表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冠水都市  作者: げのむ
3/5

冠水都市 第三話


 7月××日。7月の最終日となったその日は、やはりとても暑くなった。

 気象庁が発表した全国各地のその日の天気予測は、首都圏については、晴天の一日になるでしょう、日中の平均気温は30度を越えるでしょう、というものだった。ちなみに雨に関しては、都内は雨の心配はない、となっていた。

 その日も暑さは、朝からきびしかった。明け方に28度もあった気温は、予報通りにさらに上昇を続けて、昼には35度になった。

 都内でも特に暑いのは、千代田区、練馬区、八王子になる。そのなかでも練馬区にある多差路となる、××交差点は、ふだんから交通量が多い場所でもあった。

 7月の最終日に、この交差点は、多数の車両の列ができてしまい、車が流れてはいるが混雑状態になっていた。

 この多差路には、広い交差点をまたぐように、横断歩道橋が建設されている。歩行者はここをわたって、むこう側まで移動できるようになっている。

 だがその日は、歩道橋をわたる人は少なかった。なにしろこの暑さだ。階段を上り下りして、長さがある歩道橋を渡るのは大変だ。地元の人たちは少し離れた地下道を利用していた。

 その日、この交差点のそばに停まったタクシーから降りたのは、尾坂恵子だった。外に出たとたん、ムワッと押しよせてきた息詰まるような熱気(と湿気)に恵子はたじろぐ。領収書を受けとってタクシーを帰すと、恵子はふきだしてきた汗をぬぐいつつぬぐいつつ、横断歩道橋の階段をのぼると、指示されたその場所にむかう。

 恵子あてにメールを送ると、この交差点まで、この時間にくるように、と指示した人物は、歩道橋の途中にいた。二方耕一は、下をたくさんの車が走り抜けていく歩道橋の途中で、一人でなにかやっている。

 三脚をセットして、小型のデジタルビデオカメラをその三脚に取り付ける。カメラのむきを調整して、歩道橋の上から見える下の車の流れをカメラで撮影できるようにする。

 ビニールシートの一端を歩道橋の手すりに結び付けると、もう一端は重石がわりの三脚でおさえて、カメラを守るようにビニールシートで屋根をつくる。

 その小型デジタルビデオカメラには、公共の無線通信網を利用して、撮影したデータを無線送信することで、耕一が所持しているスマートフォンでそれを見られる装置が取り付けられていた。

 耕一はさらに、いったいどこから調達してきたのやら、「現在観測中です」「ご迷惑をおかけします」とある立て看板を、そのそばに立てる。

(歩道橋の上から道路上を撮影して、道路の高低差や建物の向きにあわせて、水流がどう流れるのかを知りたかった)

 耕一は必要な準備を終えると、ポケットからスマホをとりだして、中継映像がちゃんと送信されてくることをたしかめる。続いて、無線通信のテストをいったん終えて、スマホを使って調べものを始める。

 どうやら直射日光のせいで、画面がよく見えないらしい。耕一はその場にすわると、スマホの画面上に掌で影をつくってのぞきこんでいる。

 耕一は、前回に気象庁を訪れたときに、そのまま着て帰った気象庁の青い制服を着ていた。そのせいだろう。耕一の行動は、気象庁の職員が歩道橋上で許可されたなにか正式な作業を行っているように見える。

 耕一は、歩道橋の階段を登った恵子が、距離をおいて自分を観察しているのに気付く。耕一は恵子を見て、こちらにくるように、と手まねきをする。

 恵子は迷ったものの、耕一のそばへ近づくと、耕一が見ているスマホの画面を上からのぞき込む。

 耕一が見ていたのは、どこかのサイトが提供している、東京都23区の夏季中の地表の温度がわかる気象情報サービスだった。

 気象庁がやっていそうなサービスだったが、どうやら気象庁が提供している気象データをもとに、民間の業者が自分たちで調べた気象データをそこにくわえて、行っているものらしい。

 東京都23区の地図上に、現在の判明している最新の気温がそれぞれ色で示されている。気温が低いところは緑色に、気温が高温になるにつれて黄色から赤色にと、気温の高い場所が、23区の地図上で一目でわかるようになっている。

 利用者へのアドバイスも表示されている。いまいちばん暑いのは××区です。ここにいる方は、熱中症や熱射病に注意をしましょう。外出する際は、かならず帽子をかぶり、ペットボトルの飲み物を忘れずに持ち歩きましょう。そうある。

 GPSと連動しているのだろう。登録した利用者の現在位置を中心に、その周囲の地図と、地図上の現在の地表の温度の分布がわかる仕組みにもなっている。

 恵子や耕一がいるこのあたりは、地図の上ではすべて真っ赤だった。そのなかでも二人がいるこの場所は、もっとも濃い赤色になっている。恵子はそれを見て、どうりで息をするのも苦しくなる熱気のはずだ、とほかにだれもいない歩道橋や、自分の眼下を流れる車の列を見やる。

 ここでこんなに暑いのだから、朝から夏の直射日光をうけて高温状態になっている下の歩道や車道は、もっと物凄いことになっているはずだ。

 歩道橋の上から歩道を見下ろせば、歩行者たちの顔は、皆一様に苦しそうだった。きっとみんな、熱された鉄板の上を歩いているか、服を着てサウナの中にいる気分でいるだろう。

 こんなにひどい熱気なのに、耕一は元気そうだった。それどころか、嬉しそうな笑顔とはずんだ口調で、耕一は恵子に呼びかけてくる。

「意外だったな。呼びだした日にちと、指定した時間にあわせてあらわれるなんて。君がこちらの指示に従うなんてね。これは異常気象の前ぶれかな?」

 べつに皮肉でもなんでもなく、耕一は本心からそう思って発言する。

 恵子のほうも、悪びれもせずに、それが当然だ、といった態度で、耕一にかえす。

「私にとって重要な相手なら、ふだんから私はそうしているわよ? あなたが別に重要な相手じゃないから、そうしなかっただけよ?」

 恵子の説明をきいて、耕一は、なるほど、とうなづいて納得をする。

 恵子は、いまもまさにギラギラと照りつけている頭上の夏の太陽をあおいでから、額に浮かぶ汗をぬぐい、耕一に次のようにうながす。

「それで、私が担当している水害対策に役立つ、なにかすごい発見があったんでしょ? その発見とやらを早く教えてもらえない? いつまでもこんなところにいたら、熱射病と熱中症で倒れかねないわ」

「せかすなよ。でもまあ、そろそろいい頃合かな? それじゃ始めよう。

 問題になっている今回の水害が、ゲリラ豪雨という突発的に降ってくる大雨が原因であることは、君にもわかったはずだ。そしてこの大雨が、六月、七月、八月の夏の高温多湿な大気をつくりだすもので、温暖化による気温上昇が後押ししているのも、理解できた、と思う」

「それは私も知っている。いろいろと勉強したもの。でもまさかそれを私に教えるために、こんな暑いところに呼びだしたわけじゃないわよね?」

「話は最後まできいてくれ。温暖化はたしかに大雨の原因だが、あくまでも原因のひとつでしかない。たとえばヒートアイランド現象もまた、気温上昇の後押しをしている。

 ヒートアイランド現象だが、なにかあるとマスメディアが好んでとりあげるから、この名称を一度くらい、君もきいたことがあるはずだ」

 ここでヒートアイランド現象について説明をする。

 都市が、それ以外の場所よりも、気温が高温になってしまう現象を、ヒートアイランド現象という。

 この現象が進行すると、都市は昼間に暑いだけではなく、夜になっても暑いままになる。特に夏季は高温状態が続くために、生活するうえでの不快さや熱中症などによって、都市の住民の健康がそこなわれるようになる。また光化学スモッグなどの公害を発生させたり、都市周辺の環境にも同様の悪影響をもたらすようになる。

 なんとなくこれは、ごく最近に注目されるようになった問題と考えがちだが、じつは最初の発見は1850年代の産業革命後のイギリスのロンドンだったりする。つまりこれは、だいぶ昔からある、古くからの問題でもあるのだ。

 ヒートアイランド現象は、世界の主要都市で起きていることだ。都市では、大なり小なり気温の上昇が生じてしまい、それを避けることができない。

 なかでも東京は、特にこの現象の進行が著しい。たとえば東京では、過去100年間で3、3度の平均気温の上昇が起きている。たったの3、3度と思うかもしれないが、ほかの主要都市の気温上昇にくらべると、はるかに急激な気温上昇になる。

 ヒートアイランド現象は、都市に人口が集中してしまい、活動が活発化して、都市化がすすむほどに進行する現象だ。そのために日本では、人口が集中が大きい首都圏でのヒートアイランド現象が、なにかにつけてとりあげられることが多い。

 恵子は耕一の指摘をきくと、それくらい知っている、という態度で、逆にききかえす。

「ヒートアイランド現象が、ゲリラ豪雨が起きる原因になっている、といいたいの? それじゃ、地球温暖化は、本当は原因じゃなかったってこと? この前の番組でいってたことをまにうけたわけじゃないけど、てっきり地球温暖化が、ゲリラ豪雨の原因なんだと思っていたわ」

「いや、そういうことが言いたいんじゃないんだ。気象庁はね。大雨の発生の原因として、温暖化による気温上昇を認めている。またヒートアイランド現象も認めている。なにしろ気象庁には、アメダスで得た、全国各地の40年間にわたる気象データの蓄積があるんだからね。それをもとにして、全国各地の気温の変化、それに全国各都市の気温の変化、それがわかっている。しっかりとした証拠に基づいて、公式にそう認めているわけだ。

 整理して考えなくちゃならないのは、温暖化も、ヒートアイランド現象も、どちらも気温の上昇をもたらす、ということだ。温暖化は、二酸化炭素などの温室効果ガスが大気中に増えることにより、地球全体の気温を上昇させる。ヒートアイランド現象は、人間の活動が原因で、都市部だけの気温が上昇をする。

 両方の効果が同時に作用すれば、都市の気温の上昇が早まるのはわかるはずだ。最後のはあくまでも、おれの考えだがね。(温暖化の影響は均一に生じるわけでもないし、ヒートアイランド現象もどの都市も同じだけ上昇するわけではない。都市部に集中して大雨が降るわけじゃない。そうじゃなくて、特に暑いところ、熱いところに降るわけだ)

 ヒートアイランド現象は、都市を中心に起きる現象だ。人工的な構造物からの熱や、人間の活動で生じる熱のせいで、それは起きる。

 人間の活動ってのは、具体的にいえば、エアコンを動かしてでる熱、工場を稼動させて煙突からでる煙や熱、車を走らせて生じる排気ガスと熱、そういうものすべてだ。

 人工的な構造物ってのは、地面をアスファルトで覆い、コンクリート製の建物をたくさんつくって密集させると、熱が逃げなくなる、って理屈だ。ただこれについては、それがヒートアイランド現象の原因かもしれない、と言われているだけで本当かどうかはわからない。

 森林や地面は、太陽からの放射を受けても、気温はそれほど上昇しない。森林は生命活動のために蒸発させたり放熱することで、熱を逃がして気温の上昇をふせいでいる。だから気温の上昇はおさえられる(らしい)。

(太陽からの放射エネルギーの半分は可視光線で、残り半分は赤外線や紫外線になる。光と呼ばれるこの三種類の電磁波が、太陽からくるエネルギーの大部分を占めている。(放射とは、熱が電磁波として伝わる現象をいう))

 でも地面をアスファルトで覆ってしまい、コンクリ製の入れものをところせましとならべると、太陽放射を受け続けているうちにそれらの表面温度が上昇を始める。そして高温の輻射熱を発するようになる。このせいで都市全体の温度がさらに上昇してしまう。しかもこの熱は、アスファルトやコンクリートにたくわえられて逃げにくい。

 都市では、昼間のあいだにアスファルトやコンクリートにたくわえられた熱が逃げきらずに、夜になると夏は熱帯夜をもたらす。つらい熱帯夜をなんとやりすごしても、地球の自転とともに、翌日にまた太陽からの放射を受けるのが始まるから、都市の温度は上昇したままになる。

 フライパンに火を入れ続けているのと同じだ。夏のあいだ、都市は熱を加え続けられて熱くなり続ける。この熱が、都市の地表のあたりに高温の空気を生じさせる。この高温の空気は、夏のあいだずっと生みだされている。

 それがいったいなにを生み出すのか、勉強をしてきた恵子ちゃんになら、わざわざ教えなくてもわかるだろう?」

 恵子は耕一のワザとらしい挑発にのるかわりに、耕一の嬉しそうな顔にむかって、次のような質問をする。

「その前にきいておきたいことがあるの。対策案を作成しているときに気付いたのだけれども、なぜあなたは前回に、私を呼びだしたあの場所でゲリラ豪雨が発生する、とわかったの? どうやってそれを知ったの?」

 恵子からそう質問されて、耕一は困った様子で後頭部をかいて考え込んでいたが、ややあってこう返す。

「さっき、みせたろ? あれで気付かなかったのか?」

「なにをよ? 都内の気温がわかったからって、それがどうだってのよ?」

「ゲリラ豪雨は、地表近くにある高温多湿な空気が、つまりは熱せられた空気が、上昇して積乱雲をつくることによって発生する。それなら23区のなかで、気温が最も高く上昇している場所や、一日のうちでもっとも気温が上昇している時間帯に、この現象は生じやすくなるはずだ。

 そういう場所をみつけて、暑くなる時間帯に、上空の大気の状態の観測ができれば、ゲリラ豪雨が発生するところとらえられるんじゃないか。そう思ってね。(そうだとすれば、発生する場所が限定されるはずだが、実際はそうなっていない)

 とはいえ、おれみたいのが毎日あらわれて、なにか得体が知れないことをやっていたら、住民から不審者がいると通報されかねない。というか、間違いなく、される。でもまあ、気象庁のこの制服があったからね。この格好で、毎日ここで気象観測をしても、通りかかる地域の住民からは、笑顔で挨拶をされたよ」

「それじゃあ、前回の騒動のあと、あれから毎日、日中はここにいたの? こんなに暑いところに?」

 気象庁の職員ではない一般人が、気象庁の制服姿でそんな行為をすれば、それは違反行為になる。それについてつっこむべきだが、恵子は驚いてしまい、思わずそうききかえしていた。

 悪びれた様子もなく、耕一はうなづいてかえす。

「ああ、そうだよ。でもまあ、その苦労のおかげで、こいつを君にみせることができる」

 耕一は解説を続けながら、空を見上げる。

 恵子もつられて空を見る。そしてそこで、大気の気象変化が生じているのを、その目で確認する。


 全国に1300か所からあるアメダスの観測地点だが、それは都内にもあって、場所は、千代田区大手町、大田区羽田空港、江戸川区臨海部、そして練馬の4か所になる。

 このなかで夏季に、最も高い気温を観測する地点は、練馬になる。でも考えかたによっては、観測地点があるから練馬は暑いとわかるわけで、練馬だけでなく周辺の中野区や杉並区も暑い、という意見もある。(本当にそうなるかはともかく、新たに観測地点を増やすと、練馬に匹敵する暑い場所が見付かるかもしれない。そういう考えだ)

 練馬の夏は暑い。それは間違いない。2013年の夏にはなんと、39、2度の猛暑の記録をだしているくらいだ。

 でも練馬って、23区のなかでは、海沿いではなく内陸にある区だけれど、盆地のように地形の問題から夏に暑くなる土地ではない。練馬は、ほとんど高低差がない、なだらかな地形をしていて、畑も多いし緑も多い、そんな場所だったはずだ。

 となると、ヒートアイランド現象が起きやすいアスファルトとコンクリートで覆ってかためた環境ではないわけで、さっきの耕一の説明とは矛盾してしまう。

 それなのになぜ、ほかの地区よりも暑くなってしまうのか、理由がわからなくなる。このあたりについては、あとで語ることにする。

 もう一点。ヒートアイランド現象について調べていくと、暑熱環境や、暑熱ストレスという文句がでてくる。

 これは夏季に、都市で生活している人間が、頭上からくる太陽の熱と光と、舗装された道路や、建築物の壁面からくる熱をうける環境と、またそれにより生じるストレスをいう。

 アスファルトやコンクリートに覆われている環境で、夏の太陽光を長時間受け続けると、路面や壁面は高温化して放射熱を発するようになる。こうなると人は、そのときの気温だけでなく、街なかで感じる放射熱を暑さとして感じるようになる。

 もちろん、受ける太陽側からのエネルギーの量によって、都市内の放射熱の熱量も変わる。太陽高度が高い夏に、さらに暑さがいちばん高まる時間帯に、気温が30度なら、地上の舗装路は50度にも達してしまう。(ほかに、当然だが壁面からの熱もある)

 これは誇張でもなんでもない。都市の舗装された場所は夏になると、気温にプラス20度からの高温になるのだ。

 今回も、耕一と恵子がいる歩道橋上で最高気温が35度になっていたとき、地上の舗装路はもっと高い温度に、55度という高温になっていた。そしてその強烈な輻射熱、放射熱が、耕一が発生を予測して、恵子を呼びよせてみせようとした気象現象を生じさせることになった。


 大気の状態の変化は、それがよほど視認しやすいかたちでないかぎり、人間の目で観察しても、なにがどうなっているのかを判別できるものではない。

 たとえば、気流の動きやその状態、または、大気中で生じている現象は、気象庁が観測に使う、ラジオゾンデのような気球や、ウインドプロファイラのような上空にむけたドップラーレーダーを使わなければ、正確なところはわからない。

 なので、このときに二人の前で起きていたことを、ここでわかりやすく描写するべきだろう。

 熱せられたことで、50度以上という高温状態になった地上の空気が、上空にむかって上昇を始める。するとまわりから、別の熱せられた空気がそこに入ってきて、それがまた上昇する。

 上昇気流が生じたわけは、上空に冷たい空気が入り込んだせい、と思われる。(とはいえ、冷気がなくても、地上に高温な空気が生じれば、このようになる場合がある)

(上昇する空気の流れが生じる様子は、地上にいる恵子の目では見てもわからなかった)

 こうした現象が起きたことにより、耕一と恵子の二人がいる上空には、高温の空気が上空にむかって上昇をくりかえす、垂直方向の空気の流れができていた。 

 これと同時に、上昇する空気の流れにふくまれる水蒸気が、地上から2キロメートルを越えたあたりの高度で、凝結を始めて小さな無数の水になる。つまりは、雲が生じる。

 雲はひとつだけではなかった。いくつも生まれた雲が、それぞれ成長して結びついていき、大きな雲になっていく。雲は上昇気流の方向にあわせて、上にむかって大きく成長していく。(こちらは恵子の目で見てもわかった)

 なにもない空気中から綿菓子のような質感をそなえた白いふわふわしたものがいくつもあらわれる。それがみるみると大きくなって、厚みを増していく。その様子は、圧巻だった。

 私たちは晴れた空を見て、そこになにもないと思う。でも見えていないだけで、じつはそこには大気という空気があって、さらには気体になった大量の水があるのだ。温度や気圧の変化、気流の働きで、それが変化して見えるようになったり、見えなくなったりしているだけなのだ。

 成長した雲は、雲が積み重なったようなかたちの積乱雲になると、より大きな積乱雲に、より巨大な積乱雲に、その姿を変化させていく。

 誕生からわずか10分間たらずの短時間で、夏の空には、天にむかってそびえるシェイビングクリームの山ような、中身のつまっている質感をそなえた、巨大な積乱雲ができあがっていた。

 下から見ているので上がどうなっているのかはわからなかったが、それでも恵子は、空にあるその巨大な積乱雲の特徴を踏まえて、彼女なりの感想を述べる。

「すごい。なんて大きな、かなとこ雲なの。いったい全長はどれくらいあるんだろうか? こんなに巨大サイズの積乱雲の誕生から組織化までを、リアルで見れるなんて。これって雲のトップの部分は、成層圏にまで達しているんじゃないの?」

「下から見上げるこの位置からじゃ、正確な雲の高さはわからないが、圏界面まで届いているのは間違いないな」

 かなとこ雲は積雲の一種だが、垂直方向にドーム状に発達した積雲が、雲ができる限界である圏界面まで大きくなってから、強い風に流されることで上部が広がったかなとこ状になることから、そう呼ばれている。

 耕一は、ぽかんと驚いた表情で、空にある雲を見上げている恵子に、次のように言いきかせる。

「いま空にある、あの巨大サイズのものが、この都市からでている熱と水蒸気をあわせたものなんだよな。いったいどれだけの、とてつもない量の熱と、とてつもない量の水蒸気が、街から放出されているのか。それがよくわかるよな。うん」

「まさか、本当に、水害の原因である積乱雲の発生地点を予測するなんてね。気象庁の予測計算モデルにも、まだそんなことはできないのに」

 積乱雲にさえぎられたからだろう。一転して薄暗くなってしまった地上で、低くたれこめた雨雲がひろがる空を見上げていた恵子は、腕をつかまれてひっぱられてハッとなる。

 耕一だった。手早く荷物をまとめて大きなボストンバッグにつめると、それを肩にかついだ格好で、耕一は恵子に呼びかける。

「ここから移動するぞ。ぼやぼやしていると、滝みたいなドシャ降りがくる。そうなると、前のときみたいに、服を着たままでプールにとびこんだみたいなズブ濡れ状態で、雨をしのげる場所をさがすことになる。

 恵子ちゃんが知るべきことは、このあとのことだ。そいつは実地で体験しなくちゃわからない。さあ早く。こっちだ」

 まだ半信半疑でいる恵子だったが、耕一にひっぱられる格好で、歩道橋から下りると、先ほどからあきらかに気温が下がっている歩道をどこかにむかう。

 そうこうするうちに、二人の頭上に、雨が降ってくる。


 雨が降りだした。二人が歩道橋から降りて、急ぎ足で歩道を移動するうちに、晴天から一変して暗くなった空から、大粒の雨が降ってくる。

 降りだした雨は、耕一が言ったように、すぐに叩きつけるようなドシャ降りに変わる。

 天候の急変に、通りをいく大勢の人たちの列が右へ左へとわかれる。皆がばらばらに、手近にある雨をしのげる遮蔽物の下へとのがれていく。

 雨を避けるために、建物の屋根の下や、目についた店舗にむかう人々にまじって、耕一と恵子も、地下鉄に通じる、地上にある連絡用の出入口のひとつからなかに入る。

 階段を途中までおりたところで一息ついて、とりだしたハンカチで濡れた髪の毛や、ブレザーの上着をふいている恵子に、耕一はボストンバッグからとりだした運動靴をわたす。

「それにはきかえてくれ。必要になるから」

「?」

 意味がわからなかったが、それでも恵子は耕一の指示に従い、ヒールを脱いで運動靴をはく。

 恵子がそうするあいだに、耕一の方は、先ほどに歩道橋上に設置してきたビデオカメラからの中継映像をスマホの画面上に表示させて、どうなっているのか、現状をたしかめる。それを見ようと、恵子も横からのぞく。

 雨が降りだしてから、まだ10分間程度しか経過していない。なのにさっきまで二人がいた交差点は、前回に恵子がまきこまれた都市型水害のときと、まったく同じ展開になっていた。

 多差路の道路は、降ってきた大雨が水流になって流れる河と化している。危険を感じてすみやかに移動した自動車は脱出できたが、残った自動車は突然に出現した大水の水流のなかで身動きがとれない状態におちいっている。

 消防署か警察に連絡して救助を呼ぶべきじゃないか、と提案する恵子に耕一は、問題はそこじゃない、と指摘してから、今回の水害で自分が教えるべき要点について解説を始める。

「ゲリラ豪雨は、かぎられた地域内に、短時間で水害を生じさせるほどの大雨を降らせる。都市の排水処理能力を越えた大雨が降ると、処理できずに地上にあふれだした大量の水は、いまのように舗装路の上を流れて、都市の地形上で水がたまりやすい場所にむかって移動する。水が移動する先は、高低差で考えるなら、都市の低い場所になる。

 おれがこの前に、暑いなかをあちこち歩きまわったのは、大量の水が移動する際に、それがどちらにむかって流れていくのか、どこにたまるのかを調べるためだ。

 地図をひろげて調べれば、23区の地形や土地の高低差はわかる。でも実際には、途中にさまざまな形状をした大小の建築物が障害物として存在する。流れる河の途中に、流れの方向を変えてしまうデカイ障害物があれば、それだけで水の流れは千変万化する。地形や高低差だけでは、単純に水の流れは判断できないんだ。このネタは最後に持ってきて、脱出に使う方がよくないか?

 さらに降った雨は、地形の低いところに池みたいにたまると思いがちだが、実際はそうならない。なぜなら都市には、地下空間があるからだ。

 地下道、地下街、地下鉄といった、地下空間に、ゲリラ豪雨の雨水は流れ込んでいく。雨水は舗装路を流れて集まり、大きな水流になると、このあたりの地上にあいている穴から、地下空間に流れ込む。このあたりだと、その入り口になるのは」

 そこまで解説してから耕一は、ふりかえって自分たちが入ってきた、地上から地下鉄へと通じる地上側の出入口を見やる。

 恵子は耕一と話をしながら、先ほどから足もとの階段を水が上からチョロチョロと流れ落ちていくのに気付いていた。流れ落ちる水の量が、さっきからだんだんと増えている。

 恵子は知らなかったが、地上の地下街への連絡用の出入口は、まわりと少し高くして段差をつけてつくられていて、舗装路上に水の流れが生じても、連絡用の出入口からなかに入らない工夫がされていた。ところが短時間に大量に降ってきたゲリラ豪雨により生じた水量が、あっというまに段差を越えるくらいにかさを増すと、ドッとそちらに流れ込んできた。

 耕一に指摘されて、恵子は自分が降りてきた階段の上を、地上側の連絡路の出入口を見上げる。

 恵子は自分が見ているものが信じられなかった。これまでとは比較にならない大量の水が。勢いがついた濁流が、こちらにむかってくる。

 恵子は大きく目を見張ると、息を肺いっぱいに吸い込んでから、悲鳴じみた金切り声をあげる。

「なんで、こんなに大量の水が? どこから? どうして? どういうわけで? うぎゃぁぁああっ!」

 恵子は階段の途中で、手すりをしっかりとつかむと、運動靴をはいた足を踏んばり、とっさに自分の身体を固定しようとする。だが勢いがついた大量の水は、人の身体など簡単に押し流す力があった。

 こうなると事態を予想していたのだろう。勢いよく流れ落ちてきた水流に足もとをさらわれて、恵子が階段を転げ落ちないように、そのうしろにいた耕一がバランスを崩した恵子の身体を、ラグビーのスクラムの要領で、腰のあたりを押してささえる。

 取り乱してしまい、手足をバタつかせてもがいている恵子に、耕一はうしろから次のように言いきかせる。

「地下とつながっている地上の出入口は、地下空間に流れ込んでくる大水が入ってくるポイントになる。

 流れ込んできた水に驚いて、あせって水が入ってくる連絡路から脱出しようとすると、場合によってはこういう目にあうわけだ。コワいのは水の流れが弱くても、足もとをさらわれてしまうことだ。

 だからこういうときは、地下道や地下街や地下鉄にもどって、周辺の駅ビルにつながっているべつの通路路から脱出した方がいい。あせって水が入ってくる連絡口から脱出しようとするより、そちらのがよほど安全だ。

 それならいっそ、地下空間にとどまればいいんじゃないか、と考えるかもしれない。だがそちらも、得策とはいえない。なぜなら……」

 パニックを起こしてジタバタしている恵子を、背後から両腕で腰のところをつかんで持ちあげると、そのまま階段をおりて地下街まで行った耕一は、そこで恵子の身体を下におろす。

 恵子は自分が醜態をさらしているのに気付いてハッとなると、自分の身体を持ちあげている耕一に、あわてて訴える。

「冷静になったら! もう大丈夫だから! 下におろして!」

 耕一が両手を離して、恵子は解放されるが、よろめいた拍子にうしろむきに倒れて、水のなかにバシャッと両手をつく。驚いて、あわてて立ちあがり、地下街を見回して、恵子はギョッとなる。

 地下街の左右には、いろいろな店がならんでいる。食事もできる喫茶店。和食や洋食のレストラン。飲み屋もかねている飲食店。女性ものの装飾品をあつかう店舗。男性ものの装飾品をあつかう店舗。衣類や化粧品をあつかう店舗。パンを売っている店舗。お菓子を売っている店舗。旅行会社の窓口となる店舗。ほかにもたくさんある。

 ついさっきまで地下街は、ここを通る大勢の利用客や、接客する従業員たちでにぎわっていたはずだ。ところがいまは、人っ子一人いない。無人になっている。

 皆が大急ぎで逃げだした理由は、ここに水が入ってきたからだ。立ちあがると、入り込んだ水の量は、恵子の足首のあたりまで達している。

 いまも地下街には、バシャバシャと水しぶきをたてて、少し先の地上との連絡路から、水が流れこんできている。きっとほかの連絡路からも入ってきているのだろう。いまはまだ足首に達する程度の水量だが、このままだとそれはさらに増えるに違いない。

 再び自制心を失いそうになり、青ざめた表情で浸水した地下街を見回している恵子に、耕一は次のように言いきかせる。

「と、このように、地下街や地下道や地下鉄には、行き場を失った大量の水が流れ込んでくる。映画みたいに、溺死しそうになるまで大量の水がたまるには時間がかかるから、ここじゃそうはならないだろう。でも油断はできない。足場は悪くなるし、電源がやられて照明が消える。漏電の危険だってある。個人的な意見をいわせてもらえば、窃盗犯にはちあわせする危険だってあるだろうしね」

 説明をきいていた恵子は、そこでこの地下街がどこにつながっているのかを思い出す。恵子はふりかえって、耕一に訴える。

「私たちが入ってきたのって、地下鉄に通じている連絡路だったわよね? それじゃこの先には、地下鉄の駅があるわけよね? 入ってきた水はさらに低い方に、地下街から地下鉄のプラットホームに行く。そこからさらに、線路に行く。地下鉄はトンネルばっかりだから、水はトンネルの内部にたまる。

 トンネルに入ってきた大水で地下鉄の電車がとまれば、電車に乗っていた乗客もトンネルのなかで立ち往生する。水かさはどんどん増すんだから、危険性もそれだけ高まっていく。ねえまさか、そんなことにはなっていないわよね? もしそうなら、早く救出しないと大惨事になる!」

「いい指摘だ。都市型水害の場合には、地表から地下空間に入り込んだ水は、さらに低いところへとむかう。地下空間が地下鉄につながっていれば、地下鉄の駅内へと入り込む。そして地下鉄の駅から、地下鉄のトンネル内に行く。

 ゲリラ豪雨の被害が生じている圏内に地下鉄の駅があれば、地下鉄のトンネルに入り込んだ大水によって、電車の乗客が地下に閉じ込められることも起きる。過去には、大水で地下鉄の電車が動かなくなる事故が発生している。だから地下鉄会社は、都市型水害への効果的な対策をするようになった。いまからそれを見に行こう」

 二人は水がたまっている歩きにくい地下街をザブザブと歩いて先へと進むと、地下鉄のプラットホームにつながる駅の発券所にまでやってくる。

 本来なら、地下街に入り込んだ水は、そこから地下鉄のプラットホームに行くはずだが、そうはなっていなかった。

 恵子は地下鉄の改札口が、駅員が運んできて取り付けたのだろう、横に長い長方形の止水板でふさがれていて、入り込んだ水がプラットホームまで行かないようになっているのを知る。

 ふりかえって、自分たちが入ってきたのとは別になる、駅名をかかげた本来の地下鉄の出入口になる、地上に通じる広い階段を見やる。こちらの出入口にも同様に止水板がとりつけられていて、外からの水の侵入をふせいでいる。

 耕一は、近づいて止水板を調べている恵子に、次のように解説の続きを語ってきかせる。

「地下鉄は水に弱い、と思われがちだが、そのための対策も行われている。こういうときに地下鉄に水が入る経路は、駅の出入口、換気口、地下鉄の列車が地上に出るときのトンネルの出入口、この三つになる。ほかにもあるだろうが、とりあえずこの三つが、水害対策の対象になっている。

 まず換気口だが、歩道にある換気口のうちのおよそ900か所には、浸水防止機が取り付けられている。この浸水防止機によって、2メートルまでは浸水に耐えられる。それを越えるところには、水深6メートルまで対応できる新型を用意している。(つまりまだ取り付けている途中)

 駅じゃなくて、それ以外の場所から水が入ってくる場合もある。だから地下鉄のトンネルの出入口にあたる抗口には、出入口の部分に防水壁をもうけてあるし、トンネル内には防水ゲートを設置して、浸水に対応できるようにしてある。

 そして最後に、駅の出入口だが、いまのように高さが35センチの止水板を取り付けられるようにして、水が入ってこないようにしている。この止水板だが、上にもう一枚を追加ができる。これで最大で70センチの高さまでの浸水に耐えられる。

 このあたりは大雨が降ったときは、こうして止水板で地下鉄への浸水をふせいでいる。でも江戸川区などのゼロメートル地帯になると、地下鉄駅に通じる階段の位置を高くしたり、駅の出入口を完全に封鎖できるしっかりとした防水扉を設置して対応している。大雨のときにはその扉を閉めて、水も人も入ってこれないようにしているわけだ」

 恵子は、改札口の止水板を調べて、駅に残された乗客がいても、それをまたいで乗り越えられるようにしてあるのを知る。話にでてきたその防水扉のほうは、閉めたら内側からあけられるのだろうか、と考える。

 東京地下鉄株式会社、つまりは東京メトロだが、その路線は全線をあわせると195、1キロメートルにも達する。

 駅数は179駅もあって、一日の利用者数は673万人にものぼる。

 東京メトロは、過去の水害事故を教訓にして、耕一が説明したように、都市型水害への対策をとっている。

 都内で起きた、地下鉄の水害事故といえば、1993年8月の台風11号の被害が有名だ。銀座線溜池山王駅を新設するための工事で、工事区間から雨水が流入してしまい、東京都港区の赤坂見附駅が冠水すると、銀座線と丸ノ内線が運休する事態となった。

 また2004年10月の事故では、台風22号がもたらした大雨で、都内各地で冠水事故が起きた。麻布十番駅では、あふれだした河川の水が駅に流れ込んで、構内地下3階ホームまで水が押しよせた。これにより地下鉄は2時間弱ストップする。横浜駅でも、近くの新田問川、幸川が氾濫して、歓楽街や地下街が浸水している。ほかにも事故の例は多数ある。

 地下鉄の駅の浸水事故なんて、水が入ってくるだけなんだから、人身事故や脱線事故みたいに大ごとにはならないんじゃないか。ついそう考えてしまう。

 でも事故の様子を写真でみると、地下にある赤坂見附駅のプラットホームの高さまで水が入ってしまっている。地下鉄のトンネルいっぱいになった水のなかに、地下鉄の車両が完全につかっている。

 地下空間のいきどまりである、地下鉄のトンネルにまで水が入ってくると、もうどうにもならないのがよくわかる。このあとどれくらいかかって、トンネルに入った大量の水を外にだして、電車や線路を点検して、運転を再開させたのか、それを考えると、鉄道関係者たちの苦労がしのばれる。ゆっくりやってられないはずだ。運休からできるだけ短時間で復旧させなきゃならないだろうし。

 こうした都市水害が発生する事態を想定して、地下鉄の駅やトンネル内に排水路と排水ポンプを設置して、入ってくる水を下水道に捨てる方法もとられている。

 それでも2013年11月の小田急線、下北沢駅の事故では、乗客が捨てた空き缶や週刊誌などのゴミが排水溝につまってしまい、排水ポンプに雨水が送れなくなったせいで線路が冠水する事故が起きている。充分な対策手段を前もって準備しても、容易にこういう事故が起きてしまう。

 不思議なのは、駅が浸水して池や河になっている写真を見ていくと、それでも施設の天井の証明はどの写真でも消えずについていることだ。そうでない写真を使えないだけかもしれないが。なにか、このための対策を講じてあるのかもしれない。

 地下鉄だけではない。突然の大雨で地下空間に大量の水が入ってくると、一般的なビルの地下などでは、水没して脱出できなくなる危険が生じる。

 1999年7月の新宿区の事故では、集中豪雨によりビルの地下室が水没してしまい、扉にかかった水圧で男性が外部に逃げられなくなって死亡している。

 首都圏では、地下にも交通網や地下街といった地下施設が発達しているし、それが縦横に展開している。地下空間は、不規則で変則的だ。そこに局所的大雨や集中豪雨により生じた大雨が入り込めば、私たちの想像を上回る水害事故が街中で生じる可能性もある。

 耕一は説明を一通り終えても、恵子相手にまだ講釈を続けていた。

「雨が降れば、地面にしみこまない水は低地に流れていって、下水溝や河川に入って消える。だが下水や河川が排水処理しきれないほどの雨量の雨が降ると、その水はあふれだしてしまい、都市は浸水状態になる。ゲリラ豪雨や集中豪雨、台風がもたらすこうした水害を、内水氾濫という。そして河川からあふれだして生じる水害を、外水氾濫という。どうだね? その違いが実地でわかったろう?」

 耕一の解説はまだ続いていたが、恵子はそれ以上はきいていられなかった。水のなかに立っていたせいで、青ざめた表情でふるえている恵子は、耕一に訴える。

「わかったから。もう充分だから。ねぇそろそろ、私たちもここから外にでない? もう水につかっているのはたくさんだわ。なによりも、これ以上、水かさが増したら、ここから脱出できなくなるんじゃないの?」

 恵子の訴えをきいて、だが耕一は落ち着いた態度と口調で、彼女の考え違いを指摘する。

「いいや、大丈夫だ。前回はどうだったのか、それを思い出してみろよ。ゲリラ豪雨は1時間たらずで終わる。積乱雲が抱えている水蒸気が雨になって降ってしまえば、それでおしまいだ。そのあとは数時間で、この大水も河川に排水されて、うそのように消えてしまう。そろそろ、雨もあがっている頃合いだ」

 耕一の自信たっぷりのアドバイスをきいて、恵子は地下街のなかを見渡す。

 そんなこというけど、地上の連絡路から入ってくる水の量は減っていない。耕一がアドバイスが正しければ、どうして地下街に入ってくる水量がさっきと変わらないのだろうか?

 その理由を考えながら、恵子は耕一のあとについて、階段をあがると、止水板を乗り越えて、駅の外にでる。

 地下鉄の駅の外は、駅と連絡している駅前のロータリーになっていた。

 外にでた二人はそこで、予想外の光景に出くわして、驚くことになった。

 駅前のロータリーは、大量の雨水がたまってしまい、まるで広い池のようになってしまっている。

 空は、ゲリラ豪雨が降りだして、もう一時間が経過しているのに、先ほどと変わらない、荒れ狂う豪雨の状態のままだ。

 地下鉄の駅の出入口にあたる、雨風をしのげる建物の屋根の下で、目の前にひろがる浸水した光景を前に、恵子と耕一は、どうしていいのかわからず、絶句する。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ