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「靴磨きはいかがですかー!」
要塞都市エヴァノートには、二つの巨壁が存在する。
ひとつは外壁と呼ばれる、都市そのものを囲む防壁だ。晴れた空が広がる暖域から気圧の壁を超えて一歩でも外に出ると、途端に気温が下がる。その外界から吹きつけてくる凍てつく風と、氷の世界の獣――『鎧獣』から身を守るために絶対的に必要な壁が、外壁だ。
もうひとつは都市の内側を囲むようにして造られている内壁だ。都市の維持に必要な貴族や農園部を守るために造られていた。
その外壁と内壁に挟まれた『街』では、多くの住民が生活していた。
閑静な内園部とはちがい、多くの人々が住む街はどこも活気がある。
街は東西南北それぞれに違った活気がある。とはいえどこの街にも存在するのは露店がつらなる広場だ。市場とも呼ばれていた。
そんな市場の隅で靴磨きとして働いているのは、白髪の少年ユウトだった。
長い髪を背中側で纏めて垂らしている。商売道具の布を左手で握りしめて、ユウトは市場にむかって客寄せで声を張っていた。
ときどき足を止めてくれるひとはいるけれど、なかなか靴磨きをしようと思うひとはいない。
小さくため息をついて、顔をうつむけた時だった。
「よう、今日もベッピンだな白髪の兄ちゃん」
顔をあげる。
見知った顔がこっちを見ていた。
「お久しぶりです旦那! 今日は会合ですか?」
安いものが多い市場には、貴族もときどき買い物に訪れる。ユウトにも常連がちらほらいた。
壁に囲われた要塞都市といえども、住んでいる人は膨大な数にのぼるのだ。みんながみんな顔見知りと言うわけにもいかないが、仕事のために客の顔だけは覚えていた。
男が箱に腰かけると、すぐに靴を研き始めるユウト。
ユウトの質問に貴族の男は渋い顔をつくった。
「まあな。今日はさっきまで内壁の保守点検でな。月間予算の報告がてら『王様』との食事会があるんだよ。さすがに王城に向かうのに汚れたままってわけにはいかねえだろ。機嫌でも損ねてみろ、一家路頭に迷っちまう」
「そうですか。貴族も大変ですね」
「ま、おかげで生活は楽なほうだがな」
その日暮らしをするならこんな靴磨きでもなんとか食いつないでいけるのだ。
家族も、都市も、いろんなものを背負って仕事をしている人たちを見ているとユウトは何も言えなくなる。
「兄ちゃんももっと稼げる仕事すればいいじゃねえか。まだ若いんだし働き手くらいどこにでもあるだろ。環境は悪いらしいが、地下の鉱石堀りなんて俺たち貴族と同じくらい稼げるって話じゃねえか」
「そうみたいですけどね。残念ながら、腕がコレなんで」
ユウトは深緑色の外套で覆うように隠していた右腕をちらりと見せる。
腕の代わりについているのは、銀色の義手。
あまりまわりに見えないようすぐに隠す。
「……そういやそうだったな兄ちゃん」
「ふつうのひとの腕と、腕力も稼働域もあまり変わらないんですけどね。雇ってくれるところは少ないです」
「難儀だな。靴磨きの腕は一流なのに」
「おかげさまで、こればっかりうまくなりましたよ」
肩をすくめるユウト。
どこか悲しそうな目で笑った貴族の男は、ユウトの隠した右腕をじっと見つめる。
「しかし兄ちゃん、いい義手だな。どこの職人につけてもらった?」
「ジルさんです。南部街のはずれに寂れた装備屋があるんですよ。頑固なオッサンです」
「……ジルレインのオヤジか」
「知ってるんですか?」
都市の壁を保つ仕事をする貴族が、街のしがない装備屋の店主を知ってるとは。
目を丸くしたユウトだった。
「そりゃあジルレインのオヤジっていやあ、むかしは都市機動隊だったからな」
「えっ。嘘でしょ」
「ほんとだよ。俺も若い頃は何回も泣かされたからな。ジルレインのオヤジ、戦いに出るたびに壁の外層を蹴り壊しやがって。修理するこっちの身にもなれってんだ」
「へえ……そうだったんですね」
「それに比べりゃ、いまの都市機動隊はかわいいもんだ。『魔女』の姉ちゃんもまだいるんだろ? ずいぶん綺麗な顔って話じゃねえか」
「そうみたいですね。僕も会ったことはないですけど」
「そりゃあ一市民がそうそう会えるような相手じゃねえさ。とくに英雄十傑ってやつにはな。いやあ、俺も一度でいいから会って話してみてえなあ」
腕を組んで、夢想にふける男だった。
英雄十傑、か。
ユウトはちらりと都市の中心――赤い旗を見上げる。
この都市を守護する最強の戦士たち、それが英雄十傑。十人の孤高の戦士たちに与えられる称号だ。
ズキリと右腕が痛んだ。
気にならないフリをして、靴磨きに集中する。
ユウトが靴磨きを終えると、立ち上がった貴族の男は代金を支払いながらユウトの肩をぽんと叩いた。
「しかし兄ちゃんは偉いよな。その腕じゃ苦労するだろうに、いつも笑っててよ」
「むりにでも笑ってないと、お師匠の……ジルさんの鉄拳が飛んできますからね。『辛気臭え顔すんじゃねえ!』って。旦那も笑って話したくなったらいつでも靴磨きに来てください」
「靴を磨いてもらいたくなったらな」
「話したくなっても来てくださいよ」
「はは、商売上手め」
笑いながら去っていく男だった。
ユウトは頭を下げて見送ると、賑わっている広場にむかって大声で叫んだ。
「さあ、靴磨きはいかがですかー?」
いつもより客入りが良く、予想よりも儲かってしまった。
ユウトははやめに仕事を切り上げて露店でトマトを買って帰った。この時期にしか採れない貴重な栄養源で、嗜好品でもあるためすこし高価だが、ジルが好きだったことを思い出してつい買ってしまった。
おかげでせっかく稼いだ金がほとんど消えたけど、たまには贅沢してもいいだろう。ジルに怒られるかもしれないが半分あげたら機嫌もよくなるに違いない。
そう思いながら家の扉を開ける。
家の奥から聞こえてきたのは、怒鳴り声だった。
「さっさと帰れアホンダラ!」
家の反対側は店になっている。
装備屋を営んでいるジルは、ふだんは工房のある店のほうに居る。食事や寝るときにだけ家のほうに戻ってくるのだが、ジルの声はどちら側にも響くくらいの大きな声だった。
何事だろうと店に繋がる扉をあけると、ジルがカウンターのむこうを物凄い剣幕で睨んでいた。
店の入り口付近にいたのは、黒い外套を羽織った男たち。
「また来ますよ、ジルレインさん」
「二度とくるな!」
ジルが拳をカウンターに打ち付けながら立ち上がる。
「その威勢は感心しますが、大人しく売って頂いた方が身のためですよ」
「なんだと?」
獣のように唸ったジル。
黒い外套の男たちは、そのジルにも臆することなく――むしろ嘲るかのように言った。
「万が一があれど、片足のアナタではなにも守れないのではないですか?」
男たちはそう言い捨てて、店から出ていった。
脚。
ユウトはじっとジルの左足を見つめる。
銀色に光る義足を。
「……いまの、なに?」
「なんだ、帰ってきてたのか」
後ろから声をかけると、ジルは鼻を鳴らした。
「なんでもねえよ」
「なんでもなくないよね」
「ちっ……最近できた商工会の連中だ。俺が独占してる鉄を寄越せだとよ」
「独占って、お師匠はちゃんと正規ルートで買いつけてるのに」
「ああ。身勝手な連中だぜ」
怒るのも無理はない。
まあ、ジルはいつも怒ってるんだけど。
「それよりユウト、おめえに届け物だ」
「……僕に?」
届け物なんて、そんなものに心あたりはなかった。
首をひねる。
ジルは大きな包みをカウンターの下から出してきた。
「俺がちょっと席を外してるあいだに、ここに置かれてた。奇妙なこともあるもんだ」
包みの上には置き手紙があった。
『 ユウトへ
時は来た。
G より 』
そう書かれてあった。
「Gって……もしかしてお師匠からプレゼント? ツンデレなの?」
「俺じゃねえよドアホ」
じゃあ誰だろう。
ユウトは包を剥がしていく。
硬い感触。聞き覚えのあるような摩擦音。
ジルが横で見守るなか、ユウトは包をすべて剥がした。
「……これは……!」
横でジルが息を呑む。
黒かった。
見たことのない輝きを放っていたそれは、まぎれもなく義手だった。
黒い金属の義手。
「なにこれ?」
「……黑腕……!?」
「え?」
「いや、なんでもねえ。なんでもねえ……」
ジルが驚きを隠せない様子で、何度も自分の髭を撫でていた。
その額に一筋の汗が流れ落ちていたのには、ユウトは気づかなかった。