五月 二
その時心地よい暖かさが、大入町の全体を覆っていた。澄み切った青空と穏やかな空気のお陰で、この日も屋外で洗濯物を干す家が殆どであった。
その時町の一角に存在する喫茶店「れいんぼう」は、いつも以上の賑わいに包まれていた。晴れやかな天候やこの日が週末だという事実も相まって、店内に用意された席は全て埋め尽くされている。
その為この店の従業員も務める七橋家全員が、総動員でそれぞれ対応に追われている。父・大海と母・紅緒、そして長女・桜香の三人は厨房で調理を受け持ち、長男・橙太は足りなくなった食材の買い出し、三女・美空はレジ打ちに汗を流す。残る次女・若葉と居候・蓮司の二人は、至る所の接客に務めている。次から次へと湧いて出る注文の数々に、誰一人として休憩出来るような余裕などなかった…………。
「…………はぁぁ……やっと落ち着いたぁぁ…………」
その時大量の疲労感が込められた息を吐きだしながら、店内のテーブル席で顔面を卓上に付着させる若葉の姿がそこにはあった。しかもそれは彼女だけではない。若葉とともに接客を行っていた蓮司や、他の作業で忙しかった橙太や美空も、同様の事が言えた。
「も……もう駄目ぇぇ…………」
「身体中がが……もう持ちません…………」
「皆……こんなに頑張ってたんだね……知らなかったよ…………」
つい先程までの忙しさにどうにか耐え抜き、もはや顔を上げる気力すら残っていない四人の姿がそこにはあった。
するとそこへ現在の彼らにとって、まさしく“救いの女神”といえる女性が姿を現した。
「皆、本当にお疲れ様。今ジュース持ってくるからね」
「うん……ありがと……お姉ちゃん…………」
その時蓮司達の前に登場したのは、先程まで厨房で調理を続けていた桜香だった。自身も疲れを癒し切れていないにも関わらず、店内の座席で憔悴している蓮司や弟妹達の様子を確認し、もう一度厨房へと引き返す。
暫くしてもう一度戻ってきた彼女の両手には、数個の氷が沈められた四人分のオレンジジュースが載せられた盆が抱えられてあった。
「はい、どうぞ」
「あ……ありがとう…………い……いただきます…………」
すっかり枯れ果ててしまった声の若葉が、全員を代表して姉の優しさに感謝の意を述べる。すると憔悴し切った四人は早速、桜香から差し出された目前のコップを手に取り、自らの口へと近づける。そして残された最後の力を振り絞り、手にしたコップを傾けさせ、渇き切った喉へと流し込ませていく。
「…………」
その時細やかな“燃料補給”を続ける彼らの姿を、桜香は何も語らず見つめていた。夢中になって飲み続ける彼らの邪魔をしてはいけないと、彼女は十分理解していたからだ。
やがて全員の持つコップの中身が消費し尽くされた瞬間、蓮司達四人は一斉に同じ一言を口にする…………。
「ぷはぁっ!生き返ったぁっ!」
その時それと同時にテーブルから離れた彼らの表情は、これ以上ない程の満面の笑みに包まれていた。その言葉通り、まさに死の淵から生還を果たしたような喜びに満ちた笑顔であった。
「よかったわ、皆元に戻れて!」
そんな蓮司や弟妹達の様子を傍で見届け、安堵の表情を浮かべる桜香の姿もそこにはあった。
するとここで若葉が彼らを代表して、自分達の窮地を救ってくれた姉へ向けて、改めて感謝の言葉を述べる。
「本当にありがとう。お姉ちゃんのお陰で私達助かったよ…………」
「どういたしまして。皆がこうして頑張ってくれたから、私から何かお礼がしたかっただけよ」
桜香は微笑みながら返答した。その時そんな彼女に続くように、蓮司達四人も自然と笑みを取り戻していった…………。
その時だった。
「っ!」
突如として出入口上部のベルが鳴り、扉が開く音が店内に響いた。新たな客人が入店してきたのだ。それに合わせて五人は休息を止め、その客人を迎え入れる準備を進める。
「いらっしゃいませ…………ってあれ?」
その時七橋家を代表して声をかけた若葉だったが、何故かそれが中途半端な終わり方となってしまった。何故ならこの時客人として入店したのが、彼女にとって意外な人物だったからであった…………。
「し……シロちゃん…………?」
その時落ち着いた雰囲気の「れいんぼう」に立ち寄ってきたのは、蓮司と若葉の同級生である少女・白山麗子であった。若葉が彼女と再会し、尚且つ蓮司が彼女と初めて出会った入学式の日に着用していた制服姿とは異なり、白く輝いて見える私服姿が、この日の麗子の服装であった。
「やっほー若葉ちゃん!来ちゃった!」
この日も見た目の清楚さからは想像もつかないような、若葉に負けない明るさを全員に披露する。
「白山さん!どうしてここに?」
蓮司がそう言って来店の理由を尋ねてみると、麗子は素直に返答した。
「今日は休日だしお天気もいいから、久しぶりにこのお店に来てみようかなって思ったの。最初はお昼頃に来てみたんだけど、何だかお客さんが一杯で皆忙しそうだったから、ちょっと時間を置いてから来る事にした、という訳!」
あまりにも明朗な口調で発せられた彼女の説明ではあったが、それもあって誰一人その説明に疑問符を浮かべる者はいなかった。特に蓮司と若葉に至っては麗子の性格を十分理解していた事もあり、いち早く理解を示していた。
「わざわざ来てくれてありがとう。丁度お仕事も一段落したところだから、しっかりとおもてなし出来るよ。さあ、ここ空いてるから座って!」
「ありがと、若葉ちゃん!それじゃあ遠慮なく…………」
その時若葉がテーブル席の一角を指し、麗子はそれに従いゆっくりと席に座った。そして麗子はテーブルに置かれたメニューを手に取り、早速その内容に目を通していく。
「…………」
やがて一通り見終わったところでメニューの料理名を指さし、注文したい物を伝えた。
その時注文を受け取った蓮司が厨房へと駆けていくと、麗子は続いて店内の様子を眺め始めた。そこでは若葉や橙太、美空達兄弟からの説明も相まって、麗子は改めて七橋家の歴史について知る事が出来た。
そしてその間厨房の奥からは調理担当の桜香が腕を振るう様子が、聴覚や嗅覚を通して伝わってきた。
やがてその時麗子が注文した料理が運ばれてくると、彼女は澄んだ瞳を溢れんばかりに輝かせた。暫く目前の料理を見つめたところで、麗子は自らの掌を一つに合わせる。そして手元に置かれた食器を手に取り、早速目前の料理を自身の口元へと運んでいく…………。
「…………ごちそうさまでした!」
その時彼女の目前には、何も置かれていない食器のみがその場に残されていた。先程まで存在していたはずの料理の数々は、既に麗子の胃袋へと移されていたのだ。随分と満足した表情を浮かべた彼女は傍にある紙ナプキンを手に取ると、今度はそれで口元を綺麗に拭い始める。
するとそんな麗子の傍にいた若葉が少々心配そうな表情で、目前の麗子に一言尋ねてみた。
「ど……どうだった?…………うちの料理…………」
それを訊かれた彼女は口元の紙ナプキンを手元に置くと、今度は若葉の方へ視線を移し、先程の質問に返答する。その時彼女が浮かべていた表情は、答えを聞かなくても簡単に理解出来そうなものであった。
「とっても美味しかった!私すっかり気に入っちゃったわ、このお店!」
「ほ、本当?よかったぁ」
今回客人として来店した親友からの感想を聞いた若葉は一安心し、ほっと胸を撫で下ろした。そんな彼女に対し、今度は麗子から一言発せられる。
「もしまた機会があったら、こうしてこのお店に立ち寄っても構わないかしら?」
それに対する若葉の反応は、誰もが予想がついていた。
「もっちろん!何時でもお越しくださいな!」
それを聞いた麗子は安堵の表情を浮かべる。そしてそれと同時に揃って笑顔を見せる二人の姿が、その場にいた全員に印象深く映し出された。
「…………それにしても」
するとここでそんな二人に声をかけたのは、彼女達の様子を傍らで窺っていた蓮司であった。彼からの発言に二人は即座に反応し、蓮司の方へと目線を移す。
「どうしたの、クロちゃん?」
その時彼が続いて発したのは、若葉と麗子に関する質問であった。
「二人とも本当に仲がよさそうだね。高校生活初日のあの時も、クラスが一緒だったのを凄く喜んでいたし。何時から二人はそこまで仲よくなったんだい?」
その問いに対する返答は、若葉が代表して蓮司に伝えた。
「小学校に入学してからだよ。丁度クロちゃんが引っ越したその後に、シロちゃんがこの町に引っ越してきたんだ」
すると今度は麗子もまた、二人の会話に介入してくる。
「確かそうだったわね。そういえば初めて若葉ちゃんと出会った時、いつも暗い顔してばかりだったっけ。いくら私が話しかけていっても、ずっと俯いてばかりで…………」
「えっ!?そ、そうだったっけ……ははっ、た、確かそうだったか……な…………」
その時親友から発せられた一言に若葉は動揺し始め、突然口調が狂い出してしまった。しかも彼女の顔をよく見てみると、いつの間にか真っ赤に染まってしまっている。
この事態を目の当たりにした蓮司は、少しばかり興味を持った状態で、赤面する彼女に声をかけてみる。
「へえ、それはとても珍しいね。俺そんなとこ見た事ないよ。若葉が暗い顔になった所なんて…………」
若葉はその理由を、少々不機嫌そうな面持ちで答えた。
「あ、当たり前でしょ!一番の友達だったクロちゃんが、突然いなくなっちゃったんだから…………」
「…………ごめんね」
親友がそこまで気を落としてしまった事に責任を感じ、彼女に頭を下げる事しか出来ずにいる蓮司。そんな彼の行動に対し、若葉は再び笑顔を取り戻し、首を横に振ってそれを否定する。
「ううん。謝る必要なんてないよ。もう随分前の話だし、こうしてクロちゃんとも再会出来たんだしね!」
「若葉…………」
若葉がそうやって明るく振舞った事もあり、蓮司にもまた明るい表情が舞い戻ってきた。
「…………そうだわ!」
「!?」
その時大声でそう言い放ち、勢いよく両手を叩いた人物がいた。笑顔を取り戻したばかりの蓮司と若葉、そしてその二人の一部始終を静かに眺めていた橙太と美空は揃って驚愕し、また揃って声の発信源に目線を移動させた。どうやら声の正体は、唯一の客人だ。
「折角大勢いるんだし、それに懐かしい話も出たんだから、皆で小学校の思い出話をしましょうよ!丁度そこにもほら、現役女子小学生さんもいらっしゃるんだし!」
麗子はそう提案すると、今度は彼女が言う“現役女子小学生”にあたる美空を見つめ始める。対する美空は「私ですか?」と言わんばかりに自らを指差し、首を傾けてみせる。それを見た麗子は優しい笑みを浮かべながら、首を縦に振る。
「あらあら皆、何だか盛り上がってるみたいね。ちょっと私も加わってもいいかしら?」
その時彼らに声をかけてきたのは、先程まで厨房で働いていた長女の桜香であった。未だにエプロンを着用したままではあったが、そんな彼女の登場に、若葉も麗子も大いに喜んだ。
「丁度よかった!これからみんなの小学校時代の思い出話をお喋りするところだったんだ。お姉ちゃんも加わってくれたら、更に盛り上がる事間違いなしだよ!ねっ、シロちゃん?」
「確かにその通りね。それに私、実は前から知りたかったんです、桜香先輩が一体どんな小学校時代を送ってきたのかが。ずばりこの際聞かせてもらってもいいですか、桜香先輩?」
大好きな姉でもあり、尊敬する大先輩でもある桜香から思い出話を聞いてみたい。そんな妹やその親友からの願い事を、この時の彼女は全く拒む気配を示さなかった。
「それは面白そう!こんなに大勢が揃ってのお喋りなら、楽しくないはずがないものね。それじゃあ皆、ちょっと待っててね」
その時桜香は敢えて五人の元へは向かわず、逆に彼らに対し背を向けて、再び厨房の奥へと歩みを進めようとする。その途中で彼女は一旦立ち止まり、五人の方へともう一度振り向き、片目を瞑る。
「今から皆の分の飲み物、用意してくるからね…………」
…………その時全員分の飲み物を桜香が用意し終えたところで、早速六人の思い出話が幕を開けた。それぞれが喜怒哀楽に満ちた話題を上げ、時に共感し、時に驚嘆する場面も少なくなかった。そして最も特徴的だったのは、六人全員から笑顔が消え去る瞬間が、一切見られなかった事であった…………。
…………その時全員の思い出話のネタが底をつき始めてきた時、店外の空はいつの間にか茜色に染まりきっていた。偶々麗子以外の客人が来店してこなかった事もあり、六人による思い出話が予想以上に盛り上がり、その結果だいぶ遅い時間帯まで会話が続いてしまったのだ。
その時「れいんぼう」の玄関口では、店員からのもてなしを受けていた麗子が、何度も何度も頭を上下に動かし続けていた。自分をここまでもてなしてくれた五人への感謝の思いと、長時間にわたって店内に居座り続けてしまった事への謝罪の気持ちが、彼女の行動へと発展させていたのである。
「も、もういいんだって!それ以上頭動かしてると、そのうち何処かに飛んでっちゃうよ!」
一向に制止する状況に差し掛からない親友の身体を心配し、焦りを募らせながら抑えようとする若葉。
「あ……ああ、ごめんなさい!また私、皆に迷惑かけちゃった…………」
自らの行動が彼らを困惑させてしまった事を反省し、思わず表情を暗くさせる麗子。しかしそんな彼女に対する五人の発言からは、そのような様子は一切見られなかった。
「そんな暗い顔しないで。私達はそんな風になんて思ってないわよ」
「そうだよシロ先輩!むしろ皆で沢山お喋り出来て、僕とっても嬉しかったよ!」
「もしまた機会がございましたら、何時でもこちらにいらっしゃってください」
まずは桜香、次に橙太、そして美空と続いて、最後に若葉と蓮司から客人に向けて声をかける。
「シロちゃん、今日は楽しい時間を作ってくれて、本当にありがとう!」
「また皆でこんな時間が過ごせるのを、楽しみに待ってるよ」
その時徐々に小さくなっていく麗子に向かって、五人は大きく手を振り続けていた。そして彼らがはっきりと分かるように、彼女もまた大きく手を振り返していた。その表情には先程までの暗さは一切なく、代わりに沈みゆく夕焼けに似た明るさを帯びていた。
「…………若葉、そしてクロくん」
やがて完全に麗子の姿が見えなくなったところで、桜香は傍らの二人に話しかけた。それに合わせて彼らが振り返ると、彼女は微笑みながら一言呟く。
「二人に素敵なお友達が出来て、私とっても嬉しいわ!」
その時彼女からの一言を受け、若葉も蓮司も揃って嬉しさを溢れさせた。そして先程の麗子と同様の表情を浮かべる。更に残った橙太と美空の二人も、とても羨ましそうに微笑んでみせる。
するとここで桜香が注目を集めるように強く手を叩き、これまでと大きく話題を変えさせる。
「…………さ、そろそろ晩御飯の準備をしないと。もうこんな時間だし、お父さんもお母さんもそろそろ帰ってくるからね」
「はーい!」
他の五人は彼女からの呼びかけに応じて、皆が元気よく返事した。そして全員が笑顔を絶やさないまま、夕食の支度をしに店内へ入り込んでいく。
やがて外出していた大海と紅緒も帰宅し、すっかり日が沈み切った頃には、蓮司を含めた七橋家全員が食卓を囲んでいた。そして蓮司達五人で完成させた温かい夕食を口に運びながら、麗子との深い交流を両親にも語り続けていく。その時語っていた蓮司、若葉、桜香、橙太、そして美空の表情は、相変わらず満面の笑みを保っていた。