遭遇(3)
「しかし、まだ立っておる。大したものじゃ」丹胡は本当に意外そうに言った。「そろそろ終わりにせねばな」
そう言って丹胡は東の空を見やった。
日の出。それがこの妖の刻限なのだ、と佐平次は悟った。しかし、血を失ってすでに朦朧としている佐平次にとって、太陽が姿を見せるまでには永遠にほど近い時間がかかるように思われた。
もう次の一撃を逃れる余裕は残っていない。
「丸腰だな」
丹胡が上目遣いに佐平次を睨みつけ、口を大きく開いて猫か蛇のするようにしゃあ、と乾いた音を立てた。
「剣はもう一本ある」
「千本あっても変わらぬ」
佐平次は腰に提げていた、もう一本の剣を抜いた。
あらわれた刀身は黒水晶――丹胡の瞳――のように黒く、夜明けの青みがかった空気の中で不気味なきらめきを帯びて光った。
「覚悟はできたか」
「余計なお世話だ」
荒い息をつきながら、口の端を歪めて佐平次が言った。
「やはり餓鬼など放って置けばよかったんだ。畜生めが‥‥」
剣を下段に構えて、ぼうっとする頭で佐平次は独り言ちた。腕から流れ落ちた血が剣を濡らす。
「あるいはこれが業というものか‥‥」
気の利いた辞世でも詠めればいいのだが、と思いながら言葉が口をついて出てくるのに任せていた。
丹胡が動いた。佐平次が話し終えるのを待つ気はないようだった。ぶつぶつ喋っていたせいで、佐平次はわずかに反応が遅れた。
佐平次は破れかぶれに剣を振り下ろした。無意味な剣だった。丹胡とはまだ距離があった。間合いも何もなかった。もう他にどうもしようがなくて、ただ剣を振り下ろしただけだった。
その時――。
漆黒の剣の軌跡から、弓のように弧を描いた光の塊が放たれて橋の上を走っていった。
ぎゃっ、と醜い悲鳴がして丹胡が動きを止めた。
腕で顔を庇いながらよろめいている。
「今のは‥‥」
佐平次には何が起こったのかわからなかったが、光が迸るのは確かに見た。佐平次は丹胡によろよろと駆け寄り、残った力のすべてで切りつけた。
もう一度、剣が光を放った。迸るようなものはなかったが、閃きのような残像を見せながら刃は妖に喰いかかった。
鈍い音がした。背筋が寒くなるようなひどく耳障りな音。佐平次は愕然とした。丹胡は両手の爪をかきあわせて佐平次の剣を受け止めている。
しかし、剣は丹胡の爪を叩き斬り、指を切り落としていた。丹胡は左右に残った二、三本の爪で剣をせき止めていた。
剣と爪の隙間から、丹胡が佐平次を見ていた。瞼が引き攣り上がって、まあるい目玉が飛び出しかけている。
丹胡がするどい奇声とともに両手を開くと、佐平次は虫けらのように軽々と吹き飛ばされ、橋板に転がった。なんとか体を起こしたが、片膝をついただけでそれ以上力が入らなかった。
佐平次の眼前に、丹胡が立った。美しかった顔に火傷のような傷ができている。むき出しの目玉。荒い息をつき、開いた口から舌の先をだらしなく出している姿は、地獄絵で見た冥府の鬼のようだった。
――ここまでか‥‥。
観念した佐平次が深く息をついた時、丹胡が低いうなり声をあげた。光が差し込んで佐平次の視界が光で満たされ、霧が散っていく。
丹胡ははじかれたように身を翻すと元いた渡り口の方へと駆け出し、すぐに見えなくなった。
佐平次には、結局のところ、何が起こったのかまるでわからなかった。丹胡を見送ってしばらく呆然としていたが、そのうち刀を杖のように使って、ふらふらと力なく立ち上がった。
朝日を浴びる、河岸に連なった家並みが、ぐにゃりと揺らいだ。限界を超えた痛みは、もはや痛いとも感じられなかった。
佐平次は腰に剣を差して、どちらへともなく歩き始めたが、すぐに大きくよろめくと一回転しながら欄干を越えた。
激しい流れが嫌な記憶を洗うように、佐平次を飲み込んでいった。