遭遇(1)
夏の夜明け、都がまだ水に溶いた藍のような闇に沈んでいる頃、霧のたゆたう川べりの道に、サムライと思しき男がひとり現れた。
男は背が高く、肩が広い。髷を結わずに長く伸びた髪を後ろでしばっている。切れ長の目が甘く、通った鼻筋と引き締まった顎をしていた。片手で腰から下げた二本の刀を押さえながら、すこし荒い息で早足に通りを下っていく。砂地の道を蹴る草履の音が拍動のようだ。
男は一町ばかり先に架かる橋を渡ろうとしている。都の内と外をつなぐ橋。明るい時分なら、朱に塗られてゆるい弧を描く姿がもう見えているはずだが、今は夜明けにもやや間があるし、なにより霧が濃い。
ふいに男が立ち止まり、通りを振りかえった。何かの気配を感じたようだったが誰も居はしない。そこには闇と霧があるだけだ。
先を急ごうと前に向き直って、男ははっとした。
橋の渡り口、霧に紛れて誰かがいる。男は眉間にしわを寄せ、闇のむこうに目を凝らした。
その何者かは男に気づく様子もなく、ただ立ち尽くしている。
男の脳裏をどこかで耳にした話がよぎっていく。
――そういえば、近頃町人どもが噂している橋とはここのこと……。
男が聞いたところでは、霧の濃い朝に橋を渡ると、ちょうど中ほどで何やら妖の類が現れて通行人を殺してしまう、というのだった。そして、その妖の手にかかったものはみな一様に耳を削ぎ落とされていたのだという。
噂には幾通りかあって、現れるのは妖ではなく死神で、謎かけ問答の末に答えられなかった者を殺すのだとか、ぷるんとして歯ごたえの良さそうな人の耳の味を覚えた鬼が酒の肴を求めているのでは、などという者もいた。
春にはじまり、もう幾人も犠牲になっていた。侍所の者がもうしわけ程度に見回ってみるが、そんな時には当然の様に現れない。
男は妖の存在などまるで信じていなかった。都で人死は何もめずらしいことではない。大方、賊に襲われ身ぐるみ剥がされて川に捨てられた者を見て、町人どもが退屈しのぎに人の興を煽るような話をでっちあげたのだろうと、男はそのぐらいに思っていた。
「妖、か‥‥」男はゆっくりと歩き出しながら独り言ちた。「本当にいたとして‥‥」
そして静かに鯉口に手をかける。
「斬って通るさ」
男は名を苦土佐平次といった。
***
折り重ねた紗の覆いを剥がすように、霧の中を進むにつれて視界が明らかになっていく。
そして佐平次は一足ごとに自分が思い違いをしていたことに気がつく。
霧に惑わされて見誤ったのか、そこに立っていたのは、まだ年端もいかないような童だった。
童は川向こうを見つめて立ちつくしている。朱の寝間着をまとい、おろした髪は肩まで届いている。どこかの姫であろうか立ち姿にも品がある。
賊か妖かなどと、一瞬でも思い惑った自分を嘲笑って佐平次は口の端を歪めた。
――それにしても童が、こんな時間にこんなところで。
そうは思っても佐平次は童にかまうつもりなどなかった。そもそも佐平次にとって童などはうるさくて目障りなだけで、餓鬼か小鬼そのもののようなものだった。
***
佐平次が通り過ぎてしまおうと足を早めた時、童が振り向いた。二人の目が合って、佐平次はまた立ち止まった。
年なら十になったかどうかというような女の童。黒水晶のような大きな瞳。小さな顎に、深い藍色の闇の中でかすかに濡れたように光るくちびる。佐平次は童女の美しさにちいさく息を飲んだ。まるで人形のようで、生きているとはにわかに思えないほどだった。
この世ならざる美しさを前にして、佐平次は時間を忘れた。
そっと風が吹いて霧がゆるやかに流れた。
「お侍様」
風が鈴を揺らしたように聞こえた。
佐平次は童女が言葉を話したことに驚いて我に返った。
「どうしたのだ」
童などほうっておけ、と頭の奥の方から声がしていた。けれど佐平次は応えた。
「お侍様」
花びらが落ちる滑らかさで童がそっと佐平次に近づいて言った。
「私を連れて橋をわたってはくださいませんか」
童女は佐平次を見つめた。背筋を伸ばして凛とした佇まい。どこか人を使い慣れたような、姿に似合わない威厳があった。顔立ちは幼くても、人の心を射抜くような眼差しをしている。
佐平次は身なりが良くない。着物は着古して縁が擦り切れかけているし、草履は何度も直したあとがある。向かい合う二人を側から見れば、佐平次は従者のようにしか見えない。
「なぜだ。こんなところで何をしている」
佐平次は自分の声音が思いのほか強いことに気づいた。先を急いでいるせいだ。しかし、この童に対して居丈高に振る舞うのは、ひどく下衆なことのように思えた。
「飼っている猫が騒いで飛び出して行ったので、追いかけてきたのですが‥‥」
童女はとまどい、困り果てたように言った。
「猫‥‥」
「気づいたらこんなところまで来ていました。霧も深くて‥‥気味悪うございます」
「家は」
「橋向こうにございます」
橋は都でも指折りの大きさだった。何日か雨が続いたせいで勢いづいた水音が聞こえてくる。幼い者が怖がるのも無理はない。夢中で飛び出して来たものの、ふと我にかえって怖気付いてしまったのだろう。
「お侍様はどちらまで」
「俺か。俺は都を出ようと思っているだけだ」
「橋向こうまで。どうか私を連れていってくださいませんか」
童女がすがるように言った。
「いいだろう」佐平次は来た道を振り返りながら言った。二人以外には人の気配もない。
「どのみち俺もこの橋を渡ろうとしていたのだから」