本神殿からきた司教様
シンシアが王城の居住区へと戻ると、シンシア付きの侍女たちがそれを迎えた。メリアに今日はもう休むようにと伝えてから、土埃や木々の葉があちらこちらについた服を脱ぐ。いつも魔獣退治に行けば汚れるし、すぐにダメになってしまうので、装飾などが一切ない普通に民が使っているようなデザインの服を、丈夫な品質で作った物を使っている。動きやすいようにという理由からと、経費削減という現実的な面から、余分な布を使っていないそれは、シンシアのお気に入りであった。
下着まで全てを脱ぎ捨て、集めたものを籠に入れて侍女に預けると、寒さから逃げるように浴室へと飛び込んだ。夏と冬で寒暖の差がかなりある中央大陸だがその中央にあると言っても過言ではないノーブル王国は、そこまで気温に大きな差がある事はないが、一日の中で夏と冬の気温が同居することは多い。朝と夜に冷え込み、昼は陽炎が見えるほどに暑くなることもある。冬に近づきつつある近頃は、日が暮れると一気に冷え込み、夜はちょっとした暖房が必要になってきていた。
「ふぅ・・・」
汚れた体を隅々まで洗ってもらい、張られた湯船につかれば、一気に疲れが抜けていくのを感じた。魔獣が多いという難点を持つノーブル王国だが、資源にはそこそこ恵まれており、特に水は平民も湯船につかる習慣があるほどだ。
「・・・ま、水はどこもそんなに困ってないんだけどね、中央大陸」
自然資源に恵まれている中央大陸では、平民が湯船につかる習慣がつくほどにあるというところもないが、水をめぐって戦争を勃発させるほどに困っているところもない。北方大陸では、資源が採れるところが限られており、そこを巡って頻繁に戦争をしているらしいが、この中央大陸においては全くの無縁の話である。
ちゃぷちゃぷと水面を波立たせて遊びながら、じぃっとその波紋を見つめる。頭の上で纏められたシンシアの癖のある髪の一部が、はらりと水面に落ちていく。
中央大陸は平和だ。北方大陸のように戦争が常にあるわけではないし、飢饉が起きたためしもない。それは一重に、女神ルーセントの加護があるルクレシア皇国の恩恵だと言われている。魔術大国とも、光の国とも名高いその国では、皇族は勿論、平民までもが魔術を使うことができるらしい。そのため、ルクレシア皇国は中央大陸において圧倒的な国力を誇り、中央大陸を支配しているといっても過言ではなかった。どの国もがルクレシア皇国の顔色を窺う。そして、ルクレシア皇国は平和主義を掲げている国のため、ルクレシア皇国の怒りを買いたくない国々は大人しくしているのだ。
「まるで飼い主と犬よ、飼い主と犬!
飼い主ならもっとまともに犬の面倒みてくれってハナシよ」
ルクレシア皇国がその恩恵を他国へ分けることはほとんどない。というよりも、あの国は他国に興味が無いのだ。
「もし、ルクレシアが動いてくれたら、助かる民が沢山いるはずなのに」
何度も思い、無理だと知っていながらもそこへ辿りつく思考に、嫌気がさしたシンシアは体の疲れを取ることに専念することに決め、目と口を閉じたのだった。
翌日、シンシアは朝から神殿を訪れていた。朝日がちらちらとこぼれる神殿の礼拝堂に入ると、そこには見知った明るい茶の髪をもつ後ろ姿と、全く知らない聖騎士の制服を着た人物が祭壇のすぐ真上にある吹き抜けを見上げていた。
「おはようございます、クレマ先生」
シンシアが声をかけると、茶髪を持つ壮年の男がシンシアの方へ振り向き、にこりと人好きのする笑みを浮かべて見せた。
「おはようございます、シンシア様」
この男が、ノーブル王国の神殿長を務めるクレマである。微かに金の混じる明るい茶髪は、いつみても艶やかに整えられ、人々に向けられる笑みはいつも慈愛に満ちている。一見してみるとただ優しいだけの神殿長だが、実はルクレシア皇国で司教をしていたこともあるエリートなのだ。その為、魔術の知識にも明るく、シンシアの魔術は全てクレマから教えられたものだ。
「クレマ先生、今日の用事ってお客様ですか?」
用が無い限りシンシアに連絡を取ってこないクレマが、珍しく用件の詳細を無しに神殿へと訪れてほしいと言づけてきたものだから、何か特別なことがあると感づいていたシンシアは、それがいまだに吹き抜けを見上げている客人だとすぐにわかった。
「ええ、シンシア様はものわかりが早くて助かります。
少し待っていてくださいね、今、彼女に吹き抜けに設置されている魔術陣の点検をしてもらってるんです。
ほら、私も少しは魔術を嗜んではいますが、こんな大きな神殿に設置された魔術陣はとてもじゃないけど、管理しきれませんから」
神殿は、各国の申請やその国にいる司教たちの申請により、教会の審議の結果、教会が建てるものである。その為、その国々で形は違えど、大掛かりな魔術陣があちらこちらに使用されているのだ。一応、定期的にその神殿の神殿長や司教が点検をするが、魔術の発達は国それぞれなので、本神殿からたまにこうして司教が派遣され、点検してくれるのだ。
しばらくその聖騎士は上を見上げていたが、そのうち一つ頷くと顔を下げ、肩を軽く回してからシンシアの方を振り返った。
「お待たせしたね、クレマ、シンシア姫。
点検は終わりだよ」
振り返った動作に合わせて、さらりと聖騎士の白銀の髪が揺れ、紫水晶を嵌めこんだかのような瞳がまっすぐにシンシアを映した。中性的なその面立ちは、中央大陸ではあまり見ることはない、独特の美しさを醸し出していた。思わずシンシアは息を飲み、その人をただただ見つめてしまう。すると、聖騎士はそれに気が付いたようで、くすりと笑ってからシンシアの手を掬いあげ、その手の甲に形のいい唇を押し当てた。
「初めまして、ノーブル王国のシンシア姫様。
私は本神殿の上級司教をしております、ルイーゼです。
このような良き日にあなたと出会えたことに、女神に感謝を」
他国の王族も使う様な、いわゆる挨拶の定型文なのに、この聖騎士、ルイーゼが言うと全く違って聞こえた。甘やかな声が、まるで愛を囁かれているように錯覚させてしまう。
「あ・・・はじめ、まして。
シンシアと申します、聖騎士様」
頬が微かに熱くなっていくのを感じながら、なんとかシンシアが返せば、ルイーゼがにこにこと笑いかけて、子どもにするかのようにシンシアの頭をぽんぽんと撫でた。
「確かにこれはいい子ね、クレマ」
「・・・ルイーゼ様、そのようにシンシア様で遊ばないでください。
シンシア様、このルイーゼ様は、本神殿の上級司教であり、聖騎士ではありません。
可愛い女性を見るとからかう悪い癖のある、女性です。
ご注意ください」
いつも笑みを絶やさないクレマが、ため息をついて困ったように首を振りながら、シンシアに忠告をする。その言葉に、シンシアは目をぱちくりと瞬き、目の前に立っているルイーゼを見上げた。確かに名前は女性らしいが、シンシアよりも背が高く、この国の男性平均ほどはある。聖騎士の制服を丁度よく着崩しているため、あまり強調はされていないが、女性と聞くと確かに華奢に見える体型だった。そしてなによりも、その胸元にあるポケットから覗いている、十字と月桂樹をモチーフにした紋章の銀細工が、司教だという証であった。聖騎士ならば、それは制服に縫い付けられているはずなのだ。
改めて女性として見ると、ルイーゼはどこからどう見ても女性にしか見えなかった。何故、自分があれほどまでに男性の聖騎士と錯覚したのかと疑問に思うぐらいだ。
「クレマは楽しみという言葉を知らないの?
可愛い女の子が、あたふたしたら、もっと可愛く見えるでしょ」
「見えますけど、やられる女性の立場からしてみれば、いい迷惑だとは思わないのですか?
全く、今日はまたなんであなた一人で動いているのですか」
「家出」
「冗談にならないのでやめてください。
・・・シンシア様、申し訳ないのですが、今日はルイーゼ様に城下町の案内をしていただけませんか?
私がしたいところですが、外せない用事がありまして、他の司教たちにこんな本神殿の上級司教を頼んだら可哀想でしょう。
その点、あなたなら王族ですし、なによりも・・・ね?
常駐している騎士たちをつけますし、メリア様を始めとしたシンシア様の護衛も待っていらっしゃるのでしょう?」
お伺いの形を立ててはいるが、これはほとんど決定事項と変わらなかった。確かに、クレマが案内できないのであれば、この国にはシンシアしか適任はいない。幸いのこと、クレマはこの言づけの際に、一日かかりそうだということは伝えてくれていたので、今日一日は何もない。護衛もつくのなら、この上級司教の身の安全の確保もできるだろう。
「こんなってどういうこと?
可哀想なのは、そんな言い方される私でしょ」
「そう思うのなら、しっかりと護衛用の騎士ぐらいは連れてきてください」
「連れて来たでしょう」
「・・・あれは市街地に出さないでいただきたい」
ルイーゼが何を連れて来たのかは気になるところだが、決定事項はもう変わることはない。シンシアはにっこりと笑みを浮かべて頷いた。
「任せてください、クレマ先生。
ルイーゼ様は私がご案内しますから!」
シンシアの言葉に、クレマはあからさまにほっとした表情を浮かべると、なんども有難そうに頷いて見せた。
「助かります、シンシア様。
ルイーゼ様、くれぐれも問題は起こさないでください」
「・・・問題製造機のように言わないでくれる?
シンシア姫、それでは頼みます。
ご安心を、私、それなりに強いので、盗賊ぐらいなら返り討ちにできますから」
ふわりとした甘い笑みを浮かべながら胸を張っていうルイーゼに、それが問題発生の原因ではと思わなくもないシンシアだったが、とりあえずは頷いて外で待っているメリアたちと合流することにした。