントよかったわね」
耕一の問題発言に付き合ってられない恵子は、面倒なので他人ごとにしてながすと、そこに連れて行くように、と耕一をうながす。
標高が高い土地にきたことで、あいかわらず雨は降っていたが、ほかの場所のように舗装路は泥水の池や湖にはなっていなかった。膝のあたりまでつかっていた泥水からあがって、水がないアスファルトの歩道を歩くのがこんなにも快適で安心できるのを知って、恵子は驚くばかりだった。
季節が夏のせいだろう。時刻は午後6時をまわっているが、まだ陽は落ちていない。あたりは充分にあかるい。
雨雲にさえぎられているが、雨雲がないそのむこうの空から夏の太陽の残光がここまで届いている。
雨が降る夕暮れの空の下で、レインスーツを着た二人は、無人の街路をとぼとぼと歩く。
耕一は先に立って案内をする。きっとこれまで何度もこのあたりを訪れていて、観測地点に利用してきたのだろう。名称がわからない10階建ての賃貸ビルにやってくると、出入口が開放されている、事務所や営業所のテナントがいくつも入っている建物内に入っていき、エレベータを使い、最上階にまで移動をする。
いまどき屋上にでられる無用心なビルが、都内にあるとは思えなかった。ところが賃貸ビルの最上階の通路のつきあたりにある、使われてないドアをあけると、あっさりとコンクリむきだしの荒れはてたそのビルの屋上にでることができた。
高い位置に移動したことで、それまで視界をふさいでいた、多数の建築物の障害物がなくなる。おかげで、大雨が降り続いている、このあたりの空がいまどうなっているのか、それがハッキリとわかるようになる。
恵子と耕一は、頭上にひろがる雨雲を、それぞれ見上げる。
地上から2キロくらいの高さあたりから、空は分厚い雲で覆われている。雲の底が渦巻いているのがみえる。(線状降水帯は雲低に渦が生じる)
きっとこの雨雲は、巨大な柱のように上空にむかって伸びているのだろう。だが下から見ているせいで、あいにくと雲の巨大さや高さはわからない。
あらためてわかったが、雨雲があって、雨が降っているのは、このあたりだけだった。空のずっと先。遠い空のむこうは雨雲がそこで終わっていて、そこから先は夕暮れの空がのぞいている。それにどうやら、上空を吹く風をうけて、雨雲は動いているようだった。
二人の頭上には、(先ほども言ったように)渦巻く積乱雲の雲の底の部分がひろがっている。そのせいで、まるでここだけが空にフタをされたようで、圧迫感がある。
「いまにも空から、あの雲が落ちてきそう。たしかにスゴイけど、間近にせまってくるみたいで、見ているだけで息苦しくなるわ」
恵子は空にある雨雲を見ていられずに、視線をそらすと、そう感想を述べる。
耕一のほうは、その意見には同意せずに、頭上にある雨雲の観察を続けながら、次のように語りだす。
「ゲリラ豪雨は本来ならば、上空にあるあの雨雲にふくまれている水蒸気が雨になって降りさえすれば、それでおしまいになる。雲をつくっている水分が雨で減るんだから、激しい雨が降れば降るだけ、雨雲は小さくなっていって、消えてしまう。ところが見ての通り、そうなっていない。それじゃいったい、なにが起きているのか。なにを見落としていたのか。どこが間違っているのか。そこから解明しないといけない」
耕一は解説を始める。恵子にきかせるよりも、自分の考え違いや判断ミスを洗いだそうと、耕一はゲリラ豪雨についての認識を、くちにだして再確認にかかる。
「まず基本から、もう一度やろう。もう一回、最初からだ。大雨を降らせる雨雲の正体は、水蒸気をたっぷりとふくんでいる熱せられた空気が、上昇して冷やされることで凝結して生じた、無数の小さな水のつぶだ。
空気が上にむかって移動することで、雲という無数の小さな水のつぶの集まりが、上にむかって伸びる、巨大サイズの小さな水のつぶの集まりになる。これが上にむかって成長する雲である、積乱雲だ。(積雲から積乱雲へと成長する)
かなとこ雲のような巨大な積乱雲ができるまでが、積乱雲の成長期から成熟期にあたる。このときに積乱雲の内部では、空気の対流が起きている。対流をくりかえしながら、水のつぶは大きくなっていく。
巨大な積乱雲になった大量の小さな水のつぶは、大きくなりすぎて空にとどまっていられない。豪雨になって空から落ちてくる。この積乱雲の形成から降雨までが、積乱雲の衰退期になる。
雲をつくっていた水のつぶが雨になって降ってしまえば、積乱雲は消えてしまう。これが長くても、一時間程度のあいだに起きる。こうした積乱雲の成長、成熟、衰退までが、ゲリラ豪雨が降る、ひとつのサイクルになる」
それから耕一は、雨雲の動きをたしかめて、「どうやら上空じゃ強い風が吹いてるようだな」と自身に言いきかせると、語りを続ける。
「だから基本的に、にわか雨やゲリラ豪雨は、単独の積乱雲によって引き起こされるのが常だ。だがもしも同じ場所に連続して、複数の積乱雲が生じることがあれば、豪雨を降らせる雨雲がいくつもあるんだから、1時間でやむはずの大雨が数時間にもわたり続くことになる。ただの豪雨が、おそろしい集中豪雨になるんだ。そう、これだ。こいつを見落としていた。これを線状降水帯と、あるいはバックビルディングと呼ぶ。いま起きているのが、まさしくそれだ」
ここで線状降水帯と、バックビルディング現象について、できるだけ簡単に(わかる範囲内で)説明をする。
線状降水帯とは、その名称が示しているように、複数の積乱雲が線状にならんでいる現象をいう。そしてバックビルディングは、1985年にアメリカのオクラホマで、スコールラインの形成を気象レーダーで観測した記録をもとに、マルチセルが発生する際の四つの種類のうちのひとつとして発見されたものをいう。
なにがなにやらサッパリだろう。まずはマルチセルから説明する。耕一の説明にあったように、ゲリラ豪雨は基本的に、単独の積乱雲から発生をする。だが最初はひとつだった積乱雲が、なにかの事情で同時にいくつもできてしまったり、連続して発生することがある。このように複数の積乱雲ができることを、マルチセルという。
線状降水帯とは、このマルチセルの形態の一種をいうのだ。ではどうして、複数の積乱雲が発生する、こんな不思議な現象が起きるのか、だが。
耕一がいっていたように、単独の積乱雲は、長くても1時間程度で雨を降らせて消えてしまう。ところが条件がかさなると、なにかの事情で、最初の積乱雲があるそこに、新たに高温多湿の空気が吹き込んで、そのせいで次の新しい積乱雲ができあがってしまうことがある。
次にできあがって大きくなった積乱雲も、大雨を降らして1時間程度で消えてしまうが、さらにまたそこに新しい高温多湿な空気が吹き込んだせいで、次の次の積乱雲が生じる。(あるいは高温多湿の空気が大量に吹き込むことで、積乱雲が同時にいくつも生じる)
こうして積乱雲が次々に連続してできる際に、その積乱雲が連なって線状になるときがある。これを線状降水帯と呼ぶのだ。
また積乱雲は、上昇気流の作用でビルのように上空にむかって高く伸びるが、前述の仕組みによって、ビルのような積乱雲のうしろに、また次のビルのような積乱雲が連続して発生することがある。ビルのうしろにビルができるわけで、これをバックビルディング、あるいはバックビルディング現象と呼んでいる。
わかったと思うが、バックビルディングとは、アメリカで観測された線状降水帯の一種であり、その呼び名なわけだ。(説明を読むと微妙に違っているが)日本とアメリカで観測されたよく似た気象現象のことを、別の名称でそれぞれ呼んでいるのである。こんな説明じゃ、気象学者にきっと怒られるだろうけれど。
(このように、線状降水帯やバックビルディングについて調べると、発見した研究者たちがそれぞれ独自に分類わけをしているので、これは同じものなんじゃないか、というのがたくさんあって、読んでいると混乱してくる。
じつはまだ現状では、線状降水帯に厳密な定義はされていないのだ)(たとえば日本の研究者である小倉の定義では、線状降水帯を団塊状と線状に分類していて、さらに線状のものを急行型(スコールライン型)と鈍行型(降水バンド型)にわけている)
そして、この点が重要だが、日本でもこの現象は起きている。2014年8月の広島県の大雨。2013年8月の秋田・岩手県の大雨。2017年7月の九州北部豪雨は、線状降水帯になった集中豪雨が起こした、とわかっている。それだけではない。気象庁気象研究所によれば、台風などの直接的な大雨をのぞいて、日本で起きた集中豪雨の三分の二が線状降水帯である。つまりは停滞型のバックビルディング現象で発生した、とわかっている。
最後にもうひとつ。線状降水帯が生じたり、バックビルディングが起きる条件として、風がある。よくよく考えてみれば、積乱雲のうしろにべつの積乱雲ができるのがくりかえされたら、雨が降る位置はだんだんとズレていく。あるいは気流で押し流されたりすれば、積乱雲は最初の位置からどんどんと移動していく。(実際にはそう現象もあって、これが小倉の線状降水帯の分類になるのだ、と思う)
でもこれが、きれいに線状になって、同じ位置で発生を続けるケースがある。つまりは同じ位置で、雨を降らせ続けるタイプのものがあるのだ。
高温多湿な空気が風になって吹きつけると、積乱雲は前へと押し流される。次の積乱雲は、前の積乱雲のうしろからでた冷たい空気に持ちあげられた、高温多湿な空気が上昇することで生じる。このときに、次の新しい積乱雲ができる速度と、押し流される速度とがうまくつりあうと、最初と同じ位置に新しい積乱雲ができて、いれかわり続けながら、豪雨が連続して降り続けることになる。(あるいは、最初の積乱雲の位置から、それほど動かずに積乱雲の発生が連続するタイプの線状降水帯ができあがる)
こうなると、やまないゲリラ豪雨が何時間にもわたって続くので、対象地域に大きな水害の被害をもたらすことになる。これが停滞型なんじゃないか?
いまこの地域で起きているのが、鈍行型の線状降水帯であって、そして停滞型のバックビルディングなのは、耕一の説明をうけた恵子にも容易に理解することができた。
恵子は、いまきかされたばかりの耕一の解説をもう一度、頭の中で反芻する。とりあえずは線状降水帯ができるには、あるいはバックビルディングが起きるには、ものすごく熱い風が必要なのだ、と理解する。
吹いてくる熱風が、次々に新しい積乱雲ができる、そのエネルギーになっているのだから。
となると、その熱風は、いったいどこから、どこにむかって吹いているのだろうか。自分がいるここには風は吹いてない。熱風どころか、夏なのにむしろ寒いくらいだ。
わけがわからず、恵子は耕一に問いかける。
「ねぇ、その熱い風って、いったいどこなの? どのあたりを吹いているの?」
恵子の質問に耕一は、上空の雲の動きを観察しながら、次のようにかえす。
「その風は、東京湾から、内陸部であるここにむかって吹いているんだろうね。それを感じられないのはきっと、おれたがいるところまでくる前に、上昇気流になって上にいってしまい、積乱雲に変わっているからだ」
「えぇっ? ピンとこないわ。ホントにそうなのかしらね……」
耕一は上空の雲の動きを観察しながらそうかえすが、恵子はどうしても納得いかず、空を見たままで考え込む。
ここで恵子は、ここまでやってくる道中で、ずっと考えていたことを耕一に告げる。
いままでのことを踏まえて、都市型水害がなぜ起きるのか、その都市型水害が起きたらどんな対策をうつべきなのか、私なりに考えてみたのよ。
都市型水害がなぜ起きるのか、といえば、それはつまり、都市がそなえている排水量が低くて、もともと決まっていた排水量を超える大雨が降るから、それで起きるわけよね。
これまで大雨が降っても都市が水没をしなかったのは。いままでそうならずにすんでいたのは。都市の排水量を上回らなかったから。最初から都市が水を逃がすように、そうなるように計画してつくってあったから。
私たちが暮らしているこの都市の下には、配管を埋めてつないで、コンクリートで水路をこしらえた、下水道がある。下水道は、私たちがだす生活排水をそこに流して捨てるためのものだけど、同時にまた雨水を流すのにも利用されている。
だから雨が降っても、雨水は排水溝から下水道へと流される。そして下水道から河川へ、河川から海へと捨てられる。大雨が降ってもこの仕組みがあるから、都市は水没しないようになっている。うまく排水関係の設計をするのが、きっと水没しない都市をつくる重要なポイントになるんでしょうね。
だからそれを上回る大雨が降ると、排水しきれなかった雨水は都市のなかにあふれてしまい、それが地下施設に流れ込んで、道路を川や池にして、最後には都市を沈めてしまう。それがいま、ここで起きていることよね。
話をきいていた耕一は、恵子の考えに補足をする。次のように説明をくわえる。
「東京は、時間降雨量50ミリまでが、大雨が降っても排水できる最大水量の目安になっている。というよりもこの国じゃ、ほとんどの都市がその排水処理能力でなんとかやっている。そしてゲリラ豪雨は、その排水処理できる水量を超えるから問題になっているわけだ。
都市を設計した側も、まさかゲリラ豪雨みたいな大雨や豪雨が、こうもしょっちゅう降るようになるとは、思っていなかったんだろうな。
どうやら恵子ちゃんなりに考えがまとまって、問題もみえてきたようだな。それじゃ恵子ちゃんはどうすれば、ゲリラ豪雨によって引き起こされる都市型水害を解決できると思うね? ここまでの経験を踏まえた、恵子ちゃんなりの解決策を、水害対策を、おれにきかせてくれないか?」
耕一がそう問いかけると、恵子はムッツリした顔で、ひとしきり考え込んでから。言われたとおりに、これまでの経験にもとづいた、効果あると思える対策を語ることにする。
「都市の排水処理能力を、いまよりも引きあげるのよ。いまの都市の排水能力、時間降雨量50ミリの処理能力ところを、夏季に発生するゲリラ豪雨の雨量にあわせて100ミリや、150ミリにひきあげるの。そうすれば私たちを悩ませている、この水害は解決するはずよ。ねぇ、そうでしょ? それが正解なんでしょ?」
恵子の訴えに、耕一はだが同意をしなかった。恵子の間違い、考え違いを、次のようにを指摘する。
「いいや、不正解だ。間違いだ。まるで現実的じゃない。
なぜなら、それを実現しようとすれば、いまある都市をつくり直さなきゃならなくなるからだ。下水道だけじゃない。地中に埋まっている都市の排水関係の設備を、すべて再設計して、排水量をあげたいまよりもっと大きなものに新造しないとならない。下水関係をすべて、ひとつ残らず交換する。新しいものに取り換えるわけだ。
とても、そんなことはできない。できたとしても、天文学的な費用になる。そんなカネはない。そんな高額の予算は捻出できない。だから、その答えは間違っている。不正解だ」
「なによ。それじゃあ、どうすればいいっていうのよ! 反対するのは簡単よね。間違っているっていえばいいだけなんだから。
でも私は、ちゃんと効果がある、水害対策を考えださなくちゃならないのよ! いまここで起きているこの水害を、なんとかして解決する方法を見付けなくちゃならないんだから!」
怒る恵子の気持ちもわからないではないが、耕一の指摘と反論はもっともだった。
老朽化した下水管を掘りだして、新しいものにとりかえて埋めもどすのとはワケが違う。恵子のアイデアを実現しようとしたら、いまある下水関連の設備を、すべて造り直さねばならなくなる。
東京23区には、合計すると距離にして、その長さが一万六千キロにもなる下水道ネットワークが張り巡らされている。
各家庭から、あるいはすべての建築物から、毎日やすみなく捨てられる排水を処理するためにつなげられたその複雑な下水道ネットワークは、人々が生活しているかぎり、決してとまることはない。いや、とめることを許されない。
日本下水道協会という組織があって、そこの資料によれば、いま埋めてある東京の下水道の配管も、だいたい五十年くらいで老朽化して、新しいものに交換されていく、という。だがそれも新しいものに順次に交換していくだけで、排水量をいまよりも大きいものに変えられるわけではない。だいたい、そんなことはできない。
東京都にしてみれば、恵子がいう下水道の再設計を提案されても、そんなムチャな計画は実現不可能だ、とつっぱねるだろう。
耕一の指摘に対して、恵子は感情で応じた。つまりはハラをたてて、ヒステリーを起こして、次のように言い返した。
「それじゃあ、どうしたらいいのよ? まさか、この新しいタイプの都市型水害への対策はない。そんなことを言いだすんじゃないでしょうね?」
意外なことに、怒りにまかせた恵子の訴えに、耕一はうなずいてかえすと、そうだ、と同意する。それから、ようやくここまできたか、という態度で、耕一は恵子に言いきかせる。
「その通りだ。それが正解だ。効果がある水害対策を実行する、なんてのは無理なんだよ。たとえ方法があっても、予算の問題や、かかる手間ヒマや時間の問題で、それは実現できない。都市の排水能力をあげる、そんな都市の再設計プランを提出しても、企画書の段階で担当者にハネられるのがオチだろう。財務省の役人が、カネをだすのを許可する連中が、くびを縦に振るわけがない。
要求をしてきた政府の高官が、というよりも君の上司が求めている、難問を魔法のように解決する方法は、ないんだ。そんなものはない。そんなものはないから、上司は君にこの仕事をやらせたんだよ。いいかげんに恵子ちゃんも、それに気付いているはずだ」
「……じゃあ、つまり、私に失敗させるために、課長はワザとこんなことをやらせた、って言いたいの? まさか、そう言っているんじゃないわよね?」
耕一の説明にハラをたてた恵子は、声を低くして、にらみつけるように耕一を見すえて、そう問いかける。
耕一はひるまなかった。それどころか、口の端をつりあげると、恵子を嘲笑する態度で、彼女に顔を自分の顔を近づけて、こう言いきかせる。
「自分たちの出世と保身だけしか考えていない省庁の連中なんて、みんなそんなものだ。気象庁にいたとき、おれがいくら訴えても、上司はそれに耳を傾けなかった。そのくせに自分の手にあまる、責任問題が生じそうな仕事はこちらにまわして解決するように強制をする。
おれは気象データを分析するうちに、育ての親が暮らしている故郷が水害に見舞われる危険があるとわかった。おれは上司にそれを伝えたが、そんなあいまいなことで気象庁が注意報や警報をだすわけにはいかない、とことわられた。それどころか、自分の許可がないかぎりは、育ての両親にそれを伝えるな、とクギをさされた。
おれはそれでもこっそりと連絡したよ。二人が逃げてくれるのを期待したが、事情を知っても二人はきかなかった。自宅にそのままとどまった。台風がこないように、水害にならないように祈ったが、ダメだった。現場にかけつけて、暮らした家が水没するなかで二人を助けながら、生涯で二度目の水害をおれは体験することになった。
この一件のあとで、おれは気象庁を辞職した。気象庁を信じて働くことができなくなったんだ」
耕一の独白をきいて、恵子はなにか言い返そうとしたが、くちをつぐむと、眉根をひそめた表情で、顔を伏せて黙り込む。
それじゃ。つまりは。まさかとは思うけど。あなたはこの私に、ゲリラ豪雨の水害対策なんかできない。そんなものは実現するはずがない。これは最初から失敗させるために、解決できない無理難題を押し付けられただけだ。それを教えるために、私をここまで連れてきたの? これまでの苦労はすべて、絶望や失意ややりきれなさを味あわせるのが目的だったの? そういいたいの?
恵子は耕一にそうたずねたかったが、そうだ、と同意されるのがおそろしくて言いだせなかった。
耕一は青い顔をしてうつむいてしまった恵子に、さらになにか訴えようとしたが、個人的な問題をうらみつらみにして彼女にきかせるだけだ、と気付いて、こちらもくちをつぐむと恵子に背をむけて、ビルの屋上から移動しようとする。
「用事はすんだ。もうすぐ、夜になる。夜のあいだは、歩きまわらないほうがいい。どこかに雨をしのげるねぐらをみつけよう。懐中電灯と飲料水は手に入れておいたが。そうだな。万一を考えて、食糧と燃料も調達したほうがいいな……」
恵子は耕一のひとりごとに応じずに、落ち込んでいる表情、気落ちした顔で、そのあとに続く。
とはいうものの、その後、二人は水害の被災地で朝まで過ごさずにすんだ。被災地に残っていた二人のもとに、船外機付きのボートで到着した水難救助隊がやってきたからだ。
二人はボートに乗せられて、救助隊の隊員たちに救出された。
夜になる頃には、それまで降り続いた局地的大雨はやんだ。雨がやむと、被災地にあふれていた大水もひきはじめて、朝までには住民が帰還できるようになった。
水がひくのにあわせてマスメディア関連の記者やレポーターたちが被災地になだれこんできたが、彼らは泥だらけの舗装路を埋めつくす大量のゴミを撤去していた消防局の隊員たちの作業のじゃまをして追いだされたり、いろいろと騒ぎになった。
こうして、7月の最終日に起きた集中豪雨がもたらした大規模水害は、一応はおさまった。