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「――くそっ! まだ来てる!」
路地裏を駆ける。
左肩に動かなくなったシンクを担ぎ、ひと気のない通路を横切った。屋根の上を伝っていければ一気に距離が離せるのに、今回ばかりはそうはいかない。なるべく狭い路地を行かなければすぐに狙い撃たれてしまう。いまですらシンクが生きているか怪しいのに、これ以上リスクを負いたくはなかった。
道もわからぬまま何度も曲がる。土地勘もなければ、方角だってわからない。かろうじて滞在している家の周囲は把握しているが、そこに向かうためにどう行けばいいのかわからなかった。
少しでも迷うと、追いつかれる。
背後から迫る悪寒。正体不明の追っ手は、いまは姿は見えないが確かに追ってきているのがわかる。正直、そもそも逃げられるものなのかはわからない。死ぬまで追ってくる性質なのだとしたら万事休すだ。
だがそれでも今は逃げるしかない。
ぶらりと垂れ下がった右腕の義手をちらりと一瞥して、ユウトは奥歯を噛みしめた。
「あんなの、卑怯だろっ」
太刀打ちできる相手じゃなかった。
厄介さならレイと同等かそれ以上。いままでほとんど魔法を使う相手と戦わなかったから、それほど気に留めていなかった。魔法を暴力に使うという脅威を考えたことがなかったと言われれば嘘になる。
だが、それにしても。
「デルタ・ラッセルアロウ……ッ!」
あいつはおそらく規格外だ。
故郷のエヴァノートにいれば、英霊十傑は間違いない。
それくらいの魔法の持ち主だった。
❆ ❆ ❆ ❆ ❆ ❆
十数分前に遡る。
デルタ・ラッセルアロウと名乗った少年は、何もすることなくこちらを見守っていた。ユウトとシンクが情報を交換するのを待ってくれていた。
「つまり、塔に侵入しようとしたところを、あいつに見つかったと」
「はい。どうやら塔の地下に、この都市の極秘施設が多数収容されていると聞き及びまして」
どうやら警鐘が鳴った理由はシンクらしい。
早速、外敵を排除して警鐘を解除する目的が頓挫してしまった。
それならそうと、頭を切り替えなければならない。
「聞いたって誰から?」
「……ユウトには、お伝えできない方法で、お伝えできない相手からです。こればかりは正義ではありません。聞かないでいただけると助かります」
シンクは目を伏せて答えた。
目的のためなら手段はあまり選ばない。レイを問いただした時のこともあり、シンクがそういう方法をとることだってあることくらい知っている。
ユウトは少し沈黙を挟んで、うなずいた。
「それで、あいつは?」
「名乗ったとおり、彼がラッセルアロウで間違いなければ……数年前、風の噂で聞いたことがあります。わずか十歳にしてたった一人で千を超える鎧獣の群れを討伐した、極東の狂戦士『個人艦隊ラッセルアロウ』」
個人艦隊。
聞いたことのない言葉だったが、ひどく物騒な二つ名だということがわかる。
「多少の脚色はあるでしょうが、とにかく『個人艦隊』の名前はこの地域では畏怖の対象のはずです。極東の端の端、この外敵の少ない都市で防衛任務を任されるような人物じゃないはずですが……」
ちら、と『個人艦隊』の様子を盗み見るシンク。
無造作にのばしたボサボサの青い髪。薄着な様相に、綺麗に磨かれた両腕の防具。口の端からのぞく牙のような犬歯が凶暴そうな印象を与えるが、その反面、瞳は静かに燃えていてとても狂戦士と揶揄されるような人物には思えない。
「いずれにせよ彼が立ち塞がるなら、その彼を越えていかなければならないのですが」
「魔法で弾き返される、と?」
「ええ。ですが予備動作もなく、ルーティーンである詠唱もないのでタイミングもつかめず、効果範囲やそもそもの原理構造がわからないところでして」
「……それは厄介だな」
故郷では、魔法を円滑に使うために魔法の効果を言葉でイメージして使っていた。
言語化して明確なイメージを抱かなければ、うまく発動できないこともある。特に戦いの場面では一度の不発が命取りになりこともあり、幼少期の魔法教育の初期からその教えは徹底されていた。ゆえに誰でも反射的に詠唱を行う。無言で魔法を使うことはかなり稀だ。
逆にいえば、詠唱と同時に魔法が発動されることが前提のために対処もしやすい。シンクもその環境に慣れていたためか、詠唱をしない相手との戦いは難しいのだろう。
「でも、もう少しで掴めそうなのです。こちらから手出ししなければ、向こうも無理に襲ってくることはないでしょう。まともに当たれば普通なら一撃で死ぬほどの威力です。そこを動かないでくださいね」
そう言ってシンクは振り返った。
『個人艦隊』は欠伸しながら、
「終わったかよォ」
「すみません、お待たせしました。再開しましょう」
「ちょィと待てや」
息まくシンクの出鼻をくじくように、デルタが手をかざした。
その地獄耳をひくひくと動かして。
「オメェの言葉、三つほど訂正があるぜ。一つはオレァ確かにラッセルアロウだが、『個人艦隊ラッセルアロウ』はオレじゃねェ。オレの双子の弟だ。オレァただのデルタ、出来の悪い兄さ」
個人艦隊ではなかった。
それは少し安心できる情報だったが、その言葉にはなんの感情の装飾もないことが逆に違和感だった。出来の悪い兄を自称しておきながら、劣等感も、忌諱もない。むしろその事実を誇っているようですらあった。
あっけらかんと、ただのデルタ・ラッセルアロウは続ける。
「二つ目だ。その噂だがよォ、『個人艦隊』が撃破したのはただの鎧獣の群れじゃねェ。複巣母体のコミュニティを三つ、そのすべてを同時にだ」
「……なんの冗談だよ」
エヴァノートの都市総力をあげて、一体のコミュニティを殲滅するのに決死の戦いだったのだ。冗談か、あるいは嘘だとしか思えない。
ユウトの反応には慣れているのか、デルタはとくに気にしないまま続けた。
「そンで三つ目だ。オレァ馬鹿正直に突っ込んでくるオメェをボッコボコにしてたけどよォ……オレァ、まだ一度も魔法なんて使ってねェぞ?」
「魔法じゃない、ですか?」
シンクは眉を寄せる。
ユウトはつい我慢できずに、
「いやいや、魔法使わずに吹き飛ばすなんてできるもんじゃないだろ」
「そうですね。そんなことができるなんて、それこそ科学時代の超能力者くらいしか行えない異端の力です」
「……まァ、オレァ別に信じてもらわなくてもいいけどよォ」
否定する言葉を、デルタは笑みでねじ伏せる。
信じてもらうためではなく、信じさせる自信に満ち溢れた圧倒的な強者の笑みだった。
「嘘吐き呼ばわりされるっつうのは癪だからなァ、魔法使ってやる。後悔すんなよ」
デルタは右腕を掲げた。
身構えるユウトとシンク。本当にデルタの言う通り、さっきまでシンクを迎撃していたのは魔法ですらないのか。
この一瞬で判断を誤れば、死ぬ可能性が高い。
動物的本能がそう警鐘を鳴らしていた。
「――【幽世の鎌】――」
ぶわっ、と鳥肌が全身に立ったのはその直後だった。
デルタの背後から、半透明の巨大な鎌が出現した。
巨大どころではなく、あまりにも巨大……そう言えるのは、その鎌がこの塔より大きいからだった。
見上げるほどに巨大な透明な鎌。
それが、容赦なく振り抜かれる。
「――ッ!?」
なすすべはなかった。
鎌はこの広場どころか貴族街をすべて呑みこむほどの範囲で薙ぎ払われた。
とっさに息を止めて義手で受け止めようとしたが、物理的な衝撃は来なかった。体をすり抜ける。
「……?」
少し寒気がしたが、体に異常はない。
「なにが――」
起こった、と言おうとした直後だった。
右腕から力が抜けてだらんと垂れ下がった。義手をつけた肩から先の感覚が失われ、かつて切断されたときの虚脱感が、右半身を支配した。
そしてそのユウトの隣で、おもむろにシンクが倒れた。
「シンク!」
右腕を押さえながら駆け寄る。
地面に倒れ伏してぴくりとも動かない。
なにがあった。なにが。
仰向けにして呼吸を確認する――が、呼吸も心音もない。明らかに生体反応が途絶していた。
ユウトの右腕と、シンク。
ぴくりとも動く気配がなかった。
「それと、ついでに使ってやるけどよォ」
慌てるユウトに、デルタは追い打ちをかける。
左手を掲げて。
「オレァ特異体質でよォ。魔法、もうひとつ持ってんだ――【現世の翼】」
今度は物理的な現象だった。
デルタの背中から大きな白い塊が生えた。デルタの体よりも遥かに大きなその白い塊は、小さな塊がいくつも折り重なっている集合体のようなものだった。
「オメェは見たことあるか? 科学時代の終焉とともに絶滅した鳥って種族がもっていた翼ってやつだ。そいつらはコレを使って好きに飛べるんだぜ。まあ、オレのはそれに加えてちと暴力的だがなァ」
にやり、と笑みを浮かべたデルタ。
その瞬間、白い翼から切り離された小さく鋭い刃のようなものが解き放たれ、ユウトの頬を掠めて後ろの壁に突き刺さった。
一歩も動けなかった。
血が一筋、頬から垂れる。
「んじゃまァ、いっちょ狩りでもするかよォ?」
ばさり、とデルタが翼をはためかせてすんなり塔の上まで昇っていく。
デルタは都市を一望できる位置から、ユウトたちを見下ろした。
「せいぜい逃げ回ってくれェ」
嫌な予感しかしなかった。
とっさにシンクの体を抱えて、全力で広場の外に跳んで逃げた。いままでユウトたちがいた場所に白い刃が多数突き刺さった。
さっきの透明な鎌がどういうものかもわからないのに、そのうえ狙撃される状況。逃げる以外の選択肢が見つからない。
「オレの羽も追うけどよォ」
路地に飛び込んで羽を回避する。
落とさないようにシンクの体を担ぎ直して、少しでも遠ざかるように走り始めた。
「鎌の匂いにつられて、死神もやってくるから気をつけろォ?」
後ろからは、デルタの余裕綽々の声が聞こえていた。




