罪(2)
それは春の終わりのことだった。佐平次ら下っ端の若党ら数人が蔵の片付けを言い使った時のことだ。
古い巻物を探すように、との言いつけだった。巻物の形をしていればなんでもいい、とにかく探し出してこいと言われた。佐平次はもう一人の者と共に、いくつもある蔵のうちでもっとも古いものをあたるように命じられた。
蔵は二階になっていて、言いようもないほど古く、長い間人の手が入っていないようだった。足の踏み場、通り道を見つけるのにも一苦労するほど散らかっていて、においと埃で息をするのも憚られるほどだった。
――時間がかかりそうです。
一度外に顔を出して場を取り仕切る小頭に言うと、頬のこけた上役は横目に佐平次を見て「つべこべ言わずにやれ」とぶっきらぼうな答えを投げつけてきた。
都に上る前、まだ貧しい村で暮らしていた頃、山一つ越えたところで戦が始まると伝え聞いた。都の守護職を務める相州家が武装した僧院を征伐するのだという。僧どもは戦備えを固めて迎え撃つという話だった。佐平次は時機が巡って来たと思った。サムライになれるかもしれない。佐平次は身支度を整えて相州の軍に加わった。
それから相州に仕えて三年近く、若党といえば聞こえはいいが、サムライには程遠い。佐平次はいつも雑役夫のように扱われてきた。「食わせてもらえるだけありがたいと思え」というのが、上役の口癖だった。嫌味をいうか、人を馬鹿にするぐらいしか能のないやつで、まるでただの下僕のように佐平次たちをこき使った。
身なりをよくしろ、とまるで汚いものを見るような目で言うこともあったが、佐平次には身なりを整えるだけの実入りもない。武家に籍を置いているのだから、町に出てサムライを名乗るのは勝手だが、見る者が見れば有象無象の端者とすぐに見破られてしまう。町人は形ばかりへりくだって見せても、胸の内では嘲笑っているとしか思えなかった。
「牛馬ならまだいいさ。あいつらは飼葉も与えられるし手入れもされる。財産だからな。俺たちは使い捨てさ」
同僚が佐平次にそう言ったことがある。それは本当のことだった。
それでも、それ以前は都から五、六里も離れた山間の村で人とも畜生ともつかないような暮らしをしていたのだから、まだましだと思うほかなかった。
サムライにさえなれればいいと思っていた。そのあとはどうとでもなる、万事うまく行くだろうなどと。
都ではまつりごとがうまくいっていない。将軍家はいま、自分がどこを歩いているのかもわからないまま歩き続ける老人のように自滅をはじめている。雲が集まっては大きくなり、ぶつかりあっては散り、どこへともなく流れながら消えていく様に、都には様々な力が生まれ、時には火花を散らしながら蠢いていた。
佐平次が籍を置いた相州家も、高い地位を築きながらその裏で絶えず勢力争いに骨身を削っている。うわさによれば、より強大な権力の座を狙っているとも。
サムライなどは暗い雲が渦巻く空を必死に渡ろうとする鳥の群れの一羽にすぎない。そこに安住しようとするなど考えるだけでも愚の骨頂だった。風を読めず嵐に巻き込まれるような者なら早晩命を落とすだけだ。それにさえ無自覚な者は生きる資格がなかった。
暴力を、流血さえ恐れなければサムライとしてやっていける、というものではなかった。誰もが醜くいじましく生きるためにもがく都にいて、佐平次はいつしか自分で選んだはずの道に唾を吐くようになった。
その時も「わかりました」とだけ返事をして佐平次は蔵に入っていった。
中では同僚がもう黙々と仕事にとりかかっている。どこから手をつけようかとあたりを見回していると「お前は二階を」と言われて、大して考えもせずに請け合った。階段に足をかけると、踏み板が紙でできているのかと思わせるほどたわむ。おそらく同僚はこれを嫌がったのに違いない。
汚れた手ぬぐいで口を覆い、ぐにゃぐにゃする足元をおっかなびっくり階上にあがっていくと、天窓から差し込む薄明かりの中に、背丈ほどの高さに積み上げられ、光の届かない奥のほうへどこまでも続くかのように並べられたつづらや木箱があらわれた。
――これを全部か‥‥。
そう思うだけで気が滅入ったがやらないわけにもいかない。燃え移っては大事だからと灯りも使えない中、佐平次は手当たり次第に品物を検めはじめた。
天気のいい日で、蔵の中はひどく暑かった。佐平次は床を軋ませながら動き回り、汗だくになって働いた。開けてみて巻物の類があれば階段の踊り場のそばにまとめて置いておき、そうでないものには糊を染み込ませた紙切れを舐めて貼り付けておくのだが、なんにせよただのゴミとしか思えないようなものばかりだった。
「おい!もっと静かに歩けよ。お前が上を歩くたびに埃がどさどさ降ってきやがる!」
階下から大声が聞こえて来た時、ふと、壁際にひとつだけぽつんと置かれたつづらに目が止まった。蓋の上に何かが乗っている。剣だ。埃にまみれているが黒く染められた刀袋に入っている。佐平次は「うるせえ、ざまあみろだ」と怒鳴り返して手を伸ばした。
どうしてこんなところに剣が置かれたままなのだろう。佐平次は口紐を解いて刀袋をつづらに放ると、左手で鞘を掲げ持ち、右手で剣を抜いた。伸ばした腕の先に、漆黒に艶めく刀身が伸びていた。
――これは‥‥。
手首を返して、近くで見てみると石でできているようだった。黒い石で象られた剣は半ば透き通っているようで、見つめていると吸い込まれてしまいそうな気がした。
佐平次は石造りの剣など見たことがなかったから、これは飾り物なのだろうと思った。どこかの石工が美しい石から彫り出して献上したのだ。もしかすると相州にではなく、他の誰かに献上されたものが回り回って来たのかもしれない。
どんなに美しくても、さすがに使いようはないだろうと思いながら軽く振ってみると、意外なほど手に馴染んで扱いやすかった。試しに片手で持ったまま、手首をきかせてつづらに当ててみると、刃は木の皮で編んだ漆塗りのつづらをすっと割いた。
飾り物などではなかった。
不思議な剣だった。佐平次はこんな剣を見たこともなければ、聞いたこともなかった。
佐平次はどうにかして剣を自分のものにしたいと思った。ここにこの剣があることなど誰も知らないのではないか。さもなければ、なぜこんなところに置きっぱなしになっているのだろう。誰にも知られないうちに、自分の物にしてしまえばいい。しかし、どうやって持ち出す?
佐平次はあれこれ思い惑った。腰にさしてのこのこ表に出るわけにもいかない。なんといってもこれは相州家の物だ。盗んだとわかればただではすまされない。郎等とはいえ所詮下っ端、首を撥ねられても不思議はない。かといってこんなものがありました、と報告すれば、二度とこの剣を手にすることは叶わないだろう。
少なくとも、今、これを持って出るのはまずい考えだった。
佐平次は刀袋に剣をしまうと、かたく口紐を結わえた。それからつづらの蓋を開けると中のものを確かめようともしないで、剣をその中に隠し、検め方がすんだことを示す紙を貼り付けた。
*****
「それから二月のあいだ、俺の頭の中にはいつもこの剣のことがあった」
佐平次が剣を鞘にしまいながら言った。
「頂くだけ頂いてどこかに隠しておけばいい、と思ってはいたがどうにも頃合いが掴めなかった。ところが、相州は何を考えているのか、もう一度蔵を検めると言い出したんだ。もしあの蔵に別のやつが入って、あのつづらを開けたらそれで終わりだ」
「で、ついにやってしまったわけか」
呪洞はやれやれという顔をしている。
「バレたらただでは済まんぞ」
「もう戻らん」
佐平次は吐き捨てるように言った。
「なぜだ」
「厄介なことがひとつあった」
「なんだ」
佐平次はひとつ、大きく息をついて切り出した。
「蔵を出たところで、夜回りの者に見つかった」
「なんと」
「斬ってしまった」
伽世が小さく悲鳴をあげて、口元を手で覆った。
首尾よく蔵に忍び込み、あのつづらを開けて剣を手に入れた。そこまではよかった。
ところが蔵を出て閂を締めなおしているところで、夜警の者に見咎められた。
「何をしている」あからさまに怒気を含んだ声が言った。「ゆっくりとこっちを向け」
夜警が手にした灯りをかざした。蔵の壁に佐平次の影が大きく映し出された。
佐平次は振り向いた。夜警の男は、はじめて剣を手にした日に作業を取り仕切っていた小頭だった。
「‥‥苦土か?こんなところで何をしている」
佐平次は何も言わなかった。小頭が近寄って来る。
「どこかで見た風な者だと思ったから、あえて斬らなかったのだ。一体何をしている」
佐平次はこの男をこころよくは思っていなかった。相州に仕えるようになってからずっとこの男の下で働いてきたが、まともな扱いを受けたことがない。
小頭は、佐平次が脇に抱えた剣に気づいた。
「お前‥‥それは。盗んだのか」
佐平次は顔を背けたまま答えなかった。
「突き出してやる、野良犬めが。おれは端から貴様は臭いと思って‥‥‥‥!」
佐平次は脇をゆるめて抱えていた剣を地面に落とすと、片手でどん、と小頭をつきとばした。
「貴様‥‥っ!」
佐平次は自分の剣を抜いた。一瞬、太刀筋が白く軌跡を描き、首筋に喰い込んだ刃が肉と骨を断つ音がした。佐平次はすっと足を引いて間合いをとった。首から泡を立てながら血が噴き出す。
口から出ているのか喉から出ているのか、小頭は「あが、あが」と言葉にならない音を発しながら白目を剥いて倒れた。
佐平次は逃げた。
*****
「そんなつもりはなかったんだ」佐平次の声は弱々しかった。「頭が真っ白になった。勢いで斬ってしまった」
伽世が哀れむような目で佐平次を見つめた。佐平次は弱々しく伽世を見つめ返した。
「追われているのか」
「わからん。あの晩追ってくるものはいなかった。しかし剣のことに気づいたかどうかはともかく、小頭が斬られ俺の姿がないとなれば、怪しまれるのは当然だろう。事実俺がやったのだし、とりつくろう気もない。かと言って沙汰を受ける気もない」
「これからどうするつもりだったのだ」
「さあ。俺は都を出るつもりだった。どこか田舎の大将のところで用心棒の口を探すとかさ」
「サムライになる機会を失ったのかもしれんぞ」
「いいさ。木っ端侍なんていくらやってもしょうがない。なんとか食っていけるというだけで、犬のように扱われるだけだ。生きてるうちにも入らない。捨て駒さ。小さな戦にいくつか出たが、敵を多少討ったからといって、すぐに位が上がるわけでもない。順番があるのさ。上にいる奴がまず偉くなる。無能を絵に描いたような阿呆だろうとね。そいつの下についてりゃ、そのうちおこぼれがまわってくるかもしれない。しかし、俺はもうごめんだ」
「お前に斬られた小頭というのもお前と同じだったのかもしれんな」
佐平次は気まずさに胸がつかえて黙り込んだ。血を噴きながら倒れる小頭の顔が脳裏に浮かび上がる。
「済んだことだ。もうどうしようもない」
つきまとう蝿でも追い払うように佐平次は思考を断ち切った。それでも胸は鉛を流し込まれたように重かった。
人は簡単に死ぬ。飢えて死に、病で死に、追い剥ぎにあっても死ぬし、下手をすれば転んだだけでも死ぬのだ。今日生きていたものが明日も生きているとは限らない。大したことではない、よくあることのはずだ。
そう思い込もうとしたが、どうしても心は軽くならなかった。
「ちなみにそれはいつのことだ?」
「あの夜さ」
佐平次が言っているのは、二胡と遭遇した夜のことだった。
「魔がさしたよ。なにもかも。あの夜は何もかもがおかしかった」
佐平次が歯噛みするように言うと、重たい沈黙が部屋中を覆い尽くした。
「喋りすぎたよ‥‥」
「おぬしは悪い人間ではないようだ」呪洞が見透かしたように言った。「すこし捻くれとるようじゃがな」
「生まれつきさ」
佐平次は口の端を歪めて言った。自分を嗤うことに慣れているのだった。
「済んだことは確かに済んだことじゃ。あとはおぬし次第だ」
呪洞が諭すように言った。
*****
「ところで」
伽世が言った。ずっと険しい表情で二人が話すのを聞いていたが、声はやさしげだった。
「おふたりともお腹が空きませんか?」
「そういえば、そろそろ昼飯の頃合いじゃの」呪洞も調子を合わせるように応える。「佐平次も腹が減ったろう」
「うん‥‥よくわからん」
目が覚めてからここまで、食事のことなどまったく思わなかった。不思議と空腹を感じない。
「三人で食事にしよう」
呪洞の言葉に、伽世は「お仕度いたします」と言って下がっていった。障子にうつる伽世のきれいな影が廊下の端に消えていく。