六月 三
その時灰色に染まった空の彼方から、いつものように雨が降り注ぎ続けていた。いつものように川の水嵩も高く、いつものように濁った色を保ち続けている。この日も未だ梅雨が治まりそうな気配は、一瞬たりとも感じられなかった。
その時そんな川に架かった橋の濡れた路面を、傘を片手に独り進んでいく少女の姿があった。曇天のせいで少々薄暗い中でもしっかりと目立つ、桜色の髪の毛と瞳が印象的な少女である。
やがて彼女が対岸へと渡り切り、目前の商店街へと続く信号機の手前で立ち止まったところで、彼女は改めて外の天候を肌で感じた。未だ止みそうな気配のない雨の影響で外の空気がひんやりと冷え切って、制服に覆われているはずの素肌にも鋭く突き刺さる。それでもその表情からは、いつも通りの落ち着きに満ちた微笑みを絶やさなかった。
その時だった。
「…………?」
その時彼女の耳の中に降り注ぐ雨音とともに、何処からともなく鈴の鳴る音と、濡れた地面を歩く音が飛び込んできた。そしてその音は徐々に彼女の元へと近づいていき、ある時を境に突然聞こえなくなった。不思議に思った少女がふと自身の足元に目を向けてみる。
「…………!」
その時少女の足元に存在していたのは、一匹の黒猫であった。この雨の影響で全身がずぶ濡れとなり、首元の鈴も十分な役割を果たしていない様子であった。
そんな黒猫と目前の少女の視線が合わさり、両者は互いに黙り込んで見つめ続けた。
「…………」
やがて黒猫は道路の反対側に見える商店街を一旦見つめてから、もう一度彼女の瞳をじっと見つめる。
「…………」
するとここで黒猫が突然動き出した。
「…………あっ!」
目前の信号が未だに赤い輝きを示す中、黒猫は恐れる事なく横断歩道を渡り始めたのだ。いくら呼び掛けてもこちらの声には全く応じてくれないその猫に対し、少女の顔色が青白く変化していくばかりである。
「ま、待って!今はまだ…………!」
彼女が幾ら呼び掛けても、黒猫が引き返す様子は全くない。それどころか何を思ったのか、横断歩道の中央部でそのまま座り込み、少女の瞳をじっと見つめるばかりであった。
「ど、どうしよう。このままじゃ…………!」
時間を追う毎に積み重なっていく焦りのせいで、自分が一体何をすればいいのか混乱してばかりの少女。そんな彼女に思わぬ試練を突き付けた当の黒猫は、相変わらず全くもって動じない。
さらに事態はより深刻なものへと変化する。
「…………っ!」
両者のいる現在地へと続く道にふと目を向けると、一台の乗用車がこちらに近づいてくるのに少女は気づいた。このまま放っておけば猫の身に何が起こるか、彼女の脳裏にはそんな最悪のシナリオが浮かんだ。
「…………こうなったら!」
その時彼女は覚悟を決めた。知らぬ間に口の中に溜まった唾を一気に飲み干し、奥歯をぐっと強く噛み締めて、少女は軽く頷く。
「…………っ!」
そして彼女は手持ちの傘をその場に投げ捨てると、一目散に黒猫の方へと飛び出していったのだ。その際どうやら神様が彼女にちょっとした猶予を齎してくれたようで、周辺の時間がほんの一瞬だけゆっくりと進んでいった。信号は未だに赤のままで、橋上の自動車は立ち止まる様子も見られなかった。
やがて横断歩道の中央部まで差し掛かったところで、彼女は黒猫を素早く抱きかかえ、反対側まで駆け抜けていった。降り頻る雨の影響で全身は完全にずぶ濡れと化し、呼吸もこれまでに経験した事もない位に荒らげたものとなっていた。勿論心臓の鼓動も物凄い勢いで、今にも爆発してしまいそうな様子である。
「…………きゃっ!」
そんな彼女に追い打ちをかけるように、横断歩道を跨いでいく例の乗用車から、大量の水飛沫が少女の身体に襲い掛かってきた。この為これまで何とか無事だった制服の一部でさえも、最早完全に同じような目に遭ってしまった。
それでも彼女はその事を一切気にせず、すぐさま自身の胸元に目を向ける。両腕で優しく覆われた空間の内側には、あの黒猫がしっかりと抱き締められていた。もう二度とその場を離れず、先程のような危機的状況を再現させない為に。
「もうっ!本当に心配したんだからねっ!」
その時少女は目前の黒猫に対し、念を押す形で強めの口調で叱りつけた。一方の黒猫はそれに対し、全く悪気のなさそうな表情で元気よく鳴き声を上げた――――。
――――その時商店街の一角にある「れいんぼう」の店内では、未だ治まる気配のない雨音を聞きながら、四人の少年少女がホットコーヒーを入れる準備を進めていた。同年代らしき若葉色の髪と瞳をした少女と、黒色の髪と瞳をした少年だ。
「…………しかしホントに吃驚したよ。突然お店の扉が開いたと思ったら、全身びしょ濡れの桜香さんが立ってたんだからね」
「ホントそうだよ!しかもそれだけじゃなくて、まさかあんなお土産までついてくるなんてね」
「いやいやお土産って。まだ飼うって決まった訳でも…………」
少々揶揄うように微笑む少女に、思わずツッコミを入れる少年。
「何々?二人とも何の話をしてたの?」
「確かお二人とも、お土産がどうとかと言ってましたよね?」
するとそこへ新たな少年少女が、彼らの会話に参加してきた。橙色の髪と瞳の少年と、空色の髪と瞳の少女だ。如何にも楽しそうな二人の様子を窺って、彼らもまた非常に興味深そうな表情を浮かべている。そこで二人は互いの顔を見つめて同時に頷き、ここで態と不満そうな態度を示す。
「ずるいよ二人でお土産横取りするなんてぇ。僕らにもちょっと位分けてよぉ」
「そうですよ。私達ばかりほったらかしにするなんて酷過ぎです」
そんな二人の態度に対し少年は誤解を解こうと必死に対応する。一方の少女はどうやら彼らの思惑を熟知している様子であった。それでもここは傍らの少年の肩を持つ為に、敢えて彼の調子に合わせる事に決めた。
「いっ、いやいや違うよ!橙太くん、美空ちゃん、これには深い事情があってね!」
「そっ、そうそう!別に私達だけでお土産に手を出してる訳じゃないんだよ!」
その時まるで態度が百八十度変化したかのように、腹を抱えて笑い合ってみせる橙太と美空の姿があった。
「…………!」
そんな中店内の奥にある扉が開き、それと同時に温かな空気が彼らの元へと近づいてきた。その正体は四人のいる空間を彩らせるような花の香りを含めた水蒸気である。
「皆お待たせ!すっかり綺麗になったわよ!」
その時店の奥から姿を現したのは、先程道路に飛び出した黒猫を救った桜色の少女であった。新しく着替えた服装やすっかり乾き切った髪、そして彼女の素肌から立ち込める湯気や香りから、それまで浴室にいたという事が推測出来る。
そしてそんな彼女の胸元には、今回の事態の主役ともいえる黒猫が、平然とした態度で抱えられている。
「クロくんと若葉が臨時で猫用シャンプーとかを買いに行ってくれたお陰で、この子もほら、ご覧の通りよ。ありがとね、二人とも」
「いえいえ、どういたしまして!」
「俺達は出来る事をしただけですよ」
自らの感謝の思いをしっかりと受け取りつつそう答えた二人に対し、改めて深々と頭を下げる桜香の姿があった。それと同時に胸元の黒猫も元気よく鳴き声を上げると、今度は目前の桜香の頬を何の疑いもなく舐め始めてきた。
「ははっ!くすぐったいよぉ…………!」
その時普段の彼女からは見られない程の満面の笑みを見つめて、思わず微笑ましく感じる“クロくん”こと黒川蓮司の姿があった。
「おやおやクロちゃんどうしたの?何かやらしいぞ。お姉ちゃんの顔見てそんなに鼻の下伸ばしちゃって…………」
「えっ!?い、いやいや、そんなやらしい気持ちなんてないよ!ただ桜香さんが本当に嬉しそうな感じがしただけで…………」
それでも未だに怪しげな表情で窺い続ける若葉に、ますます焦りを募らせてどうにか身の潔白を証明しようとする蓮司。そんな二人の一部始終を目の当たりにして、傍らの橙太や美空だけでなく話題の主役である桜香までもが、すっかり笑いを堪えられなくなってしまった。
その時もう一人の主役である黒猫もその場の空気を察したのか、再び元気よく鳴き声を上げてみせた…………。
「…………それにしてもこの子、誰が相手でも暴れたりしないね」
「そうですね。こうして私達が傍にいても、全く大人しいままです」
その時橙太は黒猫の小さな頭を撫でながら、そして美空はその様子を眺めながら、揃ってすっかり感心してしまっていた。間近に二人の人間が存在するにも関わらず全く動じず、寧ろ心から嬉しそうに彼らからの対応を受け入れている猫の様子に対して。
やがて橙太がその手を頭から顎の下へと移し、擽るように撫で始めると、黒猫はより一層気持ちよさそうな表情を浮かべてみせた。それと同時に首に巻かれた首輪に備わる小さな鈴も、先程よりも音量を増して鳴り続ける。
「ただ単に首輪だけじゃなくてこんな立派な鈴まである。って事はこの子は間違いなく野良猫なんかじゃないって事だね」
「しかも私達にも威嚇する様子がありません。となると、相当愛情を持って可愛がられてるとも言えますね」
そういった弟妹達の推測をしっかりと聞き入れ、そのまま無言で物思いに耽る他の三人。そしてまた当の本人はまるで他人事のような調子で、そんな彼らを見つめ続けている。
やがてその中から若葉が代表して、この状況を一瞬で打開する形で、今後の動向について自身の考えを語り始めた。
「…………まあ、このまま放っておいても仕方がないよね。もう少しこの雨が止んだら、早速だけどこの子の飼い主の手がかりを探しに行こうよ!」
「そうだね!だったら僕も、飼い主探しのお手伝いをするよ!」
「私もお手伝いします。これ以上猫と飼い主さんを、離れ離れにさせる訳にはいきませんから!」
その時姉が発した言葉に対し、橙太も美空も喜んで従う決意を見せた。その様子を傍らから窺っていた蓮司と桜香もまた、互いに嬉しそうな表情を浮かべる。
そして若葉はそこから黒猫を優しく抱きかかえると、明るい笑顔で元気よく語りかけてみせた。
「見てごらん、ここにいる全員が貴方の飼い主探しをするつもりだからね。だから安心して、クロニャン!」
「えっ!く……クロニャン!?」
その時若葉が何気なく発した「クロニャン」という固有名詞に、蓮司は酷く動揺してしまった。しかしそれに構う事はないまま、若葉はその名前を生み出した理由を語る。
「そう!黒い猫ちゃんだからクロニャン。どう、覚えやすいでしょ?」
「い、いやいや!俺の名前と被ってて紛らわしいよ!それに勝手に名前つけるのもダメでしょ……」
「えー、いいアイデアだと思ったのにー…………」
若葉は少々不機嫌そうな表情を浮かべたが、それはほんの一瞬でしかなかった。
「…………なんてねっ!」
その時蓮司と若葉の二人で構成されたこの一部始終をきっかけに、この時点で店内にいた全員が、笑いを堪えずにはいられなくなった。そしてそれに加えてクロニャンもまた、もう一度元気よく鳴き声を上げた…………。
「…………それにしても」
その時橙太はしゃがみ込んで目線を近づけた状態で、目前の黒猫を見つめながらふと呟いた。
現在黒猫は彼や他の四人に囲まれながら、用意されたミルクを美味しそうに舐め続けている。そんな黒猫の様子を窺いながら呟いた橙太が、更に言葉を続ける。
「この子、多分初めて会った僕らが傍にいても、全然怯えたりもしないよね」
「そうですね、普通猫はあまり人間を好まないと聞いた事があるので、ここまで落ち着いているのは私も初めて見ました」
「もしかしたらこの子、私達人間の事が大好きなのかもしれないね」
「ははっ、そうかもね」
殆どのメンバーがそれぞれの考えや感想を述べていく中、一人桜香のみが無言のまま黒猫を見つめ続けていた。やがてそれに気づいた若葉が、すぐさま彼女にその理由衛¥を問い質す。
「?どうしたのお姉ちゃん、一人だけ静かに見つめちゃって」
「ん?ああ、ごめんなさい。この子見てるとちょっと思い出しちゃったの、あの子の事…………」
そこへ蓮司も加わって、桜香が口にした一つの固有名詞について尋ねてみる。
「あの子…………?」
桜香はすぐさま返答した。
「ほらクロくん、若葉、覚えてる?もう随分昔の話になるけど、私が友達と一緒に面倒を見てた猫の事…………」
その時二人は彼女の言葉を聞いて過去の出来事を思い返してみた。そしてその状態が数秒間経過したところで、彼らはようやくその場面を探し当てた。
「…………あっ!あの猫!」
「えっ?何々、何の話?」
「どうやら皆さんはご存知のようですけど、私達二人にはさっぱり…………」
他の三人だけの思い出について全く見当もつかず、ただ呆然と立ち尽くす事しか出来ないでいる橙太と美空。そんな二人の頭を優しく撫でながら、桜香は素直に説明した。
「そうだったわね。橙太はまだ幼かったし、美空なんてまだ生まれてなかったからね」
こうして姉からの簡単な説明を聞き入れた上で、二人は彼女に対して頼み事を一つしてみた。
「…………そ、それじゃあ僕らにも教えてよ。モモ姉が面倒を見たっていう、その猫の事を…………」
「私も知りたいです。桜香お姉さんとその猫の思い出を、思い出せる範囲でいいので…………」
それに対する桜香の返答は、
「…………分かったわ。折角の機会だもの、二人にもお話ししてあげるわね」
その時それを聞いた橙太と美空は互いに顔を合わせて、非常に喜ばしい表情を浮かべた。その様子を目の当たりにした蓮司と若葉も、ともに笑みを浮かべる。
「それじゃ皆、あの長めの椅子に座って!」
その時桜香の合図に合わせて、四人は「れいんぼう」のテーブル席の一つを利用し、一列になって席に着いた。そしてその反対側に桜香が座ってから、いよいよ彼女の思い出話が語られた。その時彼女の両膝の上には、例の黒猫が丸くなって寛いでいた。
「あれは私がまだ幼稚園の年中組だった頃…………」