七月 一
その時大入町から見上げた空は青一色のみで、何処を見渡しても白い絵の具を一滴垂らしたような箇所は確認出来なかった。それによって完全に素顔を露わにした真っ赤な太陽が、自身の存在感を存分に発揮させていた。それが無防備な町のありとあらゆる箇所の温度を、じわじわと上昇させる手助けを続けていた…………。
その時町の商店街の一角にある喫茶店では、経験豊富な扇風機が早速任務を果たしていた。一時はサウナと同等の状態にまで陥っていた店内に、“恵みの涼しさ”を隅々にまで行き届かせていたのであった。そしてその風は店内だけでなく、カウンター席で動けないままの状態に陥っている黒色の瞳と髪の毛の少年と、緑色の瞳と髪の毛の少女にも、確実に癒しの世界へと誘い込んでいた。
「はぁ、涼しい…………」
「もうここから、動きたくない…………」
外の空気は照り付ける陽の光の影響で、止まる事なく熱を帯び続けていく。それでも二人が席を陣取る店内はこの為に召喚された“救世主”のお陰で、快適な温度を保つ事に成功している。彼らにとってこの状況は、まさしく“天国”と呼ぶに相応しい環境へと変化していたのだ。
その時二人は相変わらずその場から全く動こうとしないまま、唯一口だけを働かせて会話を続ける。
「それにしても俺達だけでこの中を独占してるのが、何だか物凄く申し訳なく感じるよ。今頃皆この暑さの中で、それぞれ頑張っているはずだから…………」
「そんな事考えなくていいよクロちゃん。皆それぞれきちんと役割分担してる訳だし、この後は私達の出番だってちゃんと用意されている訳だし…………」
本人が言うように何処となく気まずい感覚を覚えながら、ほんの少し暗い表情を浮かべる少年“クロちゃん”と、それに対し彼を一切非難する事なく、寧ろ大らかに対応する少女。そんな二人がテーブル上で互いに見つめ合ったところで、再び彼が呟き出す。
「ううん、それだけじゃないよ若葉。知っての通り俺は居候の身、七橋家の皆には尚更役に立たなくちゃいけないから…………」
すると若葉と呼ばれた少女は突如としてその場から起き上がり、呆れた表情でクロちゃんに一言苦言を呈した。
「何言ってんのクロちゃん、君は今私達と同じ“家族の一員”なんだよ。家族は家族らしく、これからも分け隔てなく接していくつもりだから。そのつもりでい、て、ね!」
「はっ、はいっ!わ……分かりました…………」
その時そう告げられた現在の彼にとって、彼女に逆らえる余地は少しもないようであった…………。
「…………ただいま!」
「あっ、おかえり!」
その時これまで涼しさに包まれていた店内に、外からの暖かい空気がとともに、四人の男女が入店してきた。奥には青色の瞳と髪の毛の男性と、紅色の瞳と髪の毛の女性、そして手前にはその二人にそっくりな顔立ちをした橙色の瞳と髪の毛の少年と、空色の瞳と髪の毛の少女の四人だ。四人ともまるで重力と格闘しているかのように、その両手で重そうな荷物を抱えていた。
そんな彼らの来店を心待ちにしていたかのように、若葉が早速元気を取り戻した状態で、特に手前の少年少女に声をかける。
「さてさて二人とも、“例の物”はちゃんと手に入ったかな?まあ何時だっていい物が揃ってるから、不安に思う事はなかったけどね」
「うん!ほら見てよこれ!こんなにたっくさん!」
「私達の思っていた以上に、沢山取り寄せる事が出来ました」
その時満面の笑みを浮かべながら二人が披露したのは、ビニール袋から今にも溢れ出てきそうな程収納された、色とりどりの野菜の数々であった。それらを嬉しそうな表情で抱えたまま、今度は奥の男女が語り始める。
「これだけ沢山材料が揃った事だし、早速始めるとしよう」
「今回は今ここにいない桜香の分も含めて、とっても美味しい料理に変えていきましょうね」
その時その場にいる全員が口を揃えて掛け声を合わせ、拳を高々と突き上げた…………。
…………その時喫茶店「れいんぼう」の調理場では、先にエプロン姿への着替えを済ませた“クロちゃん”こと黒川蓮司と、七橋家の次女である若葉の二人の姿があった。蓮司は調理に使用する道具や食器を、そして若葉は先程四人から受け取った大量の食材を、それぞれ丁寧に水洗いしていた。
そんな束の間の二人きりの時間を利用して、蓮司と若葉は和やかに語り合っていた。
「そういえばこうしてクロちゃんと一緒に“あれ”を作るなんて、本当に久しぶりだよね」
「幼稚園の時まで遡るんだっけ。あの時の俺にとって、物凄く印象深い思い出の一つだよ」
「そう?そう言ってもらえると、私としては何だか嬉しいな。よおし、今日はお姉ちゃんにも美味しく食べてもらう為に、頑張ってお料理しないとね!」
「そうだね!今日は一緒に頑張ろうね!」
その時二人は互いの拳を軽くぶつけ合って、改めて今回の調理に取り組もうと決意を固めた。そしてその頃には食材や道具の水洗いも終了し、二人とともに調理が開始されるその瞬間を待ち望んでいるようであった。
やがて下準備もある程度終了したようだが、それでも他のメンバーは未だに姿を現さない。そこで二人はこの時間帯を利用して、改めて思い出話を進める事に決めた。勿論今回作り上げる予定である料理も話題に加えて…………。
「…………幼稚園でやった料理体験だと、若葉も同級生だった事もあって、毎回ここが全面協力してくれてたよね。調理器具も揃ってたし、食材だって簡単に調達出来たし、何しろ“料理の専門店”で作るんだから、失敗する事なんてないだろうって思えたから」
「皆もうちの事を信頼してくれてたのもあって、何時でも順調に進んでいけたよね。おにぎりとか、サンドイッチとか、スイーツも沢山作ってたっけ。本当に皆が手順通りに作ってくれたから、何でも美味しく感じちゃってたなぁ」
「それだけ『れいんぼう』の味が一級品だったっていう事だよ。現に俺もその一人。特に今回作る“あれ”は、我が家のよりここの物の方が美味しかったよ。何しろ家で作るといつも分量を間違えて、結構水っぽい奴になっちゃってたし」
「そ、そうなんだ……で、でも、そんな事言っちゃって大丈夫?万が一この事をお母さんが聞いちゃったら…………」
「ははっ!心配いらないよ若葉!それについては両親二人とも理解してるから、大丈夫なはずだよ。多分…………」
「いやいや、ここはクロちゃんが自信なくしちゃいけない所でしょ」
「あ、ああ、そうだね…………」
…………その時二人の会話がどうやら気まずい状況に陥ってしまい、互いにこの後伝えるべき言葉を失くしてしまっていた。この時点でそこには蛇口から流れる水道水のみが、すっかり“音の主導権”を握っている。
「…………まあ、とにかく!」
「?」
その時水の音しか聞こえなかった調理場に新たに響き渡ったのは、若葉の声であった。それに反応した蓮司が思わず彼女に目を向けたところで、若葉は先程よりも一層はっきりとした口調で、一言言い放った。
「クロちゃんにはこの日を持って、七橋家が認めた“最高の職人”に変身してもらうんだから!いつか君がここを離れて両親と暮らすようになった時、二人に最高の逸品をご馳走出来るようにね!」
若葉はそう言うと目前の蓮司と視線を合わせ、満面の笑みを浮かべてみせた。これまで彼が常に見つめてきた、飾り気のないいつもの笑顔を。そして対する蓮司もまた彼女の思いを素直に受け取り、こちらもまた穏やかな笑顔で返事した。
「そう考えてくれてありがとう。それなら若葉の期待に応えられるよう、しっかり練習を積み重ねていかなきゃね」
「うん、そういう事!」
その時彼からの言葉を素直に受け取った若葉は、先程より更には事件ばかりの宇賀尾を見せつけた。そして二人は見つめ合い、そのまま同時に頷いた。まるで彼らの考えが少しの誤差もなく、完璧に揃っているのを感じたように…………。
「…………おーい、お二人さーん」
「…………!」
その時突然彼らの耳に、つい先程まではその場に存在しなかった、明らかに聞き覚えのある新たな声が飛び込んできた。そのせいで二人は揃って驚愕し、一気に冷や汗が大量に流れ出てしまった。
「あ……ああ、準備が出来たんだね…………!」
その時二人の視線の先にいたのは、二人から遅れて調理場に辿り着いた、橙太、美空、大海、紅緒の四人であった。しかも全員が何やらにやにやした表情を浮かべながら、先に到着していた蓮司と若葉を凝視している。
「あらまあごめんなさい。何だか私達、お邪魔だったみたいね」
「どうやらそうみたいだね。折角二人とも親しげだったからね」
「安心してください。どうぞお話を続けていいですよ」
「ひゅーひゅーっ!熱いぞーこのーっ!」
先程までの二人の姿を目の当たりにした上で発せられた彼らの発言は、蓮司と若葉の顔を一気に赤く染め上げた。
「…………」
彼らの言葉が直撃してからの数秒間、二人とも一言も返事する事が出来ずにいた。肯定も否定もどちらも出来ないような複雑過ぎる空気感に苛まれ、本当に何も言い返す事が出来なかったのだ。
それでもやがて少しずつ落ち着きを取り戻した二人のうち、蓮司の方から話題を変える発言を繰り出す事に成功した。
「…………さ、さあ皆さん!こうして全員が集合した訳ですし、早速調理を始めましょう!」
その時蓮司が必死の思いで発したこの一言により、他の五人の心情も変化し、ようやく二人の心を拘束し続けていた“鎖のようなもの”が解除された。
「それもそうだね。黒川くんの言う通り、早速始めるとしよう」
「私達もこうしてなかりじゃ、何も始まらないものね」
「うーん、何だか物事を上手く運ばされた気分…………」
「それでしたらこれからの時間を生かして、すっきりと解決させましょう」
若干腑に落ちない感覚を覚えた人物もいたが、それでも四人はここで言葉の連続攻撃を中止し、各自が準備に取り掛かる事に決めた。それによりどうにか危機から脱する事に成功し、ほっと胸を撫で下ろす蓮司と若葉。
「…………さてと!それじゃ私達も始めるとしますか!」
その時若葉は元気よくそう言い放った直後に一旦蓮司の方へ目線を移し、一回だけ片目を閉じる仕草を見せた。それを受けた彼もすぐさまその意味を理解したようで、蓮司もまた頭を軽く下げて返答する。
「…………よし!俺も行くか!」
その時蓮司は元気よくそう言い放った直後に、目的の場所へと歩き始めていった。若葉を含めた七橋家の五人が待つ調理場の一角に向かって、いつも通りの笑顔のままで――――。
「――――ああ、あまりに夢中になってたら、すっかり遅くなってしまったわ…………」
その時大入町の地平線には、あと数分で眠りにつきそうな様子の太陽が存在していた。その影響で街の至る所で明かりが徐々に増え始め、昼間とは異なる明るさが広がりつつあった。
そんな街の一角では商店街の中心地へ向かって、小走りで進む少女の姿があった。もうすぐ暗闇に包まれそうな状況の中でも目立つ桜色の髪の毛を靡かせながら、片手に大量の荷物を詰め込ませた鞄を抱えながら。
「前もって友達と勉強するって約束したから、多分皆大丈夫だとは思うけど…………」
徐々に呼吸が乱れていく中でそんな独り言を漏らす程、心配そうな表情を浮かべる少女。
やがて商店街の入り口の一角にある、一軒の喫茶店の前まで差し掛かったところで、彼女はようやく足を止めた。未だに荒々しい息遣いが治まらないまま覗いた店内は、既に点された照明が美しく輝いていた。
「皆、本当にごめんなさい。こんなに遅くなってしまって…………」
その時少女は落ち込んだ表情でそう呟くと、店の入り口のドアノブを握り、少しずつ思い扉を開かせる…………。
「…………!」
その時店内から彼女の鼻の中へと吸い込まれる形で、何やら全ての人の食欲をそそらせる香りが入り込んできた。またそれと同時に彼女の耳の中に、数人分の明るい声が飛び込んできた。
「あっ、おかえりなさい、桜香!」
「今日は学校のお友達と受験勉強、本当にお疲れ様!」
「もうすっかり日が暮れちゃったから、私結構心配したんだよ!」
「まあまあいいじゃないミド姉、それだけ勉強に専念出来たって事だよ!」
「私達が待っている間に、既に夕食の準備は済ませましたよ」
「この匂いの正体、桜香さんならすぐに分かりますよね?」
その時多少は心配の声も含まれてはいたが、店内の六人は誰一人不快な表情を表してはいなかった。自身の予想をいい意味で裏切られた桜香は、少々呆気に取られた表情を浮かべながら、率直に一言尋ねた。
「え、た、ただいま…………み、皆、怒ってないの?私こんなに帰りが遅くなったのに…………」
すると六人の中から代表して黒髪の少年が、素直にその理由を口にした。
「当然ですよ。桜香さんが勉強でお忙しいのは分かってますし、それに準備だって出来ましたから。桜香さんを笑顔と美味しいご飯でお出迎えする準備が…………!」
その時彼以外の五人が笑顔で頷くと、彼は改めて笑顔で彼女に声をかけた。
「ねっ!」
その時当の桜香本人はというと、ほんの数秒間俯いて表情を隠し、そこから再び顔を上げる。そこで彼女が彼らに見せた表情は、今にも綻びそうな程に、感謝の思いが込められた笑顔であった。
「…………うん、ありがとね、皆!」
桜香が送ったこの感謝の思いは、確実に店内の六人の元に届けられたようであった。
その時黒髪少年改め黒川蓮司が、未だ店の外にいたままの桜香に呼びかけた。
「さあ、中に入ってください!折角の料理が冷めてしまいますよ!」
「それもそうね!それじゃお言葉に甘えて…………」
…………その時この日の役割を終えた太陽と、これから役割を務める月とが交代を果たし、街の明かりがより一層際立つようになった。その中の一つである「れいんぼう」の、温かく照らされる窓の向こう側では、家族の明るい笑い声が響き渡っていた。