地を這うもの(2)
呪洞は黒拉を見つめたまま話し続けた。
「夜半に、黒拉の声がして目が覚めた。物音がして部屋を見てみると、黒拉が涙を流しながら、床を這いまわっていた」
「『どうしたんだ、俺は。いったいどうしたんだ』と泣いていた。立ち上がろうとして立てず、横になろうとしてなれず、自分でもどうにもできないようじゃった」
「始まった変化は止まらなかった。どういうわけか顔だけは人間の面影を残しながら、日に日に言葉を失い、表情を失っていった」
「黒拉は刻々と姿を変えていた。蛹が成虫になるように、そばで見ている分には何も変わりないが、席を離れて戻ってくると、明らかに変化していた。瘡蓋をこそげ落としたり、薬を与えたりしたが結局、役には立たなかった」
「わしが怖れたのは黒拉が理を失うことじゃった。理を失えば、もう人間ではない。何をしでかすかもわからん。わしは黒拉に言った。まだ言葉が通じるかどうか、確信はなかったが」
「人の心を失ったとき、万が一にも都に迷い出るようなことがあってはならん。人の目に触れてはならん。人目につかない場所へ身を隠せ、と」
「黒拉はまだ言葉を解した。そして声にもならぬような声で、自分を殺せ、と言いおった」
「わしは必ず元に戻す方法を探す、と黒拉に言った。黒拉は話を聞き入れ、わしと一緒にここまで来たのじゃ」
*****
呪洞の話を聞くあいだ、佐平次は絶句していたが、やがて大きく息を吐いた後、口を開いた。
「息子どのは、丹胡に噛まれたと言ったな」
その声はわずかにうわずり、震えていた。
「そうじゃ」
「俺も噛まれた」
「そうだ」
「俺も息子どののようになるのか」
「わからん。しかし変化は突然には起こらんようだ。様子をみるしかない」
不気味な兆しならあった。傷の回復する異常な早さ、失われた味覚。不安と怒りがないまぜになった感情が佐平次の中で渦巻き始める。
「なんてことだ。あの丹胡とは一体なんなんだ?」
「憑き物の類であろうが、本当のところはわからん」
畜生、と吐き捨てて佐平次は忌々しげにその場をぐるぐると歩きまわった。ちいさな箱の中で、壁にぶつかる度に向きを変える鼠のように。
「わしらの手で突き止めるしかない」
呪洞の声は冷静だった。佐平次は立ち止まって、抑えていたものを放つようにまくしたてた。
「わしらなんて軽々しく言うな。俺は手を貸すと言った覚えはない。突き止めるしかない、などと簡単にいうが、なにを突き止めるつもりなんだ。あれは人に非ざる者だ。我々の道理が通用する相手ではない」
「しかし、おぬしにも何が起こるかわからん。なにもしない、などという道理はない」
呪洞は揺れる明かりに照らされながら、毅然と佐平次を見つめ返した。
佐平次は我に返ってばつが悪そうに目をそらした。
「わしにもわからんことだらけだ。しかし手がかりがあるとすれば、おぬしとここにいる黒拉、それに丹胡と名乗った妖の他にはない。おぬしは丹胡と対決し、聞いたところ手傷を負わせ今もこうして生きておる。おぬしの手を借りるのが、今手の内にある中で一番まともな策にちがいない。丹胡を捕らえたところでどうにもならぬかもしれんが、そうしないことには始まらん。捕らえて、できるかぎりの調べを尽くしたい」
「調べたらどうにかなるのか」
「毒を以って毒を制すということができるやもしれん」
「そんなことが本当にできるのか」
「わからん。やってみなければわからんのだ‥‥。力を貸せ」
乱暴に言い放った呪洞が体を折り曲げるように頭を下げた。きれいに剃り上げられた頭が、蝋燭の光を反射する。
佐平次は呪洞がそうまですることに驚いた。
「顔をあげてくれ」
佐平次は落ち着きを取り戻して言った。
「御坊には助けてもらった恩がある。俺とて自分の身に何が起こるのかわからんのだし」
呪洞が真剣な眼差しで頷く。
「どのみち行くところがあるわけでもなし、しばらく付き合おう‥‥しかし、ひどいにおいだ」
堪忍してくれと、佐平次が苦笑いする。
「まずは、一旦外に出るのが先決のようじゃな‥‥」呪洞が黒拉を振り向いて言った。「待っていろ、そのままにはしておかん」
黒拉はいつのまにか奥の階段のところに戻って、夢の中にいるようにどこか遠くを見つめている。
二人が洞の出口に向かうと、周囲を照らしていた光の輪が徐々に小さくなり、『這いまわるもの』はまた闇の中に閉じ込められた。
*****
洞穴の外に出ると、日が西に傾きはじめていた。
「暮れると厄介じゃ。まず山をおりよう、話はそれからだ」
呪洞の言葉に佐平次も頷き、来た道を戻った。
寺に着くまでふたりともずっと黙ったままだった。
佐平次は洞穴で見た、かつて人だったという蜥蜴のことと、自分の体の中で何が起こりうるのかという、そのふたつだけを考えていた。
時々、着ている物からあの洞穴と蜥蜴のにおいがたちのぼるような気がして、何度かにおいを嗅いだ。