五月 一
――――その時大入町の街並みを陣取っていた肌寒さは既に追放されていた。その代わりに招待されてきた温暖な空気が、反対に盛大な歓迎を受けていたようであった。
その時商店街から少し離れた位置にある一軒の喫茶店では、二人の従業員が店内の清掃に明け暮れていた。黒い髪と瞳の男性が床を箒で、緑の髪と瞳の女性がテーブルを布巾で、それぞれ丁寧に掃除している。その容姿や背丈から、二人とも高校生の少年少女に間違いない。
「…………よしっ!テーブル拭きはこの位でオッケーかな」
ここで明るい口調で語った少女がテーブル拭きを済ませた模様で、自らの成果を改めて確認する。念入りに清掃されたお陰で一面が鏡のように輝き、彼女の顔がはっきりと映し出される程であった。
「こっちも終わったよ!これならお客さんが不快に感じる事はなさそうだね」
もう一人の少年も優しい口調で語り、二人が今いる店内の至る所を眺めてみた。彼の言った通りどこもかしこも整備されていて、これ以上の清掃は必要なさそうだ。
するとここで少女が少年の方へ視線を移し、彼が着用している服装を指差して笑みを浮かべる。
「そういえばクロちゃん、この家で居候を始めてから、もう一か月も経ったんだよね。君のそのエプロン姿、随分と様になってきてるよ」
「ほ、本当?とても嬉しい……けど、ちょっと照れちゃうな…………」
その時店名の「れいんぼう」に相応しい、虹の刺繍が施されたエプロンを着た自らの姿が絶賛されたのを受け、思わず照れ笑いを浮かべる“クロちゃん”という少年。
彼の本名は黒川蓮司。高校入学を機にかつて過ごした大入町へ舞い戻り、ひょんな事からこの店を切り盛りする七橋家に居候する事が決まった少年である。
そんな彼に対し目前の少女はすぐさま近づき、彼の背中を優しく叩く。
「大丈夫だよ!もっと自分に自信を持って!」
「ははっ分かったよ、ありがとう若葉」
その時彼女からの言葉で励まされ笑みを浮かべる蓮司と、彼からの感謝の言葉を笑顔で受け止める、七橋家の次女・若葉の姿がそこにはあった。
するとここで蓮司が店の窓から、ふと外の様子を確認した。車道を挟んですぐ傍を流れる大河とそれに架かる橋、対岸に聳え立つ小高い丘が、彼らのいる「れいんぼう」から眺められる景色だ。若葉にとってはごく当たり前の光景を、彼は何処か意味あり気な表情で眺めていた。
「…………」
「…………?」
彼が何故そのような表情を浮かべているのか気にはなったものの、彼女はあえて問いただそうとはしなかった。
そんな蓮司の口から、こんな台詞が呟かれた。
「…………そういえば今頃、二人とも買い出しを終えたはずだろうね」
「そうだね。そろそろ帰ってきてもいい頃なんだけど…………」
店内にかけられた時計に目線を移しながら、若葉は彼の言葉に返事する。どうやらこの店の住人二人が外出し、何らかの目的の為に近くの商店街へ向かっているようであった。途中から蓮司も時計を見つめ始めた事で、店内から“音”が消失する。
その時だった。店の玄関に備えられたベルが鳴り“音”を取り戻したかと思うと、今度はその玄関の扉が勢いよく開き始める。
「あっ!噂をすれば…………」
待ってましたと言わんばかりに若葉が扉に目線を移し、それに続いて蓮司も同様の行動をとる。
やがて完全に開き切った扉の向こう側から店内へと入り込んできたのは、一組の少年少女であった。紅葉色の髪と瞳が特徴的な少年と、空色の髪と瞳が特徴的な少女。そんな二人が両手に大量の食料品が詰まった買い物袋を持ちながら、目前の蓮司達に声をかける。
「ただいまミド姉、それにクロ兄も」
「お二人に頼まれた食材を、しっかり買ってきました」
帰宅の挨拶を代表して口にした少年と、若葉達の要件に合った食材を披露した少女。そんな二人を称えるかのように、若葉は彼らの頭に手を当て、優しく撫でる。
「橙太、美空、お勤めご苦労様!手伝ってくれてありがとね」
その時姉からのお褒めの言葉を受けた、七橋家の長男・橙太と三女・美空の二人は、恥ずかしさの中にも何処か誇らしげな表情を浮かべていた。
そんな三人の様子を微笑んで見つめた後、今度は蓮司が彼らに声をかけてくる。それは今店内にいる四人だけで考え出された、とある“計画”に繋がっていた…………。
「…………これでようやく準備が出来るんだね、桜香さんの誕生日パーティー!」
蓮司と若葉にとっては高校の二学年年上の先輩にあたる、七橋家の長女・桜香。成績は校内で上位に入る優等生であり、料理研究部の部長を務める人物でもあり、彼女を慕う同級生や後輩達も少なくない。その腕前を十分に生かし、「れいんぼう」では調理の手伝いも率先して行っている。
そんな彼女の誕生日は、ゴールデンウィークの一日目にあたる五月三日。この記念日を翌日に控えた今日、桜香の誕生日を盛大に祝福する計画を、彼らは準備していたのである。
…………その時店内のカウンターには、つい先程橙太と美空の協力により集められた、色とりどりの食材が並べられていた。こんがりと焼かれた食パンを中心に、新鮮な野菜や肉類、果物も用意されてある。
「これだけ揃えばお姉ちゃんの喜ぶ、とびっきりのご馳走が作れるよ!」
目前に並んだ食材を確認しながら、満面の笑みを浮かべる若葉。そしてそれらの入手に成功した橙太と美空も、同様に誇らしげに微笑む。そんな三人の様子を見つめてから、蓮司は若葉に声をかける。
「…………でも嬉しいな。こんなに大事なイベントに、まさか俺まで参加出来るなんて…………」
すると若葉は彼の肩を叩き、単刀直入にこう答えた。
「そんなの当たり前だよ。クロちゃんがこの家で暮らし始めて、もう一か月も経ったんだよ?君はもう立派な、私達家族の一員だって!」
「そうだよクロ兄。クロ兄が僕のお兄ちゃんになってから、毎日が本当に楽しく感じられるんだ」
「私もそう思っています。そして桜香お姉さんも、絶対に私達と同じだと思いますよ」
その時店内にいた七橋家の三人が、蓮司へ向けて満面の笑みを浮かべて、彼を家族の一員として認めてくれた。彼らが見せたその思いを、蓮司は素直に受け止めた。
「ありがとう、皆…………」
するとここで若葉が強く手を叩き、全員の注目を自身に向けさせた。そして翌日う開催される大きなイベントに向けて、進行役を務める事となった。
「それじゃあこうして食材が事だし、早速明日のメニューを考えていこう!お姉ちゃんが帰ってくる前にメニューを決めて、明日の朝早くから料理出来るようにしておこうね!」
「うん!」「おーっ!」「はい」
その時若葉の掛け声に合わせて、三人も高らかに声を上げた。そしてそこからこの四人による、翌日に向けた会合が開始された。その時商店街を吹き渡る風は、これまでの暖かさを維持したままであった――――。
――――その時昨日と同じ穏やかな風が、大入町の至る所を巡っていた。新緑に染まった木々やようやく咲き始めた花々が、その暖かさを全身で受け止めていた。
町の玄関口にあたる駅から少し登った場所に、広々とした公園が存在する。遊歩道や休憩所などが完備され、休日になると家族連れで賑わう、町民達にとって“憩いの場”といえる公園である。特にこの時期は遅咲きの桜が見ごろを迎え、大勢の観光客も足を運んでくる。
「…………いい眺め!」
その時遊具が揃う地点からもう少し登った、丁度大入町の街並みが一望出来る場所で、蓮司を含めた七橋家の家族全員が集合していた。青色の髪と瞳の男性と、赤色の髪と瞳の女性が協力して、色々と準備を進めていく。その間蓮司達五人は、目前に広がる街並みを見つめながら、暫くの間会話を楽しんでいた。
「昨日の天気予報通り、いいお天気になりましたね」
「確か去年は雨だったから、ここで“お祝い”が出来なかったんだよね」
「そうだったね。だから今年は去年の分も合わせて、盛大な“お祝い”にしていこう!ましてや今回はクロちゃんという、新たなメンバーも含まれてるからね」
その時若葉、橙太、美空の三人の間で会話が盛り上がる中、蓮司と七橋家の長女・桜香との間での会話も続いていた。
「…………今日は本当にありがとうございます」
「え?どうしたの?急にそんな事言うなんて…………」
会話の最中に突如として蓮司から発せられた感謝の言葉を、桜香は不思議に感じた。そこで何気なく問いかけてみたところ、彼は青空を仰ぎながらその理由を語り始めた…………。
「…………一か月前にこの町に戻ってきたあの時の俺は、何もかも思い浮かびませんでした。これから何処に行けばいいのか、これから誰を頼っていけばいいのか、全く。そんな中で偶々立ち寄ったのが、七橋家の家族が住む『れいんぼう』でした。そこで懐かしい皆さんと再会した時、俺は自分の状況を教えてみようと思ったんです。少しでも俺の事を分かってくれる皆さんなら、何かいいヒントを教えてくれるかもしれないと思って……」
「そうだったのね……」
桜香が温かな眼差しのまま、蓮司の言葉を聞き入れていた。彼の言葉は更に続く。
「最初に若葉の提案を聞いた時は、本当に驚きました。久しぶりに会った俺を歓迎してくれただけじゃなく、まさか家族の一人にしてくれたなんて。そしてあの時から今日までの一か月間、こんな俺に優しく接してくれた事に、心から感謝したかったんです」
こうして感謝の理由を述べ終えた蓮司は、その場で一回深呼吸してから桜香へ再び頭を下げた。すると今度は彼女の口から、こんな言葉が発せられた。
「…………それは君だったからよ」
「え?」
その時突然予期せぬ返事に驚く蓮司を見て、優しい微笑みを披露する桜香。そして彼女もまた言葉を続ける。
「クロくんがどんなにステキな男の子なのかは、同い年の若葉や家族の皆、それに私だってよく知ってるわ。だから一か月前のあの時、君と久しぶりに会えて、しかも私達の事もちゃんと覚えててくれて、とっても嬉しく感じたんだよ。特に若葉ときたら、君と暮らし始めてから暫くの間、ずっと君との思い出話ばかり話してたのよ!」
「ほ、本当ですか!?そ、それはちょっと恥ずかし過ぎるなあ…………」
思わぬ話を暴露され顔中を真っ赤に染めてしまった蓮司は、傍らで弟妹と談笑する若葉をふと見つめてみる。すぐに感づき彼の方を向いてみたものの、何故彼が顔を真っ赤にしているのかが理解出来ず、頭上に大きな疑問符を浮かべる。
そんな二人のやり取りを微笑ましく見つめてから、桜香は最後にこう締めくくった。
「私達家族にとってクロくんは、文句なしで家族の一員と言っても不思議じゃない。その位に君という存在が、とても重要なものに変わっていたのよ。これまでの君への対応が、その事をしっかり表現しているだけよ!」
「桜香さん…………!」
自分はこの七橋家の家族として受け入れられている。改めてその事を知った蓮司は、心の底から喜びと感謝の感情を溢れさせていた…………。
「…………おーい、皆!」
「準備が出来たわよー!こっちに来てー!」
その時これまで準備を続けていた、若葉達四人の父・大海と母・紅緒の二人が、蓮司を含めた五人に声をかける。どうやらこれから開催される“大イベント”の準備が、完全に整ったようである。
「はーい!」
その時五人は明るい声で反応し、すぐさま両親の元へと向かう。それと同時に周囲を吹き抜ける優しい風も、背中を押して彼らを手助けしていた…………。
…………その時公園の桜に程近い箇所に敷かれたシートの上に、蓮司を含めた七橋家の七人が輪を描く形で腰かけている。その中央には蓋がされた大きめのバスケットと、しっかり人数分用意された空のカップが用意されている。
その時目前のバスケットの中身が誰よりも気になっている様子の、桜香の姿がそこにはあった。そしてその様子を微笑ましく見守る六人の中から、次女の若葉が咳払いを一回行い、彼らを代表して進行役をこなす。
「こほん……えー本日はお日柄もよく……」
「おーいミド姉、そんなに真面目なのは似合わないよーっ!」
あまりにも畏まった若葉の言葉に橙太がいちゃもんをつけると、全員揃って笑いが止まらなくなってしまった。暫くしてようやく治まったところで、瞳を潤す物を浮かべた若葉がそれを拭い、再び進行を続けた。
「では改めまして、今日はお誕生日おめでとう、お姉ちゃん!私達からの誕生日プレゼントを、美味しく召し上がれ!」
その掛け声に合わせて、桜香以外の五人も彼女に祝福の言葉を贈る。
「皆ありがとう!それじゃあ早速頂く事にするわね…………」
そして今回の主役である桜香がそう口にすると、目前に用意されたバスケットの蓋に手をかける。ほんの些細な緊張感の中、彼女は一呼吸置いたところで、いよいよ閉ざされた中身が開放の時を迎える…………、
「…………わあっ!とても美味しそう!」
…………その時バスケットの中に用意されていたのは、様々な具材が挟まれてあるサンドイッチの数々であった。定番の野菜サンドは勿論、玉子サンドやツナサンド、フルーツサンドにジャムサンドなど、どれから食べ始めようか迷ってしまう程の量である。
すると突然若葉が内部に手を突っ込み、数種類ある中から一つのサンドイッチを取り出す。そしてすぐさまそれを、傍らの姉へと手渡す。
「はい、お姉ちゃんが大好きなハムサンド!」
「あっ、ありがとう!」
するとそんな二人の様子を見つめていた紅緒が、水筒のコーヒーをカップへと注ぎながら桜香に話しかける。
「若葉も橙太も美空も、貴方の為に精一杯考えてくれたのよ。しかも今年は黒川くんもいてくれたから、計画が尚更捗ったらしいわよ」
「そうだったんだ。皆本当にありがとうね。勿論クロくんも」
母からの言葉を受け、桜香はこれ程のもてなしを計画してくれた四人に感謝の弁を述べ、改めて頭を下げる。それに対し彼らは揃って、自身の首を横に振る。
「私達にとって当たり前の事をしただけだよ。だから頭なんて下げなくていいよ……ほら、早く食べて。そうしないと私が代わりに食べちゃうんだから!」
はいはい、と妹からの催促の言葉を二つ返事で応え、桜香は早速手渡されたハムサンドに齧り付く。弟妹達から差し出された心のこもったプレゼントを、十分に味わいながら噛み締めていく。それを一回、また一回と繰り返していく彼女の様子を、極度の緊張感を持って見守る四人の姿がそこにはあった。
そして噛み続けたそれをしっかりと飲み込んでみせ、その味の感想を込めた表情を彼らへと披露する…………、
「…………とっても美味しいわ!皆の思いがしっかり詰まっていたから!」
…………その時彼女の感想を知った若葉、橙太、美空、そして蓮司の四人は、心の底から喜びを爆発させていた。彼らが発した喜びの声が、町中へと響き渡ってしまいそうだった。そんな子ども達の様子を、両親である大海も紅緒も大変微笑ましく見つめている。
するとそこへ桜香が声をかけてきた事で、四人は一旦落ち着きを取り戻させる。そして桜香は自らバスケットを指し示し、優しい口調でこう呼びかける。
「皆も一緒に食べましょう!こんなに美味しいサンドイッチ、早くしないと私が独り占めしちゃうわよ!」
先程何処かで聞いたことのあるような言葉が発せられ、四人はそれに応えて一人ずづ、バスケットからサンドイッチを取り出していく。全員が一個ずつ手に持ったところで、声を合わせて「いただきます」と叫び、殆ど同時に頬張っていく。彼らもまたその美味しさを口いっぱいに感じ取り、満面の笑みを浮かべる。
ただしその中で唯一、他とは異なる表情を浮かべる人物がいた…………。
「…………あれクロちゃん、どうしたの?涙なんか流しちゃって。そんなにサンドイッチ美味しかった…………?」
「えっ?あっ、そっ、そうなんだよ!想像以上に美味しかったからつい……」
「ははっ、それならよかったっ!」
…………その時自分達で作ったサンドイッチを口にし、ふと空を見上げた蓮司の瞳から、一滴零れ落ちていた。それに気づいた若葉が確認すると、彼は照れ笑いを浮かべ、今度は咲き誇る桜の花を見つめた。そんな親友の行動を、彼女は少々からかうように微笑み、同じく桜に目線を移す。
その時彼らの周囲を横切った春風が、桜の花弁を何枚も土産にして、大入町の上空へと飛び去っていった。