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【後編】


 ロシェルダがハウロ医師に師事してから二週間が経った。

 それは城に来てからも、大体同じ程の時間が経っているという事だけれども。

 そっとため息を吐く。

 何故なら自分の患者である、ソアルジュの不調の原因が未だ究明できていないからだ。


 以前自分に指導してくれた治癒士の師にも、貴族が背負う業という病を詳しく知りたいと連絡を取った。

 だが、この病は未だ「未知のものである」という返事しか貰えなかった。


 そもそも城には自分よりも優秀な────貴族の治癒士や医師がいるのだ。拘る事など無いのに。

 そう思ってふと恥ずかしくなり、周りを見回してみたが、城に居座る自分への嫌悪感のようなものは、あまり感じられなかった。


「ここにいるのは、医師が多いし……医師っていうのは、大体誰かの為になりたいって奴だからなあ。ロシェルダを邪魔だなんて思わないよ」


 この城に住むハウロ医師はそう言って、のんびりと笑ってくれる。……自分なんて「給金の高い職業だから」、という理由で入った世界なので、この言葉には恥ずかしく思う限りだ。勿論入ってからは、きちんと仕事を全うしてきたが。


「先生はソアルジュ殿下の不調の原因に、心当たりはありますか?」


 そう言うとハウロ医師は困った顔で、「それは医者でも草津の湯でも治らないものだ」と目を逸らした。

 クサツノユとは何なのか。調べようかと思ったが、医療書には載って無いそうで止められた。

 同じく解明されていない医療用語なのかもしれないと、身を乗り出した所でハウロ医師の奥さん────フィーラ医師にお茶を勧められた。

 フィーラ医師もまた医師として多くを教えてくれる師であり、ロシェルダは優しくも厳しいこの二人が大好きだった。


「まあ、とりあえずその殿下からの差入れでも頂きましょうか」


 和やかな時間についつい甘えつつも、ロシェルダはここで過ごす残りの時間を考えて悩み始めていた。

 帰るべきか、否か────


 ◇


 それとは別に朝の診療の時間で、最近気恥ずかしく思う自分がいた。殿下が悪いのだ。……触れようとすると、恥ずかしがるから……


「な! 何でそんな事をするんだ!」


「へ? いえ……診察……ですが……」


「でもだな、くすぐったいというか……く、くすぐったいんだ!」


 衣服の前を掻き合わせ、顔を赤くされてそんな事を言われれば、なんだか痴女にでもなったようで、こっちも赤くなってきてしまう。どうしたらいいのか……

 仕方がないのであまり触れないようにと、こっちも変に意識してしまうので、何だか集中出来ない。

 やっぱり医師を変えた方がいいんじゃないかと、ぽつりと呟いたものはキッパリと否定されたけれど。


「うるさいな! いいからお前が診ろ!」


 その言葉に少しだけ安堵するものの、ソアルジュの態度に首を捻るようになった。

 以前はもっと紳士的な態度で接してくれていたのに。


「殿下は人見知りですからね。初見の人間には猫を被ってしまうんですよ」


 そう答えてくれたのはリサさん。ソアルジュ殿下の乳母だった人で、今は私に付き添い、あれこれ世話を焼いてくれている。


「……そんな事よりお前、今日はちゃんと予定を空けてあるんだろうな」


 ぶすっと剥れて衣服を整えるソアルジュから慌てて目を逸らし、ロシェルダは首肯した。


「はい、ハウロ医師にもお話してありますから」


「……別に任意で通ってるだけなんだから、許可なんていらないだろうに……」


 ロシェルダは肩を竦めた。あれこれと教えを請い、お世話になっている上に、師事までしている相手なのだから、そうは行かない。

 ハウロ医師はただロシェルダに親切にしてくれている。それに対しロシェルダが返せるものは誠意だけだ。


「それより、本当に私なんかがお邪魔してもよろしいんでしょうか……」


 ロシェルダは眉を下げた。


「いいと言っているだろう。何より義父が会いたがったんだ。私を治したお前に」


「はい……」


 そうは言ったものの、相手は公爵。ロシェルダは両手を胸の前で組んで、そっと息を吐いた。


 ◇


「ソアルジュ、よく戻ったねえ。治って良かったねえ」


 そう言って細い目を更に細め、目尻に皺を溜め笑うのはリオドラ公爵。ソアルジュの義父であり、王弟だ。

 城に戻った翌日直ぐに義父に挨拶へと向かった。


「ありがとうございます義父上」


 応接室で向かい合わせにソファに掛け、ソアルジュは義父と対峙していた。

 義父は、うんうんと首を縦に振りながら、で────と、口にする。


「どうするの? 君は王になるかい?」


 その言葉にソアルジュは首を横に振った。


「いいえ、私が王など。他にその場に相応しい者がいるのに名乗り出れば、国が混乱しますから」


「ははは。君は本当に面倒臭がりだよねえ……治ったみたいだからさあ、そんな立候補もしてくるんじゃないかとも思ったんだけど。まあ、今はその言葉を受け取っておくよ。だってさあ、君。らしく無い事してるらしいじゃない」


 ソアルジュは眉を上げた。何を────とは、昨日の実父との対話で察せられるものがあった。


「平民の治癒士を連れ帰ったんだって? 平民だよ? どうするつもりなのかな? 勿論公爵夫人にも、王妃にもなれないからね。それ位分かってるよね?」


 ソアルジュは口元を引き結び頷いた。


「当然です。私は王にはなりませんが、あなたの後継になると思っております。その為に必要なのはあの娘ではありません」


 公爵は、うん。と満足気に頷いた。


「分かっているようで何よりだ。……それにしてもアンシェロ公爵家は馬鹿な事をしたよねえ。馬鹿と縁が切れたのは別にいいんだけど、せめて君が死んでから婚約破棄の話を持ってくれば良かったのにねえ。……こっちは病を盾にされちゃ断るしか無かったけど、知ってるかい? 今あの家は早々に君を見限った薄情な家として、肩身の狭い思いをしてるんだ。何とか挽回しようとしているらしいけど、巻き込まれないように気をつけてね」


 ソアルジュもまた、頷き口を開いた。


「勿論分かっております」


 ◇


 義父は油断ならない人間だった。

 薄情とも取れる。

 ただ全く情の無い人間という訳でも無く、あんな女としか結婚出来なくて兄は────国王というのは可哀想だと口にしていたのを聞いた事があった。

 そのせいか母を庇う立場でいて、ソアルジュの事も守る体を見せている。

 けれど邪魔だと、不要と思えば即切り捨てるだろう。


 ただ自分の産まれを考えると、この手の人物が身近にいるのは非常にありがたかった。苦手を感じるより慣れるしかないと、腹を括れたのだから。


 しかし、そんな義父からロシェルダに会いたいと言われれば、構えてしまうのは当然だ。……何を言う気なんだ。


 義父には二週間前────戻って最初に挨拶に行った後、特に何の連絡も入れていない。そもそも義父は普段からソアルジュに好きにさせていた。ソアルジュが立場を見誤らない限り、放任主義を貫いた。

 だからこそ嫌な予感しかしない。


 今この自分の恋心を見透かされれば……どうなるのだろう。そして自分は公爵家の後ろ盾が無くなれば、何者でも無くなるのだ。


 俯いていたソアルジュは肩に温もりを感じ、ふと顔を上げると優しくこちらを見つめるリサの顔があった。

 少しだけ笑みを返して正面に目を向ければ、相変わらず無神経というか無防備に眠りこけるロシェルダがいる。

 思わず脱力しそうになるが、気合を入れ直し馬車の外を見た。


 (守らなければ)


 ロシェルダを傷つけてはいけない。

 それに────


 (変わりたいんだ……)


 好かれたい。

 ただそれだけの理由だけれど。


 ◇


「ようこそ、治癒士様。息子を治してくれてありがとう。心から感謝します」


 ニコニコと笑顔で挨拶をされ、ロシェルダはカーテシーを取った。


「勿体無いお言葉です公爵閣下。ギフトは神より与えられた力。誰もが等しくその恩恵を受けられるべく、私共治癒士は与えられた職務を全うするのみ。

 感謝すべくは神であり、私ではありません。ですが、そのお声は私が人を癒す事で神にお伝えして参る為、受け取らせて頂きます。ありがとうございます」


「凄いね! まるで聖職者だ!」


 リオドラ公爵は、手を叩かんばかりの勢いで喜んでいる。

 ……けれど、その目の奥にはどこか冷たいものが滲んでおり、ロシェルダは釣られず淑やかに微笑んだ。


「勿体無いお言葉です」


 目が細まると、瞳が隠れて見え難くなる。

 一見して笑っているように見えるが、どうにもそれだけでは無さそうで、ロシェルダは全身全霊で気を張る事にした。

 何せ身分は公爵なのだ。

 平民の自分など、何か一つでも間違えれば一瞬で首が落ちる。


「まあ玄関先じゃあなんだから、中にどうぞ」


 公爵自らわざわざここまで迎えに出ていた事に、ソアルジュはとても驚いていた。


 ここに来るまでに、彼が養父であると聞いていた。

 今も一見気安い間柄に見えるものの、ソアルジュはこの話を持ち掛けた時から、ずっと自分に何か言いたげだった。


 悪くは無いけれど、緊張感を持って接している関係なのかもしれない。或いはとても気を遣っている相手。


 ロシェルダは治癒士として、多くの患者を診てきた。

 当然万人が全て同じでは無かった。

 けれど、僅かなサインを見落とす事が、決定的な何かへ繋がり手遅れに陥る事が多々あった。それは人でも病でも同じで、見逃す事は治癒士には許されないのだ。


 自分が必死で磨いてきた唯一の武器を、こんなところで活かせるのは想像だにしていなかったが、役に立って何よりだ。ロシェルダは必死に笑顔を貼り付けた。




「旦那様────」


 応接室のドアを従者が開けたところで、困惑した様子の執事が近寄り、公爵に何やら耳打ちした。


「はて? そんな約束していないなあ……ソアルジュ、君覚えあるかい?」


「……何がですか?」


 警戒も露わにソアルジュが問いかければ、公爵は弾けんばかりの笑顔で口にした。


「君の婚約者がね……おっと『元』か。君に会いたいってここに来ているそうだよ? 私は治癒士様の相手をしてるから、君会って来たら?」


 にこにこと伝える公爵に、ソアルジュはこれ以上ない程目を見開いた後、思い切り執事を睨みつけた。


「私は彼女と会う約束などしていない! そもそも何故今日ここにいる事を知っているんだ! 元婚約者だろうと何だろうと、そんな非礼に付き合うつもりは無い!」


「……でもさあ、アンシェロ公爵も一緒らしいんだよねえ。わざわざ公爵までご足労して貰っておいて、門前払いなんてさ、我が家が非礼扱いされないかなあ? それはちょっと困るよねえ」


 独り言のように呟き、眉を下げるリオドラ公爵をも睨みつけて、ソアルジュは奥歯を噛み締めている。ロシェルダは恐る恐る声を掛けた。


「……ソアルジュ殿下、あの……行かれた方が宜しいのでは? 公爵閣下もこう言っておられますし……私は閣下とお待ちしておりますから」


 それを聞いてソアルジュは、はっと息を飲み、いくらか傷ついた顔をした。……彼は最近そんな顔をするのだ。確かに元婚約者に会うのは気まずいかもしれない。

 ロシェルダは少しだけ罪悪感を覚えながら、心を鬼にさせて貰った。言う事を聞いた方が良いだろうと笑みを深めれば、ソアルジュは複雑そうな顔で目を逸らした。


「……そうだな。リサ、ロシェルダを頼む」


「畏まり────」


「リオドラ公爵! ソアルジュ殿下!」


 リサが返事をする前に、件の人物が廊下を進み押し入ってきた。


「あーあ、来ーちゃった」


 小さく呟いたその声と眼差しを受け、ソアルジュは義父を睨みつけた。


 ◇


「────と、いう訳でして。もう、閣下にお縋りするしか……」


 直ぐに終わるから相席しててよ。と、気楽に言われたものの、リオドラ公爵の細い目の奥には有無を言わせないものがあった。


 ロシェルダは一人掛けのソファで縮こまり、事の成り行きを見守っていた。

 そっと目を向ければ、一週間前まで熱心にロシェルダをいじめていた公爵令嬢が青褪めて座っていた。


「買い被り過ぎですよ、アンシェロ公爵。私なんて何の発言力も持ち合わせない名ばかりの爵位持ちですから」


 からからと笑うリオドラ公爵を、ソアルジュは胡散臭そうに一瞥してから口を開いた。


「私はミレイディナ嬢との再度の婚約は悪手だと思いますがね。この話が既に国外へ漏れている以上、私たちが再び縁を結び直しても、この国の公の名を貶め、両家は共倒れするだけでしょう」


「しかしですね。殿下が娘を愛していたと公言して……巷ではそう言った話が好まれるのでしょう? それを上手く情報操作して……」


 その言葉にソアルジュは、はっと笑い声を上げた。


「私がミレイディナ嬢を愛している? 私たちが婚約破棄の運びとなった理由をお忘れですか? 病気に伏せる私を見て、彼女は嫌悪感を露わに直ぐに退室し、二度と見たくないと、目が腐ると仰った! 今すぐ婚約を破棄し縁を切りたいと、城内で叫んでいたのを多くの者が聞いておりますよ。……それでも私が今尚この人を愛し、縋っていると……!?」


 怒りとも悲痛ともつかない叫びに、ロシェルダは身を固くした。リサもまた壁に寄り目に怒りを宿している事から、その時その場にいたのかもしれない。


「……せめて死んでから婚約破棄をすればよろしかったのですよ。いくら、隣国の王太子が花嫁を探している絶好の機会だからと言って、飛びついて……その場で私を貶める為に病の事まで隣国に漏らして……今では売国奴扱いだそうじゃないですか」


 奥歯を噛み締め、歪な笑みを浮かべるソアルジュにロシェルダは、背筋を強張らせる。

 アンシェロ公爵もまた、その台詞に打ちのめされたように頭を抱えた。横で大人しくしていたミレイディナも顔を伏せ、わっと泣き出した。


 この国の貴族が(いにしえ)の人の業を背負い、病を発症する事は、勿論他国は知っている。だが、高貴な人物がそれを宿し発症したのなら、禁句となる。何故なら生きている限りは、国の弱みとなるからだ。

 公にせずとも死せば公表される。その際に発症時期をぼかし、栄誉の死であったと病についても共に伝えれば事足りるのだ。


 隣国の王太子妃になりたかったミレイディナは、その話を王太子にしてしまったのだろう。……元々治るなど誰も信じていなかった。せいぜい世間話程度の感覚で話してしまったのではなかろうか。

 そしてその情報は漏れたものの、王太子はミレイディナを選ばなかった。後に隣国の情報筋からその件の確認があり、事が露見し、今に至る。


 ロシェルダが側から見て読み取れたのは、そんなところだが、大きく外れてはいないと思う。

 ……それで、恐らく国王の怒りを買ったのだ。

 公爵位にある者が怯える理由などそれ位しか思いつかない。


「まあまあソアルジュ。君の気持ちも分かるけどね、事は国家問題なんだよ。アンシェロ公爵家は五大公家の内の一つだし、こんなに簡単に無くなってしまうのもねえ……」


 そう言ってリオドラ公爵はソアルジュをチラリと見た。


「君が大人になって、ミレイディナ嬢と復縁してさ、兄上に頭を下げれば丸く収まる事だと思うんだよね。そうだろう?」


 その言葉に、期待に目を輝かせるアンシェロ親子に、ソアルジュは口の端を吊り上げて返答した。


「全くそうは思いません。既に事が隣国に伝わっている時点で手遅れです。我が国の信頼を失墜させた。これについては、病はいつから、病状は、という確認が即各国から来る事と、それに対する対応如何では、今後の国益の低下にも結びつきかねない。慌てて復縁して取り繕ったところで手遅れです。茶番以下の扱いを受けるだけでしょう」


 ……デリケートな問題なのだ。ソアルジュは第二位王位継承者。当然他国の中には彼が次期国王と踏んでいる者もいる筈で、そんな大事な話を何故黙っていたと言う事になる。


 ロシェルダはソアルジュが王になるのかは知らないが、この病を発症した者が王になった記録は無い事から、きっとそれが答えなのだろう。


 でも黙っていたと言う事はもしかしたら、国王はソアルジュに王位を継承させる気があったかもしれないと、当然気取られる筈だ。責任の追求の可能性も出て来る。


 非常に面倒な話になってしまったのだ。


 ふと、鼻を啜っているミレイディナが顔を上げ、ロシェルダと目が合う。その顔が憎悪に歪み、ロシェルダは怯んだ。


「何だ、今度は私が治らなければ良かったと言いたいのか」


 その様を見逃さなかったソアルジュがミレイディナに唸る。


「ち、違いますソアルジュ様。わ、わたくし本当にあなたの事が心配で……こ、怖かったの! だってあなたはこんなに美しいのに、あ、あんな姿になって……だからあんな事を言ってしまっただけなの! 嫌いになんて、なってなかったわ!」


 目を赤くしたまま必死に訴えるミレイディナにソアルジュは冷えた眼差しを返した。


「……そうか、私は大嫌いだ。だから君とは結婚しない。義父上、家の事を考え合わせても、私の気持ちは変わりません」


 言い切るソアルジュにミレイディナは口元を戦慄かせる。


「そ、そんな……ソアルジュ様……」


 そう言って自分に伸ばしかけたミレイディナの手を、ソアルジュは一瞥してすぐ逸らした。

 リオドラ公爵は困ったように笑い、そうか。と呟いた。


「すまないね、アンシェロ公爵。こればかりは本人にやる気が無ければ取り繕えないよ。全く存在しない真実の愛は、誰が見ても見透かされるだろうからね。……せめて兄上には私の方から私的に進言させて貰う事にするから、それで手を打って貰えないかな」


 アンシェロ公爵はソアルジュとリオドラ公爵を交互に見て、公爵に何度も首肯し懇願した。


「是非、是非とも! よろしくお願い致します!!」


 ◇


 見送りの為に馬車まで出てきたソアルジュは、胡散臭い笑顔でアンシェロ公爵を励ましている義父を見ていた。

 ミレイディナは青褪め俯いたまま一言も発さない。

 もう分かっているのだろう。

 自分が何の役にも立て無かった事。大きな失態により社交界での信用も無くし、今後の見通しが閉ざされてしまった事。

 アンシェロ公爵も娘に一瞥もくれない。きっとこれからもずっと。




「そう言えばずっと気になっておったのですが……」


 少しばかり落ち着きを取り戻したアンシェロ公爵が口にした。


「横でソファに座っていたお嬢さんはどなたですかな? 恥ずかしながら自分の家の事で頭が一杯でして、挨拶も口にしておりませんでした……」


 少しだけ申し訳無さそうに義父の様子を伺うアンシェロ公爵に、義父は苦笑して答えた。


「あの子は平民の娘ですから、アンシェロ公爵が気に病む必要はありませんよ」


「へ、平民?」


 その言葉にアンシェロ公爵は目を丸くする。


「私の命の恩人なのですよ」


 ソアルジュは苦い思いで口にした。

 最後の最後で余計な一言を口にしやがって……思わず(ほぞ)を噛む。

 アンシェロ公爵が興味深そうに、それはそれはと頷いている。


「大事な息子の恩人ですからね、是非直接挨拶したかったのですよ」


「流石、公爵閣下はお優しいですなあ」


 狐と狸が笑い合う。そしてそのやりとりに満足し、アンシェロ公爵は丁寧に腰を折り辞去していった。

 義父は一息吐いた後ソアルジュに向き直り、眉を下げた。


「ソアルジュ、君ねえ。折角復縁のチャンスだったじゃないか」


「余計なお世話ですよ義父上。何の未練もありません」


 わざわざ時間を合わせて自分たちを呼びつけたのもこの人の仕業だろう。何が「来ちゃった」だ。


「いらないかあ……」


「いりません」


 その台詞に義父は顎を撫で、まあいいかと口にした。


「まあ、じゃあ君が爵位を継いだら好きにしたらいいよ。それまで私の方で生かさず殺さず躾けておくから」


 ソアルジュは、ふんと息を吐いた。


「また面倒な事を……悪い趣味ですよ。義父上」


「いいんだよ、本人は喜んでいるんだから」


 この義父は、こんな酔狂な真似が好きだ。

 それにより救われた者も、破滅した者もいる。

 結局義父がやっているのが善意になるかどうかは、時と場合による。

 だからこそ質が悪いのだ。

 王弟でありながらも権力には興味は持たない。けれど弱い者に手を差し伸べ慈悲を掛ける心優しき公爵閣下。今のところの義父の一般的な評価だ。

 ソアルジュは軽く息を吐いた。

 

「そんなにあの平民の娘が気に入ったのかい?」


 不意打ちの台詞に緩み掛けていたソアルジュの身体に緊張感が走った。何食わぬ顔で微笑み返す。


「何を仰ってるのか」


「君、今油断したね。守るものがある人間は弱いものだ。防御に力を割かないといけなくなるからね。……私に君を殺させないでくれよ?」


 冷たく細まる眼差しに、ソアルジュは精一杯皮肉気な笑みで返した。


 ◇


「お待たせしてしまってすまないね。いやいや、あんな高貴な人の急な来訪なんて、普段は無いんだけどさあ。流石に無碍にする訳にはいかないからね。いや申し訳ない」


 慌てて戻ってきた公爵にロシェルダは立ち上がり、頭を下げた。


「いいえ、私の方こそ気を遣えず申し訳ありませんでした。日を改めるべきでしたのに」


「いやだなあ、私が引き留めたんじゃないか。ごめんねロシェルダちゃん。あ、ロシェルダちゃんて呼んでもいいかい?」


「は、はい。勿論です」


 笑顔の圧が凄い公爵に、若干気圧されながらロシェルダは出来るだけ上品に微笑んだ。

 公爵は、良かった良かったと口にしながらソファに腰を下ろす。

 後から着いてきたソアルジュの顔が若干引き攣っているが、仕方無いだろう……元婚約者との訣別なのだ。


「ソアルジュ、そんなに落ち込むんじゃないよ。君たちは仲の良い婚約者だったけどね。家の為を思ってのあの発言は、私は嬉しかったよ。仕方がない事だと思っている」


 公爵のその台詞にソアルジュは口を丸く開けて固まった。


「国王にもお話して、また良い相手を見つけよう。大丈夫だ。私は君を疵者扱いなんてしないからね」


「ち、義父上! 私は別に婚約者など!」


「作って貰わないと困るでしょうよ。君は次期公爵なんだから。ちゃんと相応しい相手と結ばれて、跡取りを設けて貰わないと。ねえロシェルダちゃん」


 そう言って笑顔を向ける公爵に、ロシェルダもまた笑顔で応えた。


「勿論です。公爵閣下」


 ソアルジュが恨めしそうにこちらを見ているが、公爵の圧には遠く及ばない。残念ながらこちらの味方をさせて貰う。


「ほーら、君の命の恩人もこう言ってるんだから、君は言う事を聞くべきだ。……馬鹿な事を考えるなよ」


 その言葉にソアルジュはぐっと詰り、項垂れるように首肯した。


 ◇


 公爵家で沢山のお菓子を頂き、お土産まで貰って帰ってきてしまった。少しばかり不思議な雰囲気の人だったけど、特に何を言われる事も無かったし。……まあ、興味を持たれなかった、という表現が正しいのかもしれないが……


『賢い子は好きだよ。また遊びにおいで、ロシェルダちゃん』


 そう言って笑う公爵の笑顔は、やはりどこか隙の無いものだった。


 行きの馬車で散々眠ったので帰りは眠く無い。

 ロシェルダは向かいに座るソアルジュに目を向けた。


 夕日が差し込む馬車内は、ソアルジュの雰囲気を普段と変え、憂いある青年は一枚の絵画のようだった。


 (こうして改めて見ると、本当に綺麗な方ね)


 ロシェルダは内心感嘆のため息を吐いた。

 そう言えば王子様なのだ。

 本来ならロシェルダのような平民がこんなに近くで見られる事が非現実的な存在。


 馬車が城に到着し、御者がドアを叩く音を聞いた後、ソアルジュが少し待てと返事をした。


「ロシェルダ、話があるんだ」


 ロシェルダは首を傾げた。


「お前たちは外に出ていろ。……すぐ済むから」


 リサとアッサムに伝えると、従者の親子は瞳に戸惑いの色を見せた。だが察したリサが、少しだけですよ、ドアのすぐ近くにいますからね、と念を押し時間をくれた。


 戸惑うロシェルダを引き留め座り直させ、ソアルジュは一つ息を吐いて口を開いた。


「ロシェルダ……私の身体の不調は……嘘だ」


 ◇


 どこか遠くで一陣の風が吹いたような、そんな音が頭に響いて。そんな感覚に思考が鈍る。


 ロシェルダには意味が分からなかった。

 ソアルジュが懸命に伝えようとする言葉は、最初の台詞に全て無機質な色に塗りつぶされた。


 嘘


 (嘘?)


 嘘


 (嘘ですって……?)


 その言葉にカッと目を見開き、気付けばロシェルダはソアルジュの頬を張っていた。

 椅子から滑り落ち呆然とするソアルジュを見下ろし、ロシェルダはボロボロと涙を零した。


「さ、最低です。殿下……何よりも誰よりもご存知だったでしょう? 病の恐怖を。それを偽り私を私の患者たちから引き離し、本来の役目から遠ざけた。あなたは────!」


 ソアルジュは恐怖に顔を歪め、ロシェルダに手を伸ばした。


「待ってくれロシェルダ! 私は、私は君の事が!!」


「あなたの都合なんて私には関係ない! 知らない! どうでもいい事だわ!」


 その手を避け、髪を振り乱して首を巡らし、ロシェルダは馬車のドアを開けて飛び出していく。そのまま驚くリサとアッサムの横をすり抜け駆けて行った。



「ロシェルダ……」


 ソアルジュは馬車の床に膝を突いたまま、その背中を呆然と見送った。


 伝えたかった。


 義父が言うように誰かを娶る事に抵抗を感じている事。

 今までなら当然だと思っていたその価値観が変わった事。

 その理由が君だった事。

 優しい幸せな気持ちを知った事。

 変わりたいと思った事。

 君に見て欲しいと思った事。

 

 好きな気持ちを……


 約束の時間まであと半月あった。

 けれど、今が良かった。今伝えてその間考えて欲しかった。


 (少しでも君に意識して欲しかった)


 でも、ロシェルダはソアルジュの気持ちでは無く義務でしか見てくれなかった。


「はは……」


 ロシェルダの拒絶が身体を走る。


 (救いを教えてくれた君が、また私を闇に落とすのか)


 楽しそうな義父の声が頭に響く。


『あーあ』


『逃げちゃった』


 ◇


 どれ程駆けたいと思っても、治療院までは辿り着けない。

 それ以前に自分が逃げた先は、結局いつものところで……


 ハウロ医師の診療室のドアを控えめにノックし、そっと押し開ける。するといつもの顔触れに違う人達が混ざっており、少なからず動揺を覚えた。


「あら、ロシェルダ。今日は来られないんじゃなかったの?」


 意外そうに目を見開くフィーラ医師の姿が目に入り、ロシェルダはほっと息を吐いた。


「……すみません、来客中だったんですね。……出直して来ます


 とはいえ、予定と違う訪問なのに、失礼は出来ない。

 ロシェルダが一礼して去ろうと踵を返したところで、声が掛かった。


「いや、我らも急な来訪だった。ハウロの知り合いなのだろう? 構わないから入るといい。こちらの用はもう済んだ」


 今日は他人の用事に相席ばかりしている。

 ロシェルダは躊躇ったが、視界に入ったその人物が明らかに高貴な人物で、思わず硬直した。

 近くにいる彼の従者と思われる人物から、鋭い視線が飛んでくる。


「よせ、レオンズ。威嚇するな」


 そう言って鷹揚に構える姿が先程突き放したソアルジュを彷彿とさせ、ロシェルダはぐっと奥歯を噛み締めた。


「ほ、ほら。お前が睨むから、彼女泣いてしまったぞ」


「違……違います、私。私は違う理由で……」


「どうした? ロシェルダ」


「ハウロ医師……っ」


 黙って去れば良かったのに。そうしたかったけれど。

 そんな言葉が頭を巡ったものの、堪えられ無かったものの方が大きくて、気づけばロシェルダは声を上げて泣いていた。


 ◇


「あらあら、まあまあ」


 泣きなら辿々しく口にするロシェルダの背中を撫で、フィーラは困ったように眉を下げた。


「殿下……」


 ハウロは腕を組んで天を仰いでいる。




「その……横で聞いていて悪いが、その男恐らく一番肝心な事を伝えられなかったな」


 少しばかり落ち着きを取り戻したロシェルダは、ぽつりと零されたその一言に反応して声の主に目を向けた。


 精悍で凛々しい青年である。

 ソアルジュのような美しさとは違うが、男らしく、それでいて全身に逞しさを感じる。


 本来なら非礼を詫びるべきだった。

 他の客がいるところに押し掛けて、泣き出して……皆に迷惑を掛けている。けれどロシェルダは、つい心のままに口を開いてしまった。


「……聞き逃した? 何を……?」


「いや……その男、お前が好きなんだろうよ」


 好き?

 ロシェルダは目を丸くした。


「ちょっと!」


 思わず窘めに入る従者に、精悍な男は肩を竦めた。


「好きだから嘘をついてでも、お前をここに連れてきて共に時間を過ごしたかったんだろう。急に話した理由はよく分からないが、残りの時間でお前と少しでも向き合いたいと思ったんじゃないのか」


 ロシェルダは口をポカンと開けて固まった。

 そして、はっと気づいて慌てて声を上げる。


「そんな筈は! で、殿下は……!」


「殿下? 王族なのか? いや、この国でお前と歳の合いそうな男の王族は一人しかいないが……まさか」


 男が視線を滑らせた先のハウロが首肯する。


「その通り、ソアルジュ殿下の事ですよ。セヴィアン殿下」


「で、殿下?」


 目を丸くするロシェルダに、フィーラが優しい顔で口を添えた。


「隣国の王太子、セヴィアン殿下ですよ」


 ◇


 先程横で聞いていたお話の中の登場人物が、今目の前にいる。

 ロシェルダは先程から空いた口が塞がらない。

 そのセヴィアン殿下は興味深そうに首を捻り、ロシェルダを見て妙な縁だな。と口にしている。


「お前はどこまで知っているんだ?」


 唐突な質問にロシェルダは目を丸くした。

 けれど、混乱した頭でも持ち前の推測能力が発揮される。

 先程聞いたソアルジュの元婚約者が、隣国の王太子に漏らした国の内情。ロシェルダは思わず息を飲んだ。


「ははあ。知ってるのか、凄いなお前。ソアルジュ殿下の信の厚い恋人という訳か?」


 ロシェルダの僅かな動揺を見逃さず、セヴィアンは目を光らせ口の端を釣り上げた。


「あ、恋人じゃないのか」


 けれどその後すぐに訂正し頭を掻いた。

 ロシェルダは混乱した。

 段々と自分が今どこで何をしているのかも、よく分からなくなって来ている。


 そして途端に自分に病気は嘘だと告げた後の、ソアルジュの様子が頭に浮かんだ。

 彼は……あの時私に何て言っていた?

 私は、彼の虚偽を受け入れられなくて、彼の全てを拒絶した。

 ソアルジュは……


 泣いていた。


 あの時のソアルジュの顔が思い浮かぶ。

 自分は彼を突き放した。

 彼もまた自身の患者であったのに。

 あの頼りなさそうな顔が告げていた。彼の虚偽は……病に侵された恐怖によるものだったのではないか?


 ロシェルダは自身の失態と醜悪さに、自分の身体を爪を立て掻き抱いた。

 

 (私は……何て事を……)


 自分を優先させた。

 自分の欲を。

 治療院に残れなかった鬱憤をソアルジュにぶつけた。

 彼の病に対する不安に気づく事もせず。


 (治癒士、失格だわ)


「おい、大丈夫か?」


 ロシェルダは、はっと意識を戻し、こちらを覗き込むセヴィアンに目を向けた。

 そう言えば隣国の王太子なのだ。

 今更ながら、この振る舞いは無礼にならないかと怖くなってくる。

 そんなロシェルダを見透かすように、セヴィアンは目を細めた。


「怖がるな。非公式な訪問だ。自分から声を掛けておいて無礼だ非礼だなんて言い掛かりはつけないさ」


 その言葉にロシェルダは、ほっと息を吐くと共に頭を下げた。


「セヴィアン殿下、この子は優秀な治癒士なのですよ」


 とりなすようにハウロが口を開く。


「そのようだな。死地にあったソアルジュ殿下を助けたというのは、この娘なのだろう。娘、名は?」


 ロシェルダは逡巡するも、王族に名前を聞かれ答えない方が非礼だと口を開いた。


「ロシェルダと言います」


「そうか、ロシェルダよ。お前に一つ相談があるのだが、どうだろう?」


 セヴィアンの楽しげな眼差しに、ハウロ医師は複雑そうな顔をしていたが、困惑するロシェルダの目には入らなかった。


 ◇


 ソアルジュは気付けば自室に戻り、ソファに腰を下ろしていた。

 逃げていくロシェルダの背中を見送った後の記憶は無い。

 目の前に置かれたお茶は冷めているが、この世話を焼いたのは、こちらを心配気に見つめているリサだろう。


 ソアルジュにはどうしたらいいのか分からなかった。


 気持ちを受け入れて貰えなかったら、普通はどうするものなのか。

 誠心誠意伝えれば、思いは届くものだと、どこかでそう……高を括っていたのかもしれない。それがいけなかったのだろうか。


 手に入らないなら壊してしまえとか、遠ざけるべきだとか、相手の幸せを望むものだとかいう、以前見た劇役者の台詞が頭を過ぎる。けれどそれのどれが正解かというよりも、彼女が自分に背を向けて走り去った事実が胸に刺さり、項垂れた。




「……か。……殿下。……ソアルジュ殿下っ」


 ぼんやりとソファで過ごしていたソアルジュは、うたた寝でもしていたように、沈んでいた意識を自室に戻した。

 既に夕焼けは沈み、外には暗闇が降りて一日の終わりを告げている。

 ソアルジュは、はっとリサを振り返った。


「ロシェルダは? 彼女は部屋に戻ったのか?」


 外に向かって駆けて行ったが、向かった先迄確認していなかった。……放心していた自分に歯噛みする。

 何をしているんだ。


 (私は……変わりたいんじゃなかったのか)


 そんな言葉が胸に湧く。思い出したように。


 (好かれたい……)


 今でも変わらない自分の心。

 

 (その為にまだ何もしていない。全てを諦めるのは……何か一つでも変えられた自分を見つけてからでも、いい筈だ)


 そう思い、改めてリサを見ると彼女は顔をくしゃりと歪めて、大丈夫ですよと口にした。


「ロシェルダさんは、ハウロ医師のところにいます。今日は夫妻の元に泊まるそうです。……殿下の主治医では無いのに、あの部屋は分不相応だそうですよ」


 その言葉にソアルジュは、ほっと息を吐いた。

 彼女がまだ城にいてくれている。

 その事が僅かに自分の心に光を灯した。


 そしてふと部屋の端に見知らぬ従者の顔があり、眉を(ひそ)める。

 その様子にリサは表情を引き締め、ソアルジュに告げた。


「国王陛下からの使者にございます」

 

 ◇


 通された部屋は、謁見の間では無く、国王の私室に隣接した応接の間だった。

 国王の私的な訪問者を通す場所だ。

 ソアルジュは気を引き締めた。

 何を言われても今は隙を見せる事は出来ない。

 自分の名を告げる近衛が開く扉を見据え、ソアルジュは息を詰めた。


 けれど部屋にいた人物を目に留め、ソアルジュは詰めていた息でむせそうになった。


「セヴィアン王太子殿下?」


 にこりと笑う精悍な男に、ソアルジュは一瞬目を奪われる。

 そして部屋に座すもう一人の人物に慌てて目を向けた。


「国王陛下、これは一体?」


「うむ、まあ────良い知らせだ。座れ」


 そう言ってにやりと笑う実父の顔は、義父以上に油断のならないものだった。


 ◇


 実父とセヴィアンが向かい合うソファに座り、ソアルジュは二人の横にある一人掛けのソファに掛けた。

 三人にお茶が配られメイドが退室したところで、国王が口火を切った。


「まず、お前の病の情報が他国に漏れた事は既に聞いているな?」


 どうせ義父から連絡を受けているのだろう。

 ソアルジュは首肯した。


「はい」


「その話を聞いて、私から私的にお願いがあって、今回陛下を訪問したのです」


 セヴィアンの声に顔を向け、ソアルジュは口を開いた。


「お願い……ですか」


 それは取引というものだろう。

 ソアルジュの表情を読み取りセヴィアンは薄らと笑った。


「あなたの病を治したという治癒士。その優秀な人材を我が国は欲しい。それに応じて頂ければ今回の件、情報操作に協力しましょう」


 ソアルジュは息を止めた。

 治癒士とは価値の高い存在だ。

 稀に他国でも産まれるが、その出自の九割はこの国であり、また国外への移住、留学や旅行に至る迄、あらゆる面で制限される代わりに、国内では優遇される存在なのだ。


 ふと口の端を釣り上げる。


「必要ありません。今更そんなものが何になると言うのです。私は(いにしえ)の業という病を持つ王族。その価値は────」


「代わりに我が妹をあなたに差し上げましょう」


 被せるように口にするセヴィアンにソアルジュは口を開けて固まった。

 セヴィアンの妹とは十三歳の王女殿下の事だろう。

 十九歳のソアルジュと年齢が合わないとは言わないが、それをするという事は、この国との結びつきを強めると言う事だ。

 掠めた場所から煙を起こした国同士が結ぶ絆としては……悪くない。

 周辺諸国との関係に支障をきたすかと言われれば、隣国の王女を娶ったソアルジュは、他国から受けた不信の回復にも繋がるだろう。


「……」


「お前は、ミレイディナ嬢との再婚約に応じなかったそうじゃないか。どうだ? いい話だろう?」


 楽しそうに笑う実父にソアルジュは困惑の目を向けた。


「そうですね……」


 そう口にし、項垂れるように頭を下げてから、ソアルジュは勢いよく顔を上げた。


「セヴィアン殿下、私めには余りある役割。また大事な妹君を任せるに値すると、その多大なる評価に感謝致します。ですが、大変申し訳ありませんが、この話は受けられません」


 実父がムッと顔を顰めるのが見えた。

 ソアルジュはセヴィアンに言うしかなかった。

 自分の思いを誠実に伝える事しか、それしか誰も納得させる術を思いつかなかった。


 馬鹿な事をしている。

 ロシェルダが振り向いてくれる保証は全く無い。

 でもまだ何もしていない今、初めて知った愛しいと言う感情を、誰かの意思に流されるままに手放す事は出来なかった。


「私は、私はその治癒士の娘に恋をしてしまいました。……まだ何も彼女に伝えられていない。救われた感謝も、愛しいという気持ちを知った幸福も、何も尽くせていないのです。

 ……私から彼女を取り上げないで下さい。

 彼女がいなければ、私はずっと……一人で過ごす冷たい部屋を美しいと勘違いし、人との対話は煙に巻き惑わせるものだと。それが楽しい人生なのだと……信じて疑わなかった。

 彼女が私を変えてくれたのです。

 美しいとは何かを教えてくれた。弾み浮き立つ心というものを。

 私はまだ何も返せていない……彼女の矜持を捻じ曲げた謝罪も……出来ていません。だから────」


「いや、もういいです」


 口元を手で覆い、もう片方の手を突き出してセヴィアンが制してきた。


「もう結構。胸焼けがします」


 そう言ってソファに背を預け、今度は胸を押さえている。

 非公式とは言え、それは些か行儀が悪くはなかろうか。

 ソアルジュは眉を顰めた。

 だがふと見ると実父も同じように苦笑していて、場の空気が何やらおかしい。

 ソアルジュは困惑に瞳を揺らし二人を交互に見た。


「な、なんだと言うのです? 私が何かおかしな事でも?」


 その台詞に実父が首肯した。


「十分おかしい、ソアルジュ。お前、いつの間に人の心に訴えられるような言葉を覚えた? いや、知った? 今迄は全く上辺だけの台詞しか吐いてこなかったと言うのに……」


 くつくつと笑う実父の顔を凝視するソアルジュに、セヴィアンが片手を挙げた。


「ソアルジュ殿下、申し訳ありません。私の話に陛下が乗って下さったのです。どうしてもあなたの本意を知りたくて……ほら、もういいぞ。入って来い」


 その言葉を合図にカチャリとドアが開き、国王陛下の私室から真っ赤な顔をしたロシェルダが入ってきた。


「ロ、ロシェルダ……?」


 思わず立ち上がる。

 ソアルジュは目を丸くした後、口をはくはくと動かした。

 どう見ても聞いていた……聞かれていた。

 みるみる自分の体温が上がり、ロシェルダに負けず劣らず自分が茹でた蛸のように赤くなっている事が容易に想像できる。口にした言葉に間違いはないが、覚悟を持って言うのと偶然聞かれるのとでは、全然違う。……不意打ちに心が瓦解しそうだ。


 ロシェルダの横にはフィーラ医師が寄り添っており、ソアルジュに笑い掛けた。


「ロシェルダ、あなたもソアルジュ殿下にお話があるのでしょう?」


 その言葉にソアルジュの身体がギクリと強張る。

 何を言われると言うのだ。

 先程逃げて行った彼女の背中が思い出される。


「で、殿下……」


 ロシェルダに呼びかけられ、ぎぎぎと瞳をそちらに向ける。赤い顔に潤む眼差しで見つめられ、思わず喉がゴクリと鳴った。


「先程は、失礼しました。わ、私は自分の事しか考えておらず、病を偽られたと、治療院から連れ出されたという怒りにしか目がいかず……あなたの気持ちを全く聞かずに蔑ろにしてしまいました……治癒士……失格です」


 ソアルジュは瞳を揺らす。

 彼女は虚偽に対する怒りを見せただけで、自分への気持ちに応えられなかった訳では無いのではないかと。けれどそんな考えは、彼女の次の言葉にどこか遠くに駆けて行った。


「オランジュ様にはそんな事しなかったのに」


 重くなり、冷える心にソアルジュが思わず表情を無くすと、セヴィアンもまた、腕を組んで残念そうにロシェルダを見ていた。たまらずソアルジュは声を出す。


「ロシェルダ! オランジュの事なんてどうでもいいんだ。君はどう思った? 私は君が好きだ。君は……私をどう思ってくれているんだ」


「え? 患者でしょうか……」


 即答。思わず膝から崩れ落ちそうになる身体を叱咤し、そ、そうかと何とか踏みとどまる。

 ロシェルダはその様子に少しだけ申し訳無さそうにし、両手を小さく握りしめて続けた。


「私は……二度と患者に想いを寄せないと決めていました。……だから、殿下のお気持ちにも気づきませんでした。

 見ないようにしていたんだと思います。また傷つくのが嫌だったから……自分を守る為に。卑怯なんです。

 ……だから殿下が好きかと言われるとよく分からなくて。……なのに、嬉しかったんです」


 そう言ってロシェルダはソアルジュを見た。胸の前で作る二つの拳はきつく握られ、震えている。


「私の治療が、あなたを心から助けたのだと。私は、一度失恋しただけで誰にも心を傾けず、一人で拗ねて仕事が全てだと思い込んだ。嬉しいと知っていたのに。……感謝される事が、心を人から託される事が、どれ程希少で自分の心を育てていくのか。わ、私は……」


 ソアルジュはロシェルダの言葉を聞きながら、ふらふらと側に歩み寄っていた。

 気づいたら彼女の顔が近くで、自分を一心に見つめていて、必死に言葉を紡いでいる。


「ロシェルダ……」


「私は、あなたともっと親しくなりたいです。患者と治癒士としてでは無く……対等な人として」


 嬉しさに緩む口元を噛み締め、ソアルジュはロシェルダの頬に触れた。僅かに身じろぐ彼女の頬は、赤く染まった見た目通りに熱を持っていて、それが自分の為かと思うと胸が熱くなった。


「だが、平民の治癒士は王族に嫁げん。その娘と添い遂げたいのなら、愛妾以外の道は無い」


 実父のその言葉にソアルジュの心はすっと冷えた。

 そして一度目を閉じ、ソアルジュはロシェルダを恐る恐る抱きしめた。腕の中で驚きに身を竦ませるロシェルダを感じ、温もりにほっと息を吐いた。


「ならば私が平民に……」


「いけません!」


 叫び、ロシェルダはソアルジュをぐいと押しのけた。

 愕然とした顔を向けるソアルジュの手をぎゅっと握り、ロシェルダは目を合わせ切実に訴えた。


「私が、頑張るべきなんです。あなたと対等な関係を築きたいと思うなら」


「……どう言う意味だ?」


 困惑に瞳を揺らすソアルジュに応えたのは、セヴィアンだった。


「ソアルジュ殿下。ロシェルダを我が国に欲しいと言ったのは、間違いではありません。私は、私の婚約者を治せる医師を探しているのです」


 振り返るソアルジュに、セヴィアンは少しだけ寂しそうに笑った。


「私の婚約者は、生まれつき身体にアザがあるそうなのです。その為ドレスを着られないと。

 たったそれだけの事で私の婚約者ではいられないと、周囲に諌められ、その座を辞そうとしているのです。

 幼い頃からあったそのアザは、小さな頃は薄く目立たぬものでした。けれど歳と共に濃く大きくなってゆき、周りはそれを見苦しいと。王族に嫁ぐに値しないと断じたのです。

 ……彼女程聡明で情に厚く、国母として相応しい人など、どこにもいないと言うのに……」


 恐らく彼が婚約者を求めているという噂も、そこから来た話なのだろう。

 ソアルジュは理解した。彼の言わんとしている事を。

 ロシェルダと繋いだ手に力を込めて、実父を見れば、試すように瞳が細められた。

 ソアルジュは息を吐き、セヴィアンに笑いかけた。


「ロシェルダならきっと治せるでしょう。私は、あなたもまた一人の恋する男である事に、感謝するべきなのでしょうね」


 その言葉にセヴィアンも口元に笑みを刷いた。


「それでも、あなたが信頼に値しない者であったら、この話は進めなかった。ロシェルダはハウロ夫妻の大事な弟子だと聞いておりますから。

 もしロシェルダがこの話を受けるなら……恐らくこれ以上無い茨の道を歩く事となるでしょう。だからこそ、あなたの意思を、心を確認しておきたかった」


 ソアルジュは一つ頷いて、ロシェルダを見た。


「ロシェルダ。私は最初君にひと月の約束をした。君とした一番最初の約束だ。これ以上君の信頼を失え無い。違えたく無い。だから残りの二週間で、君に私の精一杯の誠意を伝える。……それで、決めて欲しい。私を信じ、道を共にしてくれるかどうか……」


 頼りなく揺れるソアルジュの瞳にロシェルダは頷いた。

 逃げてしまった先程の自分を恥じていた。酷い事をしたと詰っていた。そんな自分にやり直す時間を与えられるのだ。

 今度こそ思うままに心を開き、考え、決めたい。


「……はい」


 目を合わせて頷くロシェルダに、ソアルジュは嬉しくなって、もう一度彼女を抱きしめた。


 ◇


 二週間後、王命によりロシェルダは隣国へと旅立った。

 そしてセヴィアンの婚約者の身体に病の片鱗を見つけ、それを癒すと、やがて婚約者の身体からアザも消えていった。


 王太子とその婚約者はいたく感激し、彼女を侍女に召し上げた。

 やがてその働きぶりと希少な力故に、彼女を養女にという話が貴族の中から持ち上がる。

 その中で彼女の祖国である隣国に娘が嫁ぎ、医師として城に従事している、フィーラ・ロアウロ侯爵家がその役を担う事となる。フィーラとロシェルダが師弟関係にあった事が、決め手となった。


 隣国と自国、両方の王族を救った奇跡の治癒士。

 平民でありながら高位貴族の養女になった彼女に、実は

ずっと熱心な求婚者がいる事は、公にはされていなかった。

 


 どうか二国の架け橋となるように。そんな願いを込めて。

 また、治癒士による病の献身を受けた事で、王太子夫妻は何より彼女の希望を優先させた。

 そして両国の話し合いの上、ロシェルダをその求婚者の元へ────祖国へと帰した。


 ロシェルダが祖国を発ってから一年が経っていた。


 ◇


「ロシェルダ!」


 迎えの馬車を駆け降りながらソアルジュが泣く。

 

「やあ、久しぶりロシェルダちゃん。元気だった?」


 手を振りながらリオドラ公爵が笑いかけている。

 ロシェルダはソアルジュに向かって急ぎ歩いた。

 平民の時のように駆けて行く事は出来ないけれど、でもこの早さが一番彼の近くにいけるのだ。


「ソアルジュ様!」


 嬉しさと切なさにソアルジュに飛び込むロシェルダの胸は、あの頃と違い、彼に負けぬほどの恋慕が溢れていた。

 たった二週間のソアルジュとの語らいで、ロシェルダは彼の切実な想いと誠実な気持ちを沢山受け取った。胸に淡い恋心を覚える位には。

 その想いを胸に国を発ち、遠距離で少しずつ想いを育てていったのだ。

 ソアルジュはそんな彼女を受け止め破顔する。


「やっとロシェルダを連れて帰れる」


 ロシェルダもまた目を潤ませて笑った。


「ソアルジュ様、私は……リオドラ公爵家に嫁げる淑女になれましたでしょうか? あなたの隣に立てますか?」


「ああ……ああ……!」


 ソアルジュはロシェルダをぎゅうと抱きしめて何度も頷き、歓喜に打ち震えた。


 二人で努力し続けた。

 遠く離れていても手を取り合って、共に生きる未来を目指し、歩いてきた。


「良かったねえ、ソアルジュ」


 いつもの調子で口にする義父の声に優しさを感じるのは気のせいかもしれないけれど。

 それ位嬉しくて、幸せで。

 腕の中の大事な人に笑いかけ、笑顔を返されれば愛しくて。


「ロシェルダ、私と結婚してくれるかい?」


 詰まる想いを打ち明けるように、ソアルジュはロシェルダに泣き笑いの顔を向けた。


「はいソアルジュ様。喜んで」


 ロシェルダもまた涙を浮かべて笑って応えた。

 そうして額を寄せ合い、二人一緒に幸せを噛み締めて、笑った。




 祖国に戻り、ソアルジュの婚約者となったロシェルダは、その一年後、公爵夫人となる。そして生涯治癒士として国に貢献し、また、公爵夫人として夫であるソアルジュを支え、共に生きた。


 とても仲睦まじい夫婦として。




 ◇ おしまい ◇

 

読んで頂いてありがとうございました(*'ω'*)

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