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GOOD SAVAGE  作者: 慈音邸良
2/15

遭遇(2)

 


 佐平次が先に立って歩きだしても、童女の方はなかなか動こうとしなかった。佐平次が振り返り、さあ、と促しても立ち尽くしたままだ。


「どうしたのだ」


 佐平次が訊いても童女はもじもじして答えなかった。


「やっぱり恐ろしゅうて」


「何が恐いのだ」


「いえ‥‥。なにということもなく、なにもかもが」


 それを聞くと佐平次は声に出して笑いながら言った。


「恐ろしいことなど何もない。俺がこうしてついているのだから」


 妖が出たらこれで斬ってやる、と刀に手をかけながら冗談めかして言う。


「‥‥はい‥‥‥」


 それでも童はうつむいたまま下くちびるを少し噛んで、小さく震えている。佐平治はしょうがない、とでも言いたげにひとつ息をつくと、童に背中を見せてしゃがみこんだ。


「おぶってやろう。その方が早い。さあ背に乗るがいい」


 そう言いながら、両の手をひろげて童をうながす。


「ありがとう存じます」


「いいさ」


 佐平次は童を背負って橋を渡り始めた。霧が何か見せたくないものでもあるみたいにその先を覆い隠していた。



 ***



 背負った童は絹のように柔らかく、綿毛のように軽かった。


「ところで」佐平次が振り向きながら訊いた。「名はなんと言うのだ」


丹胡にこと申します」と答えた。かすかに花の匂いがした。


「珍しい、しかし美しい名だ」


 夜と朝のはざまに愛らしい童女を背負って橋を渡るなど、どこか現世うつしよばなれしている。向こう岸の町なみは朧な影となって藍色の闇にしずみ、夜空を注がれたように黒く流れる川は時折ところどころできらりと光った。激しい水音をもう耳は忘れたようだった。いつしか霧に吸い込まれていったとでも言うように少しも気にならなかった。

 佐平次は急いでいたことも忘れて、ゆっくりゆっくりと歩いていた。


 遠くで笛の音が聞こえるような気がして、佐平次が足を止めた。


「おぬしか」


 それは丹胡の歌だった。甘いさびしげな声で、ずっと昔に聞いたようなきれいな歌を唄っていた。


「いい歌だ」佐平次が足を止めて言った。


「ありがとう存じます」丹胡は歌うのをやめて静かに応えた。


「邪魔してしまった。もう少し、聞かせてくれ」


 ふいに丹胡が佐平次の耳元に口を寄せて言った。


「お望みなら」吐息が耳をくすぐる。「最後まで」


 橋の中頃に差しかかったところだった。東の空の低いところに、ほんのかすかに明るみの兆しがあったが、日の出までにはもう少し間があった。どこからか、長く淋しげに鳴く鳥の声が聞こえた。聞き覚えがあったが、鳥の名前は思い出せなかった。



「歌いましょう。あなたのお弔いの歌ですから」


 丹胡が小さなくちびるから舌を出して、佐平次の耳をぺろ、と舐めた。


「なに‥‥」


 次の瞬間、佐平次の右耳に激しい痛みが走った。



 ***



 佐平次は言葉にならない叫び声をあげた。丹胡が佐平次の右耳に喰らいついていた。


 その硬く鋭い感覚は歯ではない。牙だとすぐにわかった。なんの容赦もない凶暴な力が皮膚を突き刺し、すぐ下の骨に食い込んだ。生温かく湿った息と、濡れた舌が耳に触れた。


 なんとかしなくては、と身をかがめるが、それ以上のことはできなかった。無理に引き剥がそうとするのは無意味だ。


 ごり、と嫌な音がした。骨が抉られて皮膚が裂け、耳を喰いちぎられた。佐平次は叫んだ。


 吹き出したぬくい血が首筋を流れ、肩を濡らしていくのがわかった。


 佐平治はぐっと踏ん張り、両手を首の後ろに伸ばして丹胡の着物を掴んだ。激しい痛みに抗いながら、歯を食いしばり、橋板に叩きつけるように丹胡を投げとばした。


 丹胡は宙空でくるりとまわり、ひねりながら、まるで猫のように両手両足をついて橋の上に降り立った。



 佐平次はわけがわからなかった。恐る恐る血が流れ出るあたりに手を当てると、そこにあるはずの耳がない。手がべったりと血にまみれ、見ればその血が薄蒼い闇の中で油のようにぬらぬらと光って見える。


「お耳を頂きました」


 丹胡が言った。涼しげな声音にはわずかな乱れもなかった。


 佐平次は顔をあげ、丹胡を見た。そこにさっきまでの美しい童の姿はなかった。目は大きく開かれてつりあがり、白目ばかりの目が禍々しく光る。


 ――妖。


 その表情かおに人間らしい感情を探すことは無理なことのように思えた。黒く血で汚れた口元に鋭い牙が覗いた。指先が光るのは、人のものとは到底思えぬ凶暴な爪が生えているからだった。


 その顔と変わらない長さの爪の先で、つかんでいた耳を袂にしまうと丹胡が事もなげに言う。


「残った方も頂戴したいの」


 右の耳元から流れ出る血は止まりそうな気配もなかった。どくどくと大きく脈打ち、衣擦れのように耳障りな音が聞こえる。その音に混じって、また、長く淋しげになく鳥の声が聞こえた。


 佐平次は思い出した。それは虎鶫とらつぐみの声だった。


 凶兆を告げる声にうながされるように、佐平次は剣を抜いた。



 *****



 深い藍色の闇が次第にあかるみを帯びていく。東の空はあけに染まりはじめている。


「驚いたぞ‥‥妖などこの世にはおらぬと思っていた」


 佐平次が自分を嘲るように口元を歪めると、丹胡もまた不敵な笑みを浮かべた。


「しかも、おぬしがその妖とは‥‥愛らしい姿に目が眩んだ俺はたわけよ‥‥」


 佐平次は間合いを計りながら剣を抜き、構えた。丹胡は眉ひとつ動かさなかったが、目に宿った禍々しい光はさらに強まったようだった。


「姿が童であろうと容赦はせん」


 そう思った一瞬の隙に、丹胡が矢のような速さで襲いかかってきた。明らかな殺意をもって繰り出された爪が、左腕の肉を抉り取っていった。まばたきをする程の時間もなかった。もし佐平次が反射的に避けていなければ、爪は心臓を貫いていた。


 ――ちぃっ。


 佐平次は剣を斜めに切り上げたが、傷のせいで思うほどには腕が振れない。丹胡はやすやすと剣を避け、大きく跳ね上がると欄干に乗り移る。そして間髪入れずに勢いをつけてふたたび飛びかかってきた。


 今度は佐平次も読んでいた。その目は異常な速度で迫りくる妖を確かに捉えた。剣が閃き鋭く唸った。

 しかし、叩きつけるように振り下ろした刃も丹胡を捉えることはなかった。並みの相手ならば十分すぎる一撃だったに違いないのだ。丹胡はわずかに体を入れ替えて剣をかわすと、佐平次の襟元を切り裂き、着地してから剣を叩き落とした。

 佐平次の衣が黒く染まり、剣はくるくると風車のように回りながら橋の上をすべっていく。


 佐平次は追いつめられた小さな動物のように必死に後ずさって距離をとった。もう動揺を隠しきれない。表情はけわしく歪み、肩で息をしている。


「造作もない」


 丹胡が冷たく言った。


 ――敵わない。


 佐平次は橋の上で不意に現れた殺人者と対峙しながら、自分の命が相手の手の内にあることをまざまざと感じた。目の前の妖が、人間の勝てる相手とは到底思えない。飢えで死ぬのとも、戦で死ぬのとも違う。舞台が入れ替わるようにみずからを取り巻く世界が変わり、なんの予兆もなく自分が死ぬのだということに不思議な驚きを覚えた。


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